第4章
第四章
生きるために最も必要なものは愛だ。人は愛し愛されることで満たされる。
自分ではなく他を愛することは素晴らしい。自分を愛することは容易いが、他を愛することは難しい。しかし、それ故に自分だけでなく相手も満たされる。
愛されることを望むよりも先に愛するべきだ。愛することの素晴らしさを分からない人間は誰にも愛されない。
今述べたことを忘れず、愛し愛される家族が永遠となるよう生きていこうと思う。
「はあ~…。」
教室の自分の席についたノアは頬杖をつきながら大きなため息を吐いた。周囲のクラスメイト達はちらりとノアを見たが、特に気にすることなく元に戻っていった。そんなクラスメイト達に少し苛立ちを感じつつ、ノアは次の授業の用意をするのだった。
正太郎と延が争って丸二日経ったが、正太郎は目を覚まさなかった。正太郎は寝ているというよりは昏睡状態に近い様子で、声をかけても揺らしても起きなかった。一応つねると少し逃避行動が見られたが、周りが心配になる眠りの深度だった。
正太郎の家族への説明も大変だった。一応シンが前もって説明したらしいが、真夜中にわざわざ家族を起こして、
『これから数日は目を覚まさないけど気にしないでくれ。病院には絶対連れて行くな。』
と、明らかに怪我をした状態で言い自室に引きこもったらしい。そのため、美琴とノアは事件翌日、まずフォローをする羽目になった。幸いノアは以前からの知り合いであり、美琴は初対面だが美人で有能な先輩として振る舞ってくれたので何とか信用してもらえた。今日も朝からノアが様子を見に行き、話をしてきたのだった。
「確かに2日くらい寝てるとか言ってたけど…。悪魔の言うことなんて信じられるのかな…。」
ノアは小さな声でぶつぶつ呟いた。シンと話したことで悪魔に対する多少の理解は進んだが、ノアにとって悪魔はまだ「正太郎を害するかもしれない存在」だった。
少しすると教師が来て、一時限目の授業が始まった。教師が話し始めると、いきなり教室の前の戸が開いた。
「すいません、遅くなりました。」
「え…!」
ノアは思わず立ち上がりそうなほど驚いた。戸を開けて教室に入って来たのは正太郎だった。しかも、3日前にできた怪我の痕(骨折に伴う添え木や三角巾、全身の打撲痕、内出血斑)はどこにも見えず、いつも通りの彼に見えた。
「2日休んでたみたいだな、連堂。遅刻はとやかく言わないが、体はもういいのか?」
「はい、お陰様で。ありがとうございます。」
正太郎は余裕のある笑顔を見せて言った。…いや、違う。正太郎ではない。
(あれ、悪魔、確か、シン、さん…⁉)
ノアは声が出そうになったが何とか堪えた。また、ノアほどではなくても正太郎、いやシンが出す余裕と迫力ある空気には教室にいる誰もが違和感を抱いていた。
「あ、ああ。じゃあ席につけ。えーと、どこまで言ったか。ああ、………。」
教師は戸惑いながら授業を再開し、シンは何食わぬ顔で正太郎の席に向かった。その時、シンは自分を睨む視線を感じてその持ち主と目を合わせた。その相手はノアだった。シンは視線を外して席につくと、音もなく苦笑したのだった。
授業が終わるとノアはすぐシンを教室から連れ出した。傍から見ても明らかに怒っていた。
「なんであなたが学校に来てるんですか⁉動けるなら正太郎に体を返して下さい!」
「待て待て、まだ体は治りきってない。骨はまだひびが入ってるし、筋肉もまだまだ再生途中だ。」
「じゃあ何で…⁉」
「寝てなくても治癒には問題ないレベルには回復したからな。とはいえ正太郎が出るにはまだ痛みが強い。それに精神的な意味でもあいつには休息がいる。だから代わりに俺が来たんだ。」
「…数日休んでも、あなたが数日来ても、正太郎はどっちでもいいと思いますけど。」
ノアは声のトーンを落としつつぼそりと言った。聞く限り、悪魔には悪魔なりの考えがあり、正太郎に危害が及んではいない、及ぼすつもりがないことが分かったので、怒りはかなり収まっていた。そして、ノアの嫌味な言い方にもシンは笑って答えた。
「そうだろうな。とはいえ、出席日数ってのがある以上、俺が授業に出て損はない。まあそう怒るなって。」
「別に怒ってない…!」
ノアがむっとして答えようとしたが、シンは既に教室に向かって歩いていた。ノアはシンの遠ざかる背中を悔しそうに睨んでいた。
午前の授業、昼休み、午後の授業が終わり、やっと放課後になった。そして部活の時間になるのだが、ノアは物凄く不機嫌そうだった。
「こんなに機嫌が悪いノアちゃんは初めてね…。ちょっと、あなたのせいでしょ。何とかしなさいよ。」
「余計悪化するだけだな。それより、俺に聞くことがあるから呼んだんだろ?何が聞きたいんだ?」
オカルト研究会にはノア、美琴、シンがいた。帰る予定だったシンをノアと美琴が部室に連れて来たのだ。
「そうね。色々あるんだけど、まずは呼び方ね。シン、でいい?」
「ああ。俺も美琴、ノアで呼ばせてもらう。」
「ええ?正太郎は名字で呼ぶのに、あなたは名前で呼ぶんですか?」
「分かりやすいだろ。名字も名前も所詮肩書きに過ぎないんだ。どう呼んでも大して意味なんてないぞ。それとあなたじゃなくてシンだぞ。」
「ぐ、ぐぬぬ…。」
余裕のシンに言い返され、ノアは悔しそうだった。美琴は困った笑みを浮かべながら話を続けた。
「全く…。じゃあ次ね。連君の回復具合はどうなの?ノアちゃんから聞いたけど、もう一回教えて。」
「いいぞ。見て分かる通り良くはなってるけど、まだ中身は傷んでる。だから正太郎はもう数日休ませる。俺の想定通りの経過をたどってるので問題ない。こんなところかな。」
「ありがとう。で、じゃあここからが本題。最近連君の周りで起きてるオカルトなことはあなたが原因なの?」
「…。」
言葉通りここからが本題のようだ。ノアも本気の目でシンを見ていた。どうやら二人は正太郎が聞いていない間に正太郎にはあまり聞かせたくない質問をシンにしたいらしい。
(愛されてるじゃないか、お前は。)
シンは心の中で正太郎に話しかけつつ質問に答えることにした。といっても、内容はつまらないのだが。
「残念だけど俺にはそんな力はない。正太郎に起きたこと、これから起きることは俺や誰かが狙ってのことじゃない。」
「でも、じゃあ何でこんな危険なことばかり起きるんですか⁉シン、さんが来るまで、正太郎は普通に暮らしてたんです。なのに…。」
「普通、ね。それは正太郎が望んだことだったのか?」
「え…。」
「正太郎は日々に満足して生きてたか?違うだろう。何かは言わないが、正太郎は乾いていた。望むことがあった。だから儀式が成功した。その時、運命という道ができたんだ。その道の上でどうなるかは他でもない、正太郎次第だ。そして、俺は道を行く正太郎を助けるだけ。それ以外に俺がすることは何もない。」
「「…。」」
すらすらと喋るシンの言葉を二人はしっかりと噛みしめた。そして、ノアはシンの言葉を自分なりに考え、さらに尋ねた。
「…でも、それなら正太郎の心がシンさんと混ざるっていうのは何なんですか。シンさんのせいで起きることなのに、それも運命だって言うんですか?」
「ああ。そもそも『俺』は呼ばれた時点で正太郎の影響を強く受けていて、根本の悪魔とは全くの別物だ。ある意味、俺はもう一人の正太郎だ。だから、俺と正太郎の精神が混ざり合っても何もおかしくない。正太郎にとっては自分から零れたモノを回収してるだけだからな。現に正太郎は最終的に自分がどうなっても構わないみたいだぞ。」
「え?」
「人格が混ざり一つになる結論は変わらない。変わるのは自分が『シン』となるか『正太郎』となるか、それとも新しい自分になるか、そこだけだ。だから正太郎にとってはどうでもいいことらしい。俺は正太郎に残ってほしいけどな。」
「…。」
ノアは複雑な顔でシンを見ていた。正太郎が悪魔に友好的なことは分かっていたが、こうしっかり会話すると確かに悪魔シンからは悪意を感じられなかった。そしてシンの話は簡単に信じられるものではないが、嘘を言っている様子はなく、ただ事実を説明しているだけに見えた。それに、美琴やノアは悪魔祓いについて調べているのに、正太郎自身は自分が消えても構わないと思っている。その事実はノアには辛いものだった。
「…ねえ、運命という道って言ったけど、連君はこれからも危険な目に会うの?」
ノアが俯いて静かになってしまったので、代わりに美琴がシンに尋ねた。正太郎の現在・今に至る原因、シンについては聞いた。後は正太郎の今後、未来に関してだ。そして、尋ねられたシンは考える素振りを見せた。
「そうだな。何が起きるのかは分からない。どれくらいのことが起きるかも分からない。言えるのはまだ何か起きるだろうってことくらいだな。」
「なんでそう言えるの?」
「企業秘密だ。悪いな。」
シンは笑いながら言った。ただ、その笑顔はこれ以上聞くなという圧を多分に含んでいた。正太郎の願い云々の話になるので仕方のないことだが、結果的に美琴は気圧されて黙った。しかし、今度は俯いていたノアが顔を上げた。
「…最後に教えて下さい。悪魔祓いって、シンさんに効果があるんですか?あるならした方がいいんですか?」
「ノ、ノアちゃん…。」
美琴は驚いてノアを見た。シンが圧をかけている最中にすごい勇気だと感心した。が、すぐシンが怒っていないかと思い、シンを見た。…シンが入った正太郎は一瞬きょとんとした顔になり、次に笑い始めた。
「ああ、お前達は悪魔祓いを調べてるんだったな。じゃあ教えておくか。魔術・魔法も同じで偽物が多いけども、本物の悪魔祓いなら俺を正太郎から引きはがして消せるはずだ。」
「そ、そうなんですか?」
「自分が消えるのによく答えられるわね…。」
シンは怒るどころかむしろノアに好意的だった。そのため美琴とノアはむしろ困惑していた。その困惑も面白く感じながらシンは話を続けた。
「今の俺は大本の精神生命体の分霊みたいなもんだ。消えても元が死ぬわけじゃない。しかも俺が消えること自体が運命として正太郎に価値がある出来事かもしれない。だからお前達は悪魔祓いを調べて、やろうと思えばやればいい。俺が消えても正太郎に大きな悪影響はないしな。まあ、勿論正太郎の同意がいるけどな。」
「…分かりました。ありがとうございます。」
ノアはシンに対して素直に頭を下げた。正太郎への心配、シンへの敵意から質問をしたが、シンの反応で毒気を抜かれてしまった。美琴も同様で、シンが悪魔にしては親切過ぎて拍子抜けしてしまった。
「悪魔なのに親切なのね。それならもっと早く色々説明してくれればよかったのに。」
「今回は正太郎の代わりに動いてるけど、この体は本来正太郎のものだ。俺は基本いるだけ。どうしても必要な時だけ正太郎に干渉するのが仕事だ。だから今日の話は宝くじに当たったくらいに思ってくれ。じゃあな。」
「あ、ちょっと…。」
シンは笑って話しながら立ち上がった。そして軽く手を振るとそのまま出口に向かった。美琴が引き止めるか見送るかわずかに逡巡したが、シンは立ち止まることなくすたすたと出て帰っていった。
シンが出て行き、オカルト研究会には美琴とノアだけが残っていた。
「…ノアちゃん、シンはああ言ってたけど、悪魔祓い、調べる?私は調べておいて損はないと思うけど…。」
「…。」
美琴はノアの様子をうかがいながら尋ねた。ノアが一番悪魔祓いを調べるべきと思っていたので、シンの話を聞いても調べるつもりなのか確認しておきたかった。
「…最近の正太郎って、結構会話が増えて、表情が分かることも増えましたよね。」
ノアは暗い顔で言った。
「え?そうね、確かに前よりも分かりやすくなったわね。まあ連君はあんなだから、すごく変わったとは思わないけど。」
「…私はすごく変わったと思います。ふとした表情や言葉、仕草が今までの正太郎じゃないんです。それが全て悪いこととは言いませんけど…。」
「ノアちゃん…。」
美琴は静かにノアを見守っていた。ノアの心にはきっと正太郎への心配と愛情、変化と未来への怖れ、シンへの不信感と嫉妬、多くの思いが渦巻いているのだろう。それらは多くがノア自身で折り合いをつける必要があるもので、美琴が手出しできるものではなかった。美琴としては、正太郎とノアがそれぞれ納得できる結果になることを祈るばかりだった。
正太郎はとてもすっきりした気分で目を覚ました。体に不調はなく、頭もはっきりしていて、近年稀にみる調子の良さだった。ただ、昨日まで何をしていたか、それをすぐには思い出せなかった。
「昨日は…、そうか。多分昨日じゃないな。延さんを消したのは。」
延と戦ったこと、痛みと疲れでかなり参っていたこと、シンと話したことを順に思い出した。
「シン、起きたぞ。色々ありがとう。」
シンからの返事はなかった。ただ、正太郎はシンが反応したことが分かった。延との闘いの結果か、それともしっかり休んだからか、シンが魂と呼ぶものの動きが今の正太郎にはよく分かった。…今は6時半。日にちは延と会って五日が過ぎていた。
「…下には二人、か。」
正太郎は落ち着いた様子で下の階に向かった。
一階の居間には正太郎の両親がいた。因みに、正太郎は両親と仲が良くない。正確には両親に対する愛情が希薄なので、どうしても他人のような態度になりがちだった。小さい頃は病院に連れていかれ、なんとかスペクトラムだの何だのと言われたものだ。一方の両親は至って普通で、両親に一向に懐かない一人息子に思い悩みつつも平凡に生きていた。
「おはよう。」
「え⁉」「へ?」
正太郎が挨拶すると、両親はびっくりして正太郎を見た。正太郎は不思議そうな顔で両親を見返した。
「二人共、どうかした?」
「あ、いや、何でもないの。おはよう、正太郎。」
「うん、気にしないでくれ。おはよう。」
「うん…。」
正太郎は曖昧に頷きながら自分の席に座った。
この五日間は両親にとって驚きの連続だった。どう考えても大怪我の正太郎が現れたことに始まり、正太郎が二日ほど意識不明になり、起きたかと思えば誰?と言いたくなるほど正太郎が様変わりしていた。正太郎が軽口を言ったり皮肉を言ったりするなんて、今後何が起こっても不思議ではないと戦々恐々としていたのだ。それが、今日は割といつものような正太郎が現れ、今まで自分から言った事などない「おはよう」を言ったのだ。ある意味で良い驚きに両親は直面していた。
「しょ、正太郎?何かいいことでもあったの?」
「え?いや、特には。体の調子はいいけど。」
「そうなの?…怪我、治ったの?」
母親はどこかおっかなびっくりした様子で食事中の正太郎に尋ねた。あまり聞きすぎると良くないのでは、と心配していた。
「うん。おかげさまで。心配かけて悪い。」
「い、いいのいいの。正太郎が元気ならそれで。」
母親は動揺しながら手をふって答えた。正太郎から「おかげさま」だの「悪い」だのが出るとは思わなかった。
「正太郎、部活の先輩と白木さんにはちゃんとお礼を言うんだよ。寝ている時、お見舞いに来てくれたんだから。」
「…ああ、そうなのか。分かった。またお礼を言っておく。教えてくれてありがとう。」
「ああ。…。」
父親は返事をしながら母親と目を合わせた。食事中の正太郎は雰囲気こそいつもの正太郎だが、その返事はいつもとは違った。まるで普通の高校生と言っても過言ではなかった。両親としては嬉しいことだったが、如何せん理由が不明なのでまだ素直に喜べなかった。
『…次は〇県の一家殺人事件についてです。』
「…。」
不意にテレビから気になる音が流れたので、正太郎は無関心な風を装いつつテレビを見た。
『〇市に住んでいた男性とその両親が殺害された事件で、警察は延綾香容疑者を重要参考人として指名手配しました。延容疑者は被害者男性が起こした交通事故被害者の家族であり、現在行方不明となっています。被害者宅周辺の監視カメラで延容疑者の姿が確認されていて…。』
「…。」
「物騒な事件だよね。何でも家族三人がばらばらに惨殺されたとか…。でも、犯人は女性なのか。女性にそんなことができるものなのかな?」
「さあ…。でも同じ県だから怖いわ。正太郎も気をつけてね。」
「…分かった。」
正太郎は母親に答えつつ珈琲を飲んだ。視線はずっとテレビに注がれていた。
正太郎は食後すぐに家を出て学校に向かった。「行ってきます」と言う正太郎に両親は今日何度目かの驚きを見せた。その時は不思議に思った正太郎だったが、今はもう延のことを考えていた。
「監視カメラに映ったのは多分違うな。」
あの時の延の様子だと、延は力を使い続けていただろう。魂は電子機器に影響するから、画像は曖昧にしか映らない。きっと…。
「…いや。これ、俺の記憶じゃないな。」
正太郎は淡々と呟いた。前も似たことはあったが、今回は知識がよりはっきりしていた。それなのに、自分の知らなかった知識に対して戸惑いがなかった。例えるなら、「部屋に見知らぬものがあることに気付いたが、それが何かを理解しているので問題なし、とでも表現できるだろうか。
「シンとの混ざりが一層進んだんだろうな。」
正太郎は一人あっさりと納得して頷いた。歩みは止まることはなかった。
先の美琴の指摘通り、正太郎はシンと意識が混ざっていくことに恐れはなかった。シンと混ざりつつあるお陰なのか、一部のものは無意味ではないと思えるようになった。自分の心が少し動くようになった。このままいけば、「自他に意味を見出す」ことができるかもしれない。そんな自分の望みが叶うなら、その後この体が誰のものになるかなどどうでも良かった。むしろ、願いを叶えた例としてシンに体をあげても構わなかった。
「…まあ、シンはいらないだろうけど。」
正太郎は呟きつつ苦笑した。
正太郎が高校に着くと、おかしなことが起きた。
「おはよう、連堂。」
「おはよー、連堂君。」
「おはよう!」
何故か妙にクラスメイトが挨拶をしてくるのだ。しかもフランクに。
「おはよう(?)。」
正太郎は何食わぬ顔で挨拶を返したが、頭の上には疑問符が乗っていた。今まで、高校で正太郎に積極的に話しかけて来る人間はノアと美琴くらいのものだった。しかし、話しかけて来る生徒達は何故かやや親しげだ。中には少し世間話もしていく生徒までいた。
「…。」
正太郎がクラスメイトの対応をしていると、後ろの戸からノアが無言で教室に入って来た。ノアは疲れた顔で正太郎の方を一瞬見たが、正太郎の所には来ずに自分の席に座ってしまった。座った途端、ため息を吐いて机に突っ伏してしまった。
(…どうしたんだ?)
正太郎は横目でノアを観察していたが、彼女の様子がどうにも心配になった。それに、ノアがお見舞いに来ていたという父親の話を思い出した。結論として、正太郎は椅子を立ちノアの所に向かった。
(そういえば…。)
正太郎がノアの席に行くことはまずなかった。代わりにノアが日々正太郎の所に来ていた。
(…随分甘えていたみたいだな。)
少し反省した正太郎だった。
「おい、大丈夫か?」
「…うん。」
正太郎が尋ねると、ノアは顔を上げないまま答えた。いつものノアなら笑顔で答えそうなものだが…。
「…白木、調子が悪いなら保健室に言った方がいいんじゃないか?」
「!!正太郎⁉」
突然ノアはがばっと頭を起こして正太郎を見た。その目は驚きと喜びで輝いていた。心配していた正太郎が戸惑うほどだ。
「あ、ああ。俺だ。お見舞いしてくれたんだろ?それで礼を言おうと…。」
「こっち!こっち来て!」
ノアは正太郎の手を引き急いで教室を飛び出したのだった。
ノアは正太郎を連れて人目につかない屋上まで移動した。急いだせいでたどり着いた時にはノアは息を切らせていた。連れて来られた正太郎は逆に息切れ一つない様子だ。
「正太郎、本当に正太郎だよね?」
「ああ、俺だ。シンじゃないぞ。」
「良かった…!やっと目が覚めたんだ!」
「心配かけて悪かったな。こんなにずっと寝るとは思わなかった。」
「そうだよ!心配したし、昨日も一昨日も大変だったんだから!」
「?俺がいなくてそんなに大変か?」
「いやいや、正太郎のことじゃなくて。シンさんのことだよ。」
「シン?シンがどうかしたか?」
正太郎とノアは複雑な顔で顔を見合わせた。どうやらお互いの認識に齟齬があるようだ。
「正太郎、もしかして、昨日一昨日のこと、知らない?」
「知らない。もしかして、シンが動いてたのか?」
「そうだよ!大変だったんだから…!」
と、ノアは握りこぶしを作って力説した。
結局、ノアはシンに対する文句を言い続けた。以下、ノアの言葉をまとめ、シンがやらかしたことを箇条書きにしたものである。
・雰囲気が全然違うまま素で他人と話した。
・窓の外を見ていて怒られたのに、流れで来た質問にすらすら答えた。
・外国人教師と普通に英語で会話した。
・体育ですごい運動能力を見せた。
・色々目立った後にまだ他の生徒と話した。
・そもそもシンが高校に来ることが駄目。
ノアの主張はこのような感じだった。
「だからクラスの奴等が話しかけてきたんだな。シンが二日間で目立ったから。」
「そう!なんか雰囲気変わったとか、実はすごいんだなとか色々言われてたんだよ!そのくせ余裕綽々の態度でずっといるんだから…。」
「ま、まあ落ち着けって。大変だったな。」
ノアはこの二日間でストレスが溜まり過ぎたらしく、体から黒いオーラが見えるようだ。正太郎はとりあえずノアを労うしかなかった。
「とにかく!シンさんが好き勝手したせいで正太郎が不思議な人になってるの!風評被害甚だしいんだから!」
「別に俺は気にしないぞ。誰にどう思われても関係ないからな。」
「甘い!甘すぎる!」
「ええ…。」
ノアが大きな声で主張するので、正太郎はたじたじだった。不満や怒りはなかったが、ノアがどうしてこんなに怒っているのかは不思議だった。
「なあ白木、シンは悪魔だとか言ってるが、それほど悪い奴じゃないぞ。俺達と考え方は多少違うけど…。」
「それは分かってる。けど、正太郎こそ分かってるの?このままシンさんと一緒にいると、自分が自分じゃなくなっちゃうかもしれないんだよ?」
「それはそうなんだけどな…。でも、俺は長生きにも幸せにも興味ないからな。だから別にシンがこの体の持ち主になっても文句はないぞ。心を飲み込まれたところで痛くも痒くもないらしいしな。」
「そんな…。」
正太郎からは特に嘘を吐く様子は見られなかった。つまり、本気で言っていた。ノアは言葉に詰まったが、すぐに聞き返した。
「じゃ、じゃあ正太郎は何がしたいの⁉何か願いがあったから悪魔が来たんでしょ⁉それもできなくなるんだよ!」
「大丈夫だ。俺の願いはきっと叶う。そんな気がする。」
「気がするって…!」
ノアは頭がくらくらして来た。正太郎の考えと行動はあまりに彼自身を軽んじているように思えた。それに、自分の願いを言ってくれないことも誤魔化されているようで不満だった。
「…もういい!正太郎はシンさんと仲良くしてたらいいよ!好きにしたら!」
「お、おい…!」
ノアは言うだけ言って屋上のドアから校舎に走っていってしまった。正太郎はノアの怒りが今ひとつ理解できておらず、追いかけることを躊躇ってしまった。結局、屋上には正太郎だけがぽつんと残された。
「…あー、もう!」
ノアは歩きながら天を仰いだ。腹が立って思わず高校から飛び出してしまったが、落ち着いてくると馬鹿なことをしたなと思い始めたのだ。
「学校に戻る気はしないし、もう二時間目も終わりそうだし…。」
はあ、とノアはため息を吐いた。幸いスマホと財布くらいは持っているが、この時間に制服で出歩いていると、下手すると補導ものだ。行きたい場所もなく、仕方ないので偶然たどり着いたベンチで一休みすることにした。
ノアは走って疲れたので、座るとしばらく何も考えずぼんやりしていた。時々ふわりと風が吹き、ノアの体と頭を冷やしてくれた。
「正太郎はどうしてるかなあ…。」
ノアは自分の足元を見ながらぽつりと言った。やはりまず思うことは正太郎のことだった。置いて来てしまったが、正太郎は授業に戻っただろうか。正太郎も遅刻しただろうから、怒られただろうか。勝手に連れ出して、勝手に出て行った私を怒っているだろうか。それとも心配してくれているだろうか。
「って、さすがに甘いか。あはは…。」
「何が甘いんだ?」
「わわっ!」
いきなり後ろから声がしたので、ノアは思わずベンチからわずかに飛び上がった。慌てて振り返ると、そこには絶賛考えていた対象の正太郎がいた。
「正太郎⁉どうしたの、こんな所に。」
「どうしたも何も、お前を追いかけて来たんだ。魂を辿れるって話をしただろ。」
「そ、そう言えばそうだったね。でも私、勝手に出て来ちゃったのに…。」
「話の途中で出て行ったのに何もしないのは駄目だろ。俺の言葉に問題があったんだろうし。…まあ、理由は分かってないんだけどな。」
「…ふふっ。」
話の最後に申し訳なさそうにした正太郎を見て、ノアは思わずくすっと笑いが漏れた。正太郎はノアが出て行った理由を分かっていないようだ。それでも自分に問題があったと考え、わざわざ追いかけてきてくれた。…色々問題はあるが、今はそれで十分だった。正太郎は笑うノアを不思議そうに見たが、すぐに真面目な顔に戻った。
「白木、色々迷惑かけて悪い。ただ、俺もできることをしてる。今はそれで許してくれないか?」
「…うん。私も好き勝手言ってごめんね。」
「ああ。」
二人は互いに謝りあい、一旦話を終えた。何もかもこれで解決とはいかないものの、正太郎はノアが思っている以上に正太郎を心配していること、ノアは正太郎がシンと共にいる危険性をどう思っているかを理解できた。その意味では相互理解に役に立った喧嘩(?)となった。
「さて…、これからどうする?高校に戻るか?」
「うーん…。今さら戻ってもなあ…。って言ってもすることはないし…。」
一段落した後、することがない正太郎とノアは一緒にベンチに座っていた。ついでに正太郎が買っておいた飲み物を飲んでいた。
「うん。やっぱり学校に帰ろう。遊ぶにしても補導されないか気にしないといけないもん。…まあ、最初に外に出た私が言うことじゃないけど。」
「気にするな。じゃあ戻るか。」
「うん!」
正太郎とノアはベンチから立ち上がった。さあ歩き始めて、というところで不意にノアが動かなくなった。正太郎が振り返って確認すると、なぜかノアは少し離れた所を見ていた。
「どうした?何かあったの、か…。」
ノアに尋ねた正太郎も言葉が尻すぼみに小さくなっていった。
ノアの視線の先、20mほどの所に一人の男性が歩いていた。男性は40~50歳くらいのごく普通の人に見えたが、笑顔で話していた。一人なのに。
「あ、ごめん正太郎。あの人をちょっと見てただけ。きっとスマホで会話してるだけだよね。」
「…見ろ。」
正太郎は無言で男性を見ていたが、おもむろにノアの額に手を伸ばして軽く叩いた。ノアは少し驚きながらも正太郎の行動を見守っていたが、正太郎が手を離すと息を呑んだ。
「え…!黒い、影…?」
男性のすぐ側には影が一つ立っていた。影がそのまま立ち上がったかのような黒で、顔は分からなかった。ほぼ動かず、全身は地面から少し浮いていて、髪の毛や衣服はないように見えた。正確には、黒くて細い糸が全身に絡んでいるように見えた。
「しょ、正太郎。あれ、何…?」
ノアは少し怯えながら正太郎に尋ねた。病院の時、幽霊はほぼ普通の人のように見えるか、あるいは超常現象として認められた。今回も正太郎が何かして見えるようになったので幽霊の類なのだろうが、如何せん見た目が不気味だった。正太郎も顎に手を当てて考え中の様子だ。
「…幽霊なんだろうけど、なんであんな見た目なんだろうな。あの人の影響なのかもしれない。ちょっと近づいてみよう。」
「え?ええ…?」
正太郎は何食わぬ様子で歩き始めた。ノアも影が見えてない振りをしながら正太郎の後ろをついていった。男とすれ違う時、男は穏やかな笑顔だった。
「遥、結、疲れてないか?何かあったら教えてくれよ。折角の散歩で倒れるなんていけないからね。」
「…。」「…。」
正太郎とノアは男性の横を通り過ぎ、男性と離れた所で振り返った。まだ男性は見えていて、笑顔のまま口を動かしていた。影が言葉に反応しているのかは分からなかった。
「あの男は影が見えてるみたいだな。」
「うん。でも変なこと言ってた。まるで二人いるみたいな…。」
「ああ。あの影、もしかして二人分なのか?いや、魂は一つだけだ…。」
正太郎はしばらく考えていたが、やがて諦めた。今はこれ以上考えても仕方がない。
「予定通り学校に戻るぞ。時間的にはちょうど昼休みになるから、部長に相談してみよう。」
正太郎とノアは高校に戻るとすぐに美琴に男の件を相談した。また、高校に着くまでに近隣住民とした会話の中身も報告した。
『…で、偶然70くらいの女の人に聞いてみたんですけど、何も聞けない上に関わらない方がいいとか言って逃げられました。』
『それ絶対やばい奴じゃない…。連君はそれ、調べる気なのよね?』
『はい。調べないといけない。そんな気がするので。』
『ってことは、私やノアちゃんが駄目って言っても調べそうね…。もう、しょうがない。連君だけにさせるくらいなら皆で調べましょう。』
『…なんか、すみません。』
『本当よ。私もノアちゃんも心配してるんだから、危険なことはしないでね。で、調べ方だけど…。』
『近くの人に聞いて回ります?誰かは教えてくれそうですけど。』
『駄目駄目、ノアちゃん。目立つと相手に気付かれやすいから。うーん…。週明けまで待ってて。そこで情報源から聞いてみるから。』
………。
ということで、それから週が明け、あっという間に放課後になった。オカルト研究会にはいつも通り美琴、ノア、正太郎が集まり、美琴がホワイトボードを全員の前に置きながら話を始めた。
「さて、まずは調べた結果だけど、あの辺りの住所で40半ばの男、そして遥と結って名前。この条件でヒットするのは一人だけだったわ。」
「おー!さすがミミ先輩!で、誰なんですか?」
「うーん…。聞く?」
何故か美琴は珍しく煮え切らない態度だった。正太郎とノアは不思議がりながらも頷いた。
「はい。」
「私も聞きたいですけど、どうかしたんですか?」
「いやまあ、ちょっと内容がね…。」
美琴は言い淀んでいたが、少しすると全身に力を込め気合を入れた。
「よし!分かった、話すわ。男の名前は真庭 壮一、普通の会社員だったわ。で、遥は彼の妻で、結は一人娘。それで、彼の過去を話すと、23歳で結婚、26歳で娘が生まれた。特に問題ない普通の生活だったらしいわ。」
美琴は淡々と説明していた。とりあえず、ここまでの話で言いにくい部分はなかった。
「そんな中、彼に不幸が訪れるわ。30歳の時、妻が二人目の妊娠中に感染症を起こして母子ともに亡くなったの。その時娘は4歳。」
「…。」
ノアは話を聞いて息を呑んだ。そんなことがあったら悲しくておかしくなることもあるかもしれない、とも思った。だが、美琴の話はまだ続いた。
「それから彼は再婚もせずに娘の結と二人で生活してたわ。表向きは普通に。でも、時々変なことを言ってたみたい。『妻が待ってるから帰る』とかね。」
美琴は一度話を止めて息をついた。ここからがしんどい、というか嫌悪感を抱かざるを得ない部分だ。
「で、次の変化は娘が15歳、彼が41歳の時。何があったかというと、結が自殺したの。遺書を残してね。遺書の中身だけど、父親はおかしくなっていて、ずっと自分を妻の遥として、娘の結として見ている。5歳ごろから性的虐待をされていた。何が正しいのか、自分が何を思っているのかが分からなくなった。…こんな感じね。」
「な…。」
正太郎とノアは顔をしかめていて、それを見た美琴は小さく頷いた。二人の反応は当然のもので、自分も話していて気分が悪かった。しかし、まだ続きがあった。
「娘がどう思っても児童虐待、性的虐待は犯罪よ。だから彼は逮捕された。でも逮捕時には『今も娘と妻は隣にいる』、『自分は妻も娘も愛している。だから愛し合うのは当然。』とか、幻聴、幻視でもうおかしかったらしいわ。結局彼は統合失調症と診断されて責任能力なし、そのまま精神科病院に入院。以後入退院を繰り返して、5年経って今が46歳。これが真庭壮一の経過よ。」
「…。」
正太郎は後味の悪い、何とも不快な気分だった。児童虐待の話は聞いて嫌になるものだが、それ以上に…よく分からない。とにかく、かつてない不快感だった。そして、言葉の出て来ない正太郎の代わりにノアが美琴に言った。
「あの…。じゃあ、あの人は罪を犯したけど、家族以外には悪さはしないってことですか?」
「今のところは、ね。二人は変な黒い影を見たんでしょ?これが5年前から見えてるなら変化がないってことだけど、ここ最近見えるようになったのなら変化があったってことで、何か起きるかもしれないわ。」
「…因みに、あの辺りで不審な事件はあったりしますか?」
「いいえ、何も。調べたけど、真庭氏は現在無職。してることは独り言を言いながら外をふらふらと出歩くだけよ。」
「そうですか…。」
正太郎は目を閉じて情報を整理した。妻が死んだことで精神を病んでしまった結果、娘と妻を混同して性的虐待を続けた男。妻と娘に対して異常な執着があるだけで、それ以外の人間はどうでもいいのだろう。あの隣の影が誰なのかはまだ不明だが、恐らく『彼女』以外に被害が及ぶことはない。
(…けれど。)
現実世界に被害はない。ないが、何もしなくていいとはとても思えなかった。正当防衛ではない。正義感でもない。それでも…。
「正太郎?」
「え?」
ノアが心配そうに正太郎を見つめていた。正太郎はいつの間にか難しい顔で黙ってしまっていた。首を振り、形のない嫌悪感を振り払った。
「悪い、ちょっとぼんやりしてた。とにかく、あの人は幽霊を連れてるだけで害はない、ってことか。」
「そういうことだね。…じゃあ、特に何もしなくてもいいってこと?」
「…まあ、そういうこと、だな。」
「まさか幽霊に、その、変なことはしないだろうし、実害はないんでしょうね。周辺の人達も気味が悪いってことで敬遠してるだけらしいわ。」
「なら、正太郎が何かする必要はないってことだね。良かった…!」
「…。」
ノアがほっとしている横で、正太郎は納得できていなかった。ただ、自分でも何が引っかかっているのかが分かっておらず、何も言えなかった。結論として、真庭は一旦様子見、時間をおいてもう一度様子を調べてみるという方針になった。正太郎も今以上にノアや美琴に迷惑をかけたくないので、その方針に同意した。自分の中でくすぶっているものには気付かないままだった。
………。
正太郎は暗い所にいた。正確には、暗い世界を遠くから見ていた。体は闇の中を歩き、そこかしこでわずかに落ちているヘドロのようなものに手を伸ばしていた。
(泥…?じゃない、あれは…魂…?)
あまりに淀み濁っているのでヘドロのようになっているが、闇に落ちているものは魂だ。これだけ汚れた魂は滅多にないだろう。
「ちっ、そこら中にまき散らしているのか。足で調べるしかないな…。」
…シン?
「…。」
正太郎がぽつりと呟くと、見ていた自分の体が不意に振り返った。と同時に正太郎の視界は暗くなり、意識が閉じていった。不安や恐れはなかったが、自分の体がすまなさそうな目をしていることが気になった。しかし、その真意を聞くことはできず、正太郎の意識は落ちていった。
………。
「正太郎、起きて。正太郎。」
誰かが呼んでいるが、眠たい。体を揺らされているが、まだ睡眠への欲求は強かった。
「もう放課後だよ。部活に行くから起きて。起きないと…色々しちゃうぞ~?」
「…。」
相変わらず誰かが起こそうとしていた。眠たいが、こうも話しかけられると起きるしかない。ということで、正太郎は半分寝たままで体を起こした。
「ようやく起きた。おはよ、正太郎。」
「…おはよう。」
正太郎は寝ぼけまなこをこすりつつ答えた。その姿は小さな子供のようで、ノアにはとても可愛らしく見え、にこにこしながら正太郎の手を取った。
「ほら、部活に行くよ。連れてってあげるから行こ?」
「ああ…。」
連れていかれる正太郎は母親に手を引かれる子供のようだった。
オカルト研究会部室にたどり着いてもまだ正太郎は眠そうだ。今日は正太郎達が真庭壮一について話をしてから一週間が経つ週明け。そして、正太郎はこの数日ずっと眠い状態が続いていた。昨日一昨日より今日はさらに眠かった。
「なんでそんなに眠たいのかしら。夜更かしでもしてるの?」
「…いや、11時には寝てます…。」
美琴に答えつつも正太郎の目は閉じそうになっていた。そんな正太郎を起こすため、ノアは正太郎の隣で彼の横腹をつついたり頬を軽く引っ張ったりしていた。
「これはこれで可愛いですけどね。」
「その意見は同意するけど、ずっとこれじゃあね。最悪、事故なんてこともあるし。」
「そ、それは駄目ですね…。」
事故を想像したのか、ノアは少し顔を強張らせた。甘く見過ぎていたことを少し反省した。
「ね?ってことで連君、何か心当たりない?」
「…最近、起きると寝る前より疲れてるような気がします…。」
「途中で目が覚めちゃうとか?」
「…いや、そんな覚えはない。」
「じゃあ何が悪いんだろ?眠りの質とか?」
「そうねえ…。」
考えるノアと美琴だったが、ふと美琴の頭にぴこんと閃きが生まれた。
「そうだ、シンは?確か夜遊びしてるって話でしょ。シンが何かしてるから眠いんじゃない?」
「ええっ?」
美琴の説を聞いたノアがすごい顔をした。元からシンに良い印象をもっていないので、まさかあいつ…!というべき顔だった。
「…でも、今まではこんなにも眠くはならなかったです。」
「そうなの?なら違うか…。いや、でもまだシンに聞いてはないでしょ?」
「はい。そもそも聞いても答えないので…。」
「甘やかしたら駄目だよ、正太郎。正太郎が体の持ち主なんだから、シンさんに気を遣う必要なんてないよ。」
シンとしては正太郎の邪魔をしない、自分が影響を与えないようにするために正太郎と会話を控えているのだが、ノアにはシンが好き勝手しているようにしか見えないだろう。…事実、夜遊びの件においては好き勝手しているとも言えた。そのため、正太郎もぼやけた頭で頷き、ノア達に同意を示した。
「…分かった。なら今日夜聞いてみる。で、明日また話す…。」
それだけ言うと正太郎はこっくりこっくりと頭を揺らし始めた。美琴とノアはそれ以上聞くこともできず、心配そうに正太郎の寝顔を見つめていた。
正太郎は闇の中にいた。目に見えるのは自分の背中。また何かを探しているのだろうか。
(…また?)
今見ているものに既視感があった。以前も、夢のようなところで、自分が闇の中を進む光景を見た気がした。
(…気、じゃない。確かに見た。なのに、ほとんど思い出せない。)
せめて今何が起きているのかを知ろうと正太郎は闇を歩く自分に目を凝らした。すると、正太郎の体が肩越しに振り返った。ここにも少し既視感を持ちつつ、正太郎には振り返った相手が誰か、その魂でよく分かった。
(シン?お前、何してるんだ?)
質問がシンに聞こえたのかは分からない。ただ、シンは何も言わないまま頭を前に戻した。途端、正太郎の視界が暗くなっていった。
(この感じ、前も…!待て、シン!)
このままだとまた意識を失い、今見たことも忘れてしまう。正太郎はシンに向かって叫んだが、シンは何も答えなかった。
(シン…!くっ…。)
急激に視界が閉じていく中、正太郎は意識を失わないよう必死に耐えた。別にシンを問い詰めたいのではない。何がしたいのか、なぜ黙っているのか、ただ純粋に教えてほしかった。しかし、それでもあっという間に意識が及ぶ範囲は失われていった。正太郎は残念であり、悔しくもあり、心配でもあったが、どうあれそれら複数の気持ちを抱えたまま意識の蓋を閉じられたのだった。
「…何度も悪いな、正太郎。」
場所は町の中心から離れた所。シンは正太郎の意識を無理矢理抑え込み、淡々と呟いた。正太郎をシンが動いていることについては申し開きもない、完全にシンの独断だった。しかし、シンに正太郎を巻き込む気は全くなかった。今回はあくまでもシン個人の信条の問題だった。
「さあて、じゃあ待つか…。」
「ちょっと待って!」
シンが暗がりに向かおうとしたところで、急に後ろから声をかけられた。シンは正太郎とのことで周囲をあまり気にしていなかったので、近づいている相手に気付いていなかった。そのため、少し驚きつつ表面だけは冷静に振り返った。
―少し前―
ノアと美琴はノアの家で向かい合って座っていた。二人共真剣な顔だ。その中心には小さな電子機器が置いてあった。そして、その機械から持続的に音がしていた。
『………。よし、それじゃあ行くか。』
「「!」」
二人は驚いた様子で顔を見合わせた。
あまりに眠そうな正太郎を見て、ノアは正太郎にきっとまた変なことが起きていると確信した。そのため、ノアは正太郎が寝ているうちに美琴と話し合った。その結果、美琴が持っていた発信機(盗聴器完備)を正太郎の制服に取りつけ、ノアの家に集合してから正太郎の動向を監視していたのだ。…法的にはかなりよろしくないとは分かっていたが、結果的に正太郎の異常を発見することができた。
現在、夜の七時を少し過ぎたところで、正太郎は帰宅してからずっと同じ場所で動かなかった。恐らく着替えずに寝ていたのだろう。しかし、今は家の外に出て、どこかに向かっているようだ。ノアと美琴は美琴のスマホ画面を睨みながら話し合った。
「この時間に連君が制服で外出する理由、分かる?」
「正太郎は塾とかに行ってないので、何もないはずです。それにさっきの言い方も正太郎っぽくなかったから、きっとシンさんですよ!」
「やっぱりそうよね…。よし、私達も行くわよ!」
「はい!」
美琴とノアは共に頷き立ち上がり、そのままの勢いでノアの家を出て行った。目的地は当然、正太郎につけられたGPSの位置だ。そこには正太郎ではなくシンが何かしているだろう。まずはシンが何をしているかを確認して、それから二人でシンを止めるつもりだった。
結局、シンが家を出た後に正太郎は目を覚ましてしまい、シンによって再度眠らされた。直後、隠れてシンを監視していたノアが道に出て来てシンに声をかけた。そうして今に至っているのだった。
「へえ、ノアじゃないか。ここは電灯も人も少ない地域だ。危ないから帰った方がいいぞ。」
シンは一瞬揺れた心を落ち着かせ、冷静な声で言った。正太郎に似せたつもりだった。
「シンさんですよね。ここで何してるんですか?」
ノアはシンを睨みつつ聞いた。絶対に悪魔に負けないという意志を目に込めた。そのお陰か、シンはすぐに正太郎のふりを止め、苦笑しながら肩を竦めた。…どうやってかは知らないが、動きはある程度把握されているらしい。なら小手先の戦いは不要だろう。
「…さあな。そもそも正太郎にすら言っていないんだ。話すことは何もない。」
「なら無理にでも聞きます。正太郎の体は勝手に使わせま、せん!」
ノアは話し終わる前に手に握ったものを広げ、シンに見せた。シンはノアが何かしてくることは分かっていたが、余裕で対処できると思っていた。そのため、何気なくノアが見せて来たものを見てしまった。
「うっ…!それは…⁉」
シンは驚きつつ、足の力が抜けたようにしゃがみ込んだ。ノアが持っているものは大きめの布だった。そして、多種多様な色で描かれた魔法陣が描かれていた。
「ぐっ…!」
シンは何とか横っ飛びで魔法陣が見えない位置まで移動した。そのまま脱兎のごとく逃げようとしたが、また魔法陣が邪魔をした。
「何だと…。」
「…実験できないから半信半疑だったけど、ここまで効果があるなんてね。」
シンの右にあった茂みから魔法陣が描かれた布、そしてそれを持つ美琴が出て来た。美琴はノアと別の位置で隠れて待機していたのだ。そして、布を少し揺らしながら得意そうに言った。
「日頃の研究を舐めないでよね。私達の血と正太郎の髪の毛、その他諸々を使って作った対悪魔用の魔法陣よ。色んな文献を調べてようやくできたんだから。」
「…やるな。本来は地面に書くものを、まさか携帯して使えるようにするなんてな。驚いたぞ。」
「効くかどうかは賭けだったけどね。大人しく連君に変わったら?その方が楽に話ができるでしょ。」
「さあ、正太郎を返して下さい。それで、なんでこんなことをしたのか、きっちり説明して下さい。」
美琴は軽い口調ながらも魔法陣がシンに向くよう常に気をつけつつ、ゆっくりとシンに近づいた。ノアも同様にシンとの距離を詰めていった。傍から見ると不思議な光景だが、シンにとっては全身に重りをつけられたようなもので、少し動くだけでひどく大変だった。…しかし、全く動けないわけではなかった。
「…くく。惜しかったな。」
「「え?」」
美琴達が声を出した瞬間、三人がいた地面が一瞬消えた。すぐさま地面は戻ったが、それはもう元のものではなかった。綺麗に補装されていた道はアスファルトがばらばらに砕け、一瞬で凹凸激しい地面に変わっていた。
「きゃああ!」
「あわわっ!」
結果、美琴とノアは体勢を崩して転んでしまった。と同時に持っていた布もはらりと地面に落ちた。そして、動けるようになったシンは一目散に逃げ出した。
「ま、待って!」
「待ちなさい!」
ノア達が叫ぶが、既にシンは二人から離れた所にいた。跳び上がり木に登ったシンは一度ノア達に振り返ったが、すぐ顔を戻して木々の間に消えた。
シンに逃げられた美琴とノアは足元に気をつけながらゆっくりと立ち上がった。二人共悔しそうな顔だった。
「ああ、もう!折角捕まえたと思ったのに…!」
「シンの方が一枚上手だったわね。まだGPSがあるから追いかけられるけど…。ノアちゃん、どうする?」
「追いかけるに決まってるじゃないですか!って、先輩は反対なんですか?」
美琴に問われたノアは語気強く答えた後、少し冷静になって聞き返した。どうすると聞いてきた以上、美琴が追いかけない選択肢も検討していることは明らかだった。
「反対とは言わないけど、私とノアちゃんの二人組、そして魔法陣。こっちの切り札はもう出しちゃったから、以降でシンを捕まえるのは難しいと思うわ。その上で追いかける?ってこと。」
「…はい!追いかければ何をしてるかが分かるかもしれません。それに諦めて正太郎を放っておくなんてできません!」
美琴はノアの返事を聞いて少し笑った。実にノアらしい、真っすぐではっきりした答えだった。
「OK。じゃあ追いかけましょう。幸いシンはそれほど遠くには行ってないわ。すぐそこの…。」
「もしもし。少しいいですか?」
「「!」」
ここで新たな人物が登場した。シンから見れば『悪夢のような必然』が起きてしまったのだった。
跳び上がるほど驚いたノア達が振り返ると、そこには男が一人いた。そして、二人はその男に見覚えがあった。
((真庭壮一…!))
いつの間にこんな近くまで来ていたのだろう。思わず身構える二人だったが、真庭は穏やかな声で再度尋ねた。
「大丈夫ですか?ここだけ地面が荒れているので、何か困りごとでもあったのかと思ったんですが…。」
「あ、いえ、大丈夫です!気にしないで下さい!」
「そうです!心配して下さりありがとうございます!」
ノア達は慌てて頭を下げた。今はシンを追わないといけないのだから、真庭に構っているわけにはいかない。まして警察など呼ばれればもっと困る。そんな二人の思いを察したのか、真庭は落ち着いた顔で数回頷いた。
「…元気そうですね。結、心配しなくてよさそうだ。すいません、邪魔してしまったようで。」
「い、いえ…。」
「最近は物騒なので、つい。私も最近ストーカーに付きまとわれていて、家族も困っているんです。なあ、遥、結。」
「へ、へえ、そうなんですね。」
真庭はごく自然にいない家族に向けて話しかけていて、ノア達は顔を引きつらせながら愛想笑いをした。それで終わると思っていた。
「ええ。ちょうど今さっきあなた達と一緒にいた男の人です。知り合いですか?」
「え…。」
美琴もノアも、背筋が凍る思いだった。思わず真庭の顔を見ると、彼の目は凍るように冷たく、しかし口は穏やかに笑っていた。
「私は妻と娘を守る。だから教えて下さい。あの男は何がしたいのか。私の幸せを奪うつもりなのかどうか。」
「う…。」
「ノアちゃん!」
ノアは真庭に呑まれて動けなかったが、美琴が叫びつつノアの手を引いた。そのままノアを連れて逃げようとしたが、
「逃がさない。」
真庭がぽつりと呟くと、美琴もノアも動けなくなった。金縛りのように、動かそうとしても動かせなかった。
「家族に危害を加えないなら何もしませんよ。教えてはもらいますが。」
淡々と話す真庭が恐ろしかった。しかし、美琴もノアも何も言えず、涙も出せなかった。
シンはノア達からかなり離れた所まで逃げていた。ノア達が追いかけてくると考えたからだが、何故か二人は追いかけて来なかった。
「参ったな…。」
シンはため息を吐いた。計画が台無しになったこともだが、ノア達に行動がばれてしまったことの方が問題だった。
「明日は説明しないといけない。となると、動けるのは今日だけか…。」
シンは目を閉じてしばらく考えていた。そして目を開けた。その目には決意と殺意が込められていた。
「行くしかないか…!」
そうしてシンは再び走り出した。
美琴が真庭の話をした時、シンもまた正太郎の裏で話を聞いていた。そして正太郎が初めて真庭を見た時も起きていた。その結果、真庭を調べることにした。
(自殺も、強姦も、虐待も、それは個々人の問題だ。その場にいなかった俺がとやかく言うことじゃない。でもな…。)
死した心、そして遺された魂を弄ぶことは許さない。現実は理不尽で不合理、そして無意味だ。苦痛にまみれた世界の中、いつ死ぬかは分からず、死んでも世界は動かない。だが、だからこそ死後は自由でなければならない。勿論、幽霊達と戦ったように、彼等を消し去ることはある。しかし、あれは魂が行動した結果であり、自由の結果、責任だった。対して真庭は調べた範囲だけでもあの魂の自由と尊厳を奪い、犯している。人間はどうか知らないが、精神生命体である自分には許しがたい行いだった。だから、正太郎には何も言わなかった。「シン」と呼ばれる自分が動くべきことだと思った。
…真庭を調べた結果、今日、この時間、真庭は近くに神社があるあの道を通るはずだ。あそこは何をするにも一番都合がいい場所だ。一方、追いかけてこないので、ノアの奴等がまだいるかもしれない。しかし、それでも行く。行かなければならない。それが「シン」の意志であり望みなのだから。
美琴とノア、そして真庭はすぐ近くにあった神社に入った。社の中は手が入っていないのかかび臭く、暗かった。
「そこに座って下さい。」
真庭に言われると二人はすぐ従った。自分の意志ではなく、体が勝手に動いた。震えるほど怖かったが、互いの存在がわずかな勇気をくれた。そして、ノアは自分の口が動くことに気付いた。
「な、何がしたいんですか?」
「あの男の人について教えて下さい。何がしたいのか、どんな力があるのか。そのあたりのことを。」
「そう言われても、私達だって知りたいくらいなのに…。」
「大丈夫です。あなた達の同意は関係ないので。」
真庭がそう言うと、急にノアの様子がおかしくなった。両手を力いっぱい口に当てていたたが、口が勝手に動き始めた。
「彼は連堂正太郎。高校二年生。調べている理由は分からない。力は触ったものを消し去ること。彼にはシンという悪魔が取り憑いていて、正太郎の代わりに動いている。…な、なんで…⁉」
「あなたの心に命令しただけですよ。心は嘘が吐けないので。それにしても、魔法使いに悪魔に、世の中は不思議ですね。ああ、だからあんな布で動けなくなったのか…。」
「魔法使い?まさか、会ったんですか?」
美琴は「魔法使い」という単語に反応した。オカルト研究会部長だから、ではない。延の事件に魔法使いが関わっていたことを思い出したからだ。答えない可能性もあったが、真庭は驚くほどあっさりと答えた。
「ええ。元々あった力を強くしてくれたんです。お陰で家族と再会できたので、彼女には本当に感謝していますよ。」
「…彼女…。」
「ああ、今は関係ないことですね。お話ありがとうございました。ただ、彼がここに来るかもしれないので、あなた達は彼等とそこで座っていて下さい。」
真庭がそう言うと、ノア達の体に違和感が生まれた。座っている分にはある程度自由が利くが、大きく動けない。立ち上がることは全くできなかった。
「う、動けない?それに彼等って…?」
「ひっ…!ミミ先輩、あ、あれ…!」
動けないことに戸惑う美琴。その横で、ノアが悲鳴に近い声を漏らしつつ、美琴の袖を引っ張った。
「どうしたの、って、うっ…。」
視線を向けた美琴は吐き気で口を押さえた。暗闇に慣れてきた目が見たのは半分白骨化した人間の死体だった。死体は積み重ねられた骨の上にあり、遺された衣服を見るに二、三人分の骨が捨てられていた。臭いがなかったことは幸いだったが、死を見たことがないノア達には死体は恐怖そのものだった。
「な、何で死体が…?」
「彼等は私の家族を馬鹿にしたんですよ。そんな人間、死んで当然ですから。そうでしょう?」
真庭は穏やかな笑顔で美琴達に話しかけた。真庭の笑顔からは狂気しか感じられず、美琴達は心の底から恐怖を感じたが、機嫌を損ねるとそこの死体の仲間になりかねず、何とか曖昧に頷いた。
その時、真庭の様子が急に変わった。突然、隣の虚空に向けて話しかけ始めた。
「結、どうしたんだ?具合でも悪いのか?」
「…。」
真庭は完全に美琴達を無視して話をしていた。ノア達は身を寄せ合いながら様子を見た。
「…ああ!私が他人とばかり話しているのが嫌なのか。それは悪かった、遥も悪かったね。二人に寂しい思いをさせてしまった。」
真庭は何かを抱くように両腕を回した。まるでそこに人がいるようだ…とノア達が感じていると、なんと以前正太郎のお陰で見えた人型の影がぼんやり見えてきた。驚くノア達を余所に、影は身じろぎもせず真庭の腕の中にいた。そして、ノア達も影も無視して真庭の独り語りは続いた。
「私は誰よりも二人が大切だ。愛してる。お前達以外なんてどうでもいいんだ。…そうか、言葉だけじゃ足りないね。ちゃんと行動で示さないと…。」
「…ぇ…。」
目を疑う光景だった。真庭はおもむろに影の口がありそうな場所に口づけすると、影の体をまさぐり始めた。
「ノアちゃん、見ちゃ駄目…!」
美琴は咄嗟にノアの頭を胸に抱え、自らも顔を背けた。そこから先は見なかったが、吐息、衣擦れ、動く音、「結、遥、愛している」という真庭の声。全てが気持ち悪く、汚らわしかった。もしたった一人で捕まっていたなら気が触れてしまっただろう。
「…はあ。良かったよ、二人共。」
ようやく行為が終わり、真庭が満足そうに息を吐いた。美琴達は少しだけほっとしたが、まだ真庭を見なかった。嫌悪感で吐き気があり、とても見る気分にはならなかった。
「これで安心できただろう?私の愛情が本物だってことが。あなた達も分かりましたか?誰にも引き裂けない、私達家族の絆を。」
「…わ。」
バギィィッッッッッ!
美琴が答えようとした時、いきなり真庭のすぐ脇の壁が吹き飛び、破片が真庭を襲った。真庭は素早く後ろに跳んで躱したが、今度は大きな塊が真庭に突進した。言うまでもなくシンだった。
「はあぁぁ!」
シンは一瞬で距離を詰めると凄まじい気迫と共に回し蹴りを繰り出した。しかし、真庭の頭まであとわずかというところでぬっと影が現れ真庭を庇った。防がれたシンは一旦下がり、体勢を整え真庭と睨み合った。勿論、背中で美琴とノアを庇うことも忘れなかった。
「シン!」「シン、さん…。」
「遅れた詫びは後だ。とりあえず無事だな。そのまま動くなよ。」
シンは返事を待たず一気に言った。二人を気にする余裕はなかった。反対に、真庭は隣に影を侍らせ、冷静ながらも怒りに満ちた様子でシンに話しかけた。
「来ると思ってたが、本当に来たな。私に付きまとって何がしたいんだ?私の家族に手を出すなら、殺す。」
真庭は狂気と殺意に満ちた視線でシンを睨んだ。しかしシンは怯むことなく、むしろ笑顔で答えた。
「お前の想像通りだよ。俺の基準で言えばお前はクソ以下の以下だからな。」
真庭の視線がさらに冷たくなり、空気が凍った。そんな緊張の中で、真庭とシンは微動だにせず睨み合っていた。
「…。」
先に動いたのは真庭だった。といっても真庭は目を細めただけだ。しかし、それだけでシンの体は糸が絡みついたように不自由になった。動かそうとしても簡単ではない。心に「動くな」と命令されていた。
(他人の心や魂を考えるだけで操る。随分と腐った力だ…!)
シンは心の中で舌打ちして無理矢理走った。動け・動くなと相反する命令のせいで関節や靱帯はきしみ、筋線維は傷ついていくが、理性で苦痛を抑えつけた。しかし、影が真庭に近づこうとするシンの邪魔をした。壁となり、盾となり、鈍器となり真庭を守った。シンはシンで影に触る機会があったのに触れることはせず、何故か格闘術で影とやり合っていた。
結局、シンは真庭の元まで近づけず、また元の位置に戻り息を整えていた。真庭はシンを蔑むように見た後、影を愛おしそうに抱いた。
「どうだ?私は家族を守り、家族もまた私を守ってくれる。これも私の愛の力だ。誰も助けてくれない悪魔とは違う。」
「ちっ…。」
シンの舌打ちを同意と捉えた真庭は勝ち誇った笑みを浮かべた。しかし、すぐに冷静な表情に戻り思案した。
「それにしても、人間じゃないせいか力の効果が弱いな。これじゃ埒があかない。結も疲れてしまうし…。よし。」
真庭は片腕を上げてシンに向けた。シンはまた力を使うか、と身構えたが、降りかかったのは命令ではなく意識の不明瞭化だった。
「ぐっ…。こ、これは、正太郎…?」
自分の意識が曖昧になっていく。と同時に、奥に眠らせた正太郎が覚醒しないまま意識の前面に出ようとしていた。
「そうだ。体の持ち主の意識を引きずり出した。どちらも中途半端な状態に置けば、どちらも何もできないだろう?」
「ぐ、ぐ、ぐ…。」
シンは呻きながらもしゃがんで耐えていたが、ついには動かなくなった。意識を失ったのだろう。
「後は私がやろう。二人は彼女達を見ていてくれ。邪魔されたくないからね。」
そう言うと真庭はゆっくりとシンに近づいていった。影は真庭の指示通り、美琴達の目の前に立ち塞がった。ただ、美琴達は何もできなかった。延の時も同じだったが、蛇に睨まれた蛙の如く、ただ茫然と目の前の事象を受け入れることしかできなかった。
真庭はシンの頭元まで来ると、音もなくしゃがみ、手のひらサイズの金属片を拾った。
「私の家族に手を出そうとするからだ。殺してやるから、死ね。」
言い終わった直後、金属を握った手がシンの頭めがけて振り下ろされた。
「っ…!」
美琴もノアも思わず目を背けてしまったが、頭蓋骨が陥没する音はしなかった。現実の光景は二人の予想とは違っていた。
「まだ動けるのか…!」
真庭が振り下ろした一撃を止める手があった。正太郎の体はしゃがみ込んだまま腕を伸ばし、真庭の腕を強く掴んでいた。
「…まだだ、まだ終われない…!」
そう言ったのは正太郎なのか、それともシンなのか。どちらとも分からない状態で正太郎は真庭の顔を力の限り殴った。ただ、それはヒトとしての全力だったので、真庭はもんどり打って倒れるに留まり、死にはしなかった。倒れたまま呻く真庭に、正太郎が肩で息をしながらゆっくり近づいていった。
「これは俺が勝手に始めた戦いだ。正太郎は絶対に死なせない…!」
「う、ぐ…。」
痛みのせいなのか、真庭は力を使うことはなくシンから這って逃げた。しかし狭い社の中では逃げられず、壁に追い詰められた。
「今度は俺の番だ。まずは動けなくなってもらうぞ。」
「う、く、くそ…。…!」
パニック状態になりながらも真庭は壁に手をついて何とか起き上がった。そして、偶然美琴とノアが視界に入り、その瞬間、真庭の目に理性が戻った。
「は、ははは!やれ!」
真庭が叫んだと同時、シンは真庭の顔に向けてもう一度拳を振るった。どうあれもう一発食らわせれば真庭は何もできなくなる。真庭の力は冷静でいてかつ集中しなければ大したことができないと直感していた。そのため、真庭が何をしようとただ殴るのみでいい、はずだった。
「な、に…?」
全身がとてつもなく重かった。シンは立っていられず、床に膝をつき、手をついた。しかし、それでも耐えられず肘をついた。かろうじて動く首で振り返ると、そこには真っ青な顔で魔法陣が描かれた布を広げるノアと美琴がいた。どうやら残った力で二人に命令したらしい。
「あれを、知ってたのか…。しまった…。」
「ふ、ふふふ。運命は私に家族と生きろと言ってるんだ。そうだ、悪魔は死ねということだ!」
真庭はふらつきながらシンの腹を蹴り上げた。威力は弱かったが、シンは無抵抗に蹴りを受け床に転がった。そして真庭はゆっくりとシンの体にまたがると、その両手をシンの首にかけた。
「あ、が…。」
「さあ死ね。私のしあわせのじゃまをするな。わたしのあいをひていするな…!」
指で気道が潰れる。酸素が脳に行かない。体は重くて動かない。意識が消えていく。もう死ぬと理解したが、それでもまだ終われなかった。
(まだだ…!まだ生きる意味、生きた意味、いる意味、在る意味、何も分かっていない!まだ死ねないんだ!)
がしっ。
「…え。」
正太郎の手が真庭の手を掴み、そのまま手を首から離していった。呆然と正太郎を見下ろす真庭を力強い視線が貫いた。
「お前に殺されるつもりはない…!それと、俺達は一人じゃない!」
正太郎は真庭の腕をはねのけ、一気に体を起こすと同時に真庭の腹を殴りつけた。内臓が破れそうな一撃を受けて、真庭は倒れた。
「な、何故…?動けないはずだ…。」
「シンならな。俺は正太郎だ。人間に魔法陣は効かないんだよ。」
「体の持ち主…?どうして悪魔を…。」
「助けるに決まってる。シンと俺は一蓮托生、相棒だ。相棒を信じないでどうする。」
「…。」
真庭は目こそ開いているが、もう何も言わなかった。シンの予定通り、真庭の無力化に成功したのだった。
現実ではほんの一瞬だが、正太郎とシンは意識の世界で少し話をしていた。
『正太郎、なんで助けてくれた?』
『言っただろ。相棒は信じて助ける。』
『俺がしてることは人間にとって正しいことじゃない。それに、俺はお前に何も言わなかった。』
『そうだな。でも、[正しい]なんて人の都合で変わる。人間じゃないお前が縛られるものじゃない。何も言わなかったのは、まあ教えてくれれば良かったけど、お前はちゃんと考えた結果、言うべきじゃないと判断したんだろ。なら、その選択を責める気はない。』
『…そうか。ただ、どうあれ助かった。礼を言わないとな。…くくく、それにしても、お前も随分アウトローになったな。これも成長の一つなのか?』
『お前の影響だぞ。あと、社会が裁かない悪を俺達が、とかじゃないからな。』
『分かってるって。俺とお前に正義なんて必要ない。したいことをするだけだ。』
『ああ。だから後はお前に任せる。でも責任を押しつけはしない。俺も一緒に背負う。いいな?』
「…ああ、分かった。」
シンは目を細めて小さく呟いた。正太郎と話ができて良かった。そして、真庭の無力化もできた。後は…。
「…。」
ノアと美琴はまだ状況が掴めていないのか、脱力してへたり込んでいた。そして、彼女達とシンの間にはぽつんと浮かぶ影があった。真庭の力が薄れたのか、影に絡みついた糸は消え、純粋な人型になっていた。ただ、真庭が倒れていても影は全く動く様子がなく、シンが近づいてもやはり何の反応も示さなかった。
「ま、まて、待て…!」
真庭は動けないものの、かすれた声で懇願した。しかし、シンは真庭をちらりと振り返っただけで無視すると、目の前の影にゆっくり手を伸ばした。指先が影に触れた瞬間、正太郎とシンには影そのものが自分に流れ込んで来る感覚があった。
…父は元々優しかった。家族三人でいた時は幸せだった。けれど、母が死んでしまってから父はおかしくなった。優しいままだけれど、私のことを母の名前で呼ぶことが出てきて、おかしなことをするようになった。痛くて、苦しくて、気持ち悪くて、気持ちいい。何をされているのか分からず、嫌だったけれどただ受け入れるしかなかった。他の人もしているのだろうと思った。でも、本当は違った。現実を知って、分からなくなった。父の愛は本物なのか、誰に対しての愛なのか、自分が父を愛しているのか、嫌っているのか。私は父に正直に相談した。父は怒らず話を聞いてくれた。父は完全に狂っていたのに、それでも父だった。ただ、狂ってしまった父ではあまり助けにはならなかった。
そして、父と話してから、私もおかしくなった。体が自分の意志と噛み合わない。心が思っていたことと違うことを考える。正義と悪、愛情と嫌悪の境界がますます曖昧になり、その内、私がおかしくなったのかが分からなくなった。しまいには自分が自分なのか分からなくなった。
私は怖かった。自分を見失うことが。父を愛するだけ、あるいは嫌うだけになることが。悩むこと、苦しむことをしない自分が。だから死を選んだ。何もかも失い、奪われる前に、自分を守ろうと思った。そして気付いた。辛いこと、苦しいこと、悩んだことは苦痛であり幸福ではなかったが、私はそれらを抱えて生きていた。苦痛が私の生きた証であり、私を形作っていた。そう理解した時、私にも生きる意味があったのだと思えた。
今、私は父に囚われている。父の望むままに動かされ、愛を受け止めさせられている。けれど、私の根本は囚われていない。今の父はもう「私」を見ておらず、見ることもできないからだ。そんな父だが、私は今でも彼を恐れ、嫌い、憎み、そして愛している。苦しみは続いているが、それでも私はここにいる。誰も見ていなくても、最期まで私は私のままでいる。
「…くくく。はははっ。」
シンは笑った。同情など欠片もしなかった。
「ああ、それでいい!誰が否定しても、俺と正太郎が認める!真庭結、お前はここにいて、最期までよく生きた!」
そしてシンは影、真庭結に触れた手に力を込めた。笑いを止め、真剣な顔になった。
「お前の父親はここで止める。お前もこれで終わりだ。じゃあな。」
シンが力を使うと、結の姿は溶けるように消えていった。後には何も残らなかったが、シンは影が消える寸前、結の素顔を見ることができた。その表情は穏やかなものだった。
シンは結が消えてもじっとしていたが、しばらくするとゆっくり振り返った。
「あ、ああ…。結、遥…。」
振り返った先では真庭が目を見開き呆然としていた。目の前で起きた現実を受け止めきれないようで、不明瞭な呻き声を繰り返した。
「あ、ああ、あああ…。」
シンは無言で真庭に近づいていった。しかし、真庭は倒れたままでシンに反応を示さず、ただ虚空を見上げて呻くばかりだった。シンは真庭の頭元まで行き、ぽつりと言った。
「誰が、何が消えたのか、分かるか?」
「あ、あ、ああ…。」
「今のお前じゃ分からないだろうな。だから、今から分からせてやるよ。お前を壊して、な。」
シンは屈んで真庭の頭をわし掴みした。それでも真庭は何もしてこなかった。シンはその様子を蔑むように見下ろし、力を使った。力の結果、真庭は一瞬消えて再び戻って来た。シンは真庭を消して終わり、にはしなかった。
「え…?あ…。」
真庭は呆けたようにシンを見上げていて、見た目は特に消える前と変わらなかった。ただぽかんと口を開け、ぼんやりとするばかりだ。シンはしばらくの間冷たい目で真庭を見ていたが、やがて美琴達の方にくるりと振り返った。美琴達の近くまで来ると、両手をそれぞれ美琴とノアの前に差し出した。
「ほら、掴まれ。」
「あ、う、うん。」
「ど、どうも…。」
二人は少しあわあわとしながらシンの手を取り、立ち上がった。危機は去ったと分かってはいたが、戸惑った目でシンと真庭を見た。
「ね、ねえ。結局あの影は娘だったの?影とあいつをどうしたの?」
「ん?ああ、影は娘の魂だけだ。で、影は消して、真庭は壊した。見て分かるだろ?」
美琴としては、分からないから聞いてるんだけど、と言ってやりたかった。ただ、今は突っ込んでいる場合じゃないと自重した。
「つまり、行方不明事件の犯人と同じってこと?」
「あの時はまだ力の使い始めだったから人格全てが壊れたけど、今回は違う。今回はあいつの力と家族への愛情を壊した。」
「力と、愛情?」
「え…。それだけ?」
美琴は驚き、思わず疑問を口にした。壊す程度を変えられるのかという疑問はさておき、行方不明事件と比べて随分処罰が軽いと思った。勿論、被害者数だけ考えればかなり違う。それにもっと壊すべきと言いたいわけでもない。
「誰かを襲ったり、私達に復讐しに来たりは大丈夫なの?」
「あいつは家族への妄執だけで生きていた。生きる意味、喜び、希望。俺はそういうものを壊したんだ。…そうだな、意識も記憶もあるのに気力がなくて体を動かせず、死ぬまで苦しむ。そんな状態にしたんだ。」
「そ、そう…。」
美琴はシンの話を聞いて言葉に詰まった。つまり、シンは真庭が死ぬまで苦しみ続けるようにしたということだ。ある意味行方不明事件の時よりも厳罰であり、シンの真庭に対する否定的な感情がよく表れていた。
相手次第とはいえ、シンの残酷な行いに美琴は恐れを感じていた。しかし、ノアが感じていたものは恐れだけではなかった。
「…シンさん。あなたは結局、あの人をこうするために正太郎に黙って動いてたんですか?」
ノアの静かな言葉には正太郎を心配する気持ち、シンへの怒りが込められていた。これにはシンも真面目な顔で答えた。
「…そうだ。今回、俺は独断で動いた。その結果、正太郎とお前達を危険な目に会わせたのは確かだ。それについては申し訳ないと思う。本当に悪かった。」
シンは深く頭を下げて詫びの言葉を口にした。悪魔が頭を下げたことに美琴もノアも少し驚いていた。
「ただ、俺にも譲れない理由がある。その辺りの話も必要なんだけどな、今日のところは帰るぞ。もう夜も大分な時間だからな。」
「「え⁉」」
シンに言われて二人は慌ててスマホを取り出した。家を出てからいつの間にか数時間経っていた。
「やばいわ、早く帰らないと!今日は遅くなるとか何も伝えてないもの!」
「わ、私もです!」
「だろ。とはいえ夜道は危険だ。金は払うからタクシーで帰れよ。」
「そ、そうね。って、連君のお金でしょ!シンのじゃないじゃない!」
「違いない。」
シンはくく、と含み笑いを漏らした。因みにシンはすぐには帰るつもりはなかった。自分達の痕跡を消す作業があったからだ。
シンは美琴達に電話をかけさせつつ社から追い出すと、真庭を横目でちらりと見た。真庭はまだぼんやりと前をみているだけで、何も考えていない、考えることができない状態だった。だが、それも今だけだ。じきに自分が失ったものを理解する。そして終わらない苦しみが始まる。…正直なところ、存在を消し去る、あるいは完全に壊してしまっても良かった。だが、結は父親の死を望んではいなかった。真庭から結の記憶が消える、もしくはそれに近い状態になることは許せなかった。そして、真庭に最後に残った救いは結を結として見て詫びることしかなかった。
「お前はこれからどう生きるんだろうな。まあ、俺にはどうでもいいことだけどな。」
シンは静かに呟き、後始末に取り掛かった。




