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虚無の旅路  作者: けつ
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第3章

 第三章


 愛する人達、つまり家族と幸せに生きることが私の全てだった。そのためなら努力も我慢もできるし、できた。ずっとそうして生きる覚悟もあった。けれど、努力と我慢を続けなければならない状況は「幸せに生きる」と言えるのだろうか。また、どれだけ努力しても我慢しても家族を守れるとは限らない。家族を失った時、私はどうなるのだろうか。私の努力と我慢はどこに行くのだろうか。




 少女の幽霊と出会ってから二週間が経過した。正太郎も美琴も、翌日から普通に生活するように努めた。それが少女への供養になると考えた。ノアもその日の話を聞いていたので、二人に気にしつつもいつも通りの対応をした。

 しかし、今日はいつも通りとはいかないようで、珍しく正太郎達以外の人物が部室にいた。

「とりあえず先生、お茶です。ティーバッグですけど。」

「ありがとう、白木さん。」

男性教師がノアにお礼を言って、緑茶を一口すすった。

 彼の名前は海士陽介あま ようすけ。自他ともに認める普通の教師だ。といっても、不祥事だの炎上だのハラスメントだのが溢れる時代、普通は良いことかもしれない。事実、教師としての海士は教師と生徒から信頼されていた。そして、彼はオカルト研究会顧問でもあった。

 海士は緑茶を飲み、はあ~っとため息を吐いた。何だか疲れているようだ。

「えーっとだね、単刀直入に聞くんだけど…。最近、変なことしてない?」

「変なこと?」

「どれのことかしら…。」

ノアはきょとんとしていたが、美琴は真面目に考えていた。心当たりが多くてどれが変と言われているのかが分からなかった。海士は二人の様子を見てため息を吐いた。

「御夜霧さん、それ他の人の前で言わないでね。余計俺が怒られるから…。」

「私とまーさんの仲じゃない。毒を食らわば皿までっていうでしょ。」

「まーさん言わない。先生ね、先生。」

「はーい。」

海士と美琴は家が近く、昔から付き合いがあった。といっても幼馴染みなんて可愛く甘いものではない。海士は美琴の実験や儀式に付き合わされ被害を受けてきた側で、十歳以上離れているのに美琴の方が力関係は上だった。これは一般には知られていないが、オカルト研究会では周知の事実だった。

海士はもう一度ため息を吐いて、正太郎達を見た。

「話を戻すけど、最近皆の話がよく上がるんだ。御夜霧さんの手荷物がやばいとか、御夜霧さんと白木さんがやたら調べものをしてるとか、連堂君が机を素手で破壊したとか、嘘か誠かもはっきりしない噂がね。」

「…先生。それ、全部本当です。」

「ええー…。ま、まあそこは仕方ないか。それでね、注目を浴びたところに御夜霧さんの部費申請があったから、色々揉めてるんだよ。オカルト研究会は廃部にするべきって話が出てるんだ。」

「えー!」

「そんな!」

「へえ…。」

三人はそれぞれ別の反応を示しつつ、代表して部長の美琴が続きを話した。

「目立っただけで廃部なんてひどくない?部費申請も権利を行使しただけだし!」

「そうなんだけどね。そもそもオカルト研究会は部員が足りないのに許可されてるから、特別扱いだって批判があるんだ。しかも、御夜霧さんが色々前科持ちだから…。」

「ミミ先輩、色々やらかしてますもんねー。」

「まあな…。」

「ええ⁉そこは擁護してよー!」

ノアも正太郎も美琴を擁護できなかった。怪しい道具の持ち込み、魔術と化学の実験での異臭騒ぎ、部室外での怪しい儀式など、面白可笑しい事件は二人が知っているだけでいくつもあった。

「とにかく、このままだとここは廃部になるんだ。具体的には三週間後の職員会議で決定だね。」

「そんなこと言って、どうせまーさんのことだから根回ししてくれたんでしょ?分かってるんだから~。」

美琴はにやにやと笑いながら海士を肘でうりうりとつついた。…美琴の幼馴染みは大変そうだった。

「はあ…。俺はここの顧問だからね。皆の仲がいいことも知ってる。だから俺なりに頑張ってみた。」

「おお!」

「うんうん。で、その結果は?」

「何とか条件付き廃部にできたよ。一つは部員を六人以上にすること。それか、周りが納得するような成果を出すこと。このどちらかができればOKってことにさせてもらったんだ。」

あっさりとした説明だが、実際に条件を飲んでもらうにはそれなりに苦労があった。破天荒かつ超がつくほど成績優秀な美琴を正面から非難する者はいないが、陰で嫌う教師や生徒は存在する。そんな人々を含めた関係者の説得は骨が折れることだった。ただ、海士はその苦労を話さなかった。生徒が充実した学校生活ができるよう手助けすることが教師としての仕事と矜持であり、苦労を知ってほしいわけではなかった。…苦労を増やしてほしくはないが。

「部員か成果を、か…。」

「もっとごねてくれてもいいのに…。」

「まあまあ。問答無用で廃部よりはずっといいですよ。」

「ん…。ま、そうね。」

真面目な正太郎の横で美琴がぶー垂れたが、ノアに言われて顔を普通に戻した。ただ、本気で言っているのではなく、海士をからかっているだけだ。本当は、美琴は海士が尽力してくれたことをちゃんと理解していて、感謝もしていた。そのため、締めくらいはからかうことなく話すつもりだった。

 美琴は黙考していたが、少しするとがた!と音をさせて立ち上がった。

「よし!ありがとう、海士先生。お陰でやることは決まったわ。連君、ノアちゃん!皆でまずは部員を集める努力をするわよ。それと並行して、結果を出せる話題を私が見つけてくるわ。ということで、明日明後日は部活なし!三日後に皆で集まってもう一度話しましょう。いい?」



 三日後の放課後。

「全然駄目でした~!」

「俺も…。」

「私もー。」

 部室では正太郎達三人が勧誘で全滅していた。結局、一人も勧誘できなかったのだ。因みに、顧問の海士は今部室にいない。呼べばすぐ来るが、平時は邪魔になるとして部室にいなかった。

「一人くらい協力してくれてもいいのに。」

「…幽霊部員で誤魔化すか?」

「多分聞き取りされるんじゃないかな。で、幽霊部員だと分かったら嘘だとか言って廃部、とか。」

「リスクは犯さない方がいいか…。」

「仕方ないわ。時期的に、部活したい人ならもうどこかに入ってるもの。でも大丈夫。勧誘が難しいのは予想してたわ。」

美琴が部長然として話すと、大変格好良かった。ノアは尊敬の眼差しを美琴に向け、正太郎ですらもいつもの美琴を忘れそうになった。

「さすがミミ先輩!」

「じゃあ、もう一つの条件で行くってことですね。」

「そう。それで、私の情報網を使って見つけてきたのがこれよ。」

美琴は頷くと、話しながら美琴と正太郎に一枚ずつ紙を渡した。紙には簡単に「田辺病院 閉鎖個室と屋上の除霊」と書いてあった。

「除霊…。」

「田辺病院って、駅からちょっと離れた所にある病院ですか?」

「そう、それよ。私がそこの看護師さんと個人的に知り合いなんだけど、10以上前から使ってない場所があるそうなの。それが三階病棟の個室と屋上よ。ラップ音とか。黒い人影とか、寝てると重苦しくなるとか、まあ色々あったらしくて、結局封鎖してるままらしいわ。これを解決できれば病院は助かる、私達も廃部にならない。WinWinな関係ってことね。」

「ははぁー…。」

ノアが感心したように声を漏らした。一方、どういう情報網なんだという疑問は置いて、正太郎には聞くべきことがあった。

「除霊ってことは、俺の力を使うってことですよね?」

「ええ。でも除霊については無理強いしないわ。今回の調査、一番の目標は調査よ。何が、何故起きるか。対処法があるのか。まあ、それもやっぱり連君の協力が必要なんだけど…。」

美琴はわずかに迷うような素振りを見せた。やはり先の少女の霊のことがあり、強制はしづらい。しかし、オカルト研究会のためには協力してほしい。そんな美琴の気持ちが伝わったのか、正太郎は少し早口で答えた。

「あ、いえ、別にやりたくないわけじゃないです。必要なら除霊もします。ただ、しなくて解決するならそれでいいかと思っただけです。とにかく、俺も動きます。」

少女の霊と関わった正太郎には幽霊=必ず消す(除霊する)べきとは思えなかった。そのため、幽霊への対応に幅を持たせたかった。決して美琴の頼みを無下にしたいのではなかった。

「…ありがと。ノアちゃんもいい?」

「もちろんです!それに、もしかしたら私も幽霊を見れるかもしれないし!」

ノアは力強く頷いた。美琴を手伝うため、正太郎が心配なため、当然協力するつもりだった。また、美琴が経験した「幽霊を見る」ということに興味もあった。これはある意味でノアが悪魔という存在に慣れてきた証拠でもあった。

「うんうん。二人ともありがとね。よーし、じゃあ皆でオカルト研究会存続のため、病院の調査頑張るわよ!」

「はーい!」

「はい。」

ノアは大きな声で返事を、正太郎はしっかり頷いて美琴に応えた。目的と意識が一致したこの状況、正太郎は嫌いではなかった。



次の日曜、早速正太郎達は田辺病院に向かった。幽霊は夜に出そうだが、公園での騒動は昼過ぎのことだったので、まずは昼から調べることにしたのだ。

「で、ここが問題の個室ね…。」

看護師に連れられ、正太郎達は三階、入院病棟の最奥の個室前に到着した。使われていないからか、それとも他に理由があるのか、鼓室は入る前から何とも言えないプレッシャーを周囲に与えていた。

「な、何だか不気味な感じがする部屋だね…って、正太郎?」

ノアの声を聞きながら、正太郎は早速戸についた小窓から個室内を観察していた。

「どう?いる?」

「います。…よくなさそうなのが。」

「い、いるんだ…。それ、私とミミ先輩も見れる?」

「シンは反応しないから俺がやってみる。けど、できなくても怒るなよ。」

「教わったりはしないの?」

「ああ。シンは勝手だから、変に期待しない方がいい。まあ、時間が経つと自然に分かってくるからなんだろうけどな。」

「ふーん…。」

正太郎は少しくだけた調子でシンのことを語った。ノアはそんな正太郎の態度が面白くなくて、簡潔に返事をした。幸い不機嫌になったことは誰にも気付かれなかった。

「連君なら何とかなるわよ。じゃ、お願い。」

「はい。」

 正太郎は意識を集中して美琴、ノアそれぞれの額に指先で触れた。…美琴は前回シンがした感じでいい。白木も美琴と同じで、魂を認知できない。だから、仮で受容器を作る必要がある。指から相手に力を流し、その力で額からアンテナが生えるイメージで…。

「…小窓から中を見てくれ。うまくいってれば男が一人見えるはずだ。」

正太郎は目を閉じてノアと美琴の額を四回叩いた。そして、ノアは教えられた通り個室内を確認した。

「い、いる。本当に、何か変な感じの男の人が…!」

ノアは小声であわあわと正太郎達に結果を伝えた。驚きと恐れで顔色が少し青白くなっていた。美琴はそんなノアの様子を見て、むしろわくわくした様子で小窓に向かった。そして、やはり目をきらきらさせて戻って来た。

「いる。どう見てもやばいでしょ、って感じのがいる…!」

「で、でもこれでどうするの?何したらいいの?」

ノアは未知との遭遇のせいで動揺していた。正太郎はノアを落ち着かせるため、いつも以上に冷静かつしっかりした様子を見せた。

「まずは近づいてみる。いきなり襲ってくるようなら仕方ない。話せるようなら話してみる。それで十分だ。」

「だ、大丈夫?危なくないの?」

「まあ何とかなるだろ。それより、戸は絶対開けるなよ。見えてる時に襲われると怪我するらしいからな。」

「う、うん…。」

「連君、頑張って!応援してるわよ!」

正太郎は軽く頷くと、ゆっくりと戸を開けて個室に入るのだった。

 個室内では俯きながら立つ幽霊の隣に正太郎が立っていて、その状態で十分ほどが経過した。小窓からではよく見えないが、正太郎の口は時折動いているのに幽霊の口は動いていなかった。

「とりあえず戦いにならなくてよかったけど、何はなしてるんだろ?」

「そうねえ…。きゃっ!」

美琴が小窓を覗き込んでいると、個室内の電灯がいきなり破裂した。中から破裂音、衝突音といった異音が響き、入り口の戸もガタガタと揺れた。驚いた美琴の代わりにノアが慌てて小窓を見ると、そこはすごい状況だった。

「な、何、これ…。」

 個室の中は台風が来た後のようだった。ベッドは90度側転した状態で元の場所から移動していた。テレビは床に落ち、テレビ台は横倒し、蛍光灯の破片が床全体に散らばっていた。その中心で、幽霊と正太郎は相変わらず同じ姿勢でいた。

「規模がすごいけど、一応ポルターガイストね。物が勝手に動くってやつ。…あら?」

美琴が再び小窓から中を見つつノアに解説していると、美琴の口から妙な声が出た。さらに中で何かあったようだ。

 幽霊は顔を上げ、正太郎に頭を下げた。正太郎は真面目な顔でぽんぽんと幽霊の肩を叩いた。まるで幽霊を労うかのようだった。そうすると、幽霊の姿がふわりと消えた。幻かと疑うほどに一瞬で消えたが、部屋内には幽霊の痕跡がはっきり残っていた。

「連君!何がどうなったの⁉ねえ!」

 突然の解決に戸惑う美琴は戸を開けて正太郎に突撃した。ノアもおっかなびっくり部屋の中に入って来た。正太郎は二人を複雑な表情(困ったような、迷っているような顔)で見た。

「えーと、幽霊になった経緯を教えてもらって、昔を思い出した本人が爆発したけど、その結果落ち着いてくれて、本人の希望で俺が消した…って感じです。」

……?

「ごめん。よく分かんないんだけど、幽霊になった経緯から聞いていい?」

「あ、ええと、その、本人が誰にも言わないでほしいと希望してたんで、ちょっと話すのは…。」

「ええ?でも、それじゃあ今のふわふわな説明を学校にも出すことになるわ。そうなると説得力がなくなっちゃうじゃない。」

「そう言われても、一応約束したんで…。」

「はい、二人共ストップ!」

正太郎と美琴の会話が堂々巡りになりそうだったので、ノアが元気な声で割って入った。

「ミミ先輩。多分幽霊さんには後悔すること があったんです。だから思い出してうわーってなったんです。学校には『後悔してる話を聞いて、成仏した。詳細はプライバシーがあるので』とか書いたら何とかなりますよ。」

「そ、そうね。」

「正太郎は正太郎で答えられる部分を探さないと。ただでさえ正太郎は口下手なんだから、それ以上話さなくなったら何も言ってないようなものだよ。」

「まあ、そうだよな。」

「はい!じゃあ二人が分かってくれたから、これで話は解決!喧嘩しちゃ駄目ですよ!」

ノアは笑顔で話を締めくくった。学校の成績は良くないが、こういう時は頭が回るのだ。もちろん、それはノアが持つ一つの長所であり、実際に助けられているので正太郎も美琴も何の文句もなかった。まあ、喧嘩していたわけではないのだが、それはいいこととした。とにかく、これで病棟の閉鎖個室案件は解決した。


 次に、正太郎達は屋上に向かった。屋上の鍵を開けてもらい、重たいドアを開けた。屋上はそれほど広くなく、周囲には柵がしっかりつけられていた。

「屋上では何があったんですか?」

「元気だった入院患者が急に飛び下り自殺しようとしたらしいわ。理由を聞いても『自分でも分からない』と答えたそうよ。しかもそんな人が何人も出て、ついには一人本当に死んでしまったの。以降、屋上は閉めてるんだって。」

美琴がノアの質問に丁寧に答える一方、正太郎は話を聞きながら屋上を回り、軽く全体を調べた。

「…今のところ、怪しいものは何もないですね。」

「正太郎、私達もまだ見えるよね?」

「ああ、多分な。」

「私も何も見えないから、やっぱり今は何もないみたいね。なら、次は夜か。」

「夜まで待ってみますか?」

美琴の呟きに正太郎が反応した。待ちたくないのではなく、美琴の本気を確かめるためだった。そして、当然美琴は本気だった。

「私は確認した方がいいと思う。皆はどう?」

「俺も待ちます。何となくですけど、嫌な気配をこの屋上から感じるので。」

「二人が残るなら、もちろん私も残ります!」

当たり前のように全員が残ることになった。三人は似たところがないものの、集まっている様子は端から見ると上手く組み合っているように見えた。


 夜になった。因みに、夜になっても病院内で自由に行動できるあたり、美琴のコネと力は計り知れないものだった。美琴の凄さを改めて思い知りながら、正太郎は屋上のドアの前に立った。美琴とノアは少し離れた後ろにいた。正太郎は個室よりも嫌な感じを受けていたので二人には別の場所で待っていてほしかったが、観察したり写真をとったりする必要があると言われたのだ。やむなくドアを越えないことだけを約束させ、今に至っていた。

 正太郎は軽く息を吐いて、ドアノブを握った。…冷たい。

「…絶対にドアを越えてこないで下さいよ。白木もな。」

「分かってる。でも、気をつけてね。」

「正太郎、安全第一だからね。」

「ああ。」

そんなやりとりをして、正太郎はドアを開け放った。

 屋上は夜の闇で満ちていた。月も星の光もない夜だ。しかも、うすら寒い。

「…どこだ?」

注意深く周囲を見渡す正太郎だったが、暗いばかりで特には何もなかった。見えるものは薄闇ばかりだ。月や星が隠れているからだろうか。

「…ん?」

空は確かに雲で隠れることもある。しかし、町の光は?病院の屋上はせいぜい四階くらいだが、この高さで周囲の光がこんなに見えないものだろうか。正太郎が違和感に気付いた瞬間、闇が正太郎を包み込んでいた。


「ノアちゃん、出たら駄目だって言われたでしょ!」

「でも、正太郎が…!」

離れて見ていた美琴とノアは正太郎が闇に溶けていく様子も見届けてしまった。動揺したノアは正太郎の元に駆け寄ろうとして、美琴はノアを必死で制止していた。

「心配なのは分かるけど、行って何をするの?何ができるの?」

「そ、それは…。」

「考えなしに行っても何もできないわ。まず何ができるのか考えるわよ。」

「は、はい…!」

(とは言うものの…。)

美琴はノアを支えながら正太郎が消えた場所を見た。そこは闇が固まったかのような色をしており、正直解決する方法は見当もつかなかった。

「とにかく無事でいてよ…。」

美琴は祈るような気持ちで呟いた。


 苦しい

 痛い

 気持ち悪い

辛い

 嫌だ

 たすけて

「この声は…。」

 正太郎は闇の中で声を聞いていた。幸いなことに、闇に呑み込まれても正太郎は誰にも何もされなかった。真っ暗な世界で、ただただ声が聞こえてくるだけだった。

「一人の声じゃない。いや、声というより、魂…?」

正太郎は声をよく聞き取ろうと目を閉じ、耳に集中した。

『お腹が痛い』…これは子供。

 『死にたくない』…老人の声。

 『したいことがあったのに』…大学生。

 『健康な人が羨ましい』…これは中年。

 『家族と一緒にいたい』…子を持つ親。

 『病気なんてなりたくなかった』

『何でこんな目に会うんだ』

『自分だけ苦しいなんておかしい』

『元気な人間が勝手なことを言うな』

『だれもなにもわかってくれない』

『いきていられるやつらがにくい』

オマエモ、シネ。

「うっ…。」

突然の強い頭痛と眩暈に正太郎は頭を押さえつつうずくまった。頭の中に人々が遺した魂が殺到して、頭から溢れ出そうだった。一旦頭の中を空っぽにして少し耐えていると、症状が落ち着いてきた。

「ふぅ…。聴き過ぎは危険だな。でも…。」

いくらか分かったことがあった。まず、これは多くの魂が集まったものだ。一つ一つは何もできない弱いものだが、集まることで力を得たのだろう。ただ、意図的に集まったという印象は受けない。恐らく大本の魂に他の魂が勝手に引き寄せられたのだろう。しかも、多くが混ざったせいで全体が悪意に染まってしまっている。憧れが嫉妬に、愛情が憎しみに変わるように。結果、強まった悪意によって影響を受けた人間が衝動的に自殺に走ったのだろう。これ自体に人を襲う意志はなく、ただ声を聞いてほしいだけなのだろうが。

「…お前達が無意味とは言わない。その苦しみはお前達が頑張った証で、お前達だけが評価できるんだから。…だから、俺に聞かせても無駄だ。俺はお前達を分かってやれないし、助けられない。」

できるのは終わらせてやることだけだが…。正太郎は言葉で、そして心の中で呟くと、手を前に出した。消す力を使おうとするが、今の正太郎には使えなかった。意識を集中しても結果は同じで、やはり闇を消すことはできなかった。

(闇には形がない。形がない概念的なものは俺じゃ消せないのか。シンなら消せるのか…?)

正太郎は一瞬シンを呼ぶことを考えたが、止めた、今回の調査ではシンは一度も出てこず、当然シンと話すこともなかった。それなのに、今シンを呼ぶのは自分勝手に思えた。

(…さて、どうやって抜け出すか…。)

正太郎は闇の中で一人、脱出方法を考えるのだった。


 ノアと美琴は正太郎を助ける方法を考え、一つの仮説に至った。すなわち、

①闇を払えば正太郎を助けられるのではないか。

②物を闇に投げつけても効果はないだろう。むしろ、中の正太郎が危険だ。

③昼に何も起きなかったことから、日光などの光を嫌うのではないか。

④月の光や町の光では効果がない様子から、人工物かどうかではなく単に光の強さが関係しているのでは。

という仮説だった。そして、仮説を立てた二人は3000ルーメンを越える強力懐中電灯を警備の人から借りたのだった。

「よし、行くわよ!ノアちゃん。」

「はい、OKです!」

「1、2の、3!!」

美琴の合図に合わせて、二人は別々の方向からライトの光を闇に当てた。幸い、何かが襲いかかってくることはなく、場はひとまず安全だった。闇は最初こそ何も起きなかったが、しばらくすると奥が見通せなかった濃い闇が徐々に薄らいできた。これなら正太郎が見えてくるのも時間の問題だ。

「やった!上手くいってますね!」

「まだ油断しちゃ駄目よ、ノアちゃん!」

美琴はノアに注意を促しつつライトを当て続けた。


 正太郎が脱出方法を考えていると、何故か闇が勝手に薄くなり、先が少し見えるようになってきた。

「何だ…?」

よく見ると、周囲二ヶ所に丸くて淡い光が見えた。どうもその光のせいで闇が弱まっているようだ。

「…いくら超常現象でも普通の光には弱いのか。やっぱり日常ってのは強いな。お陰で出られそうだ。」

光という当たり前にあるものの力を思い知った正太郎だったが、同時に別のものも見えていた。闇に隠れていた闇、正確には集まり淀んでしまった魂達だ。

「悪く思うなよ…っ。」

人々の叫びともいえる魂だが、他人に害になるなら消えてもらう。覚悟と共に正太郎は魂に走り寄り、暗い塊に手を触れた。音もなく魂達は消え失せ、周囲の闇はみるみる晴れていった。すると、正太郎から見て少し離れた所に四肢をだらりを投げ出し座っている人が正太郎の目に映った。

「人…なわけないか。あれが大本か…?うっ…!」

その人を調べようと正太郎が近づくと、急な眩暈が襲って来た。同時に、誰かの思いが頭に押し寄せて来た。

『自分は誰のためにもならない』

『仕事は面白くない』

『どれだけ頑張っても、何も変わらない』

『患者さんは死んでいく、同じ医者は勝手なことばかり言う、家族には分からない』

『息が苦しい』

『疲れた、もう動けない』

『もう止めたい、消えてしまいたい』

『それでも、頑張らないといけない』

『誰にも分かってもらえなくても』

『自分すら肯定してくれなくても』

『この仕事を選んだのは自分だ』

『責任を、とらないと』

『ああ、それでも』

『もういやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ…』


大体3~4分ほど光を当てたところ、いきなり闇が晴れて正太郎が現れた。

「正太郎!」「連君!」

「!」

ノアと美琴が安心して思わず叫ぶと、正太郎は驚いた様子で振り返り二人を見た。

「二人とも何して…。いや、助けてくれたのか。ありがとう。」

正太郎は最初危ないぞと言おうとしたが、すぐに自分が助けられたことに気付いた。相手の声に意識を持って行かれていたが、ノア達のお陰で我に帰ることができた。素直に頭を下げる正太郎にノアが駆け寄った。

「大丈夫だった⁉怪我とかしてない?」

「ああ。そっちが色々してくれたお陰で出られた。後はあいつだけだ。」

「あいつって、あの…?」

ノアは正太郎と共に闇から現れた男を怖々見た。見た目が明らかに病んでいるので一層怖く見えるのだろう。ここで美琴も会話に加わって来た。

「あの明らかに病気になってる人が屋上での原因なの?」

「はい。どうも医者みたいで、うつか何かで亡くなって、それから他の幽霊も集まって。で、その影響を受けた人が自殺を図った。そういう流れみたいです。」

「そう…。じゃあ、あの人も…?」

「はい。消さないと、また幽霊が集まって同じことになります。」

そう言うと正太郎は男に近づいていった。

「正太郎、本当に大丈夫…?」

「ああ。心配するな。」

ノアが心配するが、正太郎は気にせず男のすぐ近くまで行った。男は正太郎に見向きもせず、ただ虚ろに俯いているだけだった。

(頑張って頑張って、結果燃え尽きたのか。)

 正太郎はしゃがみ込み、男をじっと見つめた。男はピクリともせず、視線も動かさなかった。この男は別に悪ではない。ただ病気になって、一人で死んだだけだ。しかし、自分を殺した彼の暗い魂がさまよう魂を引き寄せ、危険なものになってしまった。

「…どうか安らかに。」

正太郎はぽつりと呟いて、男の頭に触った。それでも男は特に反応することなく、やがて消えていった。相変わらず後には何も残らない。何も為さず、屋上の魂は全て消え去った。


「ふぅ…。」

 正太郎は原因の男を消した後、ゆっくりと立ち上がった。肉体的には疲れてないが、精神的には疲れていた。

(まあ疲れたけどな…。)

疲れたけれど、意味はあったと思う。人々が死ぬ前に遺していった魂。彼等の隠すことなき叫びを聞けた。美しいものでも、価値があるものでもなかったが、それでも直接聞き、感じることができた。それでいいと思った。

「お疲れ、連君!」

「正太郎、大丈夫?」

「大丈夫。心配するな。」

美琴の労い、ノアの心配を受けつつ正太郎は穏やかに答えた。反面、ノアはほっとしながらもまだ色々と動揺していた。

「正太郎が無事でよかったよ。それにしても、幽霊ってあんな感じなんだ。今までオカルト研究会にいたけど、今日初めて思い知らされたよ…。」

「本当にね。自分が死んだ時のことを考えたわ。私は変な思いを残さないようにしないと。」

「ですね!死んだ後で誰かに迷惑かけるなんて嫌ですから!」

「…全くだ。」

「しっかし、幽霊って色んな形があるのね。この間の子はほとんど普通だったのに、今日のは一目で分かるやばい奴だったもの。連君、この違いって何なの?」

「正確なことは言えませんけど、遺した思いがどんなものかで違うんじゃないかと。」

「きれいな願いならきれいな姿で、醜い心なら醜い姿でってことか…。ああ、ほんと気をつけよう!」

「…部長は純粋なオカルト好きですから、悪いようにはならないんじゃないですか?」

「あ、珍しい。正太郎がそんなフォローするなんて。」

「たまには俺も言うだろ、これくらい。」

「そうかなー?」

弛緩した空気の中、三人はつまらない雑談を続けていた。非日常から日常に帰って来た。そんな感じがして、どこか心安らいだ正太郎だった。




「…。」

「…。」

 病院のことがあって一ヶ月近くが経過していた。正太郎とノアは静かに部室で美琴を待っていた。しばらくすると、部室に近づく足音が聞こえて来た。足音はそのままドアが開く音につながった。

「…。」

美琴が真面目な顔で入って来て、そのまま歩みを進め正太郎達の前に立った。真面目な顔で二人を見たが、二人と目が合うと突然破顔し、叫んだ。

「喜びなさい!無事にオカルト研究会存続よ!」

「おおーっ!」

「…。」

ノアは美琴に合わせて叫び、正太郎は無言ながらも二回頷いて肯定の意志を示した。

 病院での霊的現象二件は無事に(?)レポートとして学校に報告された。さすがに正太郎の活躍は書けないものの、他に起きたことはかなり正確に記載した。結果、レポートは教師や生徒会で物議を醸すことになった。いくら病院の正式な署名と判子があっても、普通の生活をする人が信じられるわけもなかった。

『いやいや、こんなことあるわけないだろ。』

『こっちこそいやいやですよ。本当にあったからかいたんじゃないですか。』

『そう言われても、これを信じるのは…。』

『嘘だと思うなら病院関係者に聞いてみて下さい。あれから個室も屋上も使い始めてますけど、何も起きてないですから。』

美琴がしっかりと主張した結果、レポートが事実かどうかはともかく、オカルト研究会が問題を解決したことは事実と判断された。そして、今日が存続か廃部かの通達日だった。

「ふふふ。皆にも見せてやりたかったわ。悔しそうな先生達の顔。」

「俺はいいです。ここが残っただけで十分です。」

「うんうん。本当良かったよね。ね?ミミ先輩!」

「あったり前よ!私の最高の場所を取られてたまるかっての!」

きっぷのいい美琴に、ふと正太郎が思い出したことを口にした。

「あ、海士先生に言いました?」

「勿論。まーさんも喜んでくれたわ。ちゃんと私からもう一度お礼を言っておいたから、気にしないでね。」

「はーい。」「はい。」

「よーし。じゃあ今日もしまっていくわよ。まずは…。」

そうしていつも通りのオカルト研究会が始まった。


 部活が終わり、正太郎は一人で帰宅していた。今日は珍しく美琴とノアが二人で買い物に行ったのだ。いつも正太郎といるノアも今日は、

「女子会じゃないけど、今日は私とミミ先輩だけで行ってくるね。」

と言っていた。

正太郎はノアから話を聞いて、少しほっとしていた。別にノアがいて苦痛なのではない。自分なんかとつるむより美琴といた方が面白いだろうと思った。相変わらず、正太郎は自分に価値があるとは言い切れなかった。

(でも、意味がないわけじゃない。)

 正太郎に会いたいという思いが少女の霊を作った。病院において、霊の思いを聞いて消してやれるのは自分だけだった。これらは正太郎でなくても解決できたことだろうが、あの場あの瞬間に解決したのは正太郎含めたオカルト研究会だ。それは紛れもない事実だった。ほんの少しだけ、分かり始めた正太郎だった。

「あの、ちょっといいですか?」

「え?」

突然声をかけられ、正太郎は少し意外そうに声を上げた。知らない人に声をかけられることは初めてだった。見ると、まだ若い(30代前半だろうか)女性が立っていた。きれいな女性だが、病気なのだろうか。顔色は土気色に近い白で、かなり痩せていた。しかし、しっかりと立っていて、目は穏やかながら異様な力強さすらあった。

「…何でしょうか?」

「ああ、ごめんなさい。」

正太郎が戸惑いながら聞くと、女性は落ち着いた様子で頭を下げた。そして、突然予想もしないことを言った。

「以前お友達と田辺病院の屋上にいらしたのを見ました。悪霊を殺していましたよね?お時間いただいてもよろしいですか?」



 正太郎と女性は二人で近くの喫茶店に入った。お互いにコーヒーを頼んだところでまずは正太郎が切り出した。

「あの…聞きたいことは色々あるんですが、まずあなたが誰なのか聞いていいですか?」

「あ、そうですね。失礼しました。私は延綾香のべ あやかと言います。田辺病院に通院しています。あなたは?」

「…俺は連堂正太郎と言います。」

正太郎は一瞬躊躇った後、延に名乗った。さすがに名前を聞いただけで信用できるわけがなかった。

 注文したコーヒーが届き、コーヒーの匂いがふわりと香った。正太郎はコーヒーに何も入れることなく一口飲み、話を続けた。

「それじゃ延さん、どうして俺が、その、屋上にいたことを知ってるんですか?どこかで見てたんですか?」

「はい。元々屋上に霊がいることは知ってたんですけど、あの日は何か変な感じがして、屋上を見に行ったんです。皆さんがいた屋上の隣ですね。ただ、そこからでも皆さん、特に連堂さんが悪霊を消すところはよく見えました。」

延は言い終えるとコーヒーにミルクと砂糖を加え、ゆっくりと混ぜた。ミルクはコーヒーの表面できれいな螺旋を描いていた。

「そうですか…。」

「それで、連堂さんはああいう悪霊を殺すことができるんですか?」

「はい。でも、正確には消しただけで殺してません。…まあ、ほぼ同じですけど。それと、あれは悪霊じゃないです。結果的には近いですけど、被害をあれが望んだわけじゃわけじゃないので。」

正太郎は自分で言いながら不思議だった。別に彼等が悪霊と呼ばれようと彼等の本質に変わりはない。自分の力を殺す力と表現されても問題はない。そのはずなのに、正太郎は延の言葉にわずかに反感を持った。他人に病院でのことを評価されることを嫌った。

「そうなんですね。すみません、勝手な言い方をしてしまって。」

「いえ…。」

延に謝罪されても正太郎は別に嬉しくなかった。延に怒ったのではないし、訂正してほしくもなかった。目を逸らす正太郎に、延はもう一度頭を下げた。

「教えてくれてありがとうございます。次から気をつけますね。それで…。」

ちょうどその時、延のスマホが鳴った。延はスマホ画面を確認すると、正太郎に軽く頭を下げ電話に出た。

「はい、延です。…はい。分かりました。後でまた報告します。…はい、失礼します。」

電話を切った延はふぅ、と小さくため息を吐いた。疲れと若干の面倒臭い気持ちが顔に出ていた。

「…大変なんですね。」

正太郎は思わず声が出ていた。他人への共感を示す言葉が自然に出るなんて、自分でも思っていなかった。そして、言われた延は優しく、かつ申し訳なさそうな笑顔を見せた。

「すみません、連堂さん。急な仕事が入ってしまって…。お話、また近いうちにさせてもらえませんか?」

「あ、はい。大丈夫です。」

何故延が正太郎に話しかけて来たかは気になるが、延が話せないならどうしようもなかった。延は正太郎に連絡先を伝え(コミュニケーションアプリを正太郎は使っていない)、立ち上がった。

「私が呼び止めたのにすみません。お詫びに甘い物でも食べて行ってください。それでは…。」

延は追加でケーキを注文し、先に支払いを済ませて去っていった。正太郎は何となく延を見えなくなるまで見ていた。

「最初は病気かと思ったけど、勘違いだったのかもな。」

仕事をして、しっかり動けているなら病気ではないのかもしれない。それにしても、延は何のために自分に話しかけたのだろうか。屋上の話をした以上、オカルト的な話だとは思うが…。

「お待たせしました。注文のアップルパイです。」

店員の声で正太郎の意識が現実に戻って来た。そして、目の前にはアップルパイ。一口食べて、コーヒーをさらに一口。

「…ブラックは俺には合わないな。アップルパイとじゃ尚更だ。」

すっかり冷めたコーヒーの前で今更ながらにそんなことを呟くのだった。



 延と会ってから一週間少し時間が過ぎた日曜日、昼の時間。正太郎は珍しいことに駅前にいた。いつもと変わらぬ仏頂面だが、わずかに緊張している様子が見えた。

「連堂さん、お待たせしました。」

「ああ、いえ。そんなに待っていなかったので大丈夫です。」

「なら良かったです。では、早速ですがこちらです。」

延が正太郎の所に来ると、二人は少し会話をした後に一緒にどこかに歩いていった。その様子は親子のような、違うような、何とも言えない組み合わせだった。


「しょ、正太郎が知らない女の人と…。」

「ノアちゃん、落ち着いて!深呼吸、深呼吸。ほら。」

動揺しまくっているノアを美琴が必死になだめていた。ここは同じく駅前。美琴の買い物にノアがついて来ていたところ、偶然ノアが正太郎(と延)を発見してしまったのだ。

「は、はい。すーはーすーはー…。」

「よしよし。でも、確かに連君よね。あの人と会うから買い物に来れないってことだったのかしら…。」

美琴は独り言のように呟きながら、この前部活で話した時のことを思い出していた。

 ………

『ねえ二人共、明後日の休みにまた買い物に付き合ってほしいの。お願いできる?』

『その日は私、大丈夫ですよ。正太郎もいいよね。』

『ああ。…明後日?明後日は、ちょっと、無理だな。』

『ええー!せっかく私が行けるのに!何で何で⁉』

『いやまあ、悪いんだけど、明後日だけは駄目だ。』

『連君にしては珍しいけど、何か用事でもあるの?』

『まあ…。』

『気になるわね。理由を言いなさいよ~!』

『そうだそうだ!』

『いやいや…。』

………

「連君にしては珍しく誤魔化してたもんね。でも言いたくない相手って誰?親戚?」

「で、でもでも、なんか相手の女、えらい年上ですよ?これって、まさか、ママ活ってやつですか⁉」

ノアは気が動転しているのか、訳が分からないことを言い出した。ノアにはそんな言葉を知らない純粋な子でいてほしい美琴だった。

「まあ見た目はそんな感じだけど…。ありえないでしょ、連君に限って。もしそうだったら私、坊主にしてもいいってくらいよ。」

「ま、まあ確かに。正太郎がそんなことするはずないですよね…。でも、じゃあ隣の人は誰なんでしょうか?」

ノアの疑問はもっともだった。美琴は顎に手を当ててうーんと首を捻った。

「誰かは分からないけど…。もし連君がまた厄介事に巻き込まれてたら大変だし、尾行してみましょうか。」

「い、いいんですか?ばれたら怒られそうですし、買い物はいいんですか?」

「大丈夫大丈夫。お店は夕方まで開いてるから。それにばれなきゃいいのよ、ばれなきゃ。ほら、行くわよ!」

「は、はい!」

二人は急ぎつつもこそこそと正太郎を追いかけ始めたのだった。


 正太郎と延はこの前と同じように喫茶店に入った。ただ、この前よりも高級店で、客は少なく、ゆっくり話せそうな雰囲気だ。

「って、高いな…。」

「気にせず頼んで下さいね。私が払いますから。」

「あ、どうも。ありがとうございます…。」

二人はまずは昼食をとることにした。正太郎はパスタを、延はサラダを注文し、食べた。天気や学校など、他愛もない世間話をしながら食事を終えた。正太郎はきちんと全て食べたが、延はサラダを少し食べただけだった。

食後の飲み物が届くと、前回できなかった話をするために正太郎が口火を切った。

「じゃあ話して下さい。どうして延さんは俺に声をかけたんですか?」

「…。」

延は伏し目がちに紅茶を一口飲んで、静かに正太郎に答えた。

「連堂さんに頼みたいことがあるんです。」

「はい。」

「どうか…、どうか、あなたの力で私を殺してほしいんです。」


「俺が…、殺す?あなたを?」

正太郎は困惑した顔で延を見た。これから説明してくれるのだろうが、如何せん意味が分からなかった。

「…すみません、いきなり言われても訳が分からないですよね。説明します。」

延は穏やかな口調だったが、目は暗い光を湛えていた。正太郎はその目に危うさを感じながら、無言で話を聞いた。

「私は今35歳です。そして、本当は30歳くらいで死ぬはずでした。」

「…。」

「28歳で乳癌を患いました。手術や抗がん剤をしたんですが再発してしまって。医師からは根治は不可能だと言われました。」

延は懐かしそうともいえる顔で話をしていた。一体何を思って苦しい過去を話しているのだろうか。

「私には夫と5歳の息子がいました。どちらも本当に、本当に大切な家族です。…私は死にたくなかった。一人になること、家族を置いていくことに耐えられなかったんです。」

「…。」

正太郎は何も言わなかった。まずは聞き手に徹し、全てを聞いてからだ。

「そんな時、病室に10歳くらいの男の子が一人ふらりと来たんです。しかも夜中に。驚いた私に、その子は言いました。『自分は魔法使いだ、あなたの願いを叶えてもいい』と。」

「魔法使い…⁉」

唐突に魔法使いという単語が出たので、正太郎は思わず声を漏らした。だが、まだ話は道半ばだ。正太郎は邪魔せず延の話を促した。

「普通はそんな話を信じませんよね。でも、なぜかその時の私は信じました。その子の雰囲気や口調のせいでしょうか。とにかく、私は自分のことを話し、願いました。生きたいと。…そうしたら、その子は願いを叶えてあげると言ったんです。そして、『けれど、ただ生かすだけ。死なない体で何をするのかはあなた自身だ』と言って消えました。」

「…本当ですか?その話。」

「嘘みたいですよね。でも、それから結局5年間も死なずに生きています。癌はそのまま、病気の苦しさや痛みもそのままで、変わらず。」

「…その苦しみから抜け出したいと?」

「苦しいだけならまだ耐えられました。生きる意味、生きる理由がありましたから。…でも今はもうないんです。」

延は一際暗い表情になり、続けた。

「あれから5年…。交通事故で、何も悪くないのに息子は殺されました。夫も意識が戻らないまま、病院でただ生きています。…死ぬはずだった私は生きて、私の大切なものは全て奪われました。こんなのおかしい、間違っています。私はこんな未来のために生きたんじゃない。家族のいないこの世界に意味なんてない…!」

延は大きな声は出していないが、その魂の叫びは凄まじかった。その怒り、絶望は正太郎の背中をぞくりとさせるほどのものだった。

「…だから、連堂さんに私を殺してほしいんです。私を終わりにするために。」

「…お話、気の毒とは思います。けど、どうして俺が必要なんですか?自分で死ねないなら…。」

「…これを見て下さい。」

延は鞄から何か取り出した。果物ナイフだ。そして延は何の躊躇いもなく手の平にナイフを突き刺した。

「!」

正太郎は声が出そうになったがなんとか押し留めた。延はナイフを引き抜くと、正太郎に傷を見せた。…はずだが、みるみるうちに傷は消えていった。

「な…。」

「死ねないんです。首を切っても、首を吊っても、飛び下りても。もしかしたら爆弾でばらばらになっても死なないかもしれませんね。」

延は虚ろに笑いながらナイフを鞄にしまった。ここまで聞いて、正太郎も延が正太郎になぜ殺してほしいと頼むのか、理由が分かった。

「…死ねない体を俺の力で殺す。俺の力なら殺せる。そういうことですか?」

「はい。もう死んでいる霊すらも消し去るなら、きっと私も消せます。それは死と同じですから。」

「…。」

正太郎は延の話を聞き、目を閉じて考えた。延の話は確かに気の毒だった。家族と生きるために生きていたのに、その家族は死んでしまったり昏睡状態になったりしている。癌の症状含め、彼女が感じている生の苦しみは相当なものだろう。しかし…。

「…あなたの夫はどうするんですか?まだ生きてはいるんですよね?」

「…今の状態が続くのか、急変してしまうのかは分かりません。でも、私が死んだからって放り出されることはありません。」

「それはそうでしょうけど…。夫を置いていくんですか?」

「そんなつもりじゃありません!」

延は初めて大きな声を出した。その目は何処にも行けずに追い詰められた人間の目だった。

「夫はもう話すことも食べることもできません。延命治療は希望しないと言ってたのに、若いことを理由にずるずると…!自分の望まない生は生きていると言えるんですか?あの人が私に置いていくなと言ってくれるんですか?」

延の悲痛な叫びを正太郎は苦々しく聞いていた。やはり気の毒には思うが、それ以上の感情は出て来なかった。少なくとも、自分が手を出すべきとは思えなかった。…それは正太郎が意味を感じられないからだろうか。それとも多くの人が思うことなのだろうか。正太郎には分からなかった。

「…すみませんが、俺にはできません。あなたの言う通り、俺の力は何かを消す、壊すことで殺すこととほぼ同じです。だから、あなたには使えません。他の救いを探して下さい…。」

「ま、待って下さい!」

立ち去ろうとした正太郎に延が縋り付いた。切羽詰まった顔で正太郎の袖を掴み、必死に食い下がった。

「お願いです!あなたしかいないんです!どうか、どうか…!」

「…。」

無理矢理腕を振り払って立ち去るほど正太郎は鬼ではなかった。それに、袖を掴む延の力はかなり強い。果たして力を使っても振り払えるのか分からないほどの異様な強さだった。

「止めて下さい!」

 いきなり予想外の所から声が聞こえ、正太郎と延に割って入った人間がいた。正太郎は意外そうな顔でその人、いや二人を見た。

「白木、部長?」

「正太郎が嫌がってるんだから、これ以上は止めて下さい!」

「あ、あなた達は…。」

「私達は彼の友人です。でも、とりあえずは帰った方がいいと思いますよ。人目もありますから。」

ノアは正太郎と延の間に立ち、美琴はその隣で冷静に延を諭した。いくら空いていたとはいえ、さすがに大きな声で騒げば人目を引くものだ。喧嘩かもしれないと店員も正太郎達をちらちら見ていた。

「…分かりました。」

延は暗い顔で袖から手を離し、踵を返して店を出て行った。その途中で一度正太郎を見たが、その目は死人の如く暗く濁っているのに炎のように燃えていた。正太郎もノアも美琴も思わずぞっとするほどの力があった。

 延が立ち去ると、喫茶店の空気は元のように落ち着いたものになった。ノアは大きく息を吐いたが、正太郎としては事の流れが意味不明だった。当然、まずは素朴な疑問から始まった。

「あの、なんで二人がここに?」

「え?えーと、その…。」

「たまたまよ、たまたま!偶然正太郎が見えたから店に入ったの。で、あの女の人が詰め寄ってたから助けに入った。そういうこと。」

ノアは言い訳を言おうとしたが、慌ててしまい言葉が出なかった。代わりに美琴が上手くはないが勢いで誤魔化した。しかし、正太郎は疑うことなくすんなりと受け入れた。

「ああ、そういうことか。でも来てくれて助かりました。俺だけで断れたかどうか…。」

「ね、ねえ正太郎。さっきの人って…誰?」

「え?ああ、それは…。」

正太郎は言うべきかどうか迷った。延は明らかに正太郎のように異常な状況に身を置いている。ノア達に彼女のことを説明するとまた危険なことに巻き込まれるかもしれない。しかし、延はノア達を見たことがあるかのような反応をしていた。恐らく病院の屋上で正太郎と共に見たのだろう。そして、今回のことでしっかり覚えてしまったはずだ。それなら…。

 ………。

正太郎が延のことを説明すると、ノアは大きくため息を吐いた。

「かわいそうだね。せっかく頑張って生きることを願ったのに、家族がそんなことになるなんて。まあ、それで正太郎に殺して、は駄目だけど。」

わずかにママ活でなくてよかったと安心する気持ちもあったが、言わぬが華だろう。続けて美琴が口を開いた。

「私は諦めて受け入れてほしいわね。自分の選択に責任をとるのは大人として当たり前のことよ。八百比丘尼の話もあるんだから、今の状況になる可能性は考えられたはずだしね。」

「…。」

ノアと美琴はそれぞれ異なる感想を述べた。そして聞く限りどちらも間違ってはいない。正しいとも言えない。いずれも並列している主張の一つだった。

「正太郎は断ったんだよね?」

「ああ。」

「それがいいわ。いくら本人の望みと言われてもね。…でも、あの調子だとまた来るかもしれないわね。」

美琴が難しい顔で言うと、ノアもまた悩ましい顔をした。

「ですね。でも、どの道帰ってもらうんだから…。そうだ、当分の間は皆で登下校する?それなら声かけにくいんじゃないかな?」

「保護者みたいになってるぞ…。」

いつの間にかいつものメンバーで、いつも通りの会話になっていた。正太郎は肩の力が抜けほっとした一方、先程の言葉を思い出していた。

『また来るかもしれない。』

恐らく、いやきっと来るだろう。その時話し合いで何とかできればいいが…難しい気がする。正太郎は将来降りかかる危険を予期して静かに目を閉じた。



 幸いなことに、あれからスマホに延から連絡が来ることはなかった。直接会いに来ることもなく、正太郎達は穏やかな日々を過ごすことができた。しかし、その穏やかな日々も突然終わりが訪れるのだった。

「結局あれから何もないから良かったよね!」

「まあ、そうだな。」

「といってもまだ一週間しか経ってないわよ。まだ油断できないんじゃない?」

「それもまあ、そうです。」

「ちょっと!どっちの味方なの、正太郎⁉」

「どっちの味方でもないからな。」

 結局、正太郎はノアと美琴を引き連れてこの一週間家と高校を行き来していた。見た目だけは両手に花だが、正太郎としては少し面倒臭い気持ちが本音だった。

「いつまで気をつければいいのかが分からないのが一番の問題だな。」

「そうだよね。ありがとうございました、的な連絡でも来たら分かるけど…。」

ぷるるるる…。

ノアが話している途中、突然正太郎のスマホから着信音が届いた。連絡元は「延綾香」だった。

「…。」

「ど、どうする?無視する?」

「いや、それはまずいんじゃ…。」

ノア達の声を聞きながら正太郎は無言で音声をスピーカーにした。そして二人に目配りして、電話を取った。

「はい。」

「…連堂さんですか?」

スマホから延の声がした。地の底から響くような、不気味な声だった。

「今日の夜10時に県の運動公園、北側にいらしてください。来られない時は家に行かせてもらいます。」

「公園?あの…。」

ぷつり。

電話は正太郎に答えることなく切られた。淡々と、事務的かつ一方的な電話だった。

「…ついに来たか。」

正太郎は落ち着いていた。ある程度予想していたことなのだろう。そして、正太郎の様子から分かることがあった。

「もしかして正太郎、行く気なの?」

「ああ。家に来られると危険だからな。」

「で、でも、さっきの声、すごく怖かったよ。いくら今の正太郎に不思議な力があるからって、危ないよ!」

「だから行くんだろ。確かに、何が起きるか、何をされるか分からない。でも、無関係の家族に迷惑をかけたくない。」

正太郎が家族を想って行動している。ノアはそのことに感動したが、感動で済ませていい話ではなかった。

「で、でも…!」

「…ノアちゃん。これはもう連君に任せるしかないわ。」

「ミミ先輩…。」

美琴がノアの肩に手を置いて言った。その顔は苦虫を嚙み潰したようだ。

「あの口調じゃはったりってことはないわ。つまり相手は連君の住所も高校も知ってるってこと。なら、もういつ突撃されてもおかしくないわ。」

「う…。」

「残る手段はストーカー被害として警察に守ってもらうくらい。でも連君はしたくないのよね?」

「…はい。オカルト関係じゃ警察は頼りになりませんし、警察官に何かあったらその人も俺も困るので。」

正直な話、警察が日常に割り込んで来ることは身の危険以上に不快だった。正太郎の意志を確認した美琴は肩を竦めた。

「…ってこと。だから結局は連君に任せるしかないのよ。」

「でも、でも…!」

「…白木、そんなに心配するな。」

「正太郎…。」

「自分で言うのもあれだけど、あの人よりは俺の方が強い。何しろ悪魔が憑いてるからな。俺自身に何か大きなことは起きないはずだろ。だから心配するなよ。」

「…。」

正太郎はできる限り明るく、力強く言った。自分には似合わない言い方だが、その方がノアの心配が減るだろうと思った。そして、正太郎が頑張ったお陰か、ノアはそれ以上食い下がることはなかった。



「…と思ったのに、なんでこうなるんだ?」

 夜の10時前、指定された場所に向かいながら正太郎は何度目かのため息を吐いた。隣にはノアと美琴。二人は正太郎と共に暗い夜道を歩いていた。

「だって心配だし…。」

「病院の時みたいに手伝えることがあるかもしれないじゃない?ね?」

「はい!」

「はあ…。」

 話が終わったと思ったら、正太郎が行くならついていく、と二人が言い出したのだ。正太郎は危険なので絶対に連れて行きたくなかったが、病院の時に二人が役に立ったこと、会話をする時には一人より良いだろうということ、行くことを容認するので希望を聞いてほしいなど、色々言われて押し切られてしまった。

「もし危なくなったら絶対に逃げろよ。いいな?」

「「はーい!」」

元気な挨拶を聞くと、正太郎は力が抜ける気がした。そもそもどうやってこの時間にか弱い二人が家から外出できたのか疑問だが、それは聞かなかった。聞いたら負けのような気がした。とにかく、こうなったら行くしかない。正太郎は腹をくくったのだった。


 指定の場所は林といえるような場所だった。ぴったり10時だが、正太郎達以外には人っ子一人いなかった。

「誰もいないね…。」

「そうねえ。もしかして嘘だったり?」

女性陣は正太郎の背中に隠れつつ、おっかなびっくり周囲を確認した。それとは反対に、正太郎は厳しい顔で前を向いていた。

「…嫌な感じだな。」

『ああ。気をつけろよ、正太郎。こりゃ相当だぞ。』

「ああ。」

普段出て来ないシンですら起きて警戒していた。正太郎はシンの登場を何の疑問もなく受け入れ、一人前に出た。

「正太郎、どう…。」

「もっと後ろにいろ。あと5メートルくらいか。木の陰に隠れて、絶対動くなよ。」

「え、ちょっ…。」

ノアと美琴の言葉は無視した。というより、返事をする余裕はもうなかった。

『左だ!』

正太郎は左に向き直りつつ飛び退いた。次の瞬間、さっきまで正太郎がいた空間が凄まじい勢いで抉られた。

「今のを避けるなんてすごいです。やっぱり、私を殺せるのはあなただけですね。」

「延さん…!」

地面に這いつくばっていた延はゆらりと立ち上がった。地面すら抉った右手の指は千切れかけ、出血していた。しかし、延に痛がる様子はなく、笑みさえ浮かべていた。そして、暗く淀んだ瞳からどろりとした視線を正太郎に向けた。

「お久しぶりです、連堂さん。来てくれてありがとうございます。今日は私を殺してもらうために呼んだんですよ。」

狂気に満ちた顔で延は笑っていた。右手の指は既に元通りに治っていた。正太郎は慎重に距離を取りながら答えた。

「…それは分かります。でも、俺を襲う理由がよく分かりません。」

「……ふふっ。」

延は肉食獣のような速度で正太郎に迫り、左右の手をがむしゃらに振り回して襲いかかった。一方、正太郎の方も人ではあり得ない反射速度で鉈のように振るわれる手を避け続けた。と、木が後ろにあったせいで正太郎の動きが止まった。その隙を逃さず、延は笑みを浮かべたまま右手を振りかぶった。

「はっ!」

ゴッ、ベギッ…!

正太郎(正確にはシン)は無理矢理体をひねり地面に転がった。体がきしむように痛んだが、直撃を受けるよりはましだった。

『ありがとう、シン。』

『無事で何よりだ。それにしても、とんでもない威力だな。』

先程正太郎の後ろにあった木は細かったからか、延の手が叩きつけられた結果無残にへし折られていた。

延は薄く笑ったまま一旦動きを止めた。右腕は前腕途中から完全に折れ曲がっていたが延は全く気にしていないようで、虚ろな目で正太郎を見た。

「連堂さんと会って数日後でした。夫が急変して死んだんです。」

「…!」

「夫が死んでしまった時、私を動かす糸がぷつりと切れたんです。そして、気付いた時には夫と子供を殺した相手とその家族をぐちゃぐちゃにしていました。」

延は正太郎を見て話しているが、その実何も見ていない。終わらない悪夢を見続ける夢遊病患者とでも表現できるだろうか。見えず、聞こえず、悪夢で歪んだ己の衝動に従うしかないのだろう。

「連堂さん、あなたが悪いんです。あなたが私を殺してくれなかったから、私は夫に置いていかれたんです。だから、私を殺してもらう前にちょっと仕返しさせて下さいね。大丈夫です、腕は一本残しますし、殺しはしませんから安心して下さい。」

延は話し終えるとゆらゆらと不自然に揺れながら正太郎にゆっくり近づいていった。まだ右腕は完全には治っていない。恐らく腕が治り次第また襲ってくるだろう。正太郎は注意深く身構えていたが、

『せっかく願いを叶ったってのに、哀れなもんだよな。なあ正太郎?』

不意にシンが話しかけてきた。シンは正太郎の返事を待つことなく話を続けた。

『家族と一緒にいたい。それは平凡な願い、美しい願いだ。なのに、時にはこんな風に歪んでしまう。』

『…。』

シンは正太郎に話しかけているが、返事は求めていないようだ。幸いシンとの会話は時間が遅くなる感覚になり、現に延も動かない。正太郎はそのままシンの話を聞くことにした。

『あいつが歪んだのは誰のせいだろうな?願いを叶えた奴か?事故を起こした男か?あいつをすぐ消さなかったお前か?いや、違う。歪んだ原因はやっぱりあいつ自身だ。死を受け入れられなかった弱さ、自分の幸福を家族に依存した脆さ。そういうのがなければここまでにはなってない。』

『…なら、延さんが悪かったのか?』

正太郎の口から思わず声が漏れた。延の生きる意味、それ自体が良くなかったと言われているようで心苦しかった。

『それも違うな。責任があるってだけで、良い悪いの問題じゃない。自分の思想と選択の結果、こんな末路もあると知っとけってことだ。あいつを消す前に言っておきたかったんだよ。』

『…やっぱり、消すしかないよな。』

『ああ。楽にしてやるためもあるが、一番は俺達が生きるため、あいつを消し、殺す。いいな?』

『…ああ、勿論。』

延は悪人ではない。選択を誤ったわけでもない。ただ結果として歪み、おかしくなってしまった。そして、正太郎は延を嫌ってはいない。しかし、何よりも自分が生きるために延を消さねばならない。シンは会話を通して正太郎に覚悟を持たせたかったのだろう。正太郎は心の中でシンに礼を言った。


 実のところ、シンにも思うところがあった。シンは延の現状を「哀れ」とは言ったものの否定的には見ていなかった。むしろ苦痛の末に至った姿として美しさすら感じていた。シンにとって「良い」とは善であることではない。強い魂、そしてそれを生む心であれば善悪や正常異常は関係ない。意図的に誰かを苦しめることはしないが、人が避けたがる苦しみや怒りも強く輝くなら美しいと感じるのだ。正太郎が感じた心苦しさは皆無であり、ある意味でシンはやはり悪魔だった。しかし、正太郎と決定的に違う自分、そして違っても不快感や孤独感が全くない自分をつまらないと思っていた。将来正太郎の精神がシンと混ざる時、このつまらない部分は引き継がないでほしい。これから延と殺し合うというのに、シンはそんなことを考えていた。


 延は右腕が回復すると、やはりすぐさま正太郎に襲いかかった。正太郎は何とか避けていたが、延の動きが速すぎていくつかの攻撃は反応できなかった。しかし、起きたままのシンが正太郎の体を追加で動かしてくれたので攻撃を受けずに済んでいた。ただ、自身を顧みない延の攻撃は激しく、避けるのが精一杯で、下手に延に触ろうと手を伸ばすと攻撃に巻き込まれて腕が千切られそうだ。そして、延の全身の筋肉や骨はヒトを超えた動きの結果ぼろぼろだが、異常な再生力によってすぐさま回復する上、狂気のせいで疲れも痛みも無視できてしまっていた。諸々まとめると要は、正太郎達の方が不利だった。

しかし、延は精神が乱れきっているせいか、自分が優勢だと理解していなかった。そのため、正太郎が避け続けたことで苛立ち始めていた。木々の間を高速で動きつつ、木々や地面を傷つけながら無表情に呟いた。

「どうして避けるんですか?殺す気はないって言ってるのに。どうして私の希望を聞いてくれないんですか?」

「いや、そう、言われても…っ。」

正太郎は思わず返事をしようとした。避けることに必死で、答えるか答えないかを考える余裕すらなかった。ただ、正太郎の声が引き金になったのか、延は暴れ続けながらもぽつぽつと話し始めた。

「…連堂さんだけじゃないです。そもそも、どうして私がこんな目に会うんですか?私はただ、家族と少しでも長く生きたかっただけ。それが私の幸せだったのに、どうして奪われないといけなかったんですか。いつから生きていることが辛くなったんですか。どうしてこんなに痛くて、苦しいんですか。」

「…!…。」

正太郎は攻撃を避けきると息を整えながら延の様子を見た。言い終わった時には既に彼女は動きを止めていた。声は聞こえないが唇がわずかに動いており、恐らく「どうして」と繰り返しているのだろう。…延は「どうして」を繰り返すが、その言葉は誰かに投げかけたものではない。どうしようもない理不尽、不運を認めたくないだけだ。

正太郎には延の思いが少し分かる気がした。どうして自分は生きる意味を持っていないのか、どうして他人は持っているのか、それとも持ったふりなのか。実は生きている意味なんて本来ないのだろうか。このように正太郎も疑問ばかりだ。そして、正太郎は疑問に答えがないことを分かっていた。別に正太郎が特別なことも、他人が特別なこともない。理不尽も不運も、運命(に思えること)さえもただの偶然で降りかかるものだ。、自身に起きる原因も理由もない、自分ではどうしようもないことだ。だが、偶然と認めることは即ち受け入れて諦めることでもあり、だから延は認められないのだろう。

「…でも、受け入れてもらう。じゃなきゃ、あまりにも救われない。」

『正太郎?どうした、急に。』

シンが少し楽しそうな声で正太郎に声をかけた。正太郎の呟きは静かな中に力強さや決意を感じさせるもので、今の厄介な状況を変えてくれそうだった。

「このまま避けてても疲れるだけだ。いずれ避けられなくなってやられる。シン、一撃だけでいいから受けられないか?」

やはり正太郎は動く気だ。シンは思わずニヤリとしつつ、正太郎の問いを検討した。

「…本当に一撃ならなんとかなる。ただ、あれは力に任せて次から次に攻撃してくる。一撃じゃ終わってくれないぞ?」

「俺が挑発して、真っすぐ突っ込んで来させる。全力で一撃繰り出したら隙ができるんじゃないか?」

「まあな。ただ、どんなに上手く受けても千切れないだけで、しっかり腕は折れるぞ。俺が補助するとはいえ、攻撃をさばいて、痛みに耐え、同時に相手の懐に潜り込んで触る。簡単じゃないぞ、できるか?」

シンは敢えて試すような口調で言った。勿論、それで躊躇う正太郎ではなかった。

「できるかどうかは分からない。けど、あの人は終わらせる。それは絶対だ。」

「了解。そうと決まればここは一つ、最高の挑発を頼んだ!」

「ああ。」

シンの激励を受け、正太郎は延から見て正面に立った。延はまだじっとしているが、今から言うことで間違いなく来る。正太郎はゆっくり息を吐き、口を開いた。

「…延さん、一つ言わせて下さい。」

延はぼんやりしていたが、正太郎に声をかけられるとゆっくり顔を上げて正太郎を見た。その目にはほんの少しだけだが理性が戻っていた。

「…どうかしましたか?」

「…延さんの病気も、ご家族の事故も、どれだけ原因を探しても見つかりません。不幸はただの偶然なので。」

「…。」

延はぴくりと動き、止まった。爆発寸前の爆弾のようだ。空気すら凍ったかのような圧の中、正太郎は続けた。

「あなたの幸せは理不尽に失われたまま、二度と戻りません。そして、あなたの苦しみと狂気は延さん自身から出たものです。延さんが受け入れるしかないんです。」

「…そうですか。それで終わりですか?」

「…はい。」

「分かりました。なら、もういいです。」

淡々と言った瞬間、延はかつてない速度で正太郎に突っ込んでいった。顔は無表情だが、目は合っただけで殺されそうなほど殺気に満ちていた。

延はあっという間に正太郎に接近すると、既に構えていた右手を袈裟懸けに振り下ろした。まともに受ければ体が二つに裂けるかもしれない一撃を、正太郎は正面から左腕で受け止めた。受け止めた瞬間、正太郎の橈尺骨はぱきりと枯れ枝のように折れた。骨折の激しい痛みを感じつつも、極限まで集中したシンが折れた腕と身体を機械のように精密かつ高速で動かしてなんとか延の手を受け流した。まさか受け流されるとは思っていなかったのだろう、延は体勢を崩しながら呆然と正太郎を見ていた。正太郎は近づいてくる延の体にさらに一歩寄り、彼女の鳩尾に手を伸ばした。

殺されかけていても、今まさに消す・殺す寸前であっても、正太郎は延を嫌っていなかった。むしろ、先程の延の話を聞いてわずかな親近感すらあった。

(…でも、俺が生きるために消えてもらう。休ませてやるなんて言い訳は言わない。)

自分を正当化しない。責任を他人に押しつけない。…しかし、そう考えた上で延には穏やかに眠ってほしいと思う。正太郎は延に幸福を押しつけるのではなく、幸福でいてほしいと願った。

 ドッ!

 延は車並みの速度で突っ込んできたため、当然正太郎の右腕には相当な衝撃があった。右腕の筋肉・靱帯・関節が悲鳴を上げ、左腕同様激痛が正太郎の脳を襲った。しかし、湧き上がる感情に突き動かされ、正太郎は右腕を突き出し続けた。

(やることは決まってる。体に触って集中する。それだけだ…!)

正太郎が力を使うために集中していた時、ふと延と目が合った。延は変わらず呆けた顔で正太郎を見ていた。これから自分がどうなるのか、理解しているのだろうか。ただ、呆けた顔からは殺気が抜けていて、この瞬間だけは普通の人間のようだ。

(どうか、終わりくらいは穏やかに。)

正太郎はそう願わずにはいられなかった。



「はあっ……。」

 正太郎は大きな息をついて地面に両膝をついた。左腕は前腕で完全に折れ、あわや開放骨折かというレベル。右腕は骨こそ折れていないが内出血で至るところが黒ずんでいた。正太郎は両腕から来る激痛に耐えながら顔を上げた。すぐ目の前にいた延はもうどこにもいなかった。正太郎が消したのだが、幽霊と同じく何も残さず消える点は少し空しく感じられた。

「う、ぐ、ぐうぅ…。」

しかし、痛い。争っていた時とは違い今は興奮が冷めているので、正太郎は痛みを耐えるのがひどく苦しかった。

『これだけやられたんだ。痛みはひどい。それに、攻撃を避けるために限界を超えて動き続けたから、腰や足の損傷、全身の疲労もとんでもないことになってる。』

「…ぁあ、そう、か…。」

シンの声は聞こえているが、今の正太郎には返事をすることも、考えることすら辛い。歯を食いしばって耐えるしかなかった。だが、なぜかここで意識がふうっ…と急激に遠のいていった。そこに、シンの落ち着いた声が聞こえて来た。

『病院に行っても説明が面倒だ。俺が治してやるから、とりあえずゆっくり休め。後は俺がフォローしておく。』

「…。」

正太郎は「分かった、ありがとう」とは思ったが、言葉にする前に意識が完全に閉じてしまった。


 ノアと美琴は一部始終を外野から見ることしかできなかった。割り込めば死ぬことは一目見て本能的に分かった。二人は目を逸らすことも動くこともできず、操られたかのように争いを見つめていた。

 しかし、延が消え正太郎が地面に膝をつきうずくまると、ようやく二人は我に返った。お互いの顔を見合わせ、正太郎に走り寄った。

「正太郎!」「連君!」

声をかけても正太郎は俯いたままだった。ノアは思わず正太郎の肩を掴んで揺らそうとしたが、肩に触れたところで美琴が慌てて止めに入った。

「ノアちゃん、連君怪我してるから!!揺らしちゃ駄目、絶対!」

「あ!しょ、正太郎、聞こえる?ねえ?」

ノアは慌てて正太郎から手を離し、しかし心配そうに声をかけた。…正太郎は反応せず、動かなかった。ノアは心配し過ぎて血の気が失せた顔でもう一度声をかけようとした。その時、正太郎がゆっくり立ち上がった。

「…ああ、聞こえてる。聞こえてるから、ちょっと待ってくれ。さすがの俺でも結構痛いからな。よいしょっ、と…。」

舌打ちしながら右腕と首を動かす正太郎にノア達は唖然とさせられた。大怪我を負ったにしては、そして正太郎にしては軽すぎる調子だった。

「…あなたが悪魔ですか?正太郎をどうしたんですか⁉」

ノアは正太郎の人格ではないことに気付き、語気強く尋ねた。しかし、シンはノアの剣幕を気にすることなく肩を竦めた。

「どうしたも何も、正太郎には痛みが強すぎるから休ませたんだ。確か、ノアとか言ったな。俺は傷を治すために出て来てるだけで、他意はないから安心しろ。」

「休ませたって…。それって体を乗っ取ったってことじゃないですか⁉」

「あ~、そう解釈するのか。参ったな…。」

「はや…!」

「ノアちゃん、ちょっと待って。今は色々彼から聞かないと。ねえ、傷を治すってどういうこと?腕、骨折してるのに治せるの?」

美琴はノアの口を押さえ、努めて冷静に言った。美琴自身も動揺していたが、ノアと相乗効果を起こすわけにはいかなかった。シンはノアを落ち着かせる必要がなくなり一安心したのか、ふっと笑った。

「新陳代謝を操作して治癒を早めるんだ。全身の筋損傷・靱帯損傷、左前腕の骨折、右腕にひび程度の骨折。以上が今この体にある傷なんだが、4、5日あれば完治できる。入院もしなくていい。まあ、2日は死んだように寝ることになるし、正太郎は完治するまで寝かせるけどな。」

シンの話は情報量が多く、理解して考える時間が必要だった。実際、ノアも美琴も戸惑った顔をしていた。

「え…。たった4、5日で完治?」

「いやちょっと、ちょっと待って…。ええと、順番に聞くけど、本当に入院しなくていいの?」

「ああ。普通の治療じゃ時間がかかるし、理由を説明できないだろ。」

「正太郎は無事なんですね?」

「当たり前だ。よし、分かったら二人共、ちょっと手伝え。骨折の固定をするぞ。」

「ええ?」

「わ、私達が?」

「そうだ。正直俺も早く休みたいからな。ってことで、まずはB3のデッサン用紙と三角巾、もしくは似たものを持ってきてくれ。それから…。」

色々考えるべきこと、話すべきことはあったが、主役の正太郎がいない以上、今できることは少なかった。ということで、多くを飲み込みながらシン、美琴、ノアは全員で正太郎の傷の手当てを始めるのだった。



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