第1の劇
昼と夜の境界が曖昧になる時間帯がある。
街灯がぽつり、ぽつりと灯り始め、空が群青に沈み込んでいくそのわずかな刻。セネリはいつも、その時間帯を歩くことが好きだった。
好きだった――はずなのに。
セネリは一人、道を歩いていた。
夕暮れの街路樹が長い影を落とし、風がざわめく音が耳に届く。
人混みの中、誰もが自分の世界に夢中で、セネリの心はいつも通り孤独だった。
小さな胸の奥にしまい込んだ想いを、誰にも言えずに。
通りがかりに古びた劇場が見えて、ふと見上げる。
もう長く使われなくなっていたその建物は、近日中に取り壊されることになっていた。
セネリはぼんやりとその建物を眺めて、それから足早に通り過ぎていった。
広場に差し掛かると、人だかりができていた。
曲芸を披露する青年――青と黒と白の、まるで夜空のように鮮やかな道化師の衣装に身を包み、仮面の道化師が、静かに技を繰り広げている。
人々の歓声の中、彼はあまり喋らず、淡々と動きを見せていた。
そのとき、ふと道化師がこちらを向き、視線が交わった気がした。
真っ白な仮面で、表情を窺うことはできない。しかし表情の見えない仮面の奥底で、何か異様な光が揺らめいているような気配を感じて、セネリは人々の歓声の中で立ちすくんだ。
曲芸は続いているのに、なぜかその動きの一つひとつが、自分だけに向けられているように感じられる。得体の知れない冷たさが背筋を走り、心の奥底がぎゅっと締め付けられた。
周囲の人々は楽しげに拍手を送り、笑顔を浮かべている。
胸の奥が無性にざわついて、セネリは慌てて視線をそらした。
歓声の中、足早に去っていく少女の後ろ姿を、道化師は静かに目で追っていた。
特別な獲物を見つけた捕獲者のように。
1.
紅茶が湯気を立てている。
ひとりで住むには少し広すぎる家の、古びたキッチン。
夜の気配が窓の向こうで息づいていた。
――あれは、何だったのだろう。
セネリは夕暮れでの出来事を思い返す。
あの道化師の仮面には、表情というものがなかった。
無垢にも、残酷にも見える白。
けれど、あの瞬間――彼がこちらを向いたとき、
セネリは確かに感じたのだ。
ねっとりと絡みつくような視線。
冷たいはずの仮面の奥に、どこか生々しい温度が潜んでいた。
カップを持つ指がわずかに震える。
考えても、答えは出ない。
ただ、背筋に残る寒気だけが現実を証明しているようだった。
セネリはひと口、紅茶を飲んだ。
少し冷めた味が舌に触れる。
静かな夜に、時計の音だけが響いた。
彼女は、これからのことを考えた。
もう随分と、ひとりで生きてきた。
頼れる身内はいない。
頼れる法律もない。
母が残したわずかな遺産と保険金。
それがあったから、これまでなんとか暮らしてこられた。
けれど、それもそろそろ底をつく。
学校を辞めると告げたときの、教師の顔を思い出す。
憐れみとも失望ともつかない、あの表情。
「もったいない」と言われた。
でも――もったいないのは、いったい何だったのだろう。
机の脇に置かれた古びたカバン。
これまでは教科書を入れるためのそれが、
これからは仕事道具を入れるためのカバンになる。
セネリは静かに目を閉じた。
まぶたの裏に、夕暮れの道化師の姿がちらつく。
その視線はまだ、どこかで自分を見ているような気がした。
――まるで、夜そのものがこちらを覗き込んでいるようだった。
2.
街は群青に沈み、街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
昼と夜の境目を曖昧にするその光の粒子の中、木枯らしに寒々しく身を縮めてセネリは歩いていた。
彼女の足取りは軽くもあり、何かを引きずっているようでもあった。右手には丁寧に折りたたまれた契約書。
そして、風の向こうに見覚えのある姿を見つける。
――ルイ。
あの頃から、彼はいつもどこかで待っていた。
ルイという少年は、セネリより二つ年上で、幼い頃からの顔見知りだった。
いつも彼女を見守るようにして立ち、転びそうになれば手を差し伸べ、泣き出しそうになれば黙って隣にいてくれた。
穏やかな笑みと、どこか子ども離れした優しさ。
それがセネリにとっての「ルイ」だった。
頼れる人が誰もいなくなった今も、彼だけは変わらずそこにいた。
夕暮れの公園。錆びついたブランコが風に揺れ、ベンチの上には二つの影。
セネリとルイは、並んで座っていた。
どちらからともなく会話が始まる。
……
「それで、働こうって?」
いくつかの和やかの話のあと。ルイはそう言って話を切り出した。彼の声はいつもより少し低く、真剣さが窺える。
セネリは俯いたまま、うん……と小さく答える。
「学校をやめてまで?」
「もう、お母さんのお金もないし……」
その言葉を聞いた瞬間、ルイの表情がわずかに歪む。
彼は頭をかきながら、苦笑まじりに言った。
「ねえ、セネリ。君は一人で頑張ってきたけど、そこまで自分を追い込むことはないじゃないか」
「でも、もう頼れる人はいないわ。お役所にも追い返されてしまって……」
「僕の家の家族になるのは? 前にも話しただろ」
セネリは顔を上げ、驚いたようにルイを見た。
「それは……」
「母さんも父さんもいいって言ってるんだよ。女の子一人くらい面倒見れるって。僕だって、セネリと一緒ならとても嬉しいし」
ルイの声は柔らかく、けれどその中に微かな必死さが滲んでいた。
しかし、セネリは目を伏せたまま、首を横に振った。
「……やっぱりだめだよ」
「なんで」
「だって、私また……また……」
言いかけたその瞬間、セネリの脳裏に“あの光景”がよぎる。
狭い部屋。
ぶら下がった女の足。
白い下着と、散らかった薬の瓶。
――その身体に宿っていたはずの温もりが、どこにもなかった。
セネリは頭を振る。思い出しかけた記憶を、必死に追い出そうとするように。
「ごめんなさい、でも私、とにかく一人でいたいの」
その言葉は懇願に似ていた。
ルイは戸惑い、沈黙し、やがて小さく「……わかった」と呟く。
風が木々の葉を鳴らす。
その隙間から、淡い月が覗いていた。
「もう勤め先は見つかったの?」
「うん……、お洋服の工場だって、これが契約書」
セネリは折りたたんだ書類を丁寧に開き、ルイに見せた。
それをまじまじと見つめながら、ルイは話を続ける。
「……終わる時間は?」
「22時くらい」
「ずいぶん遅いじゃないか」
「いいの、お金もいいみたいだから」
ルイは眉をひそめる。
「でも女の子が一人でそんな夜更けまでいるのは……」
「ルイ」
セネリが制するように彼を見た。
ルイはその視線に何かを感じ取り、苦く笑って言う。
「わかったよ。僕にそこまで言う資格はない。――でもセネリ、最初の一日くらいは、迎えに行ってもいいだろ?」
「え?」
「だって心配だもの。夜も遅いし。それくらい許してよ、ね?」
ルイは微笑む。
その笑みは、どこか救いを乞うようでもあり、彼女を包み込む祈りのようでもあった。
セネリは申し訳なさそうに俯き、しばらく考え、それから小さく頷いた。
「……うん」
静かな返事が夜気に溶けた。
ベンチの影がゆっくりと重なり合い、
その上に、街灯の淡い光が揺れていた。
3.
夜の街は、どこか人の気配が消えていた。
風が通り抜けるたび、街灯がわずかに揺れ、その光が地面に影を落とす。
セネリは、工場の制服のまま、薄いコートを羽織って帰路を歩いていた。
仕事は慣れないことばかりで、糸や布の感触がまだ手の中に残っている。
夜の工場は静まり返り、ミシンの音だけが永遠のように響いていた。
――やっと、終わった。
安堵と疲労が入り混じった吐息が漏れる。
時計は、夜の十時を少し過ぎていた。
ルイは言っていた。「初日くらいは迎えに行く」と。
だが、仕事が押したせいで、退勤時間が遅くなってしまった。
まだ彼はあの公園で待ってくれているのだろうか。連絡する手段もないまま、セネリは一人で歩いていた。
「……暗いな」
街灯が途切れる通りに入ると、足音が少し響く。
靴音が石畳を叩くたび、遠くの角で何かが動くような気配がした。
見間違いかもしれない。
そう思いながらも、胸の奥がざわめいて落ち着かない。
しかし、足音が二重になるのに気づいたとき、世界が静かに軋みはじめた。
コツ、コツ、と後ろから同じリズムで響く音。
誰かが、自分とまったく同じ歩幅で歩いている。
足を止めると、音も止まった。
再び歩き出すと、音もまた動き出す。
――気のせい。気のせいにしよう。
そう思って早足になるが、背後の気配は離れない。
セネリは息を潜め、後ろを振り返ってみる。
途切れた光を放つ街灯の下に“それ”が立っていた。
白い仮面の鮮やかな夜色の衣装を着た男。
いつか、広場で見たあの道化師。
けれど今は曲芸をするでもなく、一言も発することもなく、ただ、見つめていた。
セネリの足が凍りついた。
その視線には敵意も好奇もなく、感情というものがまるでなかった。
ただ、何かを確かめるような、静かな凝視。
息が苦しくなる。
逃げなければ、と頭では思うのに、足が動かない。
男が、ゆっくりと一歩を踏み出す。
足音もなく、ただ距離だけが縮まっていく。
セネリは駆け出した。
通りの角を曲がる。
夜風が頬を切り裂くように痛い。
――もうすぐ、公園。ルイが、いるはず。
灯りが見えた。
その光に向かって走る。
「セネリ!」
声が聞こえた瞬間、世界が戻った。
ルイが、息を切らして駆け寄ってくる。
セネリはその胸に飛び込み、肩を掴んで震えた。
「どうしたの? 顔が真っ青だよ」
「……ついてきたの、あの人が」
「人?」
ルイが後ろを見た。
だが、そこには誰もいなかった。
街灯の下、影だけが伸びている。
「誰もいないけれど……」
「え……」
セネリは、ルイの腕の中で小さく震えながら、背後の景色を確かめた。
街灯が照らす光の外には、ただただ暗闇が広がっている。
静かで、不気味なその暗闇が、これからのセネリの行く末を暗示するかのように佇んでいた。
―――
セネリを家の前まで送り届けたあと、ルイは小さく息をついた。
「じゃあ、また明日」
「うん……、ねえ、ルイ」
か細く声を出したセネリに、「うん」とルイが返事を待つが、少女は小さく頭を振った。
「やっぱりいいの、おやすみなさい」
彼女はそう言い残してぎこちなく笑い手を振ると、足早に玄関の奥に消えていった。
玄関灯が閉ざされ、家の中の明かりが静かに消える。
街の灯りは遠く、風が吊り下げられた店の看板を揺らしていた。
ルイはひとり、舗道の上に立ち尽くした。
静かな夜だ。
だが、静かすぎた。
彼の耳には、ひとつの音が欠けている気がした。
虫の声でも、風のざわめきでもない。
――世界のどこかの、かすかな「呼吸」の音。
それが消えている。
帰ろう、と歩き出す。
セネリを無事に届けた安堵と、どうしようもない空虚が胸の底で揺れていた。
彼女は笑ってくれたが、その笑顔の奥にまだ消えない影がある。
あの恐怖が、きっと彼女をまた苦しめる。
彼はセネリのことを考えていた。
あの小さな肩を、ひとりで背負ってきた少女のことを。
セネリの父親は、彼女が赤ん坊の頃に家を出たらしい。
母親はけばけばしく、派手な服を着て、街を歩いていた。日毎別の男の腕を抱いて。
ルイはまだ幼かったが、母の手を引かれながら、
その光景を遠くから見たことがあった。
セネリの母は笑っていた。けれど、その笑顔はどこか壊れかけていた。
その母親が生きていたころ、
幼いセネリの腕や背中には、よく青い痣ができていた。
「転んだの」と、彼女はいつも同じ言葉でごまかした。
ルイは何も言えなかった。ただ心の奥で、
母が吐き捨てた言葉を覚えている。
――あの人は、いつか神様の罰を受ける。
その罰が下ったのは、案外すぐだった。
ある日、セネリが泣いて家まで来た。
「お母さんが動けなくなっているの」と。
母と二人、そして警官を呼んでセネリの家に入り、あの母親のいるという薄汚い寝室の扉を開けて――。
そこからの記憶は、映画のフイルムのように途切れ途切れだ。
家の前に集まる人々の視線、警官たちと司祭の淡々とした目つき。
そして、あの時のセネリの虚ろな瞳。
あの日から、彼女は壊れた人形のようになった。
ルイは何もできなかった。ただ、そばにいた。
何度も話しかけ、手を差し伸べ、やっとの思いで
「学校へ行こう」と誘い出した。
それでも、学校は救いではなかった。
親のいない子。気味が悪い子。
そう言って笑う同級生たち。
セネリはただ俯き、言葉を飲み込むばかりだった。
彼女のこの辺りでは見ない珍しいエメラルドの瞳でさえ、気持ちの悪いものとして嘲笑されていた。
ルイは彼女を守った。
時に怒り、時に慰めた。
だがその行為の裏には、彼自身も気づかぬ小さな悦びがあった。
誰かを庇える自分という存在に、確かな価値を感じていたのだ。
考えた瞬間、風が止んだ。
ぴたりと世界が静止する。
街灯がひとつ、明滅した。
青白い光が点滅し、ふっと消える。
闇が濃くなり、そこに――いた。
男が立っていた。
遠くではない。
十歩ほど先、街灯の切れ目の闇の中。
輪郭がぼやけて、まるで現実のものではないようだった。
顔の下半分の一部が青く光っている。
それが口紅の色だと気づくまでに、数秒かかった。
ルイは立ち止まった。
視線が合った。
――気配は、まるで呼吸のように柔らかい。
けれど、その柔らかさが不気味だった。
男は何も言わない。
音も立てない。
ただ一歩、前に出た。
足音はなかった。
だが、地面がわずかに震えた。
ルイの喉が動く。
何かを言おうとしたが、声が出なかった。
もう一歩。
男は距離を詰める。
光の届かない場所で、その顔だけが異様に白く浮かんでいる。
口紅の青さと、冷たく貫くような青い瞳――それだけが現実的だった。
ルイは後ずさった。
理性的な判断よりも先に、身体が危険を察知していた。
逃げるべきだと頭のどこかが警鐘を鳴らす。
だが、足が動かない。
男は手を伸ばした。
細い、骨ばった手だった。
その手が、まるで夜の霧のように形を変えながら近づいてくる。
触れられた瞬間、ルイの視界が歪んだ。
冷たい。
氷よりも、もっと根源的な冷たさ。
皮膚の表面ではなく、思考の奥底に触れるような――そんな感覚。
世界が音を失い、彼の耳の中でひとつの低い響きが広がる。
鼓動が、ゆっくりと、他人のもののように遠くなっていく。
男の指先が、ルイの額を円を描くようになぞった。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
何かが流れ込む。
静かな闇、青い光、冷たい笑み。
その全てがルイの中へ、無理やり溶け込んでいく。
次の瞬間、彼は膝をついた。
息が、出ない。
けれど苦しくなかった。
むしろ――ぞっとするほどに心地よく、甘美だった。
男は何も言わず、その場に立っていた。
唇の端がかすかに上がる。
青が、闇の中でかすかに光を放つ。
やがて彼は歩き去る。
まるで霧がほどけるように、その姿は消えていった。
ルイは地面に手をつき、ぼんやりと空を見上げた。
星がひとつ、青く瞬いている。
――その光は、奇妙に懐かしく見えた。
まるで、自分の中にあった何かが呼び覚まされたように。
ルイの瞳に、微かな色が宿った。
青く、冷たい輝きが、夜の光を反射していた。
4.
次の日。
朝の光が、まだ街を起こしきれずにいる。
白く冷たい気配が漂うなか、ルイは鏡の前でネクタイを結んでいた。
今朝の自分の顔が、どこかいつもと違って見える。
目の奥の光が、少しだけ深く沈んでいる――そんな気がした。
昨日、セネリを家まで送り届けたあとの記憶は、ところどころが霞んでいた。
まるで夜そのものが、彼の中に入り込んできたような感覚がある。
あの静寂の中で、何かが確かに彼の中に根を下ろした。
けれど、その“何か”の形を思い出そうとすると、脳裏が柔らかく痺れて拒絶する。
チャイムが鳴った。
ドアを開けると、朝の光を浴びたセネリが立っていた。
彼女の瞳は深い緑で、けれどその奥に微かな怯えが混じっていた。
「ごめんなさい、朝から……。昨日のことが、少し怖くて」
「昨日のこと?」とルイは尋ねる。
「もう一日だけ、迎えに来てほしいの」
彼女の声は、かすかに震えていた。
「ああ……」
ルイは昨夜のあの出来事を思い出して、安心させようと笑った。
自然な笑みのつもりだった。
「もちろん。君がそう言うなら、いつまででも迎えに行くよ」
セネリは小さく息を吐いた。ほっとしたように。
その安堵を見た瞬間、ルイの胸の奥で何かがひどく静かに蠢いた。
――彼女は、まだ気づいていない。
――気づかれてはいけない。
――彼女の“これから”を。
思考の中に、聞き覚えのない声が一瞬だけ混じった気がした。
ルイは眉をひそめたが、それはすぐに霧のように消えていった。
“これから”とはどのような意味なのか、自分がなぜそんな言葉を思い浮かべたのかさえわからない。
ただ、心の奥に残るのは、言いようのない悦びと安堵の入り混じった温度。
――大丈夫だ。笑えている。
そう思って、彼は改めて口角を上げた。
「ねえ……今度は公園じゃなくて、君の仕事場に行くよ」
「え?……でも」
「怖いんだろ?一人より二人で歩いていた方が、セネリを追いかけていたっていう人も近づきにくいと思うし」
ルイの申し出にセネリはかすかに微笑む
「ありがとう……」
安堵した表情を見て、ルイもまた笑みを深めた。――その笑みが果たして純粋なものだったかどうかはわからない。
セネリは踵を返して、やがて外へと出ていった。
彼女の背中が角を曲がって見えなくなっても、ルイはしばらく玄関先に立ち尽くしていた。
その指先に、微かな冷気がまとわりついていた。
夜の残り香のように、目には見えない何かがまだそこにいる。
ふと、自分の額を指で触れる。
昨夜、触れられたはずの場所。そこに、薄い氷のような痺れがまだ残っていた。
彼は静かに息を吐いた。
その吐息は白くもないのに、確かに“寒気”を孕んでいた。
―――
夜の十時。
冷たい風が、通りの隙間を抜けていく。
街の灯りはまばらで、どこか遠くで犬が一度だけ吠えた。
その静けさの中を、二人の足音だけが響いていた。
仕事を終えたセネリを、ルイが迎えに来ていた。
季節はもう冬の入口。白い吐息が、まるで目に見えない言葉のように漂っては消える。
セネリはその吐息の向こうで、何度も後ろを振り返っていた。
「……ルイ。昨日の、あの人は……」
「大丈夫だよ」
ルイはいつも通り穏やかに微笑んだ。
けれど、その声の奥に何かが沈んでいることに、セネリは気づけなかった。
やがて、二人は昨日と同じ公園の前にたどり着いた。
街灯の下、ひとつの影が立っていた。
それは――あの道化師だった。
薄暗い街灯の光を反射して、白い仮面がかすかに光る。
黒と青の衣が夜の風に揺れ、仮面の下の何かが笑ったように見えた。
セネリの喉がひゅっと鳴る。
「ルイ、あれ……」
震える声で言ったとき、ルイはすでに道化師のほうを見つめていた。
まるで、見つめ返すことが運命であるかのように。
仮面の奥で、唇が動く。
言葉は聞こえない。
けれど、何かが“伝わった”。
ルイの体が、わずかに揺れた。
「ルイ……? ねぇ、早く行こう?」
セネリは不安に駆られて、彼の腕を掴んだ。
しかしルイは、動かない。
その瞳は、氷のように静まり返っていた。
「ルイ……っ」
セネリが呼ぶと、ルイはゆっくりと彼女を振り返った。
その目は、もう人の目ではなかった。
光を映しているのに、何も映していない。
まるで、誰かに“内側から塗り替えられた”ような、奇妙な無機質さを帯びていた。
「ルイ……?」
彼は半ば強引に、セネリの腕を掴む。
そして、あの優しい笑みを浮かべた。
ただし――そこにあったのは温もりではなく、静かな異物感だった。
「セネリ。大丈夫だよ」
「……え?」
「あの人は迎えに来てくれたんだ」
「迎え……に?」
「そう。……さあ、行こう」
ルイの声はあたたかく響くのに、その奥にはなにか“別のもの”が潜んでいる。
セネリは言葉を失い、じりじりと後ずさろうとする。
ルイはセネリの腕を離さない。その指先は氷のように冷たく、力強かった。
「いや……、行きたくない。離して!」
必死に身をよじっても、彼の手はびくともしない。まるで何かに操られているかのように、感情の抜け落ちた瞳でセネリを見つめていた。
次の瞬間、視界の端で黒いものが揺れた。
――空気が、凍りつく。
風も、音も、灯りさえも。
世界の鼓動が止まったような沈黙の中、道化師が目の前に立っていた。
青と白と黒。
闇の中でその三色が揺らめく。
真っ白で無機質な仮面に、月の光が斜めに落ちた。
仮面の表情は笑ってはいない。けれど、その無表情がかえって滑稽で、恐ろしく、美しかった。
道化師は音もなく近づく。
二人の間に差し込むようにして伸びた長い腕が、セネリの顎をそっと持ち上げた。
その指先は、驚くほど静かで優しい。
逃げなければ。
そう思うのに、体が動かない。
彼は何も言わない。
ただ、彼女の頬に指を滑らせ、髪の一束をとりあげ、指に巻きつけた。
淡い金の髪が、青と黒の衣の上で不気味に光る。
――その仮面の奥で、ふ、と息が漏れた気配があった。
それは微笑とも、嘲りともつかない。
道化師は彼女の髪をほどき、代わりに頭をやさしく撫でた。
冷たい手のひらが、彼女の額をかすめる。
途端に、セネリの視界が滲んだ。
灯りがまたひとつ、またひとつと消えていく。
最後に見えたのは、月明かりの中で立ち上がる青と白と黒の影――
その胸のあたりで、まるで心臓の鼓動のように青い飾りが小さく瞬いていた。
そして闇が訪れた。
声も、温度も、何もかもが吸い取られていくように。
――世界が、闇に沈んだ。
5.
目を開けたとき、そこには見慣れた天井があった。
薄い灰色の木目。壁の隅に、古いひび。
――ここは、自分の部屋だ。
セネリはゆっくりと体を起こした。
夢の続きのように、頭の奥が霞んでいる。
足元には乱れた毛布。机の上には、消えかけたランプの光。
昨夜は仕事から戻って――たしかにここで眠ったはずだ。
……本当に?
視線を窓へ向ける。
薄いカーテン越しに見える空は、朝でも夜でもない灰色。
雲が、逆向きに流れている。
鳥の声も、人の気配もない。
――静かすぎる。
セネリはベッドを降りた。
床板が軋むたび、その音が異様に大きく響く。
まるで、誰かが世界の音量を上げて、彼女の存在を確かめているようだった。
家の中は、どこを見ても“生きていない”。
壁の絵は色を失い、時計の針は止まったまま。
時が、ここだけ外れているように感じた。
居間の扉に手をかけた、その瞬間――風が吹いた。
閉め切ったはずの窓のカーテンが、ふわりと揺れる。
床に、一枚の紙が落ちた。
拾い上げると、それは劇場の入場券だった。
少し黄ばんだ紙。
中央に青いインクで印字された言葉が浮かぶ。
《幻影劇場 特別公演》
セネリの胸がひやりと冷える。
その下には、見覚えのある紋章――
あの道化師の胸元で光っていた、青い飾りとまったく同じ模様。
指先が震えた。
どうして、これが自分の家に?
――そのとき。
遠くで、微かな音がした。
ピアノの鍵盤を、誰かが静かに叩くような音。
やがて旋律が、霧のように部屋を満たしていく。
セネリは顔を上げた。
玄関の扉が、わずかに開いている。
隙間から、青い光がゆらめいていた。
まるで、誰かが外で彼女を待っているように。
セネリは、紙を握りしめたまま一歩、また一歩と近づいた。
外の空気は冷たく、指先がかじかむ。
それでも――耳に届く旋律は、不思議なほど懐かしかった。
夢の中で聞いたような、哀しくも優しい音。
扉を押し開ける。
目の前に広がったのは、霧の街路。
石畳の向こう、白い霧を切り裂くように立つ建物。
無数の灯りが連なり、夜の闇の中で静かに浮かぶ劇場があった。
《幻影劇場》――彼女を待つ、青い夢の入り口。
霧は深く、街の輪郭を呑みこんでいた。
淡い青白い光が、まるで海の底のように街路を照らしている。
セネリは寒さに肩をすくめながら、その光の源へと歩いた。
霧の向こうに、劇場が見える。
大きな二枚扉の上に掲げられた看板――
《幻影劇場》。
古びた文字がかすかに脈打つように輝き、まるで呼吸しているかのようだった。
その入り口の前に、人々が立っていた。
いや、立っている“ように見えた”。
微笑み、談笑し、礼服をまとった観客たち。
華やかな夜会の始まりを待っている――はずだった。
だが、近づくほどにその輪郭が曖昧に滲み、顔が溶けていく。
誰もが笑っているのに、声がない。
その静けさが、耳鳴りのように痛い。
セネリは足を止めた。
冷たい空気の中で、息が白く揺れる。
「……ここ、は……?」
そのとき――
一人の影が、観客の列からふいに一歩前へ出た。
「……セネリ?」
聞き覚えのある声。
セネリの心臓が跳ねた。
「ルイ……?」
そこに立っていたのは、確かにルイだった。
けれど、その姿はどこかおかしい。
顔色が悪く、目の焦点が合っていない。
笑っているのに、目が笑っていなかった。
「やあ……良かった。君も来たんだね」
声は穏やかで、優しい。
だがその奥に、別の誰かの息遣いが潜んでいる。
「ルイ……大丈夫なの? さっき、あの人に――」
「大丈夫。心配いらないよ。……一緒に行こう」
彼の指が、彼女の手に触れた。
冷たい。
それなのに、逃れようとすると、鋼のように強く握りしめてくる。
「ねえ……もうすぐ始まるんだ。席がなくなる前に行かなくちゃ」
その笑みは、今朝のように優しく見せかけながら――どこか歪んでいた。
「ルイ……何か、変だよ。戻ろう? 家に帰ろう?」
「帰る?」
ルイの声が一瞬、低く濁った。
二重の声。まるで誰かが彼の口を借りて喋っているようだった。
「帰ったところで……誰もいないくせに」
その声は、ルイのものとは思えないほどにぞっとする声だった。
セネリの背を、冷たいものが這い上がる。
観客たちが一斉に振り向いた。
無音の世界で、無数の瞳だけが青白く光る。
ルイが笑った。
「行こう、セネリ。ほら、みんな待ってる」
握られた手は離れない。
まるで見えない糸に操られるように、セネリの足が劇場へと動き出す。
遠くで、鐘の音。
――開演の合図。
劇場の扉が、軋みを上げてひとりでに開いた。
青と白の光が霧を裂き、セネリを包み込む。
その奥で、道化師が顔を上げる。
仮面のような微笑を浮かべたまま、舞台の中央で――彼女を待っていた。
6.
劇場の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
外の冷たい霧とは違う、濃く甘い香りが鼻を刺す。
古い香油と、湿った絨毯の匂い。
扉の向こうには、無数の蝋燭が灯る広いホールが広がっていた。
壁一面に金の縁取りが施され、天井には巨大なシャンデリアが吊るされている。
だが、その灯りの揺れ方がどこかおかしい。
光がゆらめくたびに、壁の模様が生き物のように蠢く。
セネリは思わず息を止めた。
足元の絨毯は真紅。
けれど、光が変わると黒ずんで見える。
――まるで、乾いた血の跡のように。
ルイは相変わらず、微笑んだまま手を引いていた。
「もうすぐ始まるよ。ね、楽しみだろ?」
その声がやけに明るく響く。
けれど、足音がひとつも聞こえない。
彼の靴底が床を叩く音すら、なかった。
劇場の中央には、重そうな天幕が垂れ下がっている。
青と白の布が重なり、まるで波のようにゆらいでいる。
その前に、観客席がずらりと並んでいた。
満席。
けれど、座っているのは――さっき外にいた“観客”たち。
皆が同じ方向を向き、同じ笑みを浮かべている。
誰一人、瞬きをしない。
「ルイ……帰ろう、お願い」
セネリは震える声で言った。
しかし、ルイは振り返らない。
「だめだよ。せっかくの特別公演なんだ。……僕、招待されたんだよ」
その言葉と同時に、ルイの首元で何かが光った。
青い飾り――まるで、糸で縫い込まれた心臓のような印。
セネリの記憶に焼きついた、あの紋章。
彼は笑っている。
それでも、その瞳の奥には何もなかった。
抜け殻のように、からっぽの視線。
「セネリ、座ろう」
ルイが指さしたのは、前列のひとつ空いた席。
「君のための席だよ」
セネリは後ずさった。
「いや……嫌だ、帰りたい」
すると、観客たちが一斉に首をこちらに向けた。
無音のまま。
唇がゆっくりと動き、言葉にならない囁きを紡ぐ。
その動きがまるでひとつの波のように連なり、空気を震わせた。
――セネリ。
――セネリ。
――セネリ。
呼ばれている。
セネリの胸が締めつけられる。
彼女の意志とは正反対に、身体は操られるように席についた。
「それでいい」
ルイは柔く微笑む。
視界の端で、青白い光が走った。
天幕の奥が、ゆっくりと動く。
そして、一筋の影が現れた。
青と白と黒の衣。
細い指先が、幕を押しのける。
音もなく現れた道化師は、舞台の中央に立った。
真っ白な仮面をつけ、深々とお辞儀をする。
途端に観客たちの拍手が沸き起こった。
隣を見ると、ルイもまた嬉しそうに手を叩いている。
道化師はゆっくりと手を上げた。
何も言わずに。
ただその仕草ひとつで、観客全員が沈黙した。
沈黙の中、セネリの耳にだけ、かすかな音が届いた。
ピアノの旋律。
さきほどまで彼女に誘うように聞こえていた音。
けれど今は、優雅な調べが不気味に歪んでいた。
セネリは顔を上げた。
道化師の瞳が、真っ直ぐに彼女を見ていた。
その視線に捕らえられた瞬間、空気が凍りついた。
――幕が、上がる。
7.
幕が上がった。
道化師によって繰り広げられる数々の曲芸は、優雅で、穏やかで、そしてどこか夢のように幻想的だった。
青白い光を放つ蝶たちが舞台を舞い、星々が流星のように降り注ぐ。
空中ブランコ、ジャグリング、影と光の幻。
半透明の観客たちはその美しさに息を呑み、ときに歓喜の声を上げ、惜しみなく拍手を送る。
セネリもまた、その光景に圧倒されていた。
恐怖の裏側に、微かな期待が芽生えはじめている。
――もしかして、これは夢なのかもしれない。
そんな錯覚すら抱くほどに、舞台は現実離れしていた。
だが、突然、景色が止まった。
舞台の中心に、鋭い白光のスポットライトが落ちる。
その光の中に立つ道化師が、ゆっくりと一礼した。
空気が、ひどく静まり返る。
そして――どこからともなく、声が響いた。
それは観客でも、道化師でもない。
まるで劇場そのものが語り出したかのようだった。
「これから始まるのは、本劇場のメインイベント。一つの劇」
「さあ皆様、主役を拍手でお迎えください」
その瞬間、観客席から拍手が沸き起こった。
幻のような手が叩かれるたびに、冷たい風が頬を撫でていく。
「ほら、セネリ。出番だよ」
ルイの声が背後から響く。
セネリは困惑し、怯えながらも抗おうとした。
だが、身体は意志を裏切り、足は勝手に舞台の中央へと進んでいく。
その様子を、道化師は穏やかに、しかし冷たく微笑みながら待っていた。
優雅な仕草で、彼は片手を差し伸べる。
まるで、初めからその瞬間を知っていたかのように。
そうしてセネリの手が道化師の手を取ったその瞬間。
光が、弾けた。
―――
舞台の上に降り注ぐ光は、昼の太陽のように明るいのに、肌の奥まで冷たさが染み込むようだった。
セネリは自分の服装がさきほどとは違うことに気づいた。
淡い灰色のドレス。胸元には、青いリボン。
柔らかな布が微かに震えるたび、冷たい光がその輪郭を撫でていく。
観客席の視線が、一斉に自分を貫いた。無数の目が、笑わずにただ見ている。
「……どうして……?」
声は宙に溶け、誰にも届かない。
返るのは、深い沈黙だけ。
その瞬間、足元の床が淡く光り、空気が反転するように景色が変わった。
――学校。
古びた木造の校舎。窓ガラスの外では雨が降っていた。
湿った木の匂い。懐かしい机。
見慣れたはずの教室が、まるで記憶の底から掘り起こされたように現れている。
セネリは息を呑んだ。
「ここ……私の……」
教室には、生徒たちがいた。
笑い声、ざわめき、椅子を引く音。
けれど、誰の顔もぼやけている。輪郭が煙のように揺れ、目も口も曖昧だ。
声だけが生々しく響き続けていた。
「……みんな?」
そのとき、教壇の前に影が落ちた。
黒いシルエットがゆっくりと動く。教師のような姿。
だが、顔を上げたその人物は――白い仮面をつけていた。
微笑んだままの無表情。道化師。
セネリは息を詰め、数歩あとずさる。
「やめて……ここは……!」
道化師は何も言わない。
ただ、ひとつ手を振る。
その瞬間、教室の生徒たちが一斉に立ち上がった。
机の軋む音もなく、まるで糸で操られる人形のように。
そして――声を揃えた。
「セネリ、どうして泣いてるの?」
その言葉が波のように押し寄せる。
「セネリ、どうして隠れてるの?」
「セネリ、見せてよ、その目を」
胸の奥が締めつけられる。視界が歪む。
忘れたはずの記憶が甦る。
――緑の目を笑われた日々。
珍しい、気味が悪い、と言われ続けた声。
誰にも目を見せたくなくて、下を向いて歩いていた過去。
「やめて……!」
叫んでも、子どもたちの声は止まらない。
「親のいない変な子」
「お父さんもお母さんもセネリを捨てたんだ」
「セネリは誰からも愛されない、可哀そうな子!」
耳を塞ぐ。目を閉じる。
それでも、言葉は頭の中に直接響いてくる。
「やめて――っ!」
絶叫が空間を震わせた瞬間、温かい感触が彼女の手に触れた。
耳を塞いでいた手が、そっと押しのけられる。
セネリは恐る恐る目を開けた。
そこに立っていたのは――ルイだった。
「ルイ……」
今にも泣き出しそうな目で彼を見つめる。
ルイは優しく微笑んだ。
「大丈夫。大丈夫だから……セネリ」
だが、その微笑みはどこか冷たい。
瞳の奥に、あの子どもたちと同じ、わずかな嘲りの色が宿っていた。
どこか小馬鹿にするような表情で、ゆっくりとルイが呟く。
「……かわいそうで、かわいい、セネリ……」
言葉が、刃のように刺さる。
次の瞬間、教室が軋みを上げた。
床が裂け、闇が滲み出す。
黒い影が波打ち、机も椅子も、生徒たちの足元を飲み込んでいく。
子どもたちは嗤いながら沈んだ。
ルイもまた、崩れゆく床の中でセネリに手を伸ばす。
指先が触れる寸前、彼は微笑んだ。
「もう怖がらなくていいんだよ。彼が……救ってくれる」
その声を最後に、彼の姿は闇に溶けた。
セネリは必死に手を伸ばす。
けれど、触れる前に、すべてが――霧のように消えた。
―――
――ぱちぱちぱち。
乾いた音が、雨のように降り注いでいた。
それが拍手の音だと気づいたとき、セネリは息を吸い込む。
重たい意識の底から浮かび上がるように、彼女は目を開けた。
劇はまだ終わっていない。
舞台の上、蝋燭の光が淡く揺れる。
観客席の人影たちは、誰一人として瞬きをせず、ただ――彼女を見ていた。
その視線の圧力が、まるで肉体を縛る縄のように重くのしかかる。
セネリは、無意識に走り出した。
――逃げなくては。
木の板が足音を打つ。乾いた衝撃が響き、息が喉に詰まる。
舞台を降り、観客席へ駆け抜ける。
椅子の列を抜け、出口を探して――
しかし、そこには“壁”があった。
透明な何か。
手のひらを押しつけると、柔らかくたわむのに、絶対に破れない。
押しても、叩いても、冷たく反発してくる。
それはまるで、生き物の皮膚のような手触りだった。
「……出して……出してよ……!」
悲鳴が、劇場に反響する。
けれど、返ってきたのは――笑い声。
観客席の“人々”が、一斉に口を開けた。
ひとり、またひとりと、同じ表情で笑い出す。
頬がひきつり、目が裂けそうなほど見開かれ、空洞の喉奥から同じ声が漏れた。
「ハ、ハ、ハ――」
それは、誰かひとりの声ではなかった。
何百もの声が重なり合い、波のように劇場を満たす。
同じ声色。同じ笑み。
音の洪水が、狂気のリズムを刻んでいた。
その中に――ルイの姿があった。
彼だけは、笑っていなかった。
椅子から静かに立ち上がり、こちらへ歩み寄る。
伸ばされた手の仕草は、いつかと同じ。
セネリが泣いていたとき、彼がそっと差し伸べてくれたあの優しい動作。
「ルイ……!」
声が震える。
ルイはゆっくりと頷いた。
だが、その顔は違っていた。
まぶたが半ば落ち、口元だけが不自然に引きつる。
笑みの形は、もはや人間のものではなかった。
その目の奥――深い闇の底に、“青い光”が揺らめいている。
「セネリ、行こう」
途切れ途切れの声。
金属の軋みのように、不自然に切れる言葉。
喉の奥で、誰かが糸を引いて操っているようだった。
「……劇の続きを、見なくちゃ」
セネリは首を振る。
「やめて、ルイ……もうおかしいのよ、ここ……!」
彼は一歩、近づく。
その背後――暗がりが波打った。
客席の奥から、ゆらりと影が現れる。
青と白と黒の衣。仮面の下の、微笑のない微笑。
道化師。
彼は無言のままルイの背後に立ち、肩に手を置いた。
その瞬間、ルイの体がわずかに傾き、口が不自然に動いた。
「――逃げても、ここは君の中だよ」
セネリの心臓が止まった。
「君が逃げたいのは、外じゃない。
君が閉じ込めたものが、ここにいる」
その声は確かにルイの声だった。
けれど、そこに宿っているのは、別の“意思”。
ゆっくりと、彼の中から滲み出るように――道化師の声が重なっていた。
「違う……違う、私は……!」
セネリは叫び、ルイの胸を押しのけて走り出した。
息が乱れ、心臓が喉を打つ。
だが、舞台は終わらない。
どこまで走っても、景色は変わらなかった。
幕を抜けても、背後に回っても、次に見えるのは――また同じ舞台。
同じ照明。
同じ青白い光。
逃げるほどに、世界が折り重なり、閉じていく。
音が消える。
呼吸の音だけが響く。
足がもつれ、セネリは崩れるように膝をついた。
その瞬間、辺りは眩い光に包まれて――
周囲が、ふっと変わった。
――光が溶け、温かな空気が満ちていく。
花の匂い。柔らかく、どこか懐かしい。
心の奥に沈んでいた何かが、そっと浮かび上がるような――そんな香りだった。
セネリは、ゆっくりと目を開けた。
そこは、彼女の家のすぐ前だった。
けれど、それは今の荒れ果てた姿ではない。
まだ新しく、まだきれいだったころの家。
陽だまりの中、洗濯物が風に揺れている。
世界はあまりにも穏やかで、現実の輪郭が曖昧に見えた。
扉を開けて中に入る。
木の椅子。花を咲かせた鉢植え。
淡い光に包まれた小さな食卓のそばに――女がいた。
穏やかな顔。
柔らかい茶色の髪。
そこにいたのは彼女の母だった。
「……お母さん……?」
かすれた声がこぼれる。
その姿は、記憶の中よりもずっと血色がよく、微笑みに満ちていた。派手な化粧で塗りたくられていない。ありのままの姿。
母はゆっくりとこちらを向き、やさしく両手を広げる。
その仕草に、暖かな光が差し込んだ。
「セネリ。やっと帰ってきたのね」
セネリは、言葉を失って立ち尽くした。
母は言葉を続ける。
「あなたの好きな紅茶を淹れたのよ。一緒に飲みましょう」
その微笑みは、あまりにも穏やかで――あまりにも美しかった。
胸の奥にあった硬い何かが、音を立てて崩れていく。
セネリは立ち上がり、駆け寄った。
そして、その腕に飛び込んだ。
柔らかな腕が、彼女を包む。
骨ばっていない、温かい肌。
空気のようにやさしい。
母が吐息を漏らし、セネリの額を指先でなぞった。
「可愛いセネリ。怖い夢でも見たの?」
「もう大丈夫。家に帰ってきたのだから」
セネリは何も言わず、母の胸に顔をうずめた。
母に撫でられる手は、想像の何倍以上も心地よかった。
「可愛い、可愛いセネリ……。あなたが生まれてきてくれて、よかった」
――その言葉に、心がきしむ。
温かすぎて、痛い。
これは違う。
「……ちがう」
穏やかな空気を引き裂くように、セネリの声が落ちた。
母の手が止まる。
「……なにが、ちがうの?」
柔らかい声。だが、その底に、わずかな違和を感じた。
セネリは母を突き飛ばした。
苦悶と悲しみと怒りが入り混じった顔で、叫ぶ。
「お母さんは……こんな人じゃなかった!」
その瞬間、庭の光が裂けた。
世界が軋む音を立て、足元が黒に飲み込まれていく。
母の頬にひび割れが走り、その奥から青白い光が滲み出た。
家の景色がぐるりと変わった。
空が赤く燃え上がる。
空気が熱を帯び、家の中に影を落とす。
女の体は病的に細く、髪は乱れ、壁にぶつかった口紅が床に転がっていた。
割れた食器。泣き叫ぶ声。
――幼いセネリが見ていた現実。
母の瞳が、氷のように冷たく光る。
憎しみを孕んだ顔で、彼女を見下ろし――吐き捨てるように言った。
「お前なんか、生まれてこなければよかったのに」
その声は、記憶の中のものとまったく同じだった。
心臓の奥を、鋭く突き刺す。
セネリの隣に、小さな女の子が震えてうずくまっていた。
その女の子は今にも泣きだしそうな顔で、セネリを見上げていた。
8,
――世界が、再び暗転した。
深い。どこまでも深い。
底の見えない暗闇。
光は一筋も差さず、音もない。
ただ、自分の鼓動の音だけが、遠くで響いているように思えた。
「セネリ。
きみは、いつまで逃げるの?」
静寂を割って、声が響いた。
母の声ではない。
あの、冷たくも滑らかな声。
――道化師の声。
ルイの口を通して語りかけてきた、あの声だった。
セネリは思わず後ずさる。
足が震え、呼吸が浅くなる。
けれど、背後に光がともった。
闇の中で、ぼんやりと形を取る。
学校の子どもたち。
幼い頃の、泣きながら母の影を追っていたあの日の自分。
幻影たちは、静かに立っていた。
どの顔も穏やかで、そしてその瞳の奥には空洞のような闇があった。
「セネリ、逃げるの?」
「セネリ、おいでよ」
「ほら、また隠した」
声が重なり、さざ波のように押し寄せる。
光の幻影たちが、一斉に手を伸ばす。
その手は白く、透けていて、しかし確かな温度を帯びていた。
頬を撫で、髪を掴み、服の裾を引く。
「嫌……やめて、来ないで!」
セネリは暗闇の中をもがいた。
掴まれた腕を振り払おうとしても、指先が霧のように溶けて、また別の手が伸びてくる。
息が詰まり、叫び声が空気に吸い込まれていく。
「どうして逃げるの?」
「見て。ちゃんと見て」
「きみの“中”にあるものを」
声が重なり、増えていく。
まるで、世界そのものが彼女を責めているようだった。
セネリは、耳を塞いだ。
目を閉じた。
なのに――そのすべてが、皮膚の内側から響いてくる。
――そのとき。
暗闇の奥で、何かがゆらりと動いた。
気配が、空気を震わせる。
そこにいたのは――ルイ。
穏やかな笑み。
いつもと変わらぬ、優しげな眼差し。
けれど、その背後に揺らめく黒は、まるで別の生き物のようだった。
ルイの輪郭に絡みつくように、何かが脈打ち、息づいている。
黒の中――仮面の男がいた。
輪郭もなく、ただ“存在”だけがそこにある。
その視線が、まっすぐセネリを貫いていた。
ルイの頬を、一筋の光が伝う。
涙のような――けれど、確かに“光”だった。
それは頬を離れ、床へ落ち、波紋のように闇を照らした。
セネリは息を止めた。
その光が、奇妙なほどに美しかった。
逃げなくては、と思ったのに、足が動かない。
光のひとつひとつが、心を掴み、縫い止めるように。
――可哀そうなセネリ。
その声は、頬を撫でる風のように優しかった。
けれど、耳の奥で残響が広がるほどに、冷たさが染み込んでいく。
「いっそすべてを投げ出して、逃げ出してしまえばいいのに」
それはルイの声であり、ルイではなかった。
ルイの姿を借りて、別の何かが囁いている。
「君はそれを、自分で許さないんだね」
セネリは、息をのんだ。
周囲にはもう、誰もいない。
先ほどまで彼女を責め立てていた幻影たちは消え失せ、
世界には彼女と、彼――そのふたりだけ。
「君は、自分の存在を否定しているんだろう」
声が、胸の奥へ沈むように響いた。
まるで心臓の鼓動を掴まれているかのように。
セネリの指先が、小刻みに震えた。
ルイが、ゆっくりと歩み寄る。
足音はない。
闇そのものが形を取り、こちらへ迫ってくるようだった。
セネリは後ずさろうとするが、体が動かない。
腕も脚も、誰かに糸で縫い止められたように固まっていた。
「わたしのところにおいで」
ルイの声が、別の何者かの声へと変わっていく。
滑らかで、甘く、ぞっとするほど柔らかい声。
「酷いあの母親の代わりになってあげよう。……めいっぱい可愛がってあげる」
距離が詰まる。
その顔は、見慣れているはずのルイのもの。
けれど、もう“彼”ではなかった。
その笑みの奥には、底のない虚無が覗いている。
目の前に立ったルイが、腕を広げる。
そして――抱きしめた。
柔らかい。
けれど、温かさの底に、鉄のような冷たさがあった。
その冷たさが、ゆっくりと肌を這い、心臓を締めつける。
逃げようとしても、闇が身体を絡め取る。
「君を、孤独から救ってあげる」
耳元で、囁きが滑る。
「だから――」
腕が離れる。
セネリの目の前に立っていたのは、もうルイではなかった。
仮面の男――道化師。
白い仮面が、光のない闇の中でほのかに輝く。
男はゆっくりと手を差し出した。
「さあ」
その声は、甘く、静かに心を溶かす。
セネリの胸が痛いほど波打った。
喉の奥で何かが叫ぶ。
――だめ。
――この手を取ってはいけない。
それでも、指先が震える。
吸い寄せられるように手が上がる。
あと少しで、触れてしまう。
だが――。
セネリは目を見開き、震える手を下ろした。
そして、仮面を真っすぐに睨みつける。
かすれた声で、それでもはっきりと言った。
「お願い……ここから、帰して」
静寂。
闇が、息を止める。
道化師はその場に立ち尽くし、微動だにしなかった。
そして、仮面の奥で――ゆっくりと口角を下げ、
歪んだ、悲しげな笑みを浮かべた。
突然、照明が弾けた。
閃光が闇を切り裂く。
赤、青、白、黒――無秩序な光が渦を巻き、世界そのものが点滅する。
セネリは息を呑んだ。
気づけば、再び舞台の上に立っていた。
照明の刺すような眩しさに思わず目を覆う。
光の向こう、観客席の闇が――動いた。
歓声が、再び響いた。
ひとつやふたつではない。
百、千、万もの声が重なり、波のように押し寄せてくる。
「ブラボー!」
「もっと!」
「まだ終わらない!」
観客席全体が沸騰する。
声が渦を巻き、劇場の天井を震わせる。
そして――彼らの顔が、溶けていった。
笑顔のまま、皮膚が剥がれ、白い仮面がその下から滲み出す。
瞳孔のない眼窩からは黒い涙が流れ、裂けた口が笑い声を漏らす。
誰もが“観客”であり、“傀儡”でもあった。
客席の中央、ルイがいた。
虚ろな目で涙を流し、拍手を送っている。
「なんて素晴らしい劇だろう、セネリ。――あとは君が、彼の手を取れば完璧なのに」
その言葉に、セネリの背筋が凍る。
劇場の空気は熱を帯び、狂気の熱狂が渦巻いていた。
セネリは怯え、後ずさる。
だが――その背後に、道化師がいた。
音もなく、いつの間にかそこに立っていた。
奇妙にも、彼は穏やかに微笑んでいるように思えた。
しかし、その笑みは冷たく、まるで意味を持たない。
仮面の奥で、唇がゆっくりと動く。
音はない。
けれど、観客たちは同時にその口の形を真似た。
「幕を、閉じるな」
声が重なった。
低く、ねっとりとした囁きが、劇場全体に染みわたる。
それは言葉ではなく、命令だった。
セネリの足元がぐにゃりと歪む。
舞台板が軋み、赤黒い染みがにじみ出す。
血のような、インクのような液体がじわじわと広がり――床一面を覆っていく。
そして、その中から“手”が生えた。
観客たちの手だ。
拍手の音とともに、何百という腕が床から突き出し、セネリに向かって蠢く。
掴もうとする。
抱きすくめようとする。
逃がさないように。
「いや……来ないで!」
セネリは走り出す。
だが、どれだけ走っても舞台の端には辿り着けない。
空間が伸びる。
舞台が果てしなく続く。
世界が、彼女を囲い込んでいく。
「セネリ……」
声がした。
振り返ると、ルイがいた。
だが、その瞳はもう彼女を見ていない。
糸に吊られた人形のように首が傾き、口が勝手に動く。
「セネリ、戻って」
「戻って、彼の手を取るんだ」
「そうやって、やっとこの幕は下りるのだから」
「……嫌!」
セネリは叫んだ。
「お願い、どうか許して、帰らせてください……!」
涙が頬を伝い、言葉が嗚咽に崩れる。
赤黒い染みの中から伸びた腕が、彼女の足を絡め取った。
膝、腰、胸――全身を締めつけ、舞台の中央へと引き戻していく。
「何を許すの? 誰も、何も怒っていないよ」
ルイの口が勝手に動く。
その声は道化師のものだった。
「ちがう……ちがうの……!」
セネリは掠れた声で泣き叫ぶ。
「お願い、お願いします……どうか、帰して……ここから帰して……!」
ルイの空虚な目が、ゆっくりと怒りに染まる。
その顔に、仮面の影が重なった。
ルイを通して、道化師が怒りに歪む。
「……かわいそうで、ばかな、セネリ」
赤黒い腕たちが一斉に動いた。
無数の手が、セネリの体を持ち上げる。
上へ、上へ――舞台の光の下へと押し上げていく。
観客たちの拍手が再び響いた。
狂気の歓声が、世界の終わりを告げるように響き渡った。
赤黒い手に絡み取られ、セネリの体は宙に吊り上げられた。抵抗も許されず、腕も脚も重く沈むように動かない。まるで見えない糸で操られる人形のように。
そして――頬に触れる、冷たい感触。
道化師が、すぐ目の前にいた。
仮面の下から漏れる息が肌を掠め、白い仮面は照明の光を浴びて赤く染まっていた。光が明滅するたび、彼の輪郭は滲み、現実の存在なのか幻なのかすら曖昧になる。
彼の体もまた、地に足をつけてはいなかった。空気の中をゆるやかに漂いながら、まるでセネリと同じ糸に吊られているかのように揺れていた。
「こちら側に来れば確かに救われるはずなのに――どうして君は拒絶する?」
声は唇からではなく、頭の奥に直接響いてきた。柔らかく、しかし否応なく心の奥を掴むように。
セネリはその声を拒むように首を振る。
涙に濡れた睫毛が震え、掠れた息の中で言葉を絞り出した。
「……助けてほしいなんて、言ってない」
一瞬、空気が止まった。
照明がぱちりと瞬き、舞台の闇が道化師の赤い影を長く引き伸ばす。
仮面の奥の何かが、ほんのわずかに揺れたように見えた。
その揺らぎは、怒りにも悲しみにも似ていた。
セネリはなけなしの勇気をふりしぼって、男を見据え、声を出した。
「……私は――帰る」
その言葉が空気を震わせた瞬間、
劇場全体に、ぱりん――と鋭い音が響いた。
仮面が砕ける音だった。
道化師の顔にひびが走り、白い仮面がぱらぱらと剥がれ落ちていく。
砕けた隙間から覗くのは、男の青い瞳。
冷たい光が宿り、けれどそこには確かな執着が渦巻いていた。
――離さない、と言いたげな目だった。
その視線がセネリを貫いた途端、劇場全体が呻き始める。
床が脈打ち、壁が軋み、天井から吊るされたシャンデリアが狂ったように揺れた。
観客たちの幻影が悲鳴を上げる。
顔が崩れ、仮面が剥がれ、声が混ざり合って溶けていく。
華やかだった舞台は、血とインクの混じる泥のように溶解し、
すべてが重力に引きずられるように暗闇の底へと崩れ落ちていった。
セネリの体もまた、宙を掴めずに落ちていく。
息が詰まる。
世界が裏返るように崩壊し、彼女は反射的に手を伸ばした。
――ルイ。
視界の向こうに、落ちていくその姿があった。
虚ろな顔で、目を閉じ、糸が切れた人形のように沈んでいく。
「ルイ……! ルイ!」
セネリは叫びながら手を伸ばす。
闇の流れの中で、もう少しで届く――指先が、あとわずかに触れる――
しかし、届かない。
指先の距離が、永遠のように開いた。
闇が、二人の間を呑み込んでいく。
セネリの意識もまた、光を失っていった。
そのとき――
上から、静かな声が降りてきた。
それはルイのものではなかった。
柔らかく、冷たい、まるで風のような声。
「まだ幕は下りない……君が、生きている限り」
闇がすべてを呑み込んだ。
何も見えない。何も聞こえない。
ただ――遠くで誰かが拍手をしているような音が、微かに響いた。
そして、光が差した。
まぶしいほどの白い光が、ゆっくりとセネリの視界を満たしていった。




