第2章
第二章
趣味がない、という人はいる。しかし、楽しいと全く感じない人は少ないだろう。楽しいと嬉しい、嬉しいと幸せ。他には喜びもあるが、こうした言葉は幸福と関係している。
即ち、幸福とは肯定的な感情を抱くことであり、肯定的な感情が生まれる理由が多岐にわたっているといえる。趣味を楽しむことも一例、好きな人と会うことも一例だろう。
次に、幸福とはどれくらい肯定的な感情があればよいのか。これは感情の強さと持続時間が問題となる。面白い点だが、いくら感情が強くても短時間すぎると幸福と感じない。つまり、人生をx軸、肯定的感情をy軸とすると、グラフの面積(積分)が幸福かどうかを判断する数値ということだ。
しかし、人の中には先に挙げた面積を無視できる者もいる。面積が小さくても幸福だといえる者のことだが、彼等は真に幸福な人なのか、それとも愚かな苦労人なのか。あなたはどう思うだろうか。
「…で、今に至るってところだ。」
「…。」
「…。」
「…。」
放課後のオカルト研究会部室で、重苦しい沈黙が美琴、ノア、正太郎の間に横たわっていた。
正太郎とノアが男に襲われてから2日経った。学校は教師が二人行方不明になり、図書室は荒らされ放題、そして異常な状態で別高校の男子生徒が図書室にいた等、知っちゃかめっちゃかだった。警察への連絡、保護者への説明、マスコミへの対応、迷惑電話への対応などで休学になっていたのだ。今日は高校が再開した初日だった。
正太郎は自分が知っている全てをノア、美琴に説明した。ノアは下手をすると死んでいたし、教師が消える瞬間を見ていたので、説明するしかなかった。美琴には説明義務はなかったが、今後危険なことがあった時にまた迷惑をかけてはまずいので、協力者として話を聞いてもらった。
正太郎と悪魔との関係、正太郎が得た力、男との経緯、男の力、男の結末。正太郎は自分が話せることは全て話した。話してしまった。…それなのに、正太郎は肩の荷が下りた気がした。一人で抱え込むには既に色々あり過ぎたかもしれない。一方で、一人で何でもできるわけではないことに情けなさも感じていた。
「…まとめるわね。おさらいすると、連君は私がやった儀式で悪魔憑きになった。悪魔は悪人じゃないけど、もしかしたら連君の体を乗っ取るかもしれない。だから私とノアちゃんは悪魔祓いの方法を探してる。」
美琴はノア、正太郎の顔を交互に見ながら話した。反論がないので続けた。
「じゃあここからね。連君は悪魔、シンよね。彼を消したいわけじゃない。悪魔も連君の願いを叶えるために消えたくない。そんな二人にはすごい運動能力と、物を消すまたは壊す力がある。で、連君は偶然行方不明事件の犯人と会って、そいつはスマホで人を殺す、自分は変身する力があった。そいつが連君を殺しに来たのが図書室の事件で、結果先生2人は消されて、連君とノアちゃんは何とか生き延びた。…犯人は連君の力で何も言えない抜け殻になった。そういうことね?」
「…はい。」
正太郎ははっきりと頷いた。美琴は締める時には締められる人間なので、こういう時は頼りになる。そんな美琴は次にノアに心配そうに声をかけた。
「ノアちゃん、いきなり大変だったわね。怪我はなかったの?それに、話を聞いてて大丈夫?」
「は、はい、大丈夫です。正太郎が守ってくれたし、私も聞きたかったことなので…。」
「そう。でも無理しないようにね。そして連君、お疲れ様。最初はもっと早く話してくれたらって思ったけど、しっかり聞いたら話してもらってもどうしようもないことだったわね。だから、連君は原則責任を感じることはないわ。」
「…ありがとうございます。」
正太郎はきちんと頭を下げた。
美琴の優しさと公正さがありがたかった。「原則」正太郎が選んだ行動に責任はなかったが、それでもノアを危険な目に会わせたこと、犯人にしたことは結果として責任がある。罪の十字架を背負った、とでも言えばいいだろうか。正太郎自身、自分の罪を無視するわけにはいかなかった。だが、それは正太郎の問題だった。
次に、気持ちを切り替えた美琴は落ち着いた様子で話を続けた。
「じゃあ次ね。…行方不明の人達は、もう全員助けられないのよね?」
「シンが言うにはそうです。…力を使えた本人はもう何もできませんし。」
「そうよね…。オカルトの話は誰も信じないし…。…やっぱり、事の真相は私達の胸にしまうしかないわね。」
「で、でも、消えた先生方の家族くらいには説明とかした方がいいんじゃ…。」
ノアが複雑な表情で言った。結論は分かっているが、言わずにはいられない。そんな顔だった。
「本当はね。でも、スマホに取り込まれて消された結果もう戻ってこない、なんて誰も信じないわ。私でも難しいのに。」
「う…。それは、そうですよね…。」
肩を落とすノア。美琴はそんなノアの背中をぽんぽんと叩きながらも、ずっと気になっている点があった。
「…ねえ、警察が調べて、ノアちゃんと連君が事情を聞かれるってことはあり得るの?」
「…。」
「え?私達…ですか?」
「そうよ。何しろ現場にいたんだもの。どこから足がつくか分からないわ。で、そうなったら説明は信じてもらえない、だから潔白の証明もできないで苦労するわよ。どう、連君?」
「…多分大丈夫です。監視カメラは学校には校門以外になくて、裏から帰りました。帰りにカメラや車の通りがなかったのも確認してます。図書室の痕跡も、怪しまれるのは消したはずです。」
「…。」
「…。」
正太郎が冷静に答えるところを美琴とノアは驚きつつ見ていた。やがて正太郎が言い終えると、ノアがおずおずと言った。
「正太郎、すごいね…。その、よく知ってたね、監視カメラの位置なんて。」
「それは…え?…なんで知ってるんだろうな。そんなこと。」
正太郎は戸惑いつつ頭を掻いた。覚えた記憶はないのに、するりと知識が頭から出て来た。そんな正太郎を観察していた美琴は少し探るような目で正太郎に尋ねた。
「…そういえば、連君も力が使えるようになったのね。今も使えるの?」
「え?いや、どうだろう…。試しにやってみます。」
正太郎は目の前にあった消しゴムを拾い上げた。しばらく消しゴムを見つめていたが、何も起きなかった。やがて正太郎は消しゴムを元の場所に置いた。
「駄目です。シンが起きないと使えないみたいです。」
何をどうしたらいいのか分からなかった。この前はあれだけ自然に使えたのに、だ。美琴は正太郎の返事を聞いて頷いた。
「やっぱり悪魔の存在が大事なのかしら。…でも、なら犯人も悪魔憑きだったってこと?」
「あ…!」
「…断言はできません。自分の意志で使えてたみたいですけど。」
「…情報不足、か。」
美琴は残念そうにため息を吐いた。情報不足なのに、情報を手に入れる機会も、その方法もない。完全に手詰まりだった。
「…よし!今日はこれで終わり!」
美琴が勢いよく立ち上がり大きな声で言った。
「これ以上分からないことを悩んでも仕方ないわ。とにかく、私達は一連のことについて口外しない。今まで通り私とノアちゃんは悪魔祓いについて調べて、連君は何かあったら隠さず報告・相談する。分かった?」
「はい!」
「分かりました。」
分かりやすい美琴の話のおかげで、まとまりのない話も何とか形になって終わったのだった。
『いやー。大変だったな、正太郎。』
『シン…。』
夢の中だろうか、どこにいるのかはっきりしない中で、正太郎はシンに話しかけれらていた。といってもこういう時のシンは正太郎の姿なので、自分の分身と喋っている気分だった。
正太郎と同じ見た目のシンは笑いながら正太郎に聞いた。
『どうだ?初めて人を殺した、いや壊した気分は。愉快、後悔、爽快、不快。どんな感じだ?』
『…分からない。ああするしかなかった。けど、罪悪感はある。』
『罪悪感?お前の罪って何だ?』
『何って…。…俺が犯人にしたこと、白木を巻き込んだこと、俺がいたから犠牲が出たこと。色々あるだろ。』
『うーん…。そうじゃないんだよなあ。』
シンは腕を組みながら唸った。残念そうな、退屈そうな、どこか可笑しそうな、そんな声だった。
『何がそうじゃないんだよ。』
『正太郎。お前は自分の虚無を理解してない。いや、誤魔化してる。お前が感じたことは罪悪感じゃない。』
『…どういうことだ?』
『お前は殺されかけた時、怖かったか?あれを壊す時、本当に迷ったか?』
『…!』
『分かってるぞ。自身とあいつへの不快感、結果への不満はある。でも、それは感情じゃない。冷静に評価しただけだ。』
シンはにやりと笑いながら話を続けた。正太郎の心について語るその姿はまさしく人を唆す悪魔だった。
『けど、死にかけても壊しても、教師が目の前で消えても、お前は落ち着いていた。感情が動くことはなかっただろ。…お前が感じているのは罪悪感じゃない、失意だ。今回の事件の中でも意味を感じられず心が動かない自分への失意。それがお前の淀みだよ。』
『…失意、か。』
沈黙の後に正太郎が呟いた。
正太郎はシンの言葉を否定できなかった。殺されることは気に入らないだけで怖くはなかった。倫理道徳を元として殺すことに躊躇いがあったが、個人的感情でいえば犯人は殺されても因果応報だと感じていた。そんな自分の思考と動かない心への失意(あえて失望とは言わない)を見て見ぬ振りして、一般的な「罪悪感」の一言でくくろうとしていた。シンの言う通り、そうではなかった。
シンの言葉を噛みしめている正太郎に、シンは先程より穏やかに言った。
『正当防衛は罪じゃない。殺すこと自体も罪じゃない。他人が巻き込まれたのも、お前は要素の一つだが原因じゃない。お前が罪を感じる必要はない。お前に求められてるのは自身の虚ろな心と失意を正しく理解することだ。それで十分だ。』
『…随分甘いんだな。』
『何しろ初回だからな。これからきっと色んな事が起きる。その過程で多くの意味を理解して、願いを叶えてもらう。今回はそのための一歩だ。』
『今回みたいなことが今後続くってことか?』
さすがの正太郎も少し驚いた。恐ろしくなったわけではないが、今回のように何度も襲われればさすがにどこかで死ぬ気がした。しかし、シンは余裕そうだった。
『ははっ!何が起きるかは分からないけどな。ただ、お前は死なせない。お前の願いを叶える、それが俺の存在意義だからな。…さあ、言うべきことは言ったし、俺は遊びに出るか。じゃあな正太郎。よく寝ろよ。』
言いたいことを言って満足したのか、シンはあっさりと話を終えて消えた。
正太郎はシンが消えてもしばらくぼんやりとしていたが、やがて微かに笑った。シンの言うことは的を射ていて、話す様子も信頼できるものだった。コンタクトのタイミングや話の流れ、話の終わらせ方は勝手だが、あまり前に出ない正太郎にはちょうど良かった。
『…これからもよろしくな、シン。』
正太郎は苦笑しながら独り言のように呟いた。
❘あなたの願いは何ですか?
俺は生きる意味が知りたい。自分の周りがある意味を知りたい。
❘あなたは❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘❘。
…………………………………………。
「…うるさい…!」
「きゃああ!」
「っ⁉」
誰かの叫び声が聞こえて正太郎ははっとした。どうやら寝ていたようだ。思わず周囲を見ると、周りのクラスメイトが怯えたような顔をして正太郎を見ていた。古文の教師も教壇で唖然とした顔をしていた。
「…?」
正太郎はどうしてそんな目で見られているのか分からなかったが、視線を手元に移してようやく異常に気付いた。目の前にあるはずの机が消え、いや足元にあった。机は板が折れ、金属部分はひしゃげて地面に沈んでいた。足は折れ曲がってこそいないが宙に浮き、机はさながら前衛芸術のようになっていた。
(俺がやったのか?寝てる間に?)
うたた寝している間にやったとしては激し過ぎる行為だ。そもそも殴っただけで机はつぶれるものだろうか。
「え、ええと、連堂君?大丈夫ですか…?」
「…大丈夫です。すみません、寝てました。」
正太郎は怖々と聞いてくる教師に対し淡々と答えた。ざわざわしている周囲の声もよく聞こえて来た。
「どんな力だよ…。」
「キレたらやばいのか…?」
「ちょっと怖いね…。」
力を恐れて遠慮する教師も、好き勝手言うクラスメイトも、どれもどうでも良かった。正太郎は自分が急激に冷めていくのが分かった。
「すみませんでした。机を交換してきます。」
言うなり正太郎は床を片付けて机を持ち上げた。机は実物の重みを感じさせ、とても自分が壊せそうになかった。教室を出ていく途中で心配そうにするノアと目が合ったが、正太郎は何となく目を逸らしてしまった。なぜそうしたのか、よく分からなかった。
正太郎は壊れた机をゴミ捨て場に持って行った後、空き教室で壊れてない机を回収した。しかし、教室に戻る気が失せて空き教室でぼんやり座っていた。何となく、目の前の机を軽く叩いた。次に、強く。
「…痛いな。」
手が痛くなるだけで、机は壊れなかった。当然と言えば当然だった。なら、正太郎は夢を見ながら力を使って限界を超えたということだ。
「無意識で使うと危険だな。」
筋力が増強される力も、虚数を用いる力も寝ぼけて使うと大変危険だ。外では寝ない方がいいかもしれない。
「そういえば、そもそも何の夢だった…?」
正太郎は夢の内容が思い出せなかった。見知らぬ相手に話しかけられた気がした。相手が実在するのかは分からないが、悪い印象はなかった。
「何だったんだろうな、あれは…。」
思い出しそうで出せないもどかしさがあった。その内、再び正太郎は眠ってしまった。
何でもできるだろう万能感があった。不死はともかく老化せず、病気もしないので時間に追われることがない。食事や睡眠、生殖の必要がないので、生きるために何かをする必要がない。単体でいられる精神であるため、孤独を感じることもない。それが、精神生命体というものだった。
何故か正太郎は精神生命体、というかシンになっていた。存在として完全で、過不足がない。それは同種も含めた自分以外の全てが必要ないという意味だった。
(やっぱりシンと俺は似てるんだな。)
シンも周囲に意味を見出していない。たとえ一時的に意味が生まれても、意味も含めて全てはいずれ消えてなくなると確信していた。
しかし、シンと正太郎には違いもあった。まずシンは生き物として完全、正太郎は不出来という点だ。シンは他を見下してはいないが弱い存在として捉えるため無意味と感じ、正太郎は生来の感性で自他を無意味と感じていた。結果は同じでも始まりが違った。
次に違う点は、正太郎は意味があってほしいと願っているが、シンは周囲が無意味でも全く気にしていない点だ。だからシンは他に多くを求めず、一時的・刹那的な享楽(例えば夜遊び)にふけるのだろう。
(…それにしても、やることがないんだな。)
考察に一旦片が付くと、正太郎はぼんやりと空間に漂っていた。生きるために何かする必要がない。なら自分がしたいことをすればいいのだが、完全ゆえにすることがなかった。不満もないが充足もない。シンの在り方はそんなものだった。
(…こんなに完全なのに、自分のことも無意味なんだな。)
もう一つ自分とシンの共通点を見つけた。夢か現か分からない世界で、正太郎はぼんやりと虚空を漂っていた。
放課後、正太郎はノアに怒られていた。
「正太郎!授業をサボるんなら連絡してよ。心配したでしょ。」
「悪かったな。ちょっと寝てたんだ。」
ノアは戻ってこない正太郎を探すのに苦労したらしく、かなりむくれていた。正太郎は返事をしながらも机を自分の席まで運んだ。軽々と、まるで隣のクラスから教科書を借りて来ただけのようだ。周囲のクラスメイトから来る好奇の視線を正太郎、ノアともども感じていた。
「…ねえ、それってやっぱりただの腕力じゃないんだよね?」
「ああ。使い方は未だによく分かってないんだけど、便利なもんだ。」
「使い方が分かってないのに使えるの?」
「歩き方を説明するのが難しい、みたいな感じだ。」
「ふうん…。」
ノアは何か言いたげだったが、正太郎はあえて無視した。無用な心配は切り捨てた方がお互いにとって良いと判断した。ついでに周囲の視線も無視して、正太郎はノアと共に部室へ向かった。
「机も割れるなんてすごいじゃない。あ、でもそれって、悪魔の助けがなくてもできるものなの?」
「そうですね。いつの間にかできるようになってました。ただ、ものを消す方は変わらずできません。」
「ふむふむ。悪魔と精神のつながりが強くなってるのか、それとも連君の体が順応しただけか…。でも、ここで止めときましょうか。ノアちゃんが心配し過ぎて倒れちゃうかもしれないし。」
「さすがに倒れはしませんけど…。」
オカルト研究会ではまず先程の件が話題にあがった。本来の予定はどうしたと言いたいところだが、予定など元々ないに等しかった。最近は毎週一回悪魔に関する定期報告をしているが、本来オカルト研究会は雑談をして気になったことをやって見たり調べたりする自由な(いい加減な)ところだ。今回も例に漏れないのだが、その中で美琴は一人悪い顔をしていた。
「でも、任意で運動性能を変えられるなんて便利よね。その力でオカルト研究会にしっかり貢献してもらわないと、ね。」
「はあ。」
気のない返事をする正太郎だったが、美琴はそれを同意と捉えて笑いながら言った。
「よーし!じゃあ連君、次の土曜に付き合ってちょうだい。いつもの雑貨屋で魔術関係の品物と情報を買いに行くから。荷物が多くなるからどうしようかと思ってたのよ。」
「分かりました。ついていきます。」
「OK、ありがと。」
「ちょ、ちょっと待って下さい!私を置いていかないで下さいよ!」
ノアは美琴と正太郎が二人だけで話を進めるのが我慢できず、抗議の声を上げた。しかし、美琴は飄々とした様子で答えた。
「でもノアちゃん、土曜って確か塾よね?」
「うっ、そうですけど…。じゃあ日曜はどうですか?それなら私も…。」
「日曜は私が駄目なのよ。父親に同時通訳の仕事を頼まれてて。」
「うう…。分かりました…。」
ノアは何とも情けない声を出した。これ以上反論が難しい上に、自分より美琴の理由が大変格好良く、少し悔しかった。しかし、とにもかくにも話がまとまったので、美琴が立ち上がり手を叩いた。
「はい!じゃあ土曜は連君と私が買い物に行く、で決まり。ノアちゃんには何をしたか、週明けに報告するわね。」
約束の土曜になり、美琴は駅前の待ち合わせ場所にいた。上品かつ落ち着いた服、ごく薄い化粧、さり気なく光るアクセサリー、まさに御令嬢といった様子で、小柄でも大人の女性の雰囲気を醸し出していた。周囲の人々が時々美琴を振り返る中、躊躇いなく美琴に近づく人間がいた。
「お待たせしました。」
「来たわね、連君。って…。」
視線を上げた美琴は目を丸くした。
正太郎の姿はいつもと違っていた。正太郎は自他の容姿にほぼ興味がないため、私服も制服も似たようなものだった。しかし、目の前にいる正太郎はいつもの服を少し気崩していて、堅苦しさが減少しカジュアルになっていた。美琴の隣にいてもそれほど違和感がなかった。
「どうしたの、連君?いつもと服装の雰囲気が大分違うけど?」
「そうですか?自分じゃよく分からないんですけど。」
「ふーん(やっぱり悪魔の影響なんでしょうね)…。ま、いいわ。とにかく行きましょ。話は歩きながらでもできるわ。」
「分かりました。あ、部長。」
シンは美琴に答えて頷くと、美琴の前に手を差し出した。美琴は最初意味が分からずきょとんとしていたが、はっと気付くと慌てたような声を上げた。
「いやいや、デートじゃないんだから手なんてつながないわよ!」
「何言ってるんですか。荷物持ちなんで、部長の荷物も持ちますってことです。」
「あ、ああ。そういうこと…。」
美琴は買い物のために大きめの手提げ鞄を持っていた。正太郎の意図を理解した美琴はため息を吐きながら正太郎に鞄を渡した。鞄を受け取った正太郎はしばらく鞄を見つめていたが、おもむろに顔を上げた。
「もしかして、手をつないだ方が良かったですか?」
「違うわよ!」
こんな様子で美琴と正太郎という、少し珍しいペアでの買い物が始まったのだった。
二人がまず訪れたのは古い雑貨屋だった。「俺は数か月ぶりですけど、部長はよく来る んですか?」
「大体週一くらいね。通販でも買わせてもらってるし、融通も効くから助かってるわ。」
店には看板がなく、表には古本や筆記用具、パワーストーン、ハンカチなど全く規則性がない物が並んでいた。奥は商店にしては薄暗く、商品は食器や壺、十字架、木材など表よりもっと混沌としていた。そんな一見さんお断りの店が「万事屋 新月」だった。
美琴は勝手知ったる様子で店に入り、正太郎も続いた。二人は店の奥にあるレジまで進んだ。レジの側には中年男性が座っていて、男は二人を見るとうっすらと笑った。
「いらっしゃい、御夜霧さん、連堂さん。今日は何がご入り用いだい?」
「魔術書関係の品が見たいんですけど、入荷してますか?潮月店長のお勧めでいいので。」
「無銘の魔術書はお気に召さなかったかい?あれはかなり信憑性の高い良品のつもりだったんだが。」
「ああ、違うんです。不要だったとかじゃなくて、良品過ぎて困るというか…。」
美琴は困ったような笑顔でちらりと正太郎を見た。さすがに本当に儀式が成功して悪魔が出て来た、とは言えなかった。ただ、潮月店長は美琴の空気を察し、それ以上は尋ねることなく立ち上がった。
「よし、分かった。倉庫にあるものも多いから一緒に来てくれ。その間、連堂君は店番を頼む。誰か来たら俺に教えてくれ。」
「俺なんかに任せていいんですか?」
「ああ。自慢じゃないが見る目は確かなんでね。」
「…分かりました。ここで待ってます。」
「じゃあ連君、ちょっと待っててね。…あ、潮月店長、この間の干しトカゲ良かったですよ。すごく使いやすくて。」
「それは良かった。そういえば、最近ニホンオオカミの毛なんてのがあるんだが、どうだい?」
「見たいです!まあ値段は相談ですけど…。」
美琴と潮月店長はよく分からない話をしながら倉庫に向かった。
そして、店は正太郎一人だけの世界になった。
「…暇だな。」
一人になった正太郎は潮月店長が使っていた椅子に座りつつ呟いた。一度周囲をぼんやりと眺めた後、天を仰いで目を閉じた。何度か来たことがあるが、店はいつも通り雑然としている一方、店長の情熱とこだわりが感じられた。きっと店長は仕事に愛情と誇りを持っているのだろう。
「好きなことをする、か。」
仕事であれ趣味であれ、好きなことを一所懸命にできる人間はすごいと思う。自分に好きなことがないことも理由だが、何よりそうした人間は活気が感じられ、輝いて見えるのだ。シンが見れば「魂の輝き」とでも表現するのかもしれない。彼等は当たり前のように好きなことを好きと言い、継続できる。そんな自分を肯定し、人生に充実感を得ることができる。きっと彼等にとって生きる意味とは「好きに生きること」そのものなのだろう。
ごちゃごちゃと考えたが、とにかく正太郎にとって「好きを貫ける人間」は夜空に輝く星のように(星の数ほど多くはないだろうが)手の届かない、輝ける存在だ。美琴やノア、潮月店長はその良い例だ。彼等のようにはなれなくても、彼等の輝きに意味があると胸を張って言えるようになりたい。
「…連君?寝てるの?」
「おっ。いえ、起きてます。」
いつの間にか美琴が潮月店長と店に戻って来ていた。客は誰も来なかったが、正太郎は無事店番役を完遂できたようだ。正太郎はわずかに驚きながらも落ち着いて答えた。
「お待たせ。無事買い物が終わったわ。じゃあ、これね。」
美琴はシンに中身が詰まった手提げバッグを二つ手渡した。一つは厚みのある本が4~5冊入っていて、もう一つは謎の生き物のホルマリン漬けや謎の砂、鉱石などが入っていた。正太郎は中身をややぼんやりと見ながらぼそりと言った。
「いかにも魔法使いが使いそうな物ばかりですね。」
「私は魔法使いなんだから当然よ。そしたら潮月店長、また欲しいものがあれば連絡します。」
「ああ。どうもご贔屓に。…あ、ちょっと待ってくれ。」
潮月店長は頭を下げて二人を見送ろうとしたが、何か思い出して二人を止めた。
「さっき口コミやネットの情報を教えたが、一つサービスだ。…最近ある噂が流れててな。何でも、強く願うと悪魔だか魔法使いだかが力を貸してくれるらしい。」
「「…。」」
美琴と正太郎は思わず顔を見合わせた。本物の悪魔が正太郎と共にいるのだから無理もない。それから美琴がいつも通りを装って言った。
「そ、その話って本当ですか?閲覧数稼ぎとかじゃないんですか?」
美琴に問われた潮月店長は苦笑していた。自分でも怪しい情報だと思っているのだろう。しかし、苦笑しつつもきちんと美琴に答えた。
「俺もそう思う。けど、調べると変わっていてな。詐欺でも勧誘でもなく、ただ方法を説明するだけなんだ。ひたすら願え。夢ではない。そして尋ねられたら答えろ、とな。悪魔か魔法使いかは人によって違うだけで、似たようなものだった。」
「…夢、あるいは実際に願いを聞かれるから答えろ。そういうことですか?」
「恐らくは。俺が調べた限り、主張してる奴は本気だった。上手く言えないが、何かあるんじゃないかと思ってね。勘だが。」
「へえ…。教えてくれてありがとうございます。」
美琴は潮月店長に頭を下げてお礼を言った。正太郎は考え込む様子で黙ったままだった。
「ねえ。連君の悪魔、シンって名前にしたのよね。シンが勝手に他人の願いを叶えてるってことはないの?」
美琴は万事屋新月から出ると、早速正太郎に尋ねた。さすがオカルト研究会部長、オカルト話への食いつきがすごかった。対する正太郎は落ち着いているものの、やや言いにくそうだ。
「ええと…。白木には言わないでもらえますか?」
「えー?まだ隠し事してたの?」
「大したことじゃないですけど…。」
言い淀む正太郎。美琴は困ったように苦笑していたが、やがてやれやれと優しく笑った。
「しょうがないわね。黙っててあげるから、言ってみて。」
「はい。…その、シンは時々俺が寝てる間に体を使って夜遊びすることがあります。でも、俺以外の願いを叶えることはしないと思います。」
「夜遊び、ねえ。今はそこに深くは突っ込まないけど、程々にね。でも、何でそう思うの?」
「シンはそこらの他人の手伝いをするような奴じゃありません。それに、願いを叶えるなんて都合のいい力は持ってません。」
「うーん…。連君がそんなにはっきり言うなら違うか。じゃあ、やっぱり他に悪魔がいるってこと?」
腕を組む美琴の横で、正太郎は顎に手を当てて静かに考えを巡らせていた。
「…さっき気付いたことなんですけど。この間の犯人、何度か『もらった』とか言ってました。」
「…!つまり、犯人に力を『あげた』人、いや悪魔だろうけど、そういう奴がいるってこと?」
「恐らくは。それと、うろ覚えなんですけど、ついこの間の机を壊した時、変な夢を見たんです。見たこともない人に願いがどうとか聞かれたような…。」
「えぇ⁉それって、さっき店長が言ってたことそのものじゃない!」
「はい。俺も店長の話を聞いて、もしかしてと思いました。」
「は~…そう…。」
美琴は話を聞いて驚いた顔から困った顔、悩ましげな顔と顔色をくるくる変えていった。見る人が見れば可愛らしいのだろうが、あいにく本人は大真面目だった。
「う~ん…。危ない感じだから関わらない方がいいと思うけど、今の連君は主人公体質だからなあ…勝手に引き寄せちゃいそう。」
「…何ですか?その、主人公体質って。」
「え、知らない?じゃあ説明すると、主人公ってのは…。」
美琴が正直あまり興味のない話を始めてしまったので、正太郎は渋い顔をした。結局、主人公体質から始まり、色々な(どうでもいい)話を延々と美琴から聞かされるのだった。
買い物の後、正太郎と美琴は昼食をとることにした。美琴は自称魔法使いで変わり者だが、お喋りは好きだった。正太郎と二人だと基本的に話してばかりになるが、それも悪くなかった。
「…で、双頭の蛇が必要だったの。そんな時に売ってるんだから買うでしょ?」
「はあ。…って、ん?」
正太郎は適当な相槌を打ちながら、不意に後ろを振り返った。誰かに袖を引っ張られた気がしたのだ。そして、振り返った先には少しおどおどした感じの少女がいた。年齢は小学校低学年くらいで制服姿だ。痩せてはいるが可愛らしい、邪気を感じない様子だった。
少女は正太郎と目が合うと無言のまま遠慮がちに笑った。…優しいが、儚い笑顔だった。
「…どうしたんだ?俺に何かあるのか?」
正太郎は少女をまじまじと見た。…いつか見た気がする顔だ。しかし、思い出せそうで思い出せなかった。一方、少女の方は正太郎に用があるらしく、正太郎の袖を引いてどこかに連れて行こうとした。
「お、おい、ちょっと待てって。」
「…連君?さっきから何言ってるの?」
「…え?」
正太郎が少女を制していると、美琴が怪訝な顔で正太郎に聞き、聞かれた正太郎はぽかんとした。
「この子が俺に用があるみたいで…。」
「この子って…?」
「…。」
正太郎は少女と美琴を、美琴は正太郎とその周りを見て、そしてお互い見つめ合った。
「もしかして…幽霊?」
美琴の言葉を聞きながら、正太郎は自分をぼんやりと見上げる少女を見つめていた。
正太郎達は少女の希望を叶えるため、少女の後ろをついて歩いていた。とはいえ、少女が見えているのは正太郎だけだ。
「あ~あ~。なんで私には見えないのかな~。ねえ連君、なんで?なんで?」
「俺にも分かりませんよ…。」
美琴は幽霊が見えなくてものすごくがっかりしていた。正太郎は何度目かの返事をして、そろそろ気になっていることを質問することにした。
「…あの、部長は見えてないのに俺の話を信じるんですか?」
「え?当たり前じゃない。私、連君もノアちゃんも信頼してるもの。私を騙すような人間じゃないわ。でしょ?」
「それは、まあ。」
「それに、部長が部員を信じなくてどうするのよ。しかも私はオカルト研究会部長、かつ魔法使いよ?信じるに決まってるじゃない。」
「…そうですね。」
(あ…。)
正太郎は淡々と答えたが、確かに、微かに笑っていた。正太郎が笑うことは滅多にないせいか、美琴は不覚にもどきっとしてしまった。
「そういえば、部長はなんでオカルト好きなんですか?」
「えっ?あ、ああ、オカルト好きの理由ね。理由なんてないわ。面白いから好きになった、それだけよ。」
不意をつかれたところにさらに正太郎から質問され、美琴は少し慌ててしまった。しかし、気を取り直してオカルト研究会部長らしく、胸を張って答えた。理由がなくて何が悪い、好きなんだから問題ないと言わんばかりだ。そして、先程万事屋新月で考えていたように、美琴の主張は正太郎にとって尊敬できるものだった。
「それだけじゃないです。好きと自信を持って言える人は少ないですよ。」
「そうかもね。私から言わせてもらえば、楽しく生きるために生まれて来たのに、好きなことを好きと言わないなんて勿体ないと思うけどね。」
(…楽しく生きるために好きなことをする。いや、好きなことをするから自然に楽しく生きられるのか。)
楽しく生きるために生きてない正太郎では美琴の気持ちを理解することはできない。しかし、ヒトとしては美琴の方がはるかに望ましい在り方なのだろうと思った。
「あ、部長。次は右です。」
話している間にも二人は少女について歩いていたので、いつの間にか結構な距離を歩いていた。そこで少女が右に曲がったので、正太郎は美琴を案内して共に曲がった。
「ん?こっちって、もしかして…。」
美琴は何かを思い出し、スマホを取り出して調べ始めた。そしてすぐ声を上げた。
「やっぱり!この先って、怪奇現象が起きたっていう公園よ。まだネットにもない地元だけの話なの。」
「へえ…。」
少女はその公園に向かっているのだろうか。二人が少し緊張しつつ歩いた。
果たして、少女は公園の前に立っていた。
「やっぱり公園…!」
「…あれ…?この公園…。」
美琴がスマホで写真を撮っている横で、正太郎は目の前の公園に見覚えがあった。少女といい公園といい、あと少しで思い出せそうなのに…。
『おい、正太郎。』
「え?」
懸命に記憶を探る正太郎だったが、いきなりシンが話しかけてきたので思わず声を漏らした。美琴に加え少女すらも声に反応して正太郎を見た。しかし、シンは状況を気にすることなく正太郎に話しかけた。
『公園の中を見てみろよ。あの淀みを、な。』
「?確かに人はやたら多いけど…。」
「人?」
正太郎の独り言(に見える言葉)に美琴が怪訝そうに反応した。その反応を見た正太郎は気付いた。
「あれ全部幽霊なのか…!」
「え、幽霊⁉」
「そういうことだ。こいつの魂に惹かれるんだろう。幽霊にしては稀なきれいさだからな。」
シンは笑いながら少女の頭を優しく撫でた。少女は少し戸惑いながらも黙って撫でられていた。…ツッコミどころが多すぎて美琴はしばらく唖然としていたが、我に返ると躊躇いがちに声をかけた。
「れ、連君?じゃなくて、まさか悪魔?」
「ああ。俺がシンだ。今正太郎と代わった。悪いな、正太郎。」
『いや、俺はいいけど…。どうしたんだ、急に?』
シンの登場に正太郎も戸惑っていた。今までシンは夜遊び以外では出て来ることはおろか会話すらしてこなかったのだ。それが今回は日中に、人前で、しかも勝手に出て来ており、異例中の異例だった。
「正当防衛じゃない暴力は初めてだからな。最初は俺がやる。正太郎は見てろ。」
そう言うとシンは余裕の笑みを浮かべつつ公園に入っていった。途端、中にいた10人ほどの人間がゾンビのようにシンに近づいてきた。
「ちょ、ちょっと!暴力って何⁉何する気なの⁉」
「美琴、だったか?見えなくてつまらないだろうけど、我慢してくれ。危険だからな。」
シンが肩越しに美琴を見た瞬間、公園にいた一人の男がシンに飛び掛かった。
「…!」
「はっ。」
少女が声なき叫びを上げる中、シンは頭を戻すと男に向けて無造作に右手を振るった。普通は相手にぶつかるだけの手は、なんと豆腐のように男の顔を切断した。
『うっ…!』
「くくっ。よく見ろ、正太郎。」
思わず顔を背けた正太郎だったが、いつも通りのシンに言われて視線をゆっくり戻した。…男は下顎を残して頭が飛んでいた。しかし、体からは血が出ておらず、代わりに黒い煙が出ていた。そして、体全体が黒い煙となって消えてしまった。
『な、何なんだ…?』
「幽霊は血を流さないし死体も残さない。壊したところで何も残らない。そもそも生きてないから殺してるわけでもない。」
シンが話していると、他の幽霊たちが次々とシンに襲いかかった。しかし、シンは余裕の表情で幽霊の拳や爪、ナイフを避け、返す刀で幽霊を切り裂いていった。体を抉られた幽霊達は痛がったり苦しんだりせず、ただ虚ろに消えていった。
シンはあっという間に幽霊を半分ほどにした。残った幽霊の攻撃を避けてシンが反転しようとした時、幽霊の陰から何かがシンに飛び掛かった。中型の犬だ。
「ちっ…!」
シンはわずかによろめきつつも腕で犬を防いだが、その腕に犬が噛みついた。犬の鋭い歯が服と皮膚を切り裂きつつ肉に食い込んだ。
「どけ…!」
シンは無事な手で犬の顔面を掴み、握り潰した。途端に犬は消えていくが、その隙をついて残った幽霊達がシンに襲いかかった。シンは防いだものの、何度か殴られ、頬や腕を引っかかれ、切られた。どれも深い傷ではなく痛みも大したことはないが、正太郎の体に傷がついてしまった。
「クソ共が、この体に傷をつけるな…!」
シンは怒りの形相で叫んだ。本気を出したシンは凄まじく、あっという間に幽霊の残党は消し去られた。公園にはシン一人だけ。幽霊達がいた証拠は何も残らず、残ったものは正太郎の服と体についた傷、そして腕から垂れてくる血だけだった。
…視点を変えて、美琴から…
美琴は眼前の光景に驚いていた。公園の中に入っていった正太郎(中身は悪魔のシン)が話したかと思うと、急に一人で動き回り始めたのだ。
(連君は公園の中に幽霊が沢山いるみたいに言ってたから、きっと幽霊とやりあってるんだろうけど…。)
見えない美琴にはさっぱり状況が分からなかった。大変残念・悔しいと思うと同時に、悪魔を呼び出した時以来の非現実的な光景に圧倒されていた。
「あっ!」
いきなりシンの体がよろけた。と同時に、守るように出された腕の服が不自然に潰れた。シンはそこにいる「何か」を殴るように動いた後、守りの姿勢を取った。そして、殴られたかのように体と服が動き、手や頬に線状の傷ができた。さらに、傷からは血が滲み、腕からは血が垂れ地面に落ちた。そんな光景を見て、自分が幽霊を見える見えないにこだわる美琴ではなかった。
「大丈夫なの⁉ねえ⁉」
シンは美琴の言葉に答えなかった。いや、怒りで聞こえていなかった。
「クソ共が、この体に傷をつけるな…!」
美琴にも聞こえる大きさで叫ぶと、シンはさっきよりもはるかに素早い動きで動き回った。美琴にはシンの動きは速すぎて、何をしているかも推測できなかった。すぐにシンは動きを止めたが、体についた傷と地面に落ちる血は今起きた超常現象を証明していた。
美琴は感動と同時に恐ろしさも感じていた。いずれの感情も、正太郎が悪魔憑きになった儀式の時にも同じように感じていたが、今回は自分が知覚できないものが確かにあるという事実、その事実によって実際に傷を負う者がいるという現実を思い知らされていた。
…話を戻して…
「ふう…。」
シンは軽く息を吐いた。まだ苛立ちはあるが、それは幽霊達へではなく自分自身へのものだった。
「悪かったな、正太郎。体を勝手に借りた上に怪我まで。」
『いや、気にしてないから大丈夫だ。俺の方こそ、幽霊を倒してくれて助かった。俺だとできなかったかもしれない。』
「ふふ、まだ終わってないぞ。最後の仕上げはお前がしてやらないとな。」
『え?』
シンは正太郎にそれ以上答えず、後ろを無理向いた。そこには幽霊が減って駆け寄ってくる少女と、安全そうだが少女すら見えない分やや警戒している美琴がいた。
「ね、ねえ、もう幽霊っていないの?見えないからちょっと怖いんだけど。」
「安心しろ。奴等は見えない奴には何もできない。見える奴にしか干渉できないんだ。」
「え?そうなの?」
『へえ、そうなのか。』
「ああ。ってことで、安全になったから美琴も見えるようにしてやるよ。」
シンは少女の頭をまた撫でてやりながら美琴に手招きした。そして、近づいてきた美琴の額を指でとんとん、ととん…と叩いた。すると…。
「…え!この子が幽霊の女の子⁉」
美琴が少女の方を見て急に騒ぎ出した。美琴にも少女が見えるようになったようだ。
「え、すごい!これ、どういう方法?ごめんね、ちょっと…わ、触れる!何々、これで私も幽霊が見える人間になったってこと?」
「まあまあ、ちょっと落ち着け。」
テンションが上がりまくっている美琴をシンは笑いながら制した。さっさと正太郎と代わりたいが、説明しないわけにもいかなかった。
「そもそも幽霊とは心が残したエネルギー、魂のことで、悪意や妄執が残ってるだけだ。だから消して問題ない。で、それを感じ取れるように感覚を調節したから美琴でも見えるんだけど、今だけだ。あと一時間もすれば効果は切れる。」
「そうなんだ。残念…。まあ、一目見ただけいいけど。それにしても、普通の人間と変わらないのね。」
「力が強いほど普通に見えるからな。この子の思いが強い証拠だ。お前に引き寄せられた奴等を助けて欲しくて正太郎を呼んだんだろ?」
「…!」
シンが少女に尋ねると、少女は何度も首を縦に振った。シンも満足そうに頷いた。
「だよな。…さて、じゃあ最後にこの子も消してやらないといけないんだけど、それは正太郎の役目だ。さっさと思い出して眠らせてやれ。」
『は?消す?それに思い出す、だって?』
正太郎が聞くが、シンは答えることなく引っ込んでしまった。
正太郎の意識がまた前面に出てきたが、正太郎はいきなりのことで困惑していた。
「あいつ、何言ってるんだ?消すって…。」
「成仏ってことかもね。…ねえ、あなたはどうしたいの?」
「…。」
美琴は少女に優しく問いかけたが、少女は困った顔をするだけで何も言わない。そもそも少女は会ってから一度も言葉を発していなかった。
「うーん…。幽霊だから話せないのかしら。困ったわね…。」
シンの言葉を理解しないといけないが、少女からは情報が出そうになかった。美琴が悩んでいると、正太郎が視線の高さを少女に合わせるようにしゃがんだ。
「申し訳ないんだけど、お前のことを思い出せないんだ。何でもいいから、何か教えてくれないか?」
「…。」
少女は正太郎の話を聞くと、スカートのポケットをごそごそと探り出した。そして、中から細い何かを取り出した。
「…赤い、髪留め?」
「…あ…!」
美琴の呟きのお陰か、正太郎ははっとして少女のことを思い出した。
中学一年の秋頃だ。家に帰る時間をできる限り遅らせたかった正太郎は放課後、町を転々としていた。ある日、適当に買った本をこの公園で読んでいると、この少女が現れた。少女は公園で何をするでもなくぼんやりと時間を潰していて、正太郎が公園を去る時もまだ帰っていなかった。
その後、正太郎は何度かこの公園に来て時間を潰したが、その度に少女はいた。ある時、何故か少女は服が汚れた状態でやって来た。さすがに無視できず、正太郎は少女についた泥を払い、顔を拭いてやった。少女は汚れの理由を言わず、正太郎も聞かなかった。しかし、それ以後少女は正太郎の近くで時間を潰すようになった。お互いほとんど話すことはなかったが、相手がいることを感じつつ穏やかに過ごしていた。
髪留めはしばらくして正太郎が少女にあげたものだ。ノアが正太郎も見た目を気にした方がいいと言い出して、押しつけたものだった。正太郎は赤い髪留めなど到底自分には合わないとして、
『もらいものだけどやる。』
と言って少女に手渡した。…そんなどうでもいいものを、少女は大事そうに、嬉しそうに受け取った。
それからも正太郎と少女は公園で共に時間を潰していたが、ある時から少女はぱったりと公園に来なくなった。元々正太郎は公園に来る理由を持っていなかったので、少女が来なくなって一ヶ月ほど経過した時点で正太郎も公園に行かなくなった。それが正太郎と少女の話だった。
「思い出した…。」
正太郎はため息を吐くように呟いた。少女と会っていたのは数か月もない短い期間だったが、それでも一緒にいた相手だ。どうして忘れていたのだろう。
「…いや、そもそも名前すら聞いてないんだから、覚えてなくて当然か…。」
名前も事情も、何も聞かなかった。聞こうと考えることもなかった。自らの他人に対する無関心さを恐ろしいと思う一方、かつての自分と今の自分との精神的な違いを実感していた。
「連君?この子のこと、思い出したの?」
「はい。中一の時に少し…。」
正太郎は美琴に答えてから、改めて少女と目を合わせた。
「今思い出した。忘れてて悪かったな。髪留めのお陰で思い出せた。」
「…。」
少女は嬉しさを滲ませつつはにかんだ。…その様子はまるで生きているようだが、目の前の少女はすでに幽霊といえるものだ。正太郎が何を思っても、何をしても、もう手遅れだった。罪悪感を抱えつつ、正太郎は穏やかな声で少女に聞いた。
「分かるなら教えてくれ。お前は何でここにいるんだ?シンの話じゃ、強い思いがあったからお前はここにいるんだろ。」
「…。」
少女は正太郎の話を聞くと、正太郎の手を引いて歩き出した。正太郎と美琴がついていくと、少女は滑り台の横にある、古いベンチの前で止まった。美琴は不思議そうにしているが、正太郎は呆然としていた。
「…。」
「ここは…?」
「…ここに俺が座って、この子は隣に座ったり滑り台に上ったりしてました。」
「じゃあ、思い出の場所ってこと…?」
「…なんでここに…。」
正太郎が美琴に答えないまま呟くと、少女は正太郎をベンチに座らせ、隣に自分が座った。そして正太郎を見上げ、目が合うと笑った。その様子を見て、美琴は一つの可能性を思いついた。
「もしかして…連君に会いたかったんじゃない?」
「は…?」
正太郎は美琴の言うことが理解できなかった。こんな自分に会いたいと思う人間はいない。まして少女は特にだ。少女の名前も知らない自分に会いたいわけがない。…しかし、少女は美琴と正太郎を見ながら頷いた。
「ほら、やっぱり。…幽霊になっても連君に会いたかったのよ。」
「…俺に会って、何がしたかったんだ?」
「…。」
無関心だったこと、公園に来なくなったことを責めるなら理解できる。しかし、少女は首を横に振り、「もう十分」と言いたげだった。
「連君、きっとこの子は会いたかっただけよ。仲良しの人ともう一度…。」
「仲良くなんてありません。俺は何もしなかった。…本当に、何も。」
「…。」
美琴は心苦しそうに押し黙った。正太郎の声には怒りが混じっていた。ここまで感情的な正太郎を見たのは初めてだった。
「…。」
少女が心配そうに正太郎の袖を引いた。正太郎ははっとして顔の力を抜いた。今は自分の思いなんて、どうでもいいことだった。
「分かった。お前は願いが叶ったんだな。なら…寝るか?」
こくん。正太郎の下手な言葉に少女は素直に頷いた。少女の無垢な姿を見て正太郎は胸が痛くなったが、表情は変えなかった。
「……なら、もう寝ろ。俺が寝かせてやるから。」
少女は穏やかな顔で頷くと、そっと目を閉じた。何の未練も文句もなく、ただ当然のように受け入れた。正太郎は少女の頭にゆっくりと手を乗せた。それでも少女は怯える様子はなく、じっとしていた。
「お休み。…会いに来てくれてありがとう。」
「…。」
少女は目を閉じたまま、柔らかく笑った。そして、正太郎も目を閉じた。
正太郎が目を開けた時、少女はいなかった。消えたのではない。自ら消したのだから、いなくて当然だった。
それから、正太郎と美琴は帰宅した。二人とも多くを話すことはせず、静かに別れた。それでも、翌日はいつも通りだ。それが生きているものがすべきことだった。
下記は後にオカルト研究会が調べた結果である。
少女の名前は木下愛。享年8歳。母親と父親との三人暮らし(両親は未婚)。親戚や近所との交流はなく、閉鎖的な生活をしていた。
死因は硬膜下血腫。両親から虐待を受けており、顔を殴打された結果机に頭を打ち付けたことが直接の原因であった(父親の供述より)。体には他にも複数の打撲痕、骨折跡、そしてるい痩が認められ、身体的虐待・ネグレクトが長期に渡っていたと考えられた。また、いじめがあったとは認定されていない(調査を求める人間がいないため)が、小学校でも周囲とうまくいっていなかったという証言が複数上がっていた。
(以降、オカルト研究会部長、御夜霧美琴による考察)
連堂(敬称略)の記憶は時期的な部分がやや曖昧だが、連堂は少女と出会い、二ヶ月弱ほど関係があったと考えられる。家にも学校にも居場所がない少女は公園で時間を潰すようになり、偶然連堂と会ったのだろう。詳細は聞いていないが、髪飾りをきっかけに二人の距離は縮まったのだろう。
しかし、少女はある時から全く来なくなった。少女の方が連堂に懐いていたようなので、少女が自発的に公園に行かなくなることはないだろう。つまり、少女が来なくなった=少女は亡くなったということだろう。
悪魔シンより、幽霊とは精神が生み出した力(これを悪魔は魂と呼ぶ)であり、多くは嫉妬、憎悪、怒りといった良くない感情を元にしているらしい。一方少女の場合、連堂に会いたいという願いが幽霊となり、生まれた幽霊はとても穏やかだった。多くを憎んでもいい境遇だろうに、最期に残った思いが「人に会いたい」だとは。それだけ連堂が少女にとって居場所であり救いだったのだろう。
ところで、一つ疑問がある。少女が亡くなったのはもう四年も前のことで、なぜ今になって少女は現れたのか。恐らく、単に少女が連堂と会えなかっただけなのだろう。連堂が少女を忘れていたこともある。しかし、昨今連堂に起きている事件を考えると、今回のことも起きるべくして起きたのではないかと思ってしまう。少女の霊は願いから生まれ、そして願いを叶える悪魔がいる…。つながりを調べる術はないが、やはり気になるところだ。




