第6章
第六章
………。
………。
正太郎は薄暗い部屋の中で目を覚ました。しかし、今いる場所、時間、ここに至る経緯など、分かることが何もなかった。周囲を観察すると、カーテン越しに見える窓の外は明るく、部屋には空きが全くない本棚やお面・首飾りなど謎の品々が置かれていた。
「ん…。」
正太郎はベッドからゆっくり身を起こした。体は少しだるいが、痛みといった異常は感じなかった。しかし、何かが抜け落ちたというか、ぽっかり穴が開いたような欠落感があった。
「…俺、何してたんだ?」
正太郎は抑揚のない声でぽつりと呟いた。目はしっかり覚めているが、思考や記憶はまだまとまっていなかった。しばらく部屋を見た後、まずは寝る前に自分が何をしていたのかを思い出そうとした。
「…学校、にいたような、いなかったような…。」
がちゃ。
「!」
正太郎が記憶を辿ろうとしていると、不意にドアが開いた。驚いて正太郎がドアを見ると、そこには私服姿の美琴が立っていた。
「連君!良かった、起きたのね。」
美琴も正太郎を見て驚いたらしく、大きな声を上げて正太郎に近寄った。明らかにほっとしているので、どうやら心配をかけていたようだ。
「心配かけたようで、すいません。」
「いやまあ、無事なら何でもいいわ。特に体に異常は感じない?」
「はい、特には。少しだるいくらいです。」
「うんうん。連れて帰ったけど本当は病院に行くべき?って不安だったから、ほんと良かったわ~。」
「…あの、部長。ところで俺、何をしたんですか?自分のことなのに申し訳ないんですけど、思い出せなくて…。」
正太郎はすまなさそうに美琴に聞いた。話している様子から、美琴が事情を知っていると分かったからだ。しかし、聞かれた美琴は急に深刻そうな顔になった。
「本当に思い出せないの?昨日誰と、何をしたか。」
「…はい。学校にいた、ような気はするんですけど。」
「昨日は文化祭だったのは分かる?」
「はい。それで確か、先生に色々言われて帰って。…え?なら学校にはほぼいなかったのか。すいません、勘違いしてるみたいです。」
「そう…。」
美琴はそれきり黙って考え込んでしまった。もしかして、かなりまずいことをしたのだろうか。あるいはシンがしてしまったのか。正太郎が心配になってきたその時、美琴が真剣な顔で言った。
「昨日の夜、連君は学校にいたの。そこで色々あったみたいだけど…。連君、その…、シンさんは今どうしてる?」
「シンですか?今は奥にいる…え?」
正太郎は美琴への返事を止め、不思議そうな声を出した。それだけ訳が分からない、理解できないことだったからだ。…今まで、取り憑いたことが分かってからずっと感じていたものが感じられなかった。シンの心、魂の気配が自分の奥から消えていた。
「あれ?ちょっと待って下さい。シンが何かしたかもしれません。あいつがどうしてるのかがよく分からなくて…。」
「分からないのはきっと仕方ないわ。…いい?よく聞いてね、連君。昨日あなたはノアちゃんに呼び出されて、儀式をされたの。悪魔祓いのような儀式をね。結果、シンさんは消えたかもしれない。私もノアちゃんも調べる方法を持ってないから確証はないけど、ね。」
「白木に呼び出されて、儀式で、シンが消えた…?」
正太郎は呆然とした様子で呟いた。ノアがそんな異常な行動をとったことも、悪魔であり精神生命体であるシンが消されたことも、聞いていきなり信じられるものではなかった。
「いや、そんな…。シンは簡単に死ぬような奴じゃ…。それに、白木に魔術や魔法なんて…。」
「『魔法使い』がノアちゃんに力を貸したの。メールから始まって、色々話をして、悪魔を消す方法と道具を受け取ってたわ。…それに、私と一緒に悪魔祓いについて調べてたから、知識も増えてたみたいね。私とは『最終的に決めるのは連君だし、悪魔祓いにはリスクもあるみたいだから慎重に』って話をしてたんだけど…。」
「…。」
正太郎は何も言えずただ黙っていた。美琴の説明はちゃんとしたもので、疑う余地はなかった。しかし、これだけ昨日のことを聞いても正太郎は何も思い出せなかった。正太郎の戸惑いを感じた美琴は更に付け加えた。
「連君は儀式が終わった時に気を失ったそうよ。私はノアちゃんの連絡を受けて学校に行ったけど、着いた時も連君は意識がないままだったわ。痛み刺激にも反応しないから病院に行くべきか迷ったけど、結局車で私の家まで運んで、私の部屋で寝てもらって、それで今に至るってわけ。記憶がないのは意識がなかったのと関係してるんでしょうね。あ、ご家族には根回し済みだから心配しないで。」
「…はい。」
正太郎は何とか美琴に答えつつ、再度シンがいないのか探ってみた。しかし、これまでシンがいたところには何もいなかった。何の痕跡もなく、ただ空白が広がるばかりだった。
(…ああ、これだったのか。)
起きてから感じていた欠落感。何かが抜け落ちた感じはシンがいなくなったから生じたものだった。正太郎は身に染みて感じていた。
正太郎はひとまず美琴に聞いた事実を飲み込んだ。その上で気になることがあった。
「…俺に何があったのか、結果的にシンが消えたことも分かりました。それで、白木は今どうしてるんですか?」
「家に帰らせたわ。大分取り乱してたから。…ノアちゃんが心配?」
「そりゃあ、はい。儀式をして変なことが起きてないか気になりますし、俺のせいでまた心配かけてると思うので。」
「…シンさんが消えた原因はノアちゃんだけど、怒ったり責めたりしないの?」
美琴はおずおずと正太郎に尋ねた。正太郎の目が覚めた今、美琴が一番気にしていることは正太郎とノアの関係だった。以前、正太郎はシンを相棒と言っていた。人生で最も信頼したかもしれないシンを消す・または殺されて正太郎がどう思うのか。あんなに仲が良かった二人の関係が壊れてしまうかもしれないと心配だった。
「白木は俺と『魔法使い』のせいで思い詰めただけです。いつも心配してくれるあいつに感謝はしても怒ることはないです。まあ、先に相談してくれたらとは思いますけど。」
「…そっか。」
美琴はほっと胸を撫で下ろした。正太郎は当然のことのように話していて、嘘は吐いていない。これなら、きっと大丈夫だと思った。
「なら連君、ノアちゃんに会いに行ってくれる?自分勝手に動いて連君とシンさんにひどいことをしたって落ち込んでたから。」
「分かりました。」
正太郎はベッドから下りて立ち上がった。体は本当になんともなく、問題ない。あるのは心の空白だけだ。
「…行ってきます。部長、お邪魔しました。」
「いってらっしゃい。ノアちゃんには私から連絡しておくから、心配せずに行ってきてね。」
「はい。」
正太郎ははっきりと頷き、美琴の家を出た。ノアと何を話すべきか、どうすれば元気にできるのかは分からない。しかし、それでもまずは会いに行こう。たとえ計画性がなくても友人に出来ることはあるはずだ。そんなことを考えつつ、一方でそんな勢いだけの自分を不思議かつ新鮮に感じる正太郎だった。
「…。」
「…。」
ここはノアの自宅、そしてノアの自室。正太郎とノアはお互い正座で向かい合っていた。部屋に入ってから五分ほど経ったが、お互いに黙ったままだ。正太郎は何を話せばいいのかと考えていて、ノアは暗い顔で下ばかり見ていた。…こういう時はどちらかが動かないといつまでも動かないのだが、今回先に動いたのは正太郎だった。
「ええと、さっきも聞いたけど、もう一度確認な。体は特に問題ないんだな?」
「…うん。」
「そうか。…良かった。お前が大丈夫ならとりあえずそれでいい。俺の方は大丈夫だから、気にしないようにな。」
「…。」
ここでノアは初めて顔を上げて正太郎の顔を見た。正太郎の顔は少し青白く見えるが殊更体調が悪いわけではなさそうだ。そして、正太郎は怒ったり嘆いたりせず落ち着いていて、それでいて今は目の前にいるノアを純粋に案じていた。願いという名の欲望に流されて暴走し、あげく結果を後悔する自分とは違う。ノアは正太郎の変化と自分の至らなさを痛感していた。
「…正太郎はすごいね。私のせいでシンさんが消えちゃったのに、そんな風にいられるなんて。」
「まだ現実感がないだけだ。それに、シンは最初から俺より自分が消えるべきだと思ってたからな。消えたことをずるずる引きずるとむしろあいつに文句を言われそうだ。」
「そう、なんだ…。でも、私は?私は正太郎の思いを無視して、自分の願いを押しつけたんだよ?」
「それを言うなら俺だってお前の心配を無視してきたと言えるだろ。俺にお前を責める資格はないし、責める気もない。むしろ心配かけて苦しめて、本当に悪かった。」
そう言って正太郎は深く頭を下げた。頭を下げられたノアはおろおろしながら腰を上げた。
「や、止めてよ、正太郎。正太郎は何も悪くないよ。私が弱くて、都合のいいものにすがっただけなんだから。…謝って済むことじゃないけど、本当に、ごめんなさい。正太郎と、もちろんシンさんにも、ごめんなさい。」
「いや、それは…。…いや、止めよう。ありがとう、白木。それだけ言ってくれればシンの奴も悪く思わないはずだ。」
「…うん。」
正太郎はありがとうと言う時、少しだけ笑った。ノアを元気づけるための笑いだったが、幸いノアもつられてほんの少し笑った。まだまだ固いところはあるが、すこしだけノアの心を緩めることができたようだった。
正太郎とノア、二人の間にあった重い空気が少し軽くなったところで、正太郎は次の話題に入ることにした。
「…ところで、なんだけどな。白木、『魔法使い』はどうやってお前に連絡してきたんだ?」
「え?そ、それは…。」
ノアはあからさまに躊躇う様子を見せた。話すこと自体は簡単だが、やはり心配なのは正太郎のことだった。自分が話したら正太郎がまた厄介事に巻き込まれるのではないか、と。
「教えてくれ、白木。『魔法使い』がどうしてお前に近づいたのか。お前の願いを叶えて何がしたかったのか。そもそもどうして他人の願いを叶えるのか。知ってることを何でもいい、話してほしいんだ。」
「…駄目だよ。正太郎、あの人に会うつもりなんでしょ?そんなの、危険すぎるよ。今度こそ死ぬかもしれないよ?」
ノアは泣きそうな顔で正太郎に言った。自分が偉そうなことを言う資格がないことは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。正太郎はそんなノアを見て申し訳ない思いになった。心配させたことを先程謝ったのに、更に心配をかけようとしているのだ。ノアが思い詰めてしまうのも当然かもしれない。しかし、それでも聞かないといけない。
「心配するのは分かる。でも、俺達のためにも大事なことなんだ。これまで『魔法使い』が関わった人達、延さん、真庭、そしてお前。それに、行方不明事件の犯人、それ以外もかもしれない。で、そのほとんどが『願いが叶って良かった』なんてとても言えない終わりだっただろ?」
正太郎は一生懸命に説明した。『一生懸命』なんて、正太郎の人生では初の経験だった。これまで正太郎は淡々と行動するばかりで、意志はあっても熱意や激情はなかった。しかし、今は自分のため、ノアと美琴のため、そしてシンのために本気だった。
「『魔法使い』は願いを叶えても幸せにはしない。結局、誰かを不幸にしてるだけだ。それを俺は無視したくない。何より、お前に近づいてきた以上、また何かするかもしれない。…『魔法使い』を許せない思いが俺にあるのは確かだ。でも、それ以上にお前を含めた俺の周りにいてくれる人達を守りたい。だから白木、頼む。『魔法使い』について俺に教えてくれ。」
正太郎は言い終わると深く頭を下げた。ずっと自分と共にいてくれた人、そして自分の相棒ともいえる存在を消してしまった人。そんなノアに見せられる誠意は頭を下げること、これだけだった。それくらいしか正太郎にはできなかった。
「…。」
ノアは正太郎の懸命な話を聞いて俯いた。正太郎がこんなに前のめりに、しかも長く話をしたことは今までになかった。即ち、正太郎が変化した印であり、シンがいた証拠でもあった。そして、正太郎が本気でノアに分かって欲しいと思っている証拠だった。そんな正太郎の思いを聞いて無視することはノアにはできなかった。
「分かった。そんなに考えてるなら説明する。…でも、お願い。無茶はしないでね。」
ノアは小さく頷いて、悲しそうに正太郎を見た。正太郎には危険なことはせず穏やかに生きて欲しい、それが本音だ。けれど、既に一度暴走した身の自分がこれ以上意見してはいけないと思った。だから気持ちを押し殺して正太郎の希望通りにすることにした。
「ああ、約束する。…ありがとう、白木。」
正太郎はもう一度ノアに頭を下げた。今ここで話を聞くこともノアに一見他人行儀にも見える態度をとることも、ノアを悲しませる好意であり謝りたかった。それでも、理由は自分でも分からないが、曖昧な態度を取るのではなく、一旦きちんと線引きをした方がいいと思った。正太郎が思い出せなくても、ノアの告白を断ったという経験がそうさせるのだろう。
結局、そうして正太郎はノアから『魔法使い』とのいきさつを聞くのだった。
ノアから聞いたことは次の通りだった。
まず、『魔法使い』はまずノアに迷惑メールと同じようにメールで連絡を取ってきた。普通なら開かないだろうメールだが、不思議と気になったノアは中身を確認してしまった。恐らく正太郎のことで動揺していたからだろうが、ただの電子メールにも何かしら魔術的なものが作用していたのかもしれない。とにかくメールを見たノアだったが、更に不思議なことに相手の文章に惹かれ返信したそうだ。正太郎も相手のメールを見せてもらったが、確かに不思議と考えさせられる文章だった。『魔法使い』は相手を惹きつけるものがあるようだ。
そうして『魔法使い』と連絡を取るようになったノアだが、オカルト研究会部員として聞くことは聞いていた。例えば、どうやって自分のことを知ったのか、だ。これには『私は人々の願いを感じ取ることができる。強い願い、希少性の高い願いを持つ人を探し接触している』と回答があった。更にノアはどうやって願いを叶えるのかも聞いていて、それには道具なり力なりを授けている、と答えがあった。
しかし、答えの意味が分からない時もあった。ノアがなぜ力を貸してくれるのかと尋ねると、『魔法使い』は『そう定めたからです』とだけ答えていた。自分に願いを叶える力があるからしているという意味なのか、だとすると定めたとはどういう意味なのか。このように、明確に答えつつも意図がはっきりしない発言がいくつか『魔法使い』にはあった。
まとめると、魔法使いは確認した限りにおいて質問にはきちんと答えていた。ノアの悩みに対する反応も独特ではあったが取り立てて異常性は感じられず、人間の自由意志に価値を見出している点が印象的なだけの存在だ。恐らく、『魔法使い』は悪人ではなく、善悪を気にしていないのだろう。また、心の自由を重要視したシンと共通する部分があり、『魔法使い』も悪魔と何か関係があるのかもしれない。
結局、ノアから得た情報から『魔法使い』は予想通り人々の願いを聞いて願いが叶う方法を与えていること、少なくとも会話が成立する相手であることが分かった。しかし、『魔法使い』が願いを叶える目的、そして叶えた相手の結末をどう思っているのかは分からず、これ以上はやはり実際に話してみる必要があるのだろう。
「…で、これが連絡先か…。」
正太郎はスマホの画面を見ながら呟いた。
ノアとの話も終わり、何事もない風に家に帰ると夕食を取り、風呂に入り、今はベッドの上で休んでいた。確認したが、『魔法使い』のメールアドレスは全く規則性のない文字列で、@の先もごちゃごちゃだ。アドレスとして成立しているとは思えないが、ノアが連絡できた以上は正しいのだろう。何と言って連絡するかは明日オカルト研究会で話し合う予定だ。その後は分からない。まさに出たとこ勝負だった。
正太郎はスマホをベッドに放り目を閉じた。…自分の中身を確認する。痛みはないが、全身に疲労感がある。今日は大したことはしていないが、昨日からの一連の出来事で疲れているようだ。早く寝た方がいいだろう。
「部長と白木のお陰で助かったな…。」
ノアと美琴が根回ししていたので、両親は昨日正太郎がノアの家に泊まったと認識していた。説明が不要になったので、その分しっかり休んでおかなければならない。何しろ、明日からどうなるのか、全く予想できないのだ。しかし、眠気はなかなか訪れなかった。
「シンが消えて、そして『魔法使い』と直接対決、か…。」
正太郎は目を閉じたまま呟いた。己の内部にはまだぽっかりと穴が開いていて、埋まる様子はなかった。元は違う存在であるシンが消えて穴ができるということは、それだけシンがこちらに侵食していたということだろうか。それとも、知らぬ間にシンへの依存を深めていたのだろうか。いずれにせよ、自分がもっと強ければ問題ない話なのだろう。
「…。」
正太郎は苛立った様子で目を開け、起き上がった。ベッド横の机の前まで行き、ボールペンを一本拾い上げた。左手でペンを握り軽く力を込めると、ペンは茹でる前のパスタのように簡単に折れた。そして次の瞬間、ペンはふっと消えた。一連の経過を見ていた正太郎は無言のまま左手を開いたり閉じたりした。
やはり力は使える。ノアと美琴には言わなかったが、正太郎は目が覚めてすぐ、自身の中にシンがいないと分かった際、自分がまだ力を使えると直感で理解していた。今実証したが、やはり今まで通り使うことができた。シンがいなくても使えるものなのか、いずれ使えなくなるのか、それは分からない。なぜノア達に力のことを言わなかったのかも、自分でよく分からない。しかし、これはきっと自分に与えられた最後の機会なのだろう。シンが消え、日常となった異常が再び異常となり、穏やかな日常が戻ってくる。その前に自分に何ができるのか、何をするのか。生きる意味が分かるかどうか、生きる価値があるのかどうかを試されている。だから、願いを捨てることも戦いから逃げることもしない、してはならない。
「俺一人でも。…見てろよ、シン。」
正太郎がそう言うと、その手にはばらばらになったボールペンの残骸があった。正太郎はその残骸を静かに机に置き、再びベッドに倒れ込んだ。
翌日の放課後、オカルト研究会は全員で部室に集まり、『魔法使い』にどんなメールを出すか相談した。どうせ会って話をするのだから、まずは簡潔に連絡するということになった。結果、『あなたが願いを叶えただろう人間の何人かに会いました。そんな経験を通して、あなたに会って話をしたいのですが、いかがでしょうか。よろしくお願いします。悪魔憑きの人間より』と正太郎がメールをした。そのまま全員で返信を待ったが、さすがに放課後の間に返信はなく、今日はやむなく帰宅することになった。
「もし連絡があったら教えるようにね。勝手に返信しないこと。いい?」
「分かってます。ちゃんと連絡します。」
「あの、私にもしてくれる?」
「当たり前だ。部長に言ってお前に言わないなんてするわけないだろ。」
「えー?それはそれでなんか嫌なんだけど。逆に私には言わなくてもいいってこと?」
「いやいやいや、そんなこと言ってないですから。」
「あはは…。」
帰り道、三人は珍しく一緒に下校していた。美琴が正太郎とノアを心配したからだが、正太郎にはありがたかった。日中も放課後も、ノアはまだ正太郎にぎこちない態度だった。シンを消した罪悪感はすぐに消えないので仕方ない反応なのだろうが、正太郎としてはノアの態度はどうしても重苦しく感じられた。そんな中、美琴の合いの手や冗談はノアの気を軽くしてくれる大変助かるものだった。ユーモアのセンスがない正太郎には感謝しかなかった。
それでも、いつまでも帰宅する道が同じにはならない。三人はちょうど全員が分かれる交差点に着いた。
「よし、じゃあここで解散ね。また明日。」
「はい。ミミ先輩、また明日です。」
「お疲れ様です。」
美琴はしっかりした足取りで帰っていった。相変わらず活力に満ちた後ろ姿だ。ノアと正太郎は何となく美琴の背中を見ていたが、美琴が見えなくなると自然の流れで互いの顔を見た。
「…俺達も帰るか。」
「うん。…正太郎?」
「ん?何だ?」
ノアは頷いた後、正太郎に声をかけた。理由はノア自身にも分からない。正太郎の横顔を見ているうちに思わず声が出ていた。そして、声をかけられた正太郎は不思議そうな顔でノアを見返した。その様子はあまりにもいつも通りであり、ノアは一瞬泣きそうになった。しかし、堪えた。堪えて正太郎に笑顔を見せた。
「…えっとね、正太郎が今ここにいてくれて嬉しいなあって。」
「何だそれ。いることに意味があるってことか?」
「それだと他に意味がないみたいに聞こえるからちょっと…。そうじゃなくて、当然だと思ってたことは当然じゃなくて、しかも大切なんだってこと。」
「…そうか。」
正太郎はノアに答えながら小さく頷いた。やはりノアは自分に特別な意味を見出しているらしい。自身が誰かに想ってもらえる存在とはとても思えないが、目の前のノアは目が潤んではいるものの嬉しそうに笑っていた。なら、それでいい。
「嬉しいなら別にいい。…ああ、でも何か言うことがあったんじゃないか?」
「え?…えっと、ごめん。特に何もない…。」
「そうなのか?白木にしては…、いや、お前はいつもそんな感じかもな。」
「えぇ?何かひどくない?」
正太郎は苦笑し、ノアはむくれながらも楽しそうだった。この穏やかな時間を意味あるものだったと思い出せる時がいつか来るだろうか。正太郎はふとそんなことを思った。
そうして少し雑談した後、ノアも帰宅の途についた。正太郎は見えなくなるまでノアの背中を見送っていたが、完全にノアが見えなくなると静かに目を閉じた。やはり、というか当然だがシンの存在は感じられなかった。…今は一人。さっきまで美琴やノアといたからか、正太郎は孤独を感じていた。これは以前には感じられなかったもので、シンが自分に取り憑き、またその後に起きたことが影響しているのだろう。孤独は不快ではなくただの違和感だが、孤独でない方が今の自分にはしっくりくる。つまり、シンやノア、美琴の存在はより意味あるものになったのだ。そう考えた正太郎は少し誇らしい気分になった。
「…さて、俺も帰るか。」
ぽん、ぽんぽん…。
正太郎が帰ろうとした時、何処かからボールが転がってきた。ボールは正太郎の足元で止まり、正太郎は何の気なくボールを拾おうと手を伸ばした。すると、ころころころ…と今度はボールが来た道を戻り始めた。
「え…?」
正太郎は一瞬ぽかんとしてボールを見たが、すぐに真剣な顔になりボールを追いかけ始めた。予感があった。ボールは自分を呼んでいるのだと。
ころころころ…。
ボールはあり得ない軌道を描きながら転がり続け、小さな公園に入っていった。そして一本だけ立っていた木の下で止まった。正太郎が無言のままゆっくりとボールに近づくと、木の陰から何かがぬっと出てきた。
「!」
出てきたのは人、しかも少女だった。今の今まで誰かがいると全く分からなかった。驚く正太郎を余所に少女はボールを拾い上げるとボールに笑いかけた。
「案内ありがとう。」
少女がボールをそっと撫でると、ボールは空気に溶けるように消えていった。少女はしばらく空になった両手を見ていたが、正太郎達へゆっくりと向き直り、無言で頭を下げた。
正太郎は改めて正面から少女を見た。少女は腰まで伸びた黒髪と少し青白いが綺麗な肌を持ち、古びた地味な色の洋服を着た、落ち着いた雰囲気の女性だった。年齢は10歳過ぎ、小学生くらいに見えた。しかし、その雰囲気は小学生というには落ち着きすぎていて、穏やかな微笑も作り物のような印象だった。
「…お前、誰だ?」
正太郎は固い声で少女に話しかけた。少女が普通ではないことは明らかだった。現に少女は正太郎の睨むような視線にも全く動じなかった。
「私は願いを叶える者です。あなたの願いに応えて会いに来ました。」
「じゃあ、お前が…。」
正太郎は『魔法使い』という言葉を飲み込んだ。言葉はどうでもいい。逃げるべきか、個のままか、それとも攻撃か。あるいは美琴とノアに連絡するか。いきなりの遭遇で何をするべきか決められず混乱していた。しかし、正太郎が無意識に身構えても少女は穏やかに話を続けた。
「警戒する必要はありません。私はあなたが望んだから来ただけです。望まないことはしませんよ。」
「…なら、聞くぞ。他人の願いを叶えて回ってるのはお前なのか?」
「はい。少なくともあなたが見てきた方々の願いは私が叶えました。」
少女はあっさりと頷いた。隠す気も誇る気もない、当然のこととして答えていた。ただ、正太郎には少女の態度は逆に少女の力を証明しているように感じられた。
「どうして『願いを叶える』ことができるんだ?俺みたいに悪魔に取り憑かれているのか?」
正太郎は次の質問をした。願いが叶う理由・原因が少女にあるのか、それとも少女の後ろにいる誰かなのか。これは『魔法使い』を止めたい正太郎にとっては非常に重要な問いだった。しかし、少女の対応は先の質問の時と違っていた。
「…そうですね。願いを叶えることに関する全ては私一人がしていることです。それ以上はあまり話したくないので言いませんが。」
少女はそっと目を伏せて質問に答えた。質問が不快だったのではなく、何か思うところがあるようだった。正太郎にとっては今の答えで十分であり、それ以上深掘りする必要はなかった。二つ目の質問はこれで終わりだった。
では次の、そして最後の質問だ。
「今の答えで十分だ。じゃあ最後に、どうしてあんなやり方で願いを叶えるんだ?」
「あんな、とは?」
少女は不思議そうに小首を傾げた。容姿の美しさと動きのぎこちなさから、まるで人形のようだ。
「俺はお前が願いを叶えた人達を見てきた。あの人達は願いが叶ったことで他人を不幸にして、悲惨な最後を迎えた。願いを叶えた側として責任を感じないのか?」
「責任とは何ですか?私は願いが叶う力を与えただけ。その力で何をするかは本人次第ですよ。」
少女は穏やかな笑みを浮かべたままだ。…少女は自分が悪いと思っていない、思えないらしい。この時点で話は終わりだったが、それでも正太郎は言わずにはいられなかった。
「お前が人を異常の側に引き込むせいで大勢が苦しんだんだぞ。なのに責任がないって言うのか?」
「あなたが言う責任は悪として裁きを受けろということでしょう?なら私に責任はありません。包丁を売った人間に殺人の責任はありませんから。」
「き…。」
「それに、そもそも善悪とは何でしょうか。暴力や殺人が時に悪とみなされないように、善悪は時間と人の心によって変わります。そして、永い間人をみてきた私は願いに善悪を、優劣をつけません。全て同じ価値であり、叶う可能性があります。私がみるのは願いの強さ、願いにかける魂の強さだけですよ。」
「…。」
正太郎は複雑な表情で少女を見ていた。根本的なところから思考が違うため、少女と正太郎は分かり合いようがなかった。しかし、正太郎には少女の理屈だけはよく分かった。恐らく、以前の自分なら少女と似たように思っただろう。善悪を判断することすら自由意志とするなら、確かに少女の言葉は一理ある。願いに優劣をつけることも一概に良いとは言い難いことだ。
(…けれど。)
しかし、やはり違うと思う。誰かを苦しめて、自由を奪っていいはずがない。楽しくなくても、幸せでなくても、それらは不幸ではない。けれど、動けないことはきっと苦痛だ。心でも体でも動けなければ苦痛を感じ、動かなければ意味も生まれない。やはり動こうとする心、そして心と共に動く体は何者にも害されてはならない。
「…よく分かった。やっぱり理解し合うのは無理みたいだな。
正太郎は決別の意志を込めて少女を見た。その瞬間、少女は正太郎にとって『敵』となった。しかし、それでも少女は何も変わらなかった。
「そうですか、残念です。では、今ここで私を殺しますか?自分の役目を終えるつもりはないので、抵抗はさせて頂きますが。」
少女は敵意を見せる正太郎に穏やかに、淡々と言った。そこには敵意も殺気もなく、人間らしさが抜け落ちた落ち着きだけがあった。
一方、正太郎は殺すかと聞かれた瞬間どきりとしていた。正太郎は少女を悪だと考えているが、それは正太郎の考えであって万人に共通した考えではない。さらに、悪なら消していい、殺していいとするのは極めて短絡的で、安易な選択は文化祭で正太郎が暴力に流された時と同じ過ちを繰り返すことになる。とはいえ、少女を消すという選択肢をとる可能性は十分あり得ることで、考えた結果として正太郎は少女を消す覚悟を持って敵意を向けていた。しかし、覚悟はあっても胸を張れるわけではない。だからこそ、正太郎は少女に面と向かって殺すのかと聞かれどきりとしてしまった。そんな心のまま、正太郎は努めて落ち着いた口調で言った。
「…いや、今はいい。俺を心配してくれる人達に何も言ってないからな。」
「そうですか。なら、殺す気になったら呼んで下さい。命を差し出しはしませんが、できる限りのことはしましょう。」
少女は微笑むと正太郎に無防備な背中を見せ、そのまま木の陰に入った。正太郎が回り込んだ時、そこには既に誰もいなかった。まるで夢だったかのように少女は何の痕跡も残さず消えていた。
(…けれど、夢なんかじゃない。あれが『魔法使い』…。)
正太郎は自分しかいない木の下で虚空を睨み続けていた。
正太郎が『魔法使い』と会った翌日、正太郎は昨日帰宅時に起きたことを美琴・ノアに説明した。基本的に全て説明したが、最後に話した殺すのか云々のくだりだけは省いた。心配をかけることは明らかなので、自分が戦う気持ちを固めた時に話すつもりだった。
正太郎から一通り話を聞いた後、美琴が腕を組みながら唸るような声を出した。
「うーん…。結局、その女の子がここ最近の事件の元になった『魔法使い』なのは確定。どうやって願いを叶えてるのかは不明。ただ他に共犯はいない。自分のやり方に疑問を持ってないから、今後も何かしらの事件が起きる可能性は高い、と。こういうこと?」
「はい。それと、願いを叶えないよう説得するのは無理だと思いました。」
「…願いを叶えることを大切にしてるから?」
ノアは少し遠慮がちに聞いた。願いを叶えてもらった側なので居心地が悪いものの、正太郎のためにちゃんと話をしようと決めていた。正太郎もそんなノアの雰囲気を感じ取り、真面目な顔で考え、答えた。
「いや。大事とか好きとか、そんな人間らしい感じじゃなかった。…もっと機械のような、自分の役割を忠実にこなす、が近いと思う。」
「ふーん。存在意義ってところかしら。それはそれで人間っぽいけど…。それにしても連君。相手の名前は?」
「え?」
美琴に聞かれた正太郎はぽかんとしてしまった。思いもよらない質問だった。美琴はそんな正太郎を見て渋い顔をした。
「名前よ、名前?聞かなかったの?」
「あ…。すいません、聞いても意味ないかと思って聞きませんでした。」
正太郎の言葉にノアは目を丸くして、美琴はため息を吐いた。正太郎らしいといえばその通りなのだが、それはそれで問題だった。
「連君、名前は大事よ。名前から個人を調べたり、出身とかを予想したりできるわ。魔法の世界でも名前には力があるしね。」
「そうだよ、正太郎。正太郎は自分が『正太郎』でなくても大丈夫なんだろうけど、名前は人が初めてもらう財産なんだから。その人にとって大きな意味があるかもしれないよ。」
正太郎は二人の言葉を聞いて確かに、と思った。現実的にも精神的にも名前は重要になり得る。何より、自分の考えを相手に押しつけて考えてはいけなかった。
「…その通りだな。相手も俺と同じなわけないよな。名前、聞けばよかった。悪い。」
「いいわよ。怒ってるんじゃないし、あっちも名前なんてってタイプかもしれないもの。…よし。じゃあ話を戻すけど、私達がその子に出来ることは3つよ。一つ、放置。二つ、話をして願いの叶え方を考えてもらう。三つ、願いが叶えられないようにする。このどれにするかを決めないと。」
美琴はいつも通りの様子でさくさくと話を進めたが、ノアと正太郎はしばらく何も言わなかった。しかし、まずノアは小さく手を上げた。
「…あの、最後のは私達には無理じゃないですか?もう…。」
「私達にはね。でも連君は違うかもよ?」
「え?」
ノアは美琴の言葉が理解できずに正太郎の方を向いた。シンがいなくなった正太郎に何ができるというのか、全く分からなかった。
「…。」
「連君。もしかしてなんだけど、シンさんがいなくても力が使えるとか、ない?」
「!」
ノアが驚いている隣で正太郎は気まずそうに目を逸らした。
「…どうしてそう思うんですか?」
「力がまだ使えるから『魔法使い』に会いたいんじゃないかと思ってね。で、『魔法使い』が連君だけに会ったから確信したの。ま、全部勘だけど。」
「…。」
「正太郎。本当にまだ、使えるの?」
ノアは深刻な顔で正太郎に尋ねた。正太郎が力について言わなかったことはショックだが、それ以上に正太郎がまだ『異常』な側にいることがショックだった。正太郎は逸らしていた目をノアに向け、ノアと目を合わせた。
「…信じられないと思うけど、近々話すつもりだった。悪い。」
「…。」
「まあそうよね。話さないまま相談はできないもの。信じていいと思うわよ、ノアちゃん。」
「…はい…。」
美琴のフォローもあり、ノアはまだ暗い顔だったが頷いた。ノア自身、力のことは敢えて聞くことを避けていたので、正太郎も余計言い辛かっただろう。それに今は話を進めなければならない。美琴はノアの頷きに応え話を続けた。
「うん。じゃあ聞くけど、連君的にはやっぱり三つ目の案がいいと思う?」
二人の視線が正太郎に集まる中、正太郎は目を逸らすことなく答えた。
「…俺が話した限りでは二つ目の話し合いは難しいと感じました。でも、あくまで俺の意見なので、一度は二人も話した方がいいと思います。…その、消すのはいつでもできますから。」
「そうね。確かに…。」
「だ、駄目だよ、正太郎…!」
ノアが美琴の言葉を遮って声を上げた。その悲痛な声に美琴も正太郎もノアを見た。
「あの人は確かに色んな事件の原因なんだろうけど、直接誰かにひどいことをしたんじゃないんだよ?なのに力を使ったら、それは正当防衛じゃない。シンさんが真庭って人を狙ったのと同じで、自分だけの理由で人を傷つけることになる。正太郎はそんな風になったら駄目だよ。」
「白木…。」
正太郎は申し訳ないような、困ったような、何とも言えない顔でノアを見た。ノアの言うことは正しい。あの少女は他人の願いを叶えただけで、願いを叶えた後のことには関わっていない。正太郎が彼女を消すことは『正当な』理由のない行為なのだろう。…だが、正太郎にも彼女を止める理由はある。シンと同じではない、正太郎の理由が。そして、理由があるからこそ、見境なく暴れることも、『異常』なまま戻ってこれなくなることもないだろう。ただ、その理由を言うことに躊躇いがあった。説明には正太郎の思いを全て話す必要があるが、ノア達に受け入れてもらえるかは限らない。それに、自分だけが知っているべき理由だと思った。
「…なら、まずは私とノアちゃんもその子と話をしてみましょうか。それでもどうにもならない、あるいは会話を拒否された時に改めて結論を出す。これでどう?」
正太郎が反論できないと思ったのか、美琴が助け船を出すように二人に提案した。『魔法使い』が好戦的ではないと分かった上での提案であり、正太郎にもノアにも否定する理由はなかった。特にノアは正太郎と言い合いをしたくなかったので何度も頷いた。
「は、はい。それでいいと思います!」
「俺もいいです。話して済むならそれでいいと思います。」
「うん。ならもう一度連絡してみましょうか。今度は『私達三人同時に話をしたい』ってね。」
「はい!」「はい。」
ノアも正太郎も頷いたが、正太郎は心配だった。あの少女は正太郎一人に会いに来た。そこに理由があるとしたら。穏便に済んだ昨日が幸運だっただけだったら…。漠然とした不安と予感を抱えながら、正太郎は話し合いの輪に入るのだった。
正太郎達が全員で話をさせてほしいと提案すると、『魔法使い』は連絡して15分後には返事をしてきた。その内容としては、『話をするのは構わないが、日時と場所は決めさせてほしい』とのことで、正太郎達はその要求を呑むことにした。交渉するなら相手に譲歩することも大切だ、とは美琴の談だが、結局日曜日の夕方5時に正太郎達の学校、その屋上。そこが『魔法使い』と対峙する場所となった。
『魔法使い』と会う当日、もうすぐ17時になる頃だった。正太郎、美琴、ノアは屋上に出られるドアの前に集まっていた。
「さーて、いよいよだけど…。開けたらもういると思う?」
「…分かりません。普通は魂の気配で分かるんですけど、相手の方が上手みたいです。」
「鬼が出るか蛇が出るか、ってことね。…よし、行くわよ。いい?ノアちゃん、連君。」
「は、はい!」
「はい。」
美琴は二人の頷きに頷き返し、ゆっくりとドアを開いた。
ドアの向こうは何の変哲もない屋上だった。空は夕焼け色に染まっていて綺麗だが、それだけだ。屋上には正太郎達以外誰もいなかった。
「誰もいないね…。」
「そうだな。まだ5時じゃないからかもしれないけどな…。」
「そうね。それにしても…。」
美琴は頷きながら落下防止のフェンスに近づき、学校から見た外の風景を見た。
「今まで知らなかったけど、屋上って中々いいわね。景色は綺麗だし、隔絶された秘境感も味わえるし。」
「そうかもしれませんね。綺麗だけどちょっと寂しい感じ…。」
「…。」
正太郎は美琴とノアの言葉を聞きながら景色を眺めた。グラウンドには数人の生徒が片づけをしていて、学校の外では人々や車が音もなく動き、雲は燃えるような色でこちらを見守っていた。そして、視線を戻すとそこには自分を見ている友人が二人。
(…綺麗だ。)
個々の要素も全てが合わさった景色も、どちらも美しいと思った。この風景に意味はなく、ただ日常の一コマに過ぎない。美琴もノアも、正太郎自身も、今この瞬間消えたところで全体に大きな影響はなく、世界は何も変わらない。…しかし。それでも、美しいと思った。何の意味もないこの一瞬が自分の心に刻み込まれればいいとすら思った。
「…美しい色ですね。空も、町も、あなた達も。」
「!」「…。」「…!」
三人は声がした方へ一斉に顔を向けた。少女はついさっき三人が出てきた塔屋の上に座り、穏やかな顔で三人を見下ろしていた。
魔法使いの少女は羽のようにふわりと塔屋から下りてきた。音もなく着地すると正面から正太郎達と向かい合った。
「また会いましたね。そして、ノアさんと美琴さんですね。初めまして。」
「ど、どうも…。」
「初めまして。あなたが『魔法使い』?」
緊張するノアとは対照的に、美琴は堂々とした態度で少女に向かった。『本物』相手に気後れする面はあったが、それでも自分はオカルト研究会の部長で、三人の中では一番口が立つ。何より、正太郎が悪魔に取り憑かれたのは自分が行った儀式のせいだ。最初こそ正太郎を羨ましく思ったが、今は正太郎達への申し訳なさと彼等を守るという決意に変わっていた。そして、そんな思いが美琴を動かしていた。
「はい。」
「まず、願いを聞いてくれてありがとう。昨日送った通り、今日は話を聞かせてほしいんだけど、大丈夫?」
「はい。そのためにここを指定しました。それで、質問は何ですか?可能な限り質問に答えますよ。」
「…じゃあ、まずは名前を教えてくれない?そっちは私達の名前を知ってるのにフェアじゃないわ。」
少女はそこで不思議そうな顔をして小首を傾げた。正太郎が言ったように、どこかぎこちない動きだった。
「名前と言われても、すみませんが教えられません。私には名がありませんから。」
「名前が、ない?本当に?」
「はい。人として生きる意味がないので。」
少女はごく普通のことを話すかのように答えた。正太郎の言った通り、名前という皮に興味がないようだ。美琴は気を取り直すように少し頭を振ると、再度少女を見た。
「分かったわ。名前のことはこれで終わり。じゃあ、早速本題に入るわ。願いを叶えて回ってるようだけど、それをしないってわけにはいかないの?」
「それはできません。願いを叶えることは私にとって生きることそのものです。止める時は私が死ぬ時です。」
「…。」
少女は口調こそ穏やかだったがきっぱりと断言した。絶対に譲れない点なのだろう。しかし、美琴はこれでいいと思った。交渉とは相手の妥協点を探ることであり、譲れない点を知ることも重要だ。
「…分かったわ。じゃあ次ね。連君も聞いたそうだけど、願いの叶え方をもう少し工夫できないの?今までの願いの叶え方じゃあ誰かが苦しむ結果になってるから、全体として幸福になってないわ。それはもったいなくない?」
「…そうですね。私は今のままでも問題ありませんが、あなた達が言う願いを人々が望むなら、それもいいと思います。」
美琴は少女の言葉を聞き何度か頷いた。まず少女は席についてくれた。そして、ここからが交渉の始まりだ。
「それに、あなたなら願いに対して複数の答えを出せるんじゃない?例えば、お金が欲しい相手に強盗する力を与えることもできれば、宝くじに当たる運を与えることもできるでしょ?きっと。」
「はい。今の例えならどちらも可能です。」
「ね?今まであなたは願いを叶える時、相手の言う通りそのままに願いを叶えてたと思うけど、願いの内容をあなたが相手と相談してもいいと思うの。」
「しかし、それでは私が願いを誘導することになるのでは?」
質問された美琴は目線を少女に向けたまま唾を飲み込んだ。この提案の弱点はここだ。ここで嘘や誤魔化しをすればたちまち交渉は決裂するだろう。美琴は落ち着いて見えるよう努めながら、少女に答えた。
「…それは正しいわ。例えば私達が相談を受けるとする。私達は誰かが傷つくことがないようにしたいから、相談が恣意的になるのは避けられないでしょうね。」
「なら…。」
「でも、誰かの影響を受けてない願いなんてある?願いっていうのは基本、人が誰かと生きた結果生まれるもので、自分独りじゃ願うことさえも難しいわ。そう考えると、私達が恣意的だっていうのはおかしいと思うの。だって、あらゆる人と願いは他人の影響を受けてるんだから。願いに対してより積極的かどうかの違いはあるけど、それでも数ある影響の一つに過ぎないわ。願いを意図的に歪めたとは言えないはずよ。」
美琴は慌てず急がずに話しきった。話としては特に問題ないはずだった。しかし、この年齢も力も不明の少女がどんな反応をするかは予測できなかった。好感触だったら何よりなのだが…。正太郎とノアも固唾を飲んで見守っていた。
少女は美琴が言い終えた後、しばらく顎に手を当てて静かに考えていた。一分ほど経ち、少女はゆっくりと口を開いた。
「…あなたの意見、いえ、あなた達の意見は分かりました。確かに一理あります。私が願いを叶える相手と願いについて話しても、あるいはあなた達が話しても、それほど問題はないのでしょうね。」
「え、ええ。そう思うわ。」
少女が美琴の意見をあっさり肯定したので、美琴は少し戸惑いながら答えた。だが、少女は美琴の戸惑いを気にすることなく続けた。
「私は願いを叶えるものですが、人の心を理解できてはいません。反面、あなた達は私よりも人を理解しているので、願いを持つ人々に上手く寄り添えるでしょうね。」
「…。」
美琴は何も言わず黙っていた。肯定も否定も相手の機嫌を損ねる可能性があった。この少女に機嫌などなさそうだが、無用なリスクを背負う必要はない。しかも、少女は願いを叶える人間に正太郎達が干渉する場合を考えていて、それは即ち少女の事業に正太郎達が関わることを検討しているという意味になる。なら、考えの邪魔をせず待ちが最善だった。
「…ところでノアさん?あなたに聞きたいのですが、願いを叶えて良かったですか?それとも悪かったですか?」
「えっ?えっと、あの…。」
少女はしばらく黙考していたが、何故かいきなりノアに話を振った。意表をつかれたノアは一瞬慌てた後、言葉を濁しつつ俯いた。ノアは『シンが消えること』を願ったわけだが、『良い』と答えれば自身の暴走を肯定してしまう。逆に、『悪い』と答えれば自分で願い行動したくせに自分を否定するのかとなる。それに、暴走したとはいえ自分の真剣な願いを否定したくなかった。また、そもそも正太郎がいる前で少女の質問に答えること自体、軽率で無神経ではないかと思った。結果、ノアは何も言えず俯くしかなかった。少女はそんなノアを黙って見つめていた。
「…白木、答えなくていいぞ。願いを叶えてもらったからって、答える義務はないんだからな。」
ここで正太郎が前に出て、ノアを少女の視線から隠した。言い淀むノアをかばったわけだが、事情を推測できるのに無神経な質問をする少女への怒りがあった。
「そういう質問をしないでくれ。白木が答えにくいだろ。」
「…?そういう、とはどういう意味ですか?」
「…?」
少女は不思議そうな顔で、正太郎は訝し気な顔でお互いの顔を見た。二人共冗談ではなく本気で言っていた。
「…もしかして、分からないのか?」
「はい。私の質問は何か問題があったのでしょうか?」
「…。…悪魔とはいえ一つの人格が消えたんだ。良い悪いなんてはっきり言えないだろ。」
「いえ、言えますよ。」
少女は正太郎の言葉をきっぱりと否定した。しかし、そのはっきりした声とは違い顔は落ち着いた微笑を浮かべていた。
「あなたのお陰でよく分かりました。ノアさんは今叶った願いに対して肯定する思い、否定する思い、両方持っているのですね。どちらともいえないのではなく、どちらでもあり、故にどちらかの側にも立てない、と。そういうことでしょう?」
「…。」「…。」
ノアと正太郎は何も言わなかった。沈黙を肯定と捉え、少女は続けた。
「やはり人間は複雑ですね。相反する答えを持ち合わせることができるなんて。私にはとてもできない思考です。」
「…お前も一応は人間だろ?」
「生物種としてはヒトですね。ただ、少女の姿のまま百年以上生きるモノを人間と呼ぶのかは疑問ですが。」
「ひゃ、百年…⁉」
美琴は少女の言葉に驚いて声を漏らした。少女はそんな美琴の方をゆっくりと向いた。落ち着いている一方で少女の顔は冷え切っていて、琴美だけでなく正太郎、ノアにもぞくりとするものがあった。正太郎は思わず身構えたが、少女が正太郎達を気にする様子はなかった。
「あなた達のおかげで確信が持てました。…私が叶えた願いは悪ではありません。あなた達がそう主張しているだけです。それも絶対ではなく、あなた達ですら善悪の境界を定義できていません。それでは導き出される結果に一貫性が持てないでしょう。」
ここまで聞いて、美琴は少女の発言に不穏なものを感じ、思わず話の途中で割って入った。
「ま、待って!それはおかしいわ。一貫性があり過ぎたら相談じゃなくて操作になる。それに、物事の多くは善悪できっちり分けることができないものよ。」
「だからこそ、です。善悪を言えないなら願いの結果がどうなろうと、例えば誰かが犠牲になったとしても問題ではないでしょう。せいぜい偶然や運命、悲劇。当事者の知らないところでそのように評価されるだけ。そんな環境では相談は無意味。むしろ願いの純粋さが濁るばかりです。」
「それを言うなら良い影響も起こり得るわ。それに…。」
「その『良い』すらも曖昧さの中に堕ちます。…あなた達の提案は新しいものでしたが、私には必要ありません。すみませんが、それ以上でもそれ以下でもありません。」
「…。」
交渉は決裂した。美琴は悔しそうに歯噛みすると同時に胸騒ぎを覚えていた。話は終わったが、これからどうなるのだろうか。穏便に帰ってくれるならそれが一番だが…。
少女と正太郎達は少しの間お互い何も言わずじっとしていた。正太郎達は少女の動向を窺っていたのだが、少女の方は何を考えているか分からない様子だった。しかし、先に動いたのは少女だった。一歩前に出て、招くように手を伸ばした。…正太郎に。
「美琴さんの話は終わり、ノアさんへの質問も済みました。次はあなたです。どうぞ。」
「俺…?何を言ってるんだ?」
正太郎は怪訝な顔をした。美琴とノアも首を傾げていた。正太郎達の聞きたいことは美琴が代表して聞いてくれた。そのため、正太郎にこれ以上話すことはないはずだ。しかし、少女は違う意見だった。
「あなた達の提案を私は拒絶しました。なら、私を止める手段は限られてくるでしょう。私を殺さないのですか?」
美琴もノアも、はっとして正太郎を見た。正太郎は何も言わずに少女を見据えていた。張り詰めた空気の中、正太郎は低い声で返事をした。
「…そういう選択を考えてないわけじゃない。でも、うまくいかなかったから即行動、なんて真似はしない。まだ話し合う余地が…。」
「いいえ、違います。あなたは分かっている。私と初めて会った時から分かっていたでしょう。会話で解決することはない。私を止めるには私を消すしかない、と。」
「…。」
「あなたの願いは私を消した先にあります。何も得ないまま終わるのですか?今日が私を消す最後の機会かもしれませんよ。」
「…。」
正太郎は無言、無表情だった。しかし、目だけは熾火のように静かに燃えていた。美琴とノアは息を呑んで正太郎を見守っていた。
正太郎の願いは一つ、『自分が生きる意味を知る』だ。生きる理由、生きていてよい理由、生きるよすが、自分をつなぎ止める楔。呼び方は何でも良いが、とにかく正太郎の願いは未だ叶わず、虚ろな自分を抱えている。
ところで『他人が』生きる意味についてだが、幸いにも彼等を知ることで少し分かることがあった。誘拐殺人犯は他を害することすら自身の欲望を満たす愉しみとした。美琴は好きなことをすることこそ生きる意味だと言った。幽霊の女の子は意味を考える前に死んでしまったが、最期にもう一度正太郎に会いたいと願い、魂という形でだが願いを叶え、消えた。病院の幽霊達のように未練を残した者もいた。延は家族と幸せに生きたかったのに叶わず、逆に家族を失い狂った。真庭は家族を愛していたのに、最後は家族を汚して、汚したことすら理解せずに終わった。ノアは正太郎を想うが故に、嫌われても、傷つけたとしても正太郎を守ろうとした。
そんな彼等は皆彼等なりの生きる意味を持って生きていたように思う。生きた時間は関係ない。幸福かどうかは関係ない。才能も、金銭も、善悪も、どれも関係ない。彼等が持っていたもの、それはひとえに自身あるいは他への強い思いだ。強い自己が強い思いを生むのか、強い思いが強い自己を作るのかの順番は不明だが、いずれにせよ彼等の強い思い(願いや欲望、執着とも呼べる)が生きる意味であり、彼等がおかしくなったきっかけであった。
正太郎は元から強い自己がなく、何かしらへの強い思いもなかった。これは先の人々との不思議な出会いを経てまだ変わらないことだが、それでも少しずつ変化は生まれていた。そして、この『魔法使い』との出会いも正太郎に変化をもたらすと確信していた。逆に言えば、もし少女を逃がしてしまえば何も得られずに終わるという意味でもあった。
(こいつは絶対に止める。それはもう決めた。…でも。)
正太郎の望みを考えるなら、ここで少女を逃がさず対処した方がよい。けれど、それが最適解なのだろうか。少女の様子を見る限り、交渉がうまくいかなかったといっても話ができないわけではないだろう。力で解決しようとするのは結局力に流されているだけではないか。流されているだけでは結局何も得られないのではないか。それに、美琴とノアの心配そうな視線も気になる。二人を無視しての行動はもうしたくない。
「…悪いけど、挑発には乗らない。話ができる相手に力で訴えるなんてしない。心配してくれる人達を危険な目に会わせるわけにもいかないしな。」
「…。」
正太郎は後ろにいる美琴とノアに振り返りながらそう答えた。正太郎が二人を見る顔はいつになく穏やかで、二人を気遣っていることがよく分かるものだった。そんな正太郎を見て、美琴とノアはほっと息を吐いた。また争いになるのではないか、また正太郎が危険な目に会うのではないかと心配だったが、どうやらこの場は収まりそうだ。話し合いがうまくいかなかったことは残念だが、争いがないに越したことはない。
…しかし、事はそう上手くいくものではなかった。正太郎達の反対側に立つ少女は静かに正太郎達を見ながら呟いた。
「そうですか。…そうですか…。」
少女はどうすべきか考えていた。自分の役割はただ一つ、願いを叶えることだ。それは資格あるものがいれば時と場所に限らない。ならば、行動は決まっていた。
「…連堂正太郎、あなたの思いはよく分かりました。自らの願いを前にしたあなたの行動に敬意を表します。…けれど、私は違います。」
「…!」
少女が最後の言葉を呟いた瞬間、屋上の空気がぴたりと止まった。空気の重さが感じとれるほどで、少し気を緩めていた正太郎達は一気に現実に引き戻された。
「私は願いを叶える者。あなたが自らの願いから目を逸らすというのなら、私が拾い上げましょう。…私があなたを殺そうとすれば、あなたも戦うしかないでしょう?」
「は…⁉」
思わず声を上げた正太郎を無視して少女は拳ほどの球体を何処からか取り出した。球体は虹色の毛玉?に見えた。
ブワッ!!
少女の手に乗っていた球体がいきなり爆発した。正確には球体が解け、それぞれ違う色をした七本の糸が正太郎達に向かって蛇のように襲いかかった。
「ぐっ!」
「きゃあっ!」「きゃっ!」
既に力を使う用意をしていた正太郎は横に跳んで糸を避けたが、美琴とノアはそうはいかなかった。糸はあっという間に彼女達の手足に絡みつき、動けなくした上に屋上の床に引きずり倒した。
「白木!部長!」
二人に駆け寄ろうとした正太郎に残りの糸が迫った。…残りの糸は三本。片手で一本ずつ対処できたとしてもまだ足りない。
「くっ…!」
おまけに糸はそれぞれ意志があるかのように別方向から正太郎に向かって来た。正太郎はノア達に近づくことを諦め、糸を避けることに専念した。幸い糸の動きは力を使う正太郎が避けられないほどではなく、無事に糸の突進を避けた正太郎は少女に向かって叫んだ。
「止めろ!俺を殺したところで何の得にもならないだろ!」
「これはあなたのためです。さあ、願いのために私を殺して下さい。勿論、私に殺されなければ、ですが。」
少女は淡々と言うとゆっくりした動作で正太郎を指さした。すると、少女の側に戻っていた糸が鎌首を持ち上げた。
「…ちっ!」
正太郎は弾丸のように突進する糸を避けた。糸が来ることは予想できていて、先程動きは見ていたのでかわすだけなら問題ないことだった。…しかし。
「…?」
正太郎は正面の少女が自分に向けて手のひらを向けている姿を見た。次の瞬間、経験したことのない突風が正太郎を襲った。
「く…!」
目を開けていられないほどの風。正太郎が気付いた時には体は宙を浮き、下に足をつく場所はなかった。ゆっくりと身体が下に落ちていく中、視界の端にこちらを見ながらぽかんと口を開けるノアと美琴が見えた。
突風で吹き飛ばされた正太郎はあっという間に見えなくなり地面に落ちていった。
「正太郎ー!!」
「そんな…!」
ノアの絶叫が屋上に響く中、美琴は呆然と声を漏らした。二人は糸で縛られて動けなかったが、正太郎が落ちていく様をはっきり見てしまった。悪夢をスローモーションで見せられた気分だった。
「まだ彼は生きています。悪魔憑きはこんな程度で死にはしませんよ。」
少女は屋上の柵に近づきながらノア達に向けて言った。何故か二人を落ち着かせるかのように穏やかな声だった。
「あなた達はここで待っていて下さい。私を殺すつもりなのは彼だけ。よって、私はあなた達を殺しません。」
そう言うと少女はふわりと浮き上がった。そして柵を越え、ゆっくりと下に降りて行った。美琴達が聞き返す間もなく、少女はすぐに見えなくなってしまった。
正太郎は落ち着いた様子で地面に着地した。特に怪我はしていなかった。突風で飛ばされた時、幸いにも落ちた先に着地できる屋根があったので助かったのだ。地面に直接落下していれば無事ではすまなかっただろう。
「危ないところだったな…。」
言い終えてすぐ、正太郎は気配を感じて顔を上げた。視線の先には空中をゆっくりと降りてくる少女がいた。
「…。」
正太郎はもう戸惑っていなかった。元々今日少女と争うつもりはなかったが、少女は本気で正太郎を殺す気だ。少女の意図がどうあれ、死ねば願いも何もあったものではない。それに、もし自分が死ぬとして、少女がノアと美琴をどう扱うのか、全く予想がつかない。
(そういえば…?)
戦うなら周りに人がいない方がいい。グラウンドにはまだ人がいた…はずだが、見える範囲に人はどこにもいなかった。
「人はいませんよ。元の世界に人がいない世界という布を被せた、といえば分かりますか?」
「…全然。しかし、さすが魔法使いだな。まさに万能型だ。」
「いえ、万能ではありません。私がしているのは粗悪な模倣。かつて叶えた願いの真似事に過ぎません。」
「…?」
どういう意味だろう、と一瞬考えた正太郎だったが、すぐ現実に引き戻された。少女の側に火の玉が複数浮かんでいたからだ。火の玉は少女の周りを舞うように動いていたが、いきなり向きを変え正太郎めがけて飛んでいった。
「はっ!」
時速100kmを超える火の玉が迫っても正太郎は落ち着いていた。恐れることなく火の玉を次々と手で防ぎ消していった。とはいえ、熱くないわけではなかった。
「熱っ!あち、ちっ!」
正太郎は熱がりながらも火の玉を消していき、三つ消したところで攻撃が止まった。思わず冷えるように手を払っていると、少女が小さく手を叩いていた。
「見事なものですね。では、これはいかがでしょう?」
少女はそう言って正太郎の方に手を差し伸べた。すると、屋上で見た糸が三本、少女の袖口から飛び出した。さらに残った火の玉も全て正太郎に襲いかかってきたので、正太郎は目を細め、歯を食いしばった。
望んだわけではないが、正太郎は糸と火の玉を同時に相手にすることになった。その戦いは傍から見ると色とりどりのものが飛び交い鮮やかだったが、現実は一方的に正太郎が襲われている状況だ。少女は何の危険もなくただ見守っているだけだった。
(このままだと疲れていくだけだ。…よし。)
攻撃を避け続けていた正太郎は決意し、少女に向かって突進した。触れるならそれでいい、触れなくても少女の近くなら攻撃が緩むと考えた。…攻撃が激しくなる可能性もあるが、その時はその時だ。
「あ…。」
少女は慌てこそしなかったが、意外そうな顔をした。正太郎は一目見て、少女が戦いに慣れていないこと、にも関わらず襲われることを恐れていないことがよく分かった。それは死ぬこと、消えることを恐れていなかった自分を思い出させた。…駄目だ、今はそんなことを考える時じゃない。もう少しで少女に手が届く。その時、少女が手を空に向けた。
「くっ…!」
突然足元から突風が吹き上げ、正太郎のバランスが乱れた。その隙に少女はふわりと後ろに下がり正太郎の手を逃れた。しかし、そこまで手が回らないのか、火の玉と糸の動きが明らかに遅くなった。正太郎は素早く近づいて糸を掴み、火の玉を払いのけた。勿論力を使って両方を消し去ったので、正太郎と少女以外動くものはなくなった。
正太郎は少女と向かい合ったが、それは少女が火の玉を出す直前とほぼ同じ状況だった。
(このままだと俺が段々疲れていって、いずれやられるだけ、か…。)
「…。」
少女は落ち着いた様子で正太郎を見ていた。その顔からは思考も感情も読み取れなかった。
(疲れているのかも分からない。まだまだ力を使える可能性があるなら、いっそ…。)
「賭けに出る必要はありませんよ。状況は私の方が不利ですから。」
「!」
少女がいきなり話しかけてきた、しかも内容が自分の思考と繋がっていたので、正太郎は心臓を掴まれたような気分だった。冷静でいるよう努め、ゆっくりと口を開いた。
「…心も読めるのか?」
「はい。負担が大きいですし、自分に似た気質の相手でなければいけませんが。」
「…似た気質って、俺とお前がか?」
「はい。私達は似ていますよ。在り方も境遇も。」
「…。」
「ですが、それは今話すことではありませんね。戦いが終わってからにしましょう。」
「…その時にはどちらかはもう喋れないと思うけどな。」
正太郎は顔をしかめつつつっこんだ。少女がどういう意味で話しているのか、それともただの冗談なのか、全く分からなかった。ただ、少女と正太郎に似た部分があるという発言も気になっていたので話しかけてみたのだ。そして、つっこみをされた当の少女は一瞬ぽかんとしたが、すぐに意味を理解して微笑んだ。殺し合いの最中には思えない、穏やかな笑みだった。
「そうですね。でも安心して下さい。私が殺される場合は多少話ができるようにしますので。」
「…それはどうも。」
正太郎は何と答えればよいのか分からなかった。しかし、自らが死ぬ場合のことをごく自然に話す少女には思うところがあった。自分もノア達にこんな思いをさせていたのかもしれない…。正太郎がそんな風に若干センチメンタルな気分になっていると、
「さあ、それでは続きをしましょうか。と言っても、次が最後ですが。」
「最後?」
「はい。『私』が唯一願い、『私』が初めて望んで叶えた願いです。人々に安らぎを。現実という苦しみを終える穏やかな眠りを…。」
少女は正太郎に向けて両手を広げた。正太郎が何をしてくるのかと身構えていると、微かな風と共に何かの香りが流れてきた。それは花の香りのような、少し甘みがあって落ち着く匂いだった。正太郎は思わず気が抜けそうになったが、かぶりを振って全身に力を入れ直した。…しかし、体は自分の命令に従わなかった。
(力が、入らない…⁉)
正太郎は地面に膝をつきそうになるのを必死に堪えた。しかし、どれだけ力を込めて動こうとしても体はろくに動かなかった。それどころか、意識もみるみるうちに狭まっていく。簡単に言うと、恐ろしく眠くなっていった。正太郎は眠気に耐える中、いつの間にか周囲に黒い霧が広がっていること、その霧から少女の魂が感じられることに気付いた。
「く…。これは、お前が…?」
「はい。全てを眠らせる力。目覚めることのない眠りに誘うものです。」
「な…。」
つまり、一度寝てしまえば二度と目覚めないということか。少女の言葉には悪意も殺意もなく、穏やかな虚無だけが含まれていて、それが一層言葉の真実味を増していた。
(くそ…!どうあれ、ここで寝るのはまずい…!)
自分を殺そうとする相手の前で眠れば、その結末は火を見るより明らかだ。正太郎は歯を食いしばり、血が出そうなほど拳を握った。しかし、それでも眠気は一向に収まらず、強くなっていくばかりだ。ついに正太郎は膝をつき、そして倒れ込んでしまった。
「ま、まだ、だ…。」
正太郎はまだ耐えていたが、目を閉じかけては開けるを繰り返していて、もう限界のようだ。少女は正太郎に近づくとしゃがみ、彼と目を合わせた。
「寝ている間に危害を加えることはありません。あなたが目覚めるか目覚めないか。それを以て勝ち負けとしましょう。それでは、おやすみなさい。」
「…。」
少女が話している途中で正太郎は完全に目を閉じてしまった。そして、話が終わっても目を開けることはなかった。
『…ん…?』
正太郎が意識を取り戻すと、そこは何も見えない真っ暗な所だった。一瞬呆然としたものの、すぐに目覚める前のことを思い出した。
『「魔法使い」は⁉……いない、んだろうな、これは…。』
正太郎は今いる場所が夢の中だと直感で分かった。何度も夢でシンと話した経験のお陰かもしれない。とはいえ、喜ばしい状況ではないことも理解していた。
『ここが夢だとして、待ってるだけじゃ目は覚めないんだろうな…。』
『魔法使い』によって眠らされた以上、そう簡単に目が覚めることはないだろう。何とかして起きる方法を探さなければならない。ということで、まず正太郎は周囲を見回してみた。近くには何もなさそうだ。では遠くは…。
『ん?』
遠くに何か動くものが見えた、気がした。何もないかもしれないが、他に手がかりもない。考えた末、正太郎は気になった所に向けて歩き始めた。
正太郎は漆黒の世界をひたすら歩いていた。自分の体すら見えず、暗順応が起きているのかも分からない。歩いているのか、実は宙を浮いているのかもはっきりしない。その上、目印が最初見た時から一度も見えないので、歩き始めてどれくらいの距離歩いたのか、どのくらい時間が経ったのかも分からなかった。幸い体が疲れることはなかったが、心は疲弊していた。このまま永遠に目的地にたどり着かない、あるいは目的地がただの見間違いだったとしたら。いや、そもそも、
『もしかして、ここは死後の世界なのかもしれないな…。』
次の瞬間には意識が消えて、完全に死んでしまうのかもしれない。そんな考えが頭に浮かび、正太郎の体と心を蝕んでいった。
『…駄目だ。』
正太郎は頭を振って湧いてくる考えをかき消した。ここが夢だろうと死後の世界だろうと関係ない。今はすべきことをするだけだ。それに、自分は結果的に色々な人達の命を消し、心を壊してきた。踏みつけたものがある以上、簡単には終われない。生きて、そして願いを叶える。そう思い、正太郎はいつの間にか止まっていた歩みを再開した。
どれくらい歩いたのか分からない。とても遠かったような、実は近かったような、不思議な道のりだった。とにかく、正太郎は行くべき場所にたどり着き、目の前には光る球体が浮かんでいた。最初は動くものと思ったが、光のせいでそう見えただけだったらしい。
『ただ、これをどうすればいいんだ?力で消せば起きれるのか?って、う…!』
正太郎は恐れることなく球体を掴んだ。すると、何かが頭の中に流れ込んできた。一瞬罠かと思ったが、危険は感じられなかった。なら、目覚めるために必要なものかもしれない。そう考え、正太郎は流れ来るものを素直に受け入れた。
………。
私は何も持たない人間だった。親は親ではなく、私は望まれた存在ではなかった。本来赤子に与えられるべき名前・家族・愛情は与えられなかった。ヒトというより、私はモノだった。
『これは、記憶?誰の…もしかして、「魔法使い」か?』
正太郎は驚きの声を上げた。どうして『魔法使い』の記憶がここにあるのかは分からない。しかし、幸いまだまだ記憶は流れ込んできているので、正太郎は焦らず様子を見ることにした。
命の次に与えられたものがあった。ある時儀式を行う場所に連れていかれ、「何か」を身に宿すことになった。そして、「それ」は私に話しかけてきた。人に興味はないが、私には興味があって来たらしい。そうして、私は「彼」と共に生きることになった。
「彼」には願いを叶える力があった。正確には私の力らしいが、私には使うことができなかった。ともかく、多くの人々が私を求め、私達は多くの願いを叶えた。喜ばれ、感謝された。私は初めて自分が生きていることを実感した。願いを叶える「彼」の入れ物でいることが自分の生きる意味なのだと思った。
しかし、願いが叶った人々が幸せになるとは限らなかった。物を動かせるようになった人は人殺しになった。火を操った人は法に裁かれた。心を見た人は病んでしまった。人に愛され幸福になった人が一握りで、多くはヒトとはいえないモノに変わってしまった。「彼」は私のせいではないと言った。力を得た人が何を選ぶのかはその人次第、気に病む必要も義理もないと。…けれど、心には何かが引っかかったまま。折角生きる意味を知ったのに、私の中には虚ろなウロが生まれていた。
『…やっぱりあいつも悪魔憑きだったのか。』
正太郎は予想通りだと思い頷いた。全くの勘だったが、少女は悪魔憑きだったのではないかと考えていた。その後のことも予想していたが、それは後で確認できるだろう。それより、正太郎には気になることがあった。
『あいつも生きる意味を考えてたんだな。それに、生きる意味を知ったと思ったらそれが揺らいで…。』
少女も自分も悪魔憑きで、自分が生きる意味について考えていた。確かに、少女の言う通り正太郎と少女は似ているのかもしれない。そして、少女は大人に与えられたものを生きる意味としたようだが、正太郎はその行いが危険だと感じていた。案の定、少女は現実を見て生きる意味が揺らいでいた。
『…続きを見よう。』
考察は一旦置いておき、正太郎は少し暗い気持ちになりながらも先に進むのだった。
大きな変化が起きた。教祖と呼ばれた人が人を集めて儀式をする中、私を手に入れるために多くの人がやって来て争った。争いが終わった時、傷ついていないのは私だけで、他は死ぬか、苦しんでいるかだった。
生きている一人が私に縋り付き、助けてくれと言った。その時、私は唐突に思った。助けて、とは何だろう、と。命を救えば良いのだろうか。それとも痛みをとればいいのか。あるいは、殺し合ったことをなかったことにしたいのか。目の前の人間がどう助かりたいのかが分からなかった。分からないまま、その人は動かなくなった。
一つの願いに対して答えはいくつもあり、その中から正しいものを選ぶことは難しい。そんな当たり前のことを私はこの時初めて理解した。どんな願いもその叶い方も、ある時は正しく、ある時は間違っている。正しいと間違いの境は曖昧で、時と場合、人によって変わりゆく。だから今まで願いを叶えて幸福になった人・不幸になった人がいたのだろう。
私がしてきたことは何だったのだろう、そう思ってしまった。意思とは関係なく「彼」と共に生きるようになり、人に命令されて頼まれた願いを叶え、それを自分が生きる意味だと考えていた私。願いを叶えた結果人々がどうなるのかを知ることなく、自らで考えることを放棄して、人に与えられた意味をもって生きることに安住していた自分。そんな私だから何も得られず、何も為せず、心のウロが広がるばかりだったのだろう。
自らの無意味さを知った私は全身の力が抜けて座り込んでしまった。自分自身に望むものはなかった。この光景もある意味では私が引き起こしたものだ。原因であるのに何もできない私が何かを願う資格などなかった。ただ、せめて、ここにいる人々の苦しみが少しでも楽になるよう願いたかった。
その時、「彼」が言った。お前の願いは私が叶えよう。それが私にできるせめてもの礼だ、と。そうして「彼」が生み出した霧によって人々は苦しまずに逝き、私も眠りについた。これで私の生は終わり。最後に、ごめんなさい。
しかし、「私」は起きた。おびただしい死の中で産声を上げた。「私」が人間ではないことは感覚で理解していた。私の記憶という記録があったので、状況は理解した。そして、私の中には「私」一人だけだった。…私と「彼」は消え、後に残ったのは「私」。生きる意味のない私と、異なる世界でただ存在するだけだった「彼」の残骸が「私」だった。
「私」はどうすればいいのか。「私」に与えてくれる存在はなく、自分で考えるしかない。…なら、することは一つ。私がしてきた、願いを叶えること。「私」にはこれしかなかった。しかし、願いを叶えることに正しさがないことを「私」は理解していた。ならばせめて、願いではなく人を選ぼう。強い意志を持つ人なら、己の願いを正しいと胸を張ってくれるのではないか。「私」も意味を感じられるのではないか。そう思い、「私」は自分の足で立ち上がった。立ち去る前に振り返り、死ばかりの空間を見た。…これから、ごめんなさい。自然と声が漏れた。
………。
『…。』
正太郎は暗い顔で押し黙った。予想通りの結末ではあったが、実際目の当たりにすると気持ちのいいものではなかった。
『ある意味じゃこいつも被害者だな…。』
他人に物のように都合よく扱われ、生きる意味を失い苦しんだ少女。そして、少女と悪魔の精神が混ざった結果生まれた、新しい『私』。
『俺とシンもこうなったかもしれないな…。』
シンが消えたため正太郎の精神が消える危険は無くなったが、新しい「誰か」の始まりを知った正太郎は改めて恐ろしいと思った。いつの間にか自分の意識は消え、記憶だけは受け継ぐが他は繋がりのない「誰か」が自分の体で生きる。自分が消えることは怖いが、それより何より「誰か」の立場になって考えてみると恐ろしい。いきなりこの世界に生まれ、頼るものはなく、自分にあるものは元になった存在の記憶だけ。そんな状況に置かれれば、願いを叶えることへの妄執に取り憑かれてもおかしくない。
『狂ってる、なんて言わないけど、お前の生きる意味はお前のためになってない。だから、俺が終わらせる。』
光も球体もいつの間にか消えていた。正太郎は両手に力を込めた。先の球体に触れて理解したが、球体は力の基点、広がる闇は力そのものだ。それらは魂という名の力だが、確かに認識できるモノだ。なら、きっと消せるはず。正太郎は確信と共に力を使った。
少女は正太郎の隣で目を閉じて座っていたが、不意に目を開けてぽつりと呟いた。
「…そうですか。あなたは、強いんですね。」
その声はどこか寂しげだった。少女が正太郎の顔を見ると、眠っているはずの正太郎の目が開き、少女をはっきりと捉えていた。
「俺は目を覚ました。だから、俺の勝ちだ。」
「はい。あなたの勝ち、そして私の完敗です。…では、私を殺すなり消すなり、どうぞ。」
正太郎は身を起こしながら勝利を宣言した。反対に少女は負けを認め、ゆっくりと身を横たえ穏やかに笑った。正太郎は少女の笑顔を見ると不快そうに顔をしかめた。
「…最初から死ぬ気だったのか?」
「いいえ。私の魂は確かにあなたを殺す気でした。ただ、終わるとしてもあなたの願いを叶えることができるので、いいんです。」
初めて会った時から、少女はもしかして死にたいのだろうかと疑っていた。死にたいというのなら怒りを以て少女を消すが、そうでなくあってほしい。少女の心を知り、疑問をはっきりさせたい。それが少女を止める正太郎の理由、その一だった。そのため、正太郎は少女が本気で自分を殺す気だったと聞いて少し安心した。しかし、聞きたいことはまだあった。
「どうして願いにこだわるんだ?他の生き方もあっただろ。」
「そうですね。確かに、願いを叶えることに意味を感じていたのは『私』ではありません。」
「なら…。」
「けれど、私が持っていた記憶のほとんどはそれでした。当然、『私』の精神にも大きく関わっています。それなしでは存在できないほどに。」
正太郎は少女の話を聞きながらしばらく俯いていた。聞きたいことはいくつもあったが、聞かなかった。聞いても望む答えは得られないと思った。聞くことがないなら、話は終わった。
「…分かった。」
正太郎は仰向けになった少女の隣で片膝をつき、右腕を引いた。手を伸ばせば少女の胸に手が届くだろう。少女は正太郎の右腕を、次に目をじっと見つめた後、何も言わずに目を閉じた。正太郎は目を閉じた少女の顔を見つめた。
「さよならだ。…最後に一つ。生きることを謝らなくていい。それはお前が決めたことだ。」
「…。」
正太郎の言葉を聞いて、少女は目を開きわずかに口を動かした。その表情と口からは何も読み取れなかった。そして、正太郎は右手を少女の胸の上に置いた。
事が済み、正太郎は美琴とノアを迎えに行った。二人は既に一階に下りていたが、眠りから覚めたばかりでぼんやりしていた。美琴とノアは地力で糸を解き、その後正太郎を追いかけようと階段を下りたところで眠ってしまったらしい。正太郎は二人に事情を簡単に説明して、それからそれぞれの家に帰った。帰りが遅くなったことを家族に詫び、食事をして、入浴し、眠った。そして、正太郎は夢を見た。
夢の中で正太郎は後ろから声をかけられた。
『お疲れさん。中々大変だったみたいだな。』
『…お前か。』
正太郎は落ち着いた声で呟きながら振り返った。予想通り、視界の先にはシンが(実際は表情豊かな自分の姿なのだが)立っていた。
『お?えらく冷静だな。もっと驚くかと思ったけどな。』
『何となく会えるんじゃないかと思ってたんだ。で、お前がいるってことは、俺が力を使えたのもお前のお陰だったのか?』
『魔法使い』の成り立ちを聞いて、力を使うにはやはり悪魔の関与が必要なのだろうと考えた。よって、「シンが消える前に何か細工をしたから」、あるいは「シンの欠片が残っているから」力を使えたのではないかと推測したのだ。そして案の定、シンは同意するかのように笑った。
『ああ。俺が消えるのは避けられなかったから、せめて力だけでも残るように、ってな。まあ、それも終わりだ。』
『…やっぱり、消えるのか?』
『いかに俺が心と魂でできた存在でも、ここまで小さな欠片じゃ存続できない。むしろちゃんと力を使えたことを感謝してほしいくらいだ。』
『…そうだよな。シン、ありがとう。お前のお陰で全員無事だ。』
正太郎はシンに深く頭を下げた。『魔法使い』のことだけでなく、取り憑かれてから今までの全てについて感謝した。シンはそんな正太郎を見てにやにやと面白そうに笑った。
『随分殊勝なことだな。なら消える前に教えてくれ。お前の願いは叶ったのか?』
『いや、別に。でも、いいんだ。』
『へえ。どうしてそう思う?人が、お前が生きる意味を知りたいんだろ?』
『今も知りたくはあるぞ。ただ、俺という人間は生きる意味を持たないまま、意味を探して生きていくものなんだと思う。』
正太郎は返事を考えながらゆっくり答えた。シンはにやにやと笑っているが、静かに正太郎を待って聞いていた。シンが無言で先を促したので、正太郎はそのまま話を続けた。
『色んな人達を見て、色んな生き方を見た。生きる意味も人それぞれだったけど、俺はどれも完全には同意できなかった。自分を生きる意味にできるほど自分を好きにはなれない。白木や部長は大切だけど、二人を最優先したり依存したりもできないし、良いとも思わない。…結局、俺は欲張りなんだろうな。』
『くくくっ、欲張りなのか?』
『ああ。どれだけ見て、聞いて、経験してもまだあるんじゃないか、ってな。だから分からないままでいいんだ。多くのことを知った。俺自身について分かったことがあった。大切なものを知って、自分が大切だと思っていることに気付けた。今はそれでいい。』
『そうかそうか…。』
正太郎の顔は穏やかだった。生きる意味に迷いながらも進みたい方向を知った顔だった。なら、やはり虚無は必要ない。
『ありがとな。お前の言いたいことはよく分かった。…ああ、やっぱり取り憑いたのがお前で良かった。』
シンは満足そうに笑った。すると、正太郎の視界がだんだんと明るくなっていった。…そろそろ、夢も終わりのようだ。
『…俺も、取り憑いたのがお前で良かった。本当にそう思う。』
正太郎は少しだけ笑って言った。お互い笑顔になったのはこれが初めてだった。
『そりゃどうも。じゃあな、正太郎。』
『ああ。元気でな、シン。』
そうして夢が終わり、正太郎は目が覚めた。異常も正常もない一日の始まりだった。




