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虚無の旅路  作者: けつ
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第5章

 第五章


 好きな人には幸せになってほしい。好きな人が自分を好きになってほしい。どちらもありふれた願いだけど、私が願うのは最初の方。本当を言えば、好きになってほしい。けれど、それは一番じゃない。普通じゃない私を彼は受け入れてくれた。その時の幸せを私は忘れない。だから次は私の番。私が彼を幸せにする。そのためなら好きになってもらわなくてもいい。私はきっと我慢できる。




 真庭の事件が起きてから一ヶ月ほどが過ぎた。

 ネットニュースによると、真庭は警察に保護され、現在入院中らしい。彼は社の中にいたところを複数の白骨死体と共に発見されたようだ。ただ、一般には霊も不思議な力も存在しないためか、真庭は被害者の可能性を疑われていた。真実はやはり正太郎達のみが知ることになったようだ。幸い、捜査の手が正太郎達に及ぶことはなく、正太郎達は久しぶりに平穏な学生生活を過ごすことができた。

 事件から数日後、シンは正太郎と美琴、ノアに今回の経緯を説明した。といっても、魂の冒涜が許せない、だから法的に問題がなくても真庭をどうにかすべきと考えた。シン個人の信条による行動だから、誰にも何も言わなかった。…という内容だったので、端的かつ簡潔なものだった。人間とは価値観が異なる理由だったので、正太郎や美琴は勿論、ノアもあまり強くは責められなかった。そのせいもあるが、シンの話は説明というより謝ることがメインになった。シンは事件の終わりに謝った時のように真摯に謝罪したので、一応事後処理も穏便に終了した。

真庭の一件で、正太郎はともかく美琴とノアはシンの危険性を改めて実感した。故に、この事件は関係者全員にわだかまりが残らず、という結果にはならなかった。



「ほら正太郎、ちょっと押さえてて!」

「分かった。」

「そうそう。こ、れ、で…よし!とりあえず一つ完成だね!」

「そうだな。」

 ノアと正太郎は部室で何か作業をしていた。並べた机の上には大きな紙が敷かれていて、そこにはペンで文章や絵が書いてあった。仕事が一つ終わったのか、ノアは解放感に満ちた顔で大きく背伸びをした。

「魔術や魔法の説明って結構大変だね。今さらながらミミ先輩の凄さが分かったよ~。」

「才能の無駄使いって言われるくらいだからな。俺達はいつも会ってるせいで慣れてるんだろ。」

「そうだね。帰ってきたら労ってあげないといけないね。」

ノアは近くの椅子に座りながら笑顔で言った。その笑顔につられ、正太郎もノアの近くに座った。

 何となく、二人静かに椅子に座っていた。部室の外から生徒が騒いでいる音がちらほらと聞こえて来た。

「気付けば文化祭なんだねえ。」

「あと10日だな。それにしても、まさか出し物をすることになるなんてな。」

「海士先生は優しいよね。ちゃんと私達のことを考えてくれて。」

「ん?うん…。部長の尻に敷かれてる感じだけどな。」

正太郎はわずかにだが苦笑いを浮かべた。ノアは正太郎を横目で見つつ、物憂げな様子で窓の外を見た。外では放課後の部活動が展開しており、いつも通りの映像だった。

「ねえ正太郎、海士先生とミミ先輩って、これからどうなるのかな?付き合ったりすると思う?」

「はあ?」

正太郎はノアの質問に首を傾げた。二人が相手にどんな思いを持っているのかが分からない上、分かったとしても付き合うかどうかは不明のままだ。さらに、そもそも自分には関係ない話だ。しかし、ノアのどこか弱々しい雰囲気が気になり、この話題で話を続けることにした。

「そう言われても、俺には何とも言えないな。お互いに嫌ってはいないのは見て分かるけど…。」

「…だよね。色んなことが起きるから、先なんて分かんないもんね。」

ノアは口調こそいつもと大差ないが、やはりいつもと様子が違った。いつもなら話を続けそうなものだが、今日はノアの方から話を止めてしまった。

「おい、白木…。」

「お待たせ~!」

正太郎がノアに声をかけようとしたちょうどその時、美琴が買い物から帰ってきた。正太郎達の所まで来て、机の上にどさっと荷物を広げた。

「これが紙とペン、のりとか文房具ね。こっちが魔術で使う道具、展示品ね。で、最後に飲み物。これは私からの差し入れね。」

「わあ、ありがとうございます!」

「どうも。」

「うんうん。で?どこまでできた?」

「えっと、魔法陣関係が載った紙は大体できました。後で確認して下さい。それで…。」

すっかり出鼻を挫かれた正太郎は美琴とノアが話す光景をぼんやり見ていた。ノアは今話している限り、いつも通りの雰囲気を出していた。

(…俺の勘違いだったかな。)

正太郎は一人納得し、自分の杞憂を打ち消したのだった。


「はあ…。」

 自室にいたノアは大きくため息を吐いた。別に家族との関係は良好であり、日中の学校生活にも不満はない。では何にため息を吐くかというと、正太郎のことだ。正太郎と一緒にいると楽しくて、嬉しい。それは以前と何も変わらないのに、どうしても正太郎の行動一つ一つが気になってしまう。少しずつ見せるようになっている感情と表情、他人を気にする様子や言動。それらは正太郎が成長したとも考えられるが、変化が急激なことからやはりシンの影響によるものと考えた方がよいだろう。

 正太郎には言えないが、ノアとってシンは消すべき存在になっていた。行方不明事件、幽霊の女の子、病院の幽霊、延、さらに今回の真庭。下手をすれば正太郎は死んでいた。全ての事件はシンが正太郎に取り憑いてから起きていて、人を消したり壊したりする力を使うようになった。シンが正太郎に取り憑いているせいで起きていると判断するには十分な状況証拠だった。

(でも、この思いは皆とは違う。)

 美琴は一緒に悪魔祓いについて調べてくれているが、悪魔祓いに積極的ではなかった。ノア自身、正太郎に悪魔祓いを勧めてはいなかった。その一番の理由は正太郎自身にあった。正太郎はなぜかシンを怖がったり嫌がったりしておらず、それどころか信頼しているように見える。

『シンと俺は一蓮托生、相棒だ。』

「…。」

正太郎が言ったことを思い出すとノアの心に黒いものがわいてきた。どうして得体の知れない悪魔の言うことを聞くのか、心を消すかもしれない悪魔を信頼するのか。どうして、私じゃなくてシンなのか。

「…駄目だ駄目だ。」

ノアは大きく頭を振って自分の思いをかき消した。今わいたものはよくないものだ。蓋をして、誰にも見せてはいけないものだ。

「…はあ。お風呂に入ろ。」

ノアはもう一度ため息を吐いて部屋を出て行った。部屋には誰もいなくなったが、不意にタイミングを見計らったかのようにスマホから音が鳴り、消えた。それはまさに次の始まりを告げる音だった。


 文化祭一週間前。

「ノアちゃん、そこのペン取ってー。」

「…。」

「ノアちゃん?」

「え?あ、はい!何ですか?」

「そこのペン取ってほしいんだけど…大丈夫?最近よくぼんやりしてる気がするけど。」

「あ、えっと、その…。」

美琴は上の空なノアを心配して作業を止めた。聞かれたノアは申し訳なさそうに俯いた。

美琴とノアは床に敷いた巨大なビニールシートに魔法陣を描いていた。内容は悪魔を召喚する時に床に描く魔法陣で、悪魔を呼ぶため、では勿論なく、文化祭のためのものだ。作業中だけでなく、ノアはこの数日間ぼんやりしていたり考え事をしていたりをしばしば繰り返しており、正太郎と美琴は気になっていた。ちなみに、正太郎は部屋の端で展示品の説明文を書いていて、二人の会話に耳をそばだてていた。

「無理に言えとは言わないけど、何かあった?」

「い、いえ!大したことはないんですけど…。最近変なメールが多くて…。」

「変なメール?迷惑メールってこと?受信拒否したらいいじゃない。」

「そうなんですけど、なかなか止まらなくて。それに、メールの題名が『将来』とか『進路』とか書いてあるせいで色々考えちゃって…。」

「なるほどね…。」

美琴はノアの話を聞いて何度か頷いた。ノアは最近正太郎をずっと心配しているので、将来的なことが気になり始めたのかもしれない。

(命に関わるような事件が続いたものね…。)

未来が不安定なものだと実感したせいで、漠然と将来・進路に不安を感じてしまったのだろう。

「最近の色々を考えれば当然の反応かもしれないわ。常識が通用しないことが多かったから、価値観も揺らいじゃうしね。」

「そうなんです。だから最近、私って何がしたいのかなあとか、進学先や就職先のことで悩んじゃって。」

ノアはあはは…と恥ずかしそうに笑った。学生の悩みとして学業、恋愛、進路は代表例だ。ノアの悩みはきっかけこそ特殊だが、中身は学生の例に漏れずごく普通の悩みだった。

「ノアちゃんも悩む年頃なのね。でもまあ、そうよね。私も進路はちょっと考えたし。因みにノアちゃんって進路はどうしようと思ってるの?」

「えっと、進学…かなあ。でも私、馬鹿だから…。」

「成績は勉強すればある程度カバーできるから大丈夫よ。幸い私も連君も成績はいいから教えてあげられるしね。」

「本当ですか?…ねえ、正太郎!正太郎も私がお願いしたら勉強、教えてくれる?」

「え?ああ。」

ノアは離れた所に座る正太郎に声をかけ、少し躊躇いがちに尋ねた。実の所、正太郎は美琴とノアの会話を全て聞いていた。しかし、しっかり聞いていたとばれると少々恥ずかしい。ということで、今聞いて考えた振りをした。

「白木には世話になってるからな。勉強ならいくらでも教えるぞ。」

「ほんと?」

「ああ。俺で良かったら、が前提だけどな。」

「いやいや、正太郎でいいよ⁉むしろ正太郎がいいよ!」

正太郎が謙遜、というか卑下してきたので、ノアは慌てて自分の気持ちを伝えた。言ってから少し恥ずかしくなったが、正太郎は特に気にしていないようだ。

「はあ。そう言われると悪い気はしないけど、そこまでか…?」

「えー?私も手伝うって言ったのに。私はお邪魔虫ってこと?」

「ええ!いやいや、違いますよ⁉そういう意味じゃないですから!」

美琴がにやにやしながらからかってきたので、ノアは困った様子で弁明した。その様子から悩みや迷いは感じられなかった。

(とりあえず、一時でも気が紛れたみたいだな。)

完全解決とはいかないことは分かっている。ただ、それでも自分を気にかけてくれる相手がいると再確認することは心にとって悪いことではないだろう。正太郎はそんなことを考えながらノアを見るのだった。


 ………。

 願いには二通りあります。誰かを不幸にする願いと、誰も不幸にしない願いです。例えば、全ての人が善人になるという願いは、問題は多いですが誰も不幸にしないでしょう。では次に、あなたに試験で満点をとれる知能を与えましょう。これは一見誰も不幸になっていませんが、違います。あなたが一番になれば、元々一番だった人は二番に落ちています。受験であなたが合格すれば、あなた一人分誰かが落ちています。

…そうですね、仕方のないことです。どうしようもなく、「ほとんどの願いは他者から幸せを奪ってしまう」のです。なら不幸にならない願いだけを願うべきでしょうか。それも違います。誰も傷つけない願いは結局、誰も幸せにできません。先の全員を善人にするですが、悪人がいなくなるのですから、全員が普通になります。ただ普通に生きるだけでは幸福は感じられません。比較するものがなければ幸福にはなれないのです。

 …結局何が言いたいか、ですか?簡単です。あなたは何を願ってもいい、そう言いたいのです。人として幸せに生きたいのなら何かを願わずにはいられず、したがって誰かの幸せを奪うことになるでしょう。しかし、ほぼすべての人々が幸福を奪い合うのだから、願いを持つこと・幸福を奪ってしまうことは悪ではありません。あなたはあなたの願いに負い目を感じる必要はないのです。

 ………。


 文化祭三日前。

 文化祭では部活動単位で出し物をする他、それぞれのクラスごとに何かすることもある。その例に漏れず、正太郎のクラスもすることがあった。

「おーい、青チョークがないんだけど、どこにあるか分かる?」

「先生に聞けば分かるんじゃない?」

「隣のクラスにあるだろー。」

「これ本当に買った?探してもないけど。」

「え、まじ?」

 放課後の教室内はがやがやと騒がしかった。対照的に、正太郎は相変わらず静かに作業をしていた。そして、作業中の正太郎にノアがとことこと近づいていった。

「正太郎、終わった?」

「もうすぐ終わる。…それにしても、フォトスポットって出し物として成立するものなのか…?」

正太郎は作業をしながら訝しげに呟いた。正太郎のクラスはフォトスポットを開く予定で、正太郎は小道具の修理をしていた。スマホで動画も見ない、ゲームもしない、写真も撮らない正太郎にはフォトスポットは無用の長物でしかなかった。

「スマホ持ってる人なら結構使うと思うよ。私は人が多いと苦手だからあんまり使わないけど。」

「そんなもんなのか。…よし、これでいいはずだ。」

正太郎は持っていたものをノアに渡した。それは本物の麦わらでできた麦わら帽子だった。正太郎は穴が開いていた帽子を修繕していたのだ。

「どれどれ…。すごい、本当に直ってる!」

「え?」

「直ったの?ほんとに?」

ノアの声を聞いて周囲数人が正太郎の所にやって来て、帽子を代わる代わる見た。帽子の頭とつばの間にあった破れ目は綺麗になくなっていた。

「うわっ。マジで直ってる。すげえ!」

「連堂君、こんなことできるんだー。」

「裁縫とか得意なの?」

「得意とかじゃない。たまたま直し方を知ってただけだ。」

質問された正太郎は目を逸らしながら答えた。そう、たまたま知っていただけ。恐らくシンが知っていた知識を共有しただけのことだ。そのため、称賛されたところでどうでもいいことだった。

「なあ連堂、ちょっといいか?」

 正太郎の周りが盛り上がっている中、他の作業をしていたクラスの一人が声をかけてきた。正太郎は相変わらず落ち着いた様子で反応した。

「別にいいけど、何だ?」

「ああ、その、ちょっと頼みがあってさ。お前、前に机を壊してただろ?」

「そんなこともあったな。それで?」

「フォトスポットの入り口には目立つ写真があった方がいいだろ?で、お前の力で肩車とかの写真が撮れないかと思って。やってくれないか?」

「…分かった。大丈夫だ。」

「お、ありがとな!じゃあこっちで話そうぜ!」

「ああ。じゃあ、ちょっと行ってくる。」

「あ、正太郎…。」

 正太郎はノアに声をかけた後、別のクラスメイトの所に向かった。ノアは声をかけようと思ったが、思い直して口を閉ざした。正太郎の周りに集まったクラスメイトはまた散り散りになりいなくなった。ノアも持ち場に戻れば一人ではないが、この瞬間、ノアはどうしようもなく独りだった。

ノアはそっと教室の反対側にいる正太郎を見た。正太郎は若干面倒臭そうな顔をしながら、クラスメイトを肩で軽々と担いでいた。周りのクラスメイトは写真を撮ったり騒いだり、正太郎とは違い楽しそうだ。同じ教室にいるのに、ノアには正太郎が遠く感じた。

「正太郎…。」

小さく、暗く呟いたノアの声は誰に聞こえることもなく消えていった。


 ………。

願いを叶えることができる人は幸運で、幸福です。多くの願いは叶うことなく消えていきます。通常、叶う願いはごく一部です。努力と運が噛み合った時、初めて願いは叶うのです。

願いを他人に叶えてもらってはいけない、そういう意見がありますね。確かに、手の届く願いならそうかもしれません、自らで願いを叶えた充足感、満足感、達成感は他で得られないものです。では、届かない願いならどうでしょうか。努力しても届かない、願っても叶わないものは、諦めるべきでしょうか。私はそうは思いません。誰もが願いを叶える権利があります。誰もが幸福を手にする、奪う、あるいは奪われる資格があります。覚悟と受容の心を持っているのなら、奇跡の力に頼ってもよいのではないでしょうか。

最後に、願いを叶えられるなら、叶えるべきでしょうか。それは、私にも分かりません。願いが叶うことは幸福でも、願いが叶った結果幸福になれるかどうかは分からないからです。だから、願いを叶えるべきとは言いません。私はただ問いかけるだけです。

あなたの願いは何ですか?

………。



 文化祭当日。

 正太郎の高校では一般人も校内に入ることができたので、文化祭当日は幅広い年齢層の人々が敷地内にいた。在校生の正太郎、ノア、美琴も当然校内で活動していた。

「トカゲの干物とかカラスの血とか、魔術品って気持ち悪~い。」

「そう?宝石とかもあるからむしろ面白いけどなあ。」

「へえ。ゲームの魔法とは違うんだな。」

「魔術って結構真面目な話だったんだ。」

 そこそこの数の人々がオカルト研究会の展示品を見て話をしていた。今後また廃部論が出て来ないための実績作りとして行った展示だが、予想に反して盛況だった。

さて、展示しているものは価値があるものもあった。そのため、交代で見張りが立てられたのだが、現在は正太郎が見張りで、そして暇だから来ただけの美琴がいた。そんな二人は部室の入り口に立って話をしていた。

「うーん…。こんなに興味があるなら入部してくれたらいいのに。」

「興味本位で見るのと実際にやるのは違うから、仕方ないと思います。それに、部長が有名人だから展示を見に来る人もいるでしょうし。」

「ふう、有名過ぎるのも問題ってことね。」

(そういう意味じゃない…。)

正太郎は何とも言えない顔で突っ込みながら部室を見回した。いつも三人しかいない部室が今はそこそこの人で満たされていた。人々はそれぞれ感想を言ったり、雑談をしたり、自由に楽しんでいた。…ふと、正太郎は反感を抱いた。何に、何故そう思ったのかは分からない。しかし、目の前の光景を見ているとやはり落ち着かない気分になった。

「あ、ちょっと!展示品に触らないでよ!」

 いつの間にか美琴が部室の中に入り注意をしていた。恐らく同級生なのだろう、注意された男子生徒は宝石入りの石を手の中で転がしながら、少しばつが悪そうに笑った。

「ま、まあまあ。ちょっと触りたくなっただけだから。悪かったって。…ちなみに、このエメラルドって本物?」

「そりゃ本物よ。偽物で儀式に使えるわけないでしょ。」

「何円くらい?」

「二万円ちょっとよ。」

「二、二万?」

美琴はごく自然な口調で答えたが、周囲はその内容にざわついた。当然のように置いてある展示品の一つが二万円なら、他のものもかなり価値があるのでは…と。

「じゃ、じゃあ他のも…。」

「すみません。質問は後にしてもらって、まずは展示品を置いて下さい。」

正太郎が突然美琴と男子生徒の間に割り込んだ。まだ石を持ったままの男子生徒を冷たい目で見据えつつ、感情のない声で言った。正太郎は下級生だが、その冷たい迫力に男子生徒は完全に気圧されていた。

「わ、分かった…!じゃ、じゃあ御夜霧、邪魔したな!」

そう言って男子生徒は逃げていった。正太郎は男子生徒が消えるとため息を吐き、周囲を見回した。様子を見ていた周りの生徒達は途端に正太郎から目を逸らし、誤魔化すように話を再開したり、一部はそそくさと部室から出て行ったりした。

落ち着きを取り戻した部室で、正太郎は渋い顔で美琴を見た。

「部長、金銭の話はしない方がいいですよ。盗まれる可能性があるので…。」

「ご、ごめん。つい…。」

美琴は家が割と裕福で、美琴自体も色々なことでお金を持っていた。故に、美琴的には展示品は魔術用品であり貴重品ではなかった。

「部長は悪くないので謝らないで下さい。…でも、見張りは俺がした方が良さそうですね。」

正太郎は指で顎を触りながら言った。万一窃盗が起きた場合には物理的な力が求められるが、美琴やノアではやはり力不足だ。見張りは元々交代制だが、予定を変えた方がいいだろう。

「駄目よ。それじゃあ連君だけずっとここにいるってことでしょ?そんなの良くないわ。ちょっとまーさんと相談するから待って。」

「はあ…。」

美琴は言い終わる前にスマホを取り出し顧問の海士に電話をかけていた。相変わらずまーさんと呼ばれる海士に少し同情する正太郎だった。


 結局、海士と美琴、正太郎とノアの組み合わせで部室の見張りをすることになり、また展示時間を短くすることで各自の自由時間を持たせることになった。そして、今は正太郎とノアの自由時間が始まったばかりだった。

「それにしても、あの魔術に使うものって結構高いんだね。さっき聞いてびっくりしちゃった。」

「部長にしてみれば安いんだろうけど、金銭感覚の違いが出たな。…それにしても、その恰好、どうしたんだ?」

「え?これ?」

ノアは笑顔でくるりと一回転した。すると、丈の長い袴が動きに合わせてふわりと舞った。なぜかノアは制服ではなく袴姿に新品のブーツといった装いになっていて、まさに明治大正のハイカラというべき姿だった。

「えへへー。どう?似合う?」

「似合ってはいるけど、だから何でそんな格好なんだ?」

「えっとね、うちのクラス、フォトスポットでしょ?それで何着か着替えがあったから、試しに。」

正面から似合うと言われたノアは上機嫌に説明した。説明された正太郎は若干呆れ顔だ。

「動きにくくて面倒臭そうだけどな…。まあいいか。で?どこに行くんだ?誘ったんだからあてがあるんだろ。」

「んーん。ない!適当に歩くだけ。じゃあ出発!」

ノアはそう言うと正太郎の手を引き笑顔で歩き出した。正太郎は一瞬戸惑うような顔をしたが、文句を言うことなく苦笑しながらノアについていった。

 一緒に歩いて正太郎はようやく気がついたが、今日のノアは様子がおかしかった。といっても、最近のノアは考え事をしていたり暗かったりとずっと様子が変だったが、今日はまた異なるベクトルでおかしかった。例えば、妙に明るい。空元気とは違う、しかし本当に明るいともまた違う、どこか違和感のある明るさだ。そして、妙にスキンシップが多い。手をつないで歩く、腕にくっつく、背中や横腹をつつく、等々だ。正太郎は別にノアがどんな行動をとっても不快ではなかったが、ここ最近の様子を含めて、ノアに何かあったのではないかと気になった。しかし、ろくに意味も持たずに生きている自分では良い相談相手にはなれない。そう考えたため、直接ノアに事情を聞きはしなかった。

 正太郎とテンションの高いノアは校内を散策していたが、やがて見るものがなくなり、今は自分達の教室に向かって歩いていた。

「何かしなくてよかったのか?」

「うん。私は見るだけで十分。正太郎こそやってみたいこととかなかったの?」

「俺も見るだけで十分だ。正直、人が多いってだけで疲れるからな。」

「昔から人ごみとかうるさい所とか、嫌いだったもんね。」

「ああ。まあ、今日はお前の格好のせいもあるぞ。」

「そう?」

ノアは袖をふりふりさせながら首を傾げた。

ノアの姿は校舎内では珍しい格好の上、一見すると可愛らしい女学生に見えるので、ノアをちらちら見る人がそれなりにいた。そうなると当然正太郎も付属品として見られるので余分に疲れた、というわけだ。

「私は周りの視線が気にならない方だから、よく分からないなあ。…もしかして、怒ってる?」

「怒る?何に怒るんだ?怒る理由なんてどこにもないだろ。」

「そ、そっか。ならいいんだけど…。」

ノアはほっとした様子だった。正太郎が自分のせいで疲れたと思っていないか心配したが、どうやら杞憂だったらしい。一方の正太郎も全く怒ってないのにノアは何を気にしているのだろうと不思議だった。

 正太郎とノアが教室に戻ると、教室はそこそこ人が入っていた。

「おっ!白木じゃん!」

「えっ?え?」

帰ってきてすぐ、ノアは笑顔のクラスメイト達に囲まれてしまった。いつもは周囲から少し距離をおかれているノアにはかなり驚きかつ戸惑うことだった。

「ど、どうしたの?皆。」

「どうしたもこうしたもないって。お前がその服で歩いてくれたからいい宣伝になってるんだよ。」

「うんうん。お陰でお客さんが増えて、忙しくて大変!」

「そ、そうなんだ。お疲れ様。」

ノアは困ったような愛想笑いを浮かべながらクラスメイトに対応していた。クラスメイトはともかく、正太郎にはノアが愛想笑いをしていることがよく分かった。いつもは腫れ物を扱うような態度をとるくせに、都合がいい時には仲間として対応する。そんなクラスメイトの態度に正太郎は苛立ちを感じてしまった。

 しかし、正太郎がどう思っていようとクラスメイトとノアの話は進んでいた。

「白木さん、まだその袴姿で歩いてもらっていい?」

「うん、大丈夫だよ。」

「ついでに猫耳とかつけるなんてどう?もっと注目されるよ、きっと。」

「連堂君と一緒に行動するなら、看板を持っていてもらうのもいいんじゃない?」

「それなら連堂君も何か着る?」

「服はもうないから、連堂こそ猫耳や犬耳をつけてみるか?」

「それいいかも!」

「ちょ、ちょっと待って!」

ノアと正太郎を無視して話が盛り上がっていくので、ノアは大きな声で周囲を制止した。

「私は何をしてもいいけど、正太郎はまだ手伝うとは言ってないから待って。まずは話を聞かないと…。」

「俺はいいぞ。」

ノアが言い切る前に正太郎は答えた。過程はどうあれ折角ノアが周囲から受け入れられているのに、それに逆行される言動をノアにさせたくはなかった。

「複雑だと面倒だけど、簡単な物なら付けてもいいし、持ってもいいぞ。」

「正太郎…。」

「本当?なら頼もうかな。」

「それでもっと目立ったら、ここが人気一位になるかもな!」

「おお!それすごいな!」

正太郎の返事を聞き、クラスはさらに盛り上がった。しかし、中心となったノアと正太郎は落ち着いていた。ノアが心配そうな目で正太郎を見ると、正太郎はノアと目を合わせて静かに頷くのだった。


 結局、ノアは袴姿にブーツのまま、正太郎は宣伝の紙を持ちつつ猫耳をつける、に落ち着いた。二人は事が決まるとすぐに教室を出て、再びぶらぶらと校舎を歩いていた。

 今まで以上に視線を受ける中、ノアがふと立ち止まった。表情は曇っていて、俯きがちだった。隣を歩いていた正太郎も訝しげに止まった。

「ごめんね、正太郎。迷惑かけて。」

「え?…何のことだ?」

「教室で色々言われたり持たされたりして、嫌だったでしょ?私がもっとはっきり言えたら良かったんだけど…。」

「ああ、それか。別に気にしなくていい。」

「けど…。」

ノアはまだ申し訳なさそうだ。そのため正太郎はノアの目を見てはっきりと言った。

「以前の俺だったら普通に断っただろうな。けど、さっきは別にクラスメイトに合わせたわけじゃない。自然にこれくらいならいいかと思っただけで、我慢したんじゃない。だから気にしなくていい。」

「本当…?」

「ああ。むしろお前の方が大変だっただろ。囲まれて色々言われて。…思えば、あの時何もしなかった俺の方が悪かったか。悪かったな。」

「…。」

ノアはきょとんとして正太郎の話を聞いていた。だが時間が経つにつれじわじわと嬉しさがこみ上げた。正太郎は教室でちゃんと自分を見てくれていた。クラスメイトの様子に戸惑い困っていた自分の本音を理解してくれていた。そして自分のために動けばよかったと言ってくれた。やっぱり正太郎は優しい。たとえシンの影響があったとしても、それでも元々の優しさは変わっていない。

「…ありがとう、正太郎。本当、ありがとね!」

「ありがとうって、俺は悪かったっていったんだけどな…。まあ、白木がいいならいいか、それで。」

正太郎は困った顔をしていたが、とりあえず納得したようで頭を掻きながら余所を向いた。

…やっぱり、私は…。

「おっ、面白い格好。」

「そうだな。なあなあ、ちょっといい?」

 明後日の方向から声をかけられ、ノアは少し驚きながらも反射的に振り返った。そこには私服の男三人(全員恐らく大学生くらい)が立っていた。男達は笑いながらノアに近づいた。

「俺達後輩に誘われてきたんだけど、後輩が案内できなくなってさ。良かったら案内してくれない?」

「そっ。俺達と一緒に回ろうぜ。」

「え、えっと…。」

ノアは以前にも不良達に絡まれて怖い思いをした時があり、今回も似た雰囲気の男達に声をかけられ不安そうな顔で口ごもった。しかし、ここで正太郎がノアの前に出た。前回は正太郎が見た時には既にノアが不良に絡まれていたが、今回は嫌な思いはさせない。そのため、ノアが恐怖を感じる前に対応した。

「すみませんけど、こいつは今仕事中です。だから邪魔しないで下さい。」

男達は正太郎に邪魔されて一瞬呆気に取られていたが、すぐに調子を取り戻して横柄な態度で正太郎を睨んだ。

「は?そもそもお前、誰?」

「友人です。」

「いや、友人って。じゃあ他人じゃん。しかも何頭に着けてんの?耳?」

「変なもんつけながら正義漢ぶるなんて、マジうける。マジキモっ。」

「別に俺等、悪さしようとしてるんじゃないしな。そんなにやる気出されてもなあ。」

「ほんとほんと。悪いけどな、部外者はちょっとあっちに行っててくれよ。」

「…。」

男達は正太郎に嘲笑を浴びせかけた。しかし、正太郎は怒ることなく冷静にノアの前に立ち続けた。そうして男達と正太郎はしばらく睨み合っていた。

「あっ!」

いきなり男達の一人が声を上げた。突然の声だったので、残りの二人は驚いて声を出した男を見た。

「どうしたんだよ、いきなり。」

「こいつあれだ、いつか聞いた奴だ!ほら、男なのに女装してる奴がいるって!根暗な奴といつも一緒にいるとか何とか。」

「え!こいつらが⁉」

「マジか…?でも、確かに背は高めだし、胸もあんまり…。え、マジで男…?」

「…。」

ノアは男達の無遠慮・無神経な視線を受け、身を縮めて正太郎の背中に隠れた。その態度で自分達の推測が当たっていると思ったらしく、男達は再び騒ぎ始めた。

「おいおい、マジなんじゃん!マジで男なのかよ!」

「声かけようって言ったのお前だよな。だっせえー!」

「うるせえよ。お前もいいなって言ってただろ。」

「まあまあ。でもさあ、つまりこいつらって、そういうこと?」

「だな。俺達とは関係ない世界の奴等ってことだ。」

「やれやれ。とんだオチだったな。ああ、お前等、もう用はないから行っていいぜ。お前等みたいな趣味はないんで。」

「…。」

「しょ、正太郎、行こう…?」

男達は正太郎とノアに興味を失ったようで、嘲るような視線を向けた後、背中を向けた。幸いほぼ屋外といえる渡り廊下なので校舎より人は少ないが、それでも騒ぎに反応して集まっていた。ノアは早くこの場から離れようと正太郎の手を引いたが、正太郎は動かなかった。それどころか、今までなかった怒りの感情が燃えていた。

「…おい。ちょっと待て、お前等。」

低く暗いが強くはっきりした怒りの声だった。男達も正太郎の感情を感じ取ったのか、振り返るや否や正太郎を睨んだ。

「あ?なんだよ、もう用はないって言っただろ。何かあるのか?」

「あるから引き止めたんだろ。お前等、白木に…こいつに謝れ。」

「はあ?何言ってんのお前。何を謝れって?」

「こいつの在り方はお前等がどうこう言っていいものじゃない。女装だとか趣味とか、見下すような態度で言ったことを謝れ。」

正太郎ははっきりと怒っていた。いつも教室で感じていた、自身と異なる者に対する偏見と差別意識。理解したふり、あるいは理解しようとすらしない無理解。そうした不愉快なものがあることは仕方ない。それが自分に向くことも仕方ない。無意味な自分を他人がどう扱おうと自由だからだ。だが、ノアは違う。ノアは性自認において確かに少数派だが、無意味でも無価値でもない、ただの友人だ。何の問題もないノアを下らない主義主張で汚すことは許せなかった。

しかし、正太郎がいつになく怒ったとしても、男達には正太郎が怒る理由も正太郎が持つ力も分からなかった。そのため、男達も腹立たし気に正太郎を囲み睨んだ。

「謝れ?せめて謝って下さい、だろ。高校生のくせに偉そうに…。」

「お前等よりましだ。さっさと謝れ。」

「はぁ⁉何言ってんだ、てめえ!」

売り言葉に買い言葉の末、ついに男達の一人が正太郎の胸を殴り、正太郎は後ろによろけた。…お陰で躊躇いは無くなってくれた。

「調子に乗んな、このクソ!」

「…やられたら何倍で返すんだったか…。」

「は?」

次の瞬間、正太郎の腕が伸びて目の前にいた男の首を掴んだ。男は腕を外そうとしたが、どれだけ力を込めても正太郎の手は外れなかった。それどころか、首を掴む腕はますます力が込められ、首をへし折らんばかりだ。

「ぅ…あ…ぁ…!」

ただ、その前に窒息しそうだった。男は掠れた声を漏らし、赤黒くなった顔で苦悶の表情を浮かべた。男の手はもう正太郎の手を軽くひっかくくらいしかできなかった。見るだけでこのままだと男が危ないと思わせる光景だったが、ノアも周囲の人間も凍り付いたように動けなかった。しかし、こんな時なのに正太郎は凍り付いたように無表情であり、何の迷いもなく首にかけた手に力を込めた。

『こ、殺される…!』

男は声なき声を上げ、心の底から恐怖した。本気で殺されると思った。しかし、正太郎の手はここで男を解放した。結果、男は膝から崩れ落ち、げほげほと苦しそうにむせた。その首にはしっかりと指の痕が残っていた。

「今はこれで終わりだ。次にノアの前に姿を見せたら消す。いいな。」

「ひ…!」

「…!」

正太郎は無表情なまま淡々と言った。だが奥にある怒りを隠してはおらず、その目で今言ったことは本気だと言っていた。

「う、うう…!」

「お、おい、待てって!」

「ちょ、ちょっと!」

首を絞められた男は一目散に逃げ出し、残りの二人も慌てて男を追いかけ逃げて行った。その光景はまるで以前正太郎がノアを不良から助けた時のようだった。

「…やれやれ。」

 正太郎はぽつりと呟くと落ち着いた態度で周囲に集まる野次馬達を見た。正太郎の落ち着き様がとても恐ろしく異様に見えたので、周囲で見ていた人々は蛛の子を散らすように逃げ消えていった。正太郎は少し野次馬を見ていたが、すぐにノアに視線を移した。

「白木、大丈夫か?」

「っ…!」

正太郎が声をかけると、ノアは怯えた様子で身を竦め後ずさった。これには正太郎も驚き、体を硬直させた。そんな正太郎の様子に気付き、ノアは怯えを消して慌てて声を上げた。

「ご、ごめん!私なら大丈夫。また守ってくれてありがとう…。」

「ああ。それはまあ、別に…。」

正太郎はぼそぼそと答えながら目を逸らした。地味にノアに怖がられたことが効いていた。ノアはノアで思い詰めたような顔で俯き加減に黙っていた。二人の間にぎこちない空気が流れていると、

「おい、一体何があったんだ?」

騒動を聞いて来たのか、体格の良い教師が二人に声をかけた。

 ……。

 ……。

 女子を庇い、また相手が先に手を出したとはいえ、公衆の面前で暴力を振るえば問題になる。これは正太郎も例に漏れないのだが、今回は相手が既に逃げてしまったので状況確認がすぐにできず、結果今すぐ帰れとは言われなかった。とりあえず、正太郎は静かに過ごすこと・処分は追って連絡されることを伝えられ、暴力を用いたことを怒られた。幸いノアは何も言われなかった。しかし、教師のノアへの面倒臭そうな視線は不愉快だった。とはいえこれ以上揉め事を起こしてはまずいので何も言わず、言われるだけに留めた。

正太郎とノアは結局教師から解放された後は分かれて行動した。お互いぎこちなくなってしまったので、自然分解という感じだった。その後、正太郎はクラスの当番、オカルト研究会の見張りをしたが、ノアを見ることはなかった。特に研究会の見張りはノアと二人でするはずだったが、ノアは部室に来なかった。昼が過ぎ、文化祭一日目が終わる時間になり、クラス全体、オカルト研究会全体でそれぞれ集まり解散となったが、やはりノアはいなかった。正太郎は事情を聞いた美琴に随分と慰められたが、それでも曇った心は晴れなかった。

 一番の疑問は、どうしてノアは正太郎に怯えて離れていったのか、だった。正太郎が思うに、理由としては正太郎の行動だろう。あの時の自分は今思えば驚くほど暴力的だった。やられたらやり返せばいい、必要なら消してしまえばいい。それ程に暴力、そして力の使用に躊躇いがなかった。そんな自分に驚きと脅威、そして恐怖を感じた。自分への失望こそあれ、こんな思いは生きてきて初めてだった。


『どうした正太郎?随分落ち込んでるみたいだな。』

『ん…。』

いつの間にか正太郎は夢を見ていたらしく、シンが正太郎に話しかけた。その声が楽しそうなことに正太郎はすぐ気付いた。

『…何か嬉しそうだな、シン。』

『そりゃあ嬉しいさ。自分に興味がないお前ならそんな風にはならない。お前の心の動きはお前が自分自身に意味を持ち始めている証拠だ。』

『自己嫌悪してるのにか?』

『どうでもいい、消えてもいいと嫌いは違うんだよ。嫌うなら好きになることもあるってな。』

『…それでも、今日のことはなかった方がありがたかったぞ。』

「ふうん?俺は寝てたから知らないんだ。気晴らしに説明して見ろよ。」

『…ああ。』

シンに促され、正太郎は事情を簡単に説明した。自分が暴力に慣れてしまったせいでノアを怖がらせてしまい、避けられている、と。話を聞いたシンは何も言わなかった。ただ真面目な顔で考え事をしていた。そして沈黙が続いたが、正太郎の方が沈黙に耐えられなかった。

『シン。最近の事件の原因は俺で、結果の責任も俺にある。お前を責めたりなんかしない。その上で教えてくれ。殴ったり力を使ったりすることに躊躇がなくなってるのは俺のせいなのか?それともお前の影響なのか?』

『必要なら消すってのは俺の思考だ。だから、俺の影響が強いんだろうな。…ただ、困ったことがある。知識とかじゃなくて精神が俺の影響を受けてるってことは、俺の精神にお前の精神が流されつつあるってことなんだ。』

『…流され…?』

『ああ。お前と俺の融合が進んだ結果だろうな。ただお前にとっては良くはない、俺にとってはつまらない徴候だ。お前が俺に喰われつつある、ということだからな。』

『…俺が、消える、のか?』

『そうなる可能性が上がったってことだ。まだ確定じゃない。』

『…。』

シンと話して、正太郎は胸がざわざわと波立つのを感じた。痛くはない、苦しくもない、悲しくもない。しかし、不快だった。

(俺は、消えたくないのか…?)

元々消えても消えなくてもいい、生きる意味を理解できればそれで良かった。けれど、何故か今は未来のことであっても自分が消えることに言いようのない不快感があった。不安、なのかもしれない。シンにとってはこの感覚、この変化は良いことなのかもしれないが、今この瞬間においてはただただ不快だった。

(これが、生きる意味を知るってことなのか…?)

正太郎が黙って不快感に耐えていると、シンが冷静な声で言った。

『正太郎、話を戻すぞ。目下の問題はノアを怖がらせたことだろ?』

『!そうだった。悪い。』

正太郎ははっとした。自分のことにかまけてノアのことを忘れていた。自分の視野の狭さに呆れてしまうが、自己嫌悪している場合でもなかった。

『とにかく、怖がらせたことを謝らないと。』

『だな。ただ、俺の影響だなんて言うなよ。余計心配するし、混乱するぞ。』

『…ああ、そうだな。俺が原因だって言うことにする。』

嘘を吐きたくはないが、余計心配をかけるよりはましだ。正太郎は仕方ないと自分に言い聞かせた。シンはそんな正太郎を見ながら何とも言えない表情をしていた。言うべきか言わざるべきか考えている、そんな感じだった。しかし、結局言うことにしたようだ。

『…正太郎。一つ聞いとくんだけどな、お前にとってノアって何だ?』

正太郎はシンの質問の意図が分からず首を傾げた。いきなり何を聞き始めたのだろう。

『何って…友達?でいいのか?』

『まあ、そうなんだろうな。ただ今はもう少し掘り下げた話だ。で、あいつの好意をどう見てる?』

『好意?…ありがたいとか、こんな自分に申し訳ないとか、そういうことか?』

正太郎はわざとではないのだろうがぴんと来ない発言を繰り返していた。これはもうはっきり聞いた方がいいようだ。

『悪かった、聞き方が曖昧だった。じゃあ聞くぞ。ノアがお前に恋愛的な意味で好意を向けているのは何となく分かるだろ?極端な話、もしパートナーになってとか言われたら、お前はどうする?』

『え?…ああ、そういう質問だったのか…。ええと、そうだな…。』

正太郎はようやくシンの質問の意図が分かり、静かに考え始めた。

 …ノアと恋仲になる。正直、そんな仮定を考えたこともなかったが、思えばノアは友人にしては距離が近いかもしれない。本当に恋愛感情があるのかどうかは知らないが、考えてみよう。まず、ノアが男か女かはどちらでもよく、ノアが好きな立場にいればよい。そして、自分は同性愛者ではないが、好きになれば同性愛でも構わないと思っている。しかし、今、自分はノアを好きではない。これは単に、誰かに恋愛感情を持つ心が自分にはないからだ。何事も・何者にも無関心・無感動なかつての自分では誰かを好きになるはずがない。最近になって、ようやく少しずつ生きる意味を分かりかけてきている自分でも、まだまだ他人を好きになるほどではない。結局、シンの質問に戻るなら、ノアの提案は断るしかない。

 色々考えた末、正太郎は顔を上げた。落ち着いた、躊躇いのない顔だった。

『…答えは断る、だ。俺はまだ他人を好きにはなれない。』

『そういうと思ったぞ。答えもそれで問題ない。ただな、お前が誰も好きになれない、は間違いだ。お前は恋愛の経験がないだけで、誰かを好きになることは既にできてるんだからな。』

『それは友達として、とかだろ?恋愛じゃないぞ。』

『似たようなもんだ。家族愛・友情・恋愛。何であれ、特定の誰かを特別視するってことには変わりがない。自分の中ではっきり定義づけできるかはともかく、ノアや美琴を友と思ってる時点で、お前はいつでも恋愛ができる人間だよ。』

『…なら、さっきの返事は駄目ってことか?』

自分が誰かを好きになれないのだから断る。しかし、本当は好きになれるのなら、断ってはいけないのではないだろうか。

『駄目じゃないけど、もっとシンプルに考えろ。今のお前は今のノアを恋愛的な意味で好きじゃない。好きじゃないから恋人にしたくもない。それだけだ。』

『…はっきり過ぎないか?』

ここで正太郎の顔に戸惑いの表情が浮かんだ。相手が、ノアが嫌な思いをしないか。そんな本音の心配がようやく漏れたので、シンは高らかに笑った。

『それでいいんだよ。愛情ってのは思いと思いのぶつけ合いだ。イカサマも誤魔化しも後でこじれるだけだ。ノアへの悪意がないお前なら、思うことをただ言えばいい。』

『…そんなもん、なのか?よく分からないけど…、そもそも、なんでこんなことを聞いたんだ?』

元々はノアを怖がらせてしまったことを謝り、関係を修復する、という話だったはずが、随分脱線した気がした。…と、シンは急に真剣な顔になった。

『今の問いに答えなきゃいけない時が来る。しかも、大事なタイミングで。…ま、俺の勘だけどな。』

シンはふっと顔を緩めて笑った。お前なら大丈夫、そう言われた気がした。正太郎がシンの笑う様子を見ていると、シンの姿、そして自分自身がぼやけてきた。どうやら目が覚めるようだ。最後にシンに話しかけたが、声にはならなかった。シンも何か言ったみたいだが、正太郎には何も聞こえなかった。


正太郎は世界がぽんと入れ替わったかのようにはっきり、呆気なく目を覚ました。

「…あれ?シン…?」

シンと会話したはずだが、内容が思い出せなかった。いつもは夢とは思えないほどはっきり思い出せる上に忘れないのだが、今回はノアのことを話した程度しか思い出せず、それすら手から零れていきそうだった。けれど、昨夜に比べて心は格段に晴れていた。覚えていなくても得られるものはあったらしい。

「よし。やることをやるか。」

正太郎はいつもより気合を入れて起き上がった。こんな調子で文化祭二日目が始まった。



「…で、結局自宅待機なんてな…。」

 正太郎は今日何度目か分からないため息を吐いた。

 正太郎は高校にちゃんと行ったのだが、到着するや否や生活指導室に連れていかれ、そこで前日の暴力事件について話をされた。いくらやむを得ない理由とはいえ暴力は暴力でありやり過ぎだと言われた。また、外部の人間ともめたことも良くなかった。ただ、ノアの口添えもあり『停学二日、反省文あり』という処分になり、正太郎は家に帰ることになった。

「結局白木とは話せず仕舞いだな。」

正太郎はまたため息を吐いた。高校に着いてすぐ教師に連行されたので、ノアと会うことができなかった。まあ、教室にノアはいなかったが…。こうなるとメールか電話かということになるが、やはり謝罪は直接した方がいい。そして、考えることは他にもあった。

「親にどう説明すればいいんだ…?」

ごく平凡な両親なので、息子が停学をくらったと知れば卒倒はしなくても動揺はするだろう。さすがに申し訳ない思いだ。幸い両親は仕事で帰りが遅いので準備はできるのだが、ノアのことを含めて本当に頭の痛い問題だった。

(とはいえ、頭が痛いと思えるだけマシか。)

以前の正太郎ならただ面倒と思っただけかもしれない。少なくとも、相手が何を思ったところで自分の言動は変えないだろう。そう考えると、正太郎の心は変わってきていた。

 ブーッ、ブーッ!

 反省文でも書くか、と正太郎が準備したちょうどその時、机に置かれたスマホが揺れた。正太郎が確認すると、簡潔な連絡が届いていた。

『話したいことがあるから、夕方5時に部室に来て。』

送信元は昨日の一件以来音沙汰がない、ノアからだった。



 文化祭二日目は全生徒が体育館に集まり、生徒の漫才やら音楽やらを鑑賞する日だ。こうした催しはそれなりに盛り上がるが、それでも終わりはあっさりとしたものだ。また、一日目の片づけはその日のうちに終わっていた。そのため、二日目の夕方5時にもなると校舎はがらんとしていて、生徒はおろか教師もほとんどいなかった。

 正太郎は静まり返った校舎内を堂々と歩いていた。停学の身なので教師にばれると面倒だったが、一応停学は明日からのはずなのでよしとした。それよりもノアのことが気にかかった。

「なんでこんな時間に、しかもわざわざ学校に呼び出したんだろうな…?」

自宅か正太郎の家に呼んだ方が簡単だ。加えて、高校では時間に制限があるので長く話はできない。しかし、首をひねったところでノアの真意は分からず、答えは出なかった。正太郎は一度足を止め、首を左右に振った。

「何でもいい。会って話を聞いて、謝るだけだ。」

正太郎は再びしっかりした足取りで歩き始めた。あれこれ考えたところで、どうせノアに会って話を聞けば全て分かる。オカルト研究会部室はすぐそこだった。


 正太郎は部室の戸に手をかけた時、少しの間動きを止めた。なぜか開けることに躊躇いがあった。それはノアと面と向かって話すことへの恐れ、あるいは異常な側に身を置く存在としての本能だったのかもしれない。いずれにせよ、正太郎は躊躇いを振り切り、戸を静かに開けた。

 部室は説明の紙こそ取り外されていたが、展示品はそのままだった。魔法陣が描かれた布も床に敷かれたままだ。そして、部屋の奥にはノアが椅子に座った格好でぼんやりと窓の外を見ていた。しかし、ゆっくりと正太郎の方を向き、立ち上がった。

「来てくれたんだ、正太郎。ありがとね。」

「あ、ああ。」

ノアは穏やかに笑った。正太郎はノアが自分を怖がっていないのでほっとしたが、一方でノアの笑顔に少し違和感があった。ノアはこんな風に笑う人間だっただろうか、と。

「来るのは簡単だから大丈夫だ。俺も話すことがあったしな。それより、話したいことって何だ?」

「うん。でも、まずは乾杯しようよ。ミミ先輩はいないけど、文化祭の打ち上げってことで。」

ノアは話しながら自分のバッグを探り、ペットボトルを二本取り出した。正太郎は分かったと言いながらノアの横に座った。窓をバーテン側、並べた机をカウンターと見立てると、ちょうど客側に二人で並んだ形だ。二人はそれぞれのペットボトルを相手のものに当てた。

「じゃあ、お疲れ様。」

「お疲れ。…じゃあ、この流れで俺から話をするぞ。白木、昨日は俺が暴れたせいで怖がらせただろ。本当に悪かった。」

緊張で喉が渇いていたのか、正太郎はペットボトルのお茶を一気に飲み、そして頭を下げた。謝罪する時は一気に、誠実に、だ。

「ううん。私こそごめん。正太郎は私を守ってくれただけなのに、なんだか怖くなっちゃって…。」

「…あれは俺が悪かったんだ。俺が自分の力に慣れ過ぎて無意識に調子に乗っていた。これからは気をつけるから、心配しないでくれ。」

「うん。…でも、あれ、本当は、正太郎は悪くないんじゃない?」

「え…。」

ノアにするりと切りこまれ、正太郎は言葉に詰まった。いつの間にかその場の空気が変わっていた。

「本当は、シンさんが悪かったんじゃない?」

「なんでそう思うんだ?」

質問するノアの声は正太郎を心配していたが、冷たく鋭さも含んでおり、正太郎が誤魔化せるものではなかった。正太郎には目を逸らしながらノアに聞き返すしかできず、ノアは下を向いたまま淡々と正太郎に答えた。

「気付いてないかもしれないけど、正太郎はあの時、私を『ノア』って呼んだの。…あれは正太郎じゃなかった。完全にシンさんに呑まれてたよ。」

「いや、シンは悪くなくて、いるだけで影響が出るんだ。それも俺がしっかりしていれば抑えられ…。」

正太郎が早口で話していると、ノアが顔を上げた。ノアの目は恐ろしく冷たいのに火のような激情を灯していて、正太郎は背筋が震えるのを感じた。

「…悪い。俺のせいで心配かけたのに、言い訳ばかりだな。…お前の言う通り、シンの影響が強いらしい。お前を名前で呼んでも気付かないくらいにはなってるみたいだ。」

「…そう、なんだ…。」

正太郎は複雑そうな顔でノアに頭を下げた。シンが悪いとは言いたくなかったのでこんな言い方になったが、ノアは分かっただろうか。

 ノアはいつの間にか再び俯いていた。しかし、しばらくするとゆっくり顔を上げた。その目は先程のような恐ろしさはなく、普段の彼女に近いものだった。

「正太郎、大事な話なんだけど、聞いてくれる?」

「ああ。俺で良ければ。」

「大丈夫、正太郎じゃないと意味ないから。」

ノアは正太郎の言葉に反応して少し笑った。会って以降ノアが初めて普通に笑ったので、正太郎は少しほっとして肩の力を抜いた。…先程の恐れは気のせいだったかもな。

「まず、ね。正太郎。いつもありがとう。私と仲良くしてくれて。危険なことから何度も助けてくれて」

「それくらい、友人なら当たり前だ。」

「…友達、か。…正太郎。私は友達として正太郎といられてすごく嬉しいよ。でも、それじゃ本当は足りないの。私は男でも女でもないけど、正太郎が好き。誰よりも正太郎が必要で、正太郎に必要とされたい。だから、私と付き合って下さい。」

「…。」

正太郎は息を呑んでノアの告白を聞いていた。そして、どこか既視感があった。愛情云々の話を最近どこかでした気がした。しかも、大事な話だった覚えがある。ただ、今は返答の方が先だった。

「…白木、教えてくれてありがとう。本当にありがたいと思う。…でも、俺は誰かに好きになってもらえるほど意味のある人間じゃない。俺は人を好きになれる自分も持ってない、つまらない人間だ。だから…。」

「違うよ、正太郎。」

ノアが正太郎の話に割って入ったので、正太郎は話を中断した。しかし、ノアの行動は感情が高ぶった結果のものではなかった。ノアは告白中だというのに非常に落ち着いていた。

「正太郎が自分をどんな風に思ってても心配いらないよ。私は正太郎が生きる意味も価値も分かってる。正太郎がちゃんと誰かを好きになれる、普通の人間だって知ってる。だから安心して。正太郎が足りないと思う部分は私が代わりに埋めてあげる。」

「…白木…?」

正太郎はノアの雰囲気に危ういものを感じて思わず椅子からふらふらと立ち上がった。ノアも正太郎に反応してゆっくりと立ち上がった。その目はもういつものノアの目ではなかった。

「でも、私がいくら頑張っても今のままじゃ正太郎はシンさんに殺されちゃう。だから正太郎、私と一緒に悪魔祓いをしてシンさんを消しちゃおうよ。それを恋人同士になった私達の始まりにするの。」

「…何言ってるんだ…?」

正太郎は戸惑いながらも何とか声を出した。なぜかさっきから頭がぼんやりして思考がまとまらなかった。…これは、眠気だ。なぜだか眠たくて仕方がなかった。

「シンさんに毒された今の正太郎じゃ私に返事するのが難しいと思うんだ。だから返事は今しなくていいよ。正太郎が一緒にできなくても、私一人でシンさんを消してあげるから。」

「…白木、お前、何を…。」

最後の方は声にできず、正太郎は床によろよろと崩れ落ちた。ノアは正太郎の様子がおかしいにも関わらず、心配する様子を出すことなく正太郎の前にしゃがみ込んだ。しばらくすると、正太郎の体はぐらついて倒れそうになり、正面にいたノアが支える形になった。ノアは正太郎を優しく横たえながら、狂気じみた笑顔を浮かべた。

「ゆっくり寝てて。後は私が頑張るからね。」

「…し、ら…。」

正太郎はわずかに声を出したが、ついに耐えられなくなり目を閉じた。そして死んだように眠ってしまった。

「お休み、正太郎。」

 ノアは正太郎が寝たことを確認した後、正太郎の体を部室の真ん中に引きずっていった。



『今の問いに答えなきゃいけない時が来る。しかも、大事なタイミングで。』

シンは真面目な顔で話していた。話していた内容は…そうだ、ノアにどう返事するかだった。あの時はそんな事態になるわけがないと思ったが、本当にことが起きるとは。

(他に何を言われたんだったか…。)

もっとシンプルにとか、思ったことを言えとか言われたはずだ。誤魔化しは良くないとも言っていた。そうした助言を忘れていたせいで、ノアとの会話に生かせなかった気がした。



「あ…。」

 正太郎はぼんやりとした頭で目を覚ました。しかし、起きはしたものの、まだまだ眠気は強く、油断したら二度寝してしまいそうだ。ただ、今回は夢の内容を覚えていたので、起きてすべきことがあった。

「く…。」

正太郎は頭を軽く振り、まず周囲を確認した。周囲はかなり暗いが、椅子と机が見えるので恐らく今いるのは部室だ。また、窓から月明かりがさしているので時間は夜のようだ。これ以上は動かなければ分からないだろう。

「…え?」

正太郎は重たい体を起こそうとしたが、意に反して体は動かなかった。というより、手足がロープで縛られているようだ。後ろ手になっていて見えないが、簡単に外せるものではなさそうだ。

「あれ、もう起きちゃったの?もっと多くしておけば良かったかな。」

「白木…!」

正太郎は首だけ動かしてノアの声が聞こえた方を向いた。

 ノアは正太郎を気にすることなく何か作業をしていた。正太郎が体ごと向くと、ノアは並んだ蝋燭に火をつけていた。よく見ると魔法陣が描かれた布は外されていて、代わりに赤黒い線で違う魔法陣が描かれていた。

「やっぱり魔法陣を描くのは大変だね。今回は複雑だから特にね。改めてミミ先輩の凄さが分かったよ。」

ノアはほぼいつも通りの口調だったが、状況とのギャップがあり過ぎて逆に異様だった。

「…何のための魔法陣なんだ?」

正太郎の姿に疑問を持っていないことから、ノアが正太郎を眠らせ、拘束したことは間違いない。そのため正太郎は質問のほとんどを後回しにしてこれからのことに注力した。

「何って、勿論悪魔祓いのためだよ。まあ悪魔祓いって言うとキリスト教っぽくなるから、正確には『心だけの生き物を殺す儀式』だけど。」

ノアは作業をしながら当たり前のように答えた。ノアの中ではシンを殺すことは既に決定事項らしい。…どうしてそんな考えに至ったのか、そこに重要な点があるかもしれない。

「白木がシンを嫌っていたのは知ってる。でも、どうして急に動き始めたんだ?何かあったのか?」

ノアは正太郎の言葉にぴくりと反応し、動きを止めた。思うところがあるようで、ノアの目の奥には燃えるような思いが見え隠れしていた。しかし、ノアはすぐに作業を再開してしまい、淡々と正太郎に答えを返した。

「…急なんかじゃないよ。悪魔祓いをしないといけない。私はずっと思ってたよ。でも正太郎がなぜかシンさんと仲がいいみたいだったから、強く言えなかった。…でももう違う。私は私の気持ちに従うことにしたの。」

「…それは、どうしてだ?」

「魔法使いだよ。あの真庭って人と会った後、メールが来たの。それで話を聞いてもらったんだ。」

「…。」

正太郎は驚いて思わず固まってしまった。ノアの口から「魔法使い」の言葉が出るとは思っていなかった。

 魔法使い。誰からは知らないが、真庭は女性と言っていた。そして、連続行方不明事件の犯人、延、そして真庭に力を与えたであろう存在。願いを叶えてくれるらしいが、実際には混乱をもたらしているもの。今までに起きた複数の事件から、正太郎はノアも美琴も魔法使いを危険視していると思っていた。しかし、ノアは違った。危険視どころか相談相手として肯定的に見ていた。

「魔法使いが今まで何をしてきたのか、分かってるのか?俺達が見た事件のほとんどに関わってたんだぞ。関わっちゃいけない奴なんだ。」

正太郎はノアに真剣な顔で言った。ノアを探るといった理由ではなく、純粋にノアを案じての言葉だった。しかし、そんな言葉もノアには響かないようで、ノアは表情一つ変えなかった。

「そんなことないよ。あの人は中立なだけ。強く願う人間に力を貸してくれるだけ。私も話を聞いて、悪魔を消す方法と道具をもらっただけだよ。」

そう言うとノアはしゃがんでいた姿勢から一転、立ち上がった。魔法陣の各所に立てられた蝋燭には全て火がつき、その他諸々の作業も済んだようだ。

ノアは正太郎に近づきながらナイフを取り出した。年代物のナイフであり、何かあることが一目で分かった。

「正太郎も分かる?このナイフで傷つけると血が力を持つんだよ。さっきのお茶には正太郎が寝るようにお願いして、この魔法陣にはシンさんが消せるよう願ったんだ。血を出すだけで願いが叶うなんて便利でしょ?」

「血…。まさか、その包帯…。」

正太郎は改めてノアを見て、息を呑んだ。今まで気にしていなかったが、ノアの左腕には赤黒く汚れた包帯が巻かれていた。加えて、近づいてきたノアの顔色はひどく悪く、まるで病人のようだった。しかし、ノアの足取りはゆっくりではあるがしっかりしていた。

「大丈夫。私のことは気にしないで。私の傷や血なんかどうでもいい。正太郎が無事ならそれでいいから。」

「…なんでそこまでできるんだ?俺はお前に大したことは何もしてないのに…。」

「そんなことない。正太郎にとっては大したことじゃなくても、私にとっては大切なことばっかり。正太郎のお陰で私は私らしくいられるんだよ。」

ノアは正太郎のすぐ脇に座った。正太郎からはノアの顔が見えなくなり、その腕からは血の匂いがした。そして、目が合わないままでノアの話は続いた。

「正太郎はありのままの私を見てくれるけど、それはすごく難しいことなんだよ。普通は異常を受け入れてくれない。私という異常を異常なまま、当たり前のように受け入れてくれたのが正太郎なの。だから好きになったの。でも、正太郎を異常の側に引き込みたいんじゃない。それに、もし気持ちを伝えて嫌われたら…。そう思うと付き合ってほしいなんて言えなかった。」

「…じゃあ、どうして言えたんだ?」

「時間がないから。正太郎が消えちゃう前に正太郎を助けないといけない。正太郎がどれだけ意味がないと思っても、私は正太郎に意味があると思ってる。正太郎を必要としてる。正太郎がいてくれればそれだけで生きていられる。私の思いを伝えて、自分の意味を知ってほしかったの。…そう。好かれなくても、嫌われてもいい。正太郎のために出来ることをする。そう決めたの。」

ノアの言葉は決意に満ちていて、容易く揺れるようなものではなかった。ノアの思いを聞いた正太郎は何も言えず黙っているしかできなかった。

少しの間、ノアも正太郎も何も言わず、静寂が部室を満たしていた。しかし、ノアがおもむろにナイフを持った右手を動かした。

「時間だから始めるね、正太郎。」

ノアは自身の左手首をナイフで切りつけた。傷はそれほど深くないか、じわじわと出血し、手首から血が垂れていった。月明かりで見るノアの姿、そして滴り落ちる血は恐ろしくも美しく、正太郎は声もなくノアを見つめていた。

「準備をして夜の0時、このナイフでつけた傷から流れる血を正太郎に飲ませる。それが悪魔を消す儀式。正太郎を想う私だけができる魔法…。」

歌うように話すノアはゆっくりと手首を正太郎に近づけた。血が正太郎の体に落ち、その刺激で正太郎は我に返った。…ノアを止めることは難しい気がする。けれど、このまま何も言わずにシンの消滅を受け入れることはできない。それに、それは自らの心を話してくれたノアに対しても不誠実なのではないか。

「…白木、俺を心配してくれて、好きでいてくれてありがとう。心からそう思う。…でも、どれだけ俺に尽くしてくれても、俺は嬉しくないんだ。俺はお前に依存することも、お前を生きる意味にすることもない。」

正太郎の言葉を聞き、ノアがぴたりと止まった。血はみるみるうちに正太郎の首周りを赤黒く汚していくが、正太郎が気にすることはなかった。

「俺は自分で立って歩きたい。シンをどうするか、白木を好きかどうか、全て俺が決めてきたし、これからも同じだ。お前の思いを聞いても、それでもシンを消すことは反対だし、お前を好きになりもしない。シンを消してもきっと気持ちは変わらない。」

「…。」

「頼む白木、もう少し待ってくれ。俺にはまだシンが必要だ。もう少しで生きる意味の欠片だけでも掴めそうなんだ。それに、こんなやり方でシンを消してもお互いに傷が残るだけだ。」

「…。」

正太郎は真摯に訴えた。たとえノアが心変わりしてくれなかったとしても構わない。ただ自分の思いを形にして、目の前のノアに伝える。それだけだった。ノアはしばらく黙ったまま動かなかったが、やがて絞り出すように声を出した。

「…そんなこと言って、正太郎は本当に自分を大切にできるの?今までずっと自分のことを無意味だとか、どうでもいいとか言ってたのに。」

「絶対にできる、なんて偉そうなことは言えない。でも心配させないように極力気をつける。」

「…駄目。駄目だよ、正太郎。今更そんなこと言われても、信じられないよ…。私は信じない!」

ノアは叫ぶと同時に左手を振るった。血が正太郎の体と顔に飛び散った。正太郎は何とか血が口の中に入らないようにできたが、手足の紐は全く解けなかった。実は最初から試しているのだが、力が使えないのだ。恐らく真庭の時のように、床の魔法陣が力を封じるような作用を及ぼしているのだろう。とにかく、今の正太郎は話すことしかできなかった。

「ずっと心配してたんだよ!正太郎に分かる⁉良くなってほしいのに聞いてもらえない私の気持ちが!」

ノアは興奮した様子で仰向けの正太郎の上に馬乗りになり、両頬を掴んだ。互いに至近距離で見つめ合う形になった。

「私は正太郎を守るって決めたの。正太郎が自分を守らないなら、私がやらないと。一度決めた以上、今更止めるなんてできない。私は、私の願いを叶える…!」

「白木…!」

正太郎はそれ以上話すことができなかった。ノアが右手で正太郎の口を押さえつけたからだ。そして、ノアは左手から右手の甲に血を垂らした。少し時間が経ったので手首からの出血は減っていたが、まだぽたぽたぽたぽたと持続的に落ちていき、ノアの右手、そして正太郎の口を濡らしていった。

「ん、ぐ…。」

正太郎は口をしっかり閉じていたが、ノアの親指が容赦なく口に差し込まれた。ノアを傷つけるわけにはいかず、正太郎が口を緩めたその時、ついにノアの血が口内に流れ込んできた。

「げほっ、ごほっ…!」

「少し我慢して、正太郎。もうちょっとだから…!」

むせる正太郎を押さえつけながらノアはなおも血を正太郎に飲ませた。お互い血まみれになった二人の様子はさながら地獄絵図のようだった。

「う…。」

突然正太郎が呻いたかと思うと、まるで糸の切れた人形のように力が抜けて動かなくなった。さらに、床の魔法陣が赤い光を放ち、部室の中は血の海の中にいるような色になった。さすがに今のノアも驚いて正太郎を置き立ち上がった。

「な、何…?」

魔法陣の光はさらに強くなっていき、中心にいる正太郎も光っているように見えた。いや、よう、ではない。実際に正太郎の体も赤く光り始めていた。

「しょ、しょうた…⁉」

ノアは正太郎の様子を見ようとしたが、しゃがむ前に衝撃波を受けて魔法陣の外に吹き飛ばされた。そのまま床を転がり、椅子や机に当たりようやく止まった。

「う、う…。正太郎…。」

ノアは呻きながらも半身を起こして正太郎を見た。正太郎の体は赤黒い光を放ち、逆に魔法陣の光は弱くなっていた。魔法陣の光=力が正太郎に流れ込んでいるようだ。先程の衝撃波はその余波といったところなのだろう。

「…。」

ノアは呆然と光り輝く正太郎を見ていた。ここで初めて、自分がしたことは正しかったのだろうか、と思った。魔法使いの力を借りてシンを消すつもりが、正太郎も一緒に消えてしまうのではないだろうか。自分がしたことは実は間違っているのではないか?その疑問はノアを落ち着かせるに十分な効果があった。

 長く感じたが、実際に正太郎に起きた現象は短時間のものだった。いつの間にか正太郎、魔法陣、いずれの光も消え、蝋燭の火も消えていた。静かで真っ暗な部室の中で、ノアは体を起こし正太郎に近づいた。

「正太郎…。大丈夫、正太郎…?」

「…。」

ノアが声をかけても揺らしても、正太郎は目を覚まさなかった。実際には意識を失っただけで呼吸や脈拍は安定していたが、動揺しているノアには分からなかった。正太郎が二度と起きないような気がした。

「起きて、ねえ、正太郎…!」

ノアは正太郎にすがるように声をかけ続けた。正太郎に血を飲ませた時の恐ろしいほどの衝動的な力はどこにもなかった。何をすればいいのか、もう分からなかった。


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