第1章
第一章
人はなぜ生きるのか。幸福になるため、死にたくないため、人によって理由は様々だろうが、男の生きる理由は単純だった。自分の欲望を満たす、それだけだ。
「くく、くくく…。」
男の目の前には濁った赤黒い固まりが転がっていた。男は引きつった笑いを続けながら足元の固まりを無造作に蹴りつけた。すると固まりがごろりと転がり、細長い部分が二つ広がった。それは人間の手足だった。ただ手足は一本ずつしか残っておらず、失われた部分からは大量に出血したようで、全身が血で汚れていた。…当然、人間はピクリともせず、すでにモノと化していた。
「俺の邪魔をするからこうなるんだよ。じゃあな。」
男はスマホを取り出すと画面に転がったモノを映し、写真を撮った。無機質な音と共に写真が撮られると、肉塊はピンボケ写真のようにぼんやりし始め、いつしか幻だったかのように消えてしまった。残ったのは地面に付着したごくわずかな血液だけだった。
「全く、便利な力だよなあ。これからもどうかよろしく。」
男は含み笑いを続けながら暗がりに消えていった。
正太郎がシンの存在をノア達に説明してから三週間ほど経過した。特にその間何かが起きることはなく、けれどもシンがいることで今までとは全く違う日常が続いていた。
「で?封印された右手はどうなったの?何か出て来ないの?」
放課後の部室で美琴が目をきらきらさせながら正太郎に質問していた。質問された正太郎は少し嫌そうだ。
「何度でも言いますけど、その言い方、どうにかなりませんか?俺が恥ずかしい奴みたいじゃないですか。」
「まあまあ。ミミ先輩はいわゆる中二病なんだから流してあげてよ。」
「ちょっと、中二病って何よ!いい?ノアちゃん。私は本物の魔術師なの。中二病なんかと同じにしないでよね!」
「おー!さすがミミ先輩。本気ですね!」
「…はあ。」
美琴とノアがぐだぐだし始めたので、正太郎はさっさと話すことにした。二人の会話を待っても時間の無駄な上、会話に巻き込まれそうだった。
「これも繰り返しですけど、今分かってるのは一時的に強くなれるってことくらいですよ。」
「漫画みたいに片手で人を持ち上げてたもんね。あれはびっくりしたなあ。…そういえば、よく私の場所が分かったね。分かりにくい所にいたのに。」
「悪魔のお陰だな。心が出すエネルギーを辿ったとか何とか言ってたぞ。」
正太郎は当時を思い出しながらノアに答えた。すると、美琴はがたんと椅子から急に立ち上がった。
「ちょっとちょっと、心のエネルギーって何?心にエネルギーがある、それを感じ取れる。そんなの特殊能力そのものじゃない!」
「…確かに。」
「人の居場所が分かる」とは、まるで犬のようだ。地味なので気付いていなかったが、確かに普通の人間にはできない力だった。…大変に地味だが。
「心のエネルギーかあ。アニメでいう精神力、魔力、気とかに近いのかな。だとしたら、ミミ先輩が期待するような力もあるかも?」
ノアが指を頬に当てて首を傾げていると、その隣で美琴が力強く何度も頷いた。
「うんうん、ノアちゃんの言う通り。だから連君、しっかり調べて報告お願いね?」
「はい、分かりました。」
あくまでも自分を曲げない美琴に正太郎はわずかに苦笑した。
「…。」
ノアは正太郎がわずかに苦笑したところを見逃さなかった。ここ最近、正太郎は感情を表に出すようになってきている。喋り口調も少しだけ砕けたものになってきている気がする。これらは一見良い変化のようだが、悪魔の存在が原因だと考えると素直に喜べるものではない。正太郎が悪魔から影響を受ければ受けるほど、元々あった正太郎の心が消えていくのではないか。ノアはそう思い心配だった。
美琴とノアはまだ悪魔祓いの情報を得ていなかった。実際にはキリスト教における悪魔祓いの情報はすぐ手に入ったのだが、聖職者による祈りが中心であり美琴達ができるものではなかった。そして、そもそも魔術的な観点では悪魔を呼び出すことが難しい。そのため、悪魔を祓う方法はほとんどの書で書かれていなかった。結局、現在は悪魔を呼び出せた「無銘の書」を一旦最初から読んでみて、その内容をまとめているのだった。
(早く悪魔祓いの方法を見つけないと…。)
ノアがそんなことを考えていると、不意に正太郎がノアの方を見た。そしておや?という顔をした。
「急に真面目な顔をして、どうかしたか?」
「え?えっと、その…。」
正太郎が気にかけてくれたことは嬉しいが、ありのままは話せなかった。正太郎は悪魔に悪い印象を持っていない。悪魔祓いの話をしても空気が悪くなるだけだ。幸い、代わりになる話題があった。
「最近起きてる行方不明事件について考えてたの。今話した力なら何かできるのかもなって。」
「行方不明…?」
どうやら正太郎は知らないらしく、不可解そうに首を傾げた。…うまく誤魔化せたようだ。内心ほっとするノアを余所に美琴がお姉さんぶって答えた。
「連君、知らないの?県内で最近行方不明者が多いって話。」
「ネットでもテレビでもニュースを見ないんで、全然知らないです。」
「もう、オカルト研究会なんだから網張ってないと。でもノアちゃん、あれってオカルトなの?ただ家出したとかじゃなくて?」
ニュースでは若い人が多いとのことなので、子供の若気の至りだと思ったが。
「それも少しはありそうですけど、調べると母娘とか恋人同士で、とかもあるんです。しかも、先に片方が消えてしばらくしてもう一方も、みたいなこともあったらしいんです。」
「確かに変だな。関係者が順番に消えるなんて。」
「でしょ?神隠し的な何かかも、なんて思って調べてみたらそんな不思議な話だったの。この辺りでも行方不明者はいるみたいで、正太郎の力が何か使えるかもな、なんて思ったんだけど…。どうですか、ミミ先輩?」
ノアが美琴に判断を仰ぐと、美琴は少し考えた後にリーダー然として頷いた。
「…よし、面白そうだし、身近で起きてる事件だから調べてみましょう。私は悪魔について調べないといけないから、連君とノアちゃんでお願い。」
「はーい!」
「分かりましたけど、力を使う方法が分からないんで、あまり期待しないで下さい。」
「大丈夫。そんな力を使わなくてもネットで調べたら結構分かるよ。まずはSNSで情報提供を呼びかけてみよっか!」
ノアは元気な声を出したが、どこかわざとらしさがあった。元々誤魔化すための話題であり、また正太郎から悪魔の要素を遠ざけようとしているのだろう。正太郎はノアの心の機微こそ分からなかったが、忙しくなることは予想がついたので小さく息を吐いた。
そして、正太郎は気付いていなかったが、これでまた一つ、話が進むのだった。
正太郎とノアは行方不明事件について調べ始めたが、確かに調べれば調べるほど不可解な事件だった。全てを調べたわけではないが、調べた限り事件はこの3~4か月間で起きていて、行方不明者の数は他県の倍以上になっていた。消えた人々の年齢は10~20代が最多で、美琴が言ったように家出を疑う者もいたが、実際には普通に生活していた人の方が多かった。また、最初に消えた人に続いてその家族や友人、恋人が消える場合が時にあったが、一度行方不明者が帰ってきてから改めて二人消えるなんて事例もあった。そして、いずれの行方不明者の場合も金銭が持ち出されたり預金を引き出されたりしていて、事件の可能性も含めて調べられていた。
「あの、ちょっといい?」
本格的に行方不明事件を調べ始めて数日後。放課後、ノアは正太郎と共に隣のクラスで聞き込みをしていた。ノアが話しかけた男子生徒は少し驚いた様子で振り返った。
「え、俺?いいけど。」
「ありがとう。でね、このクラスの鍬君が長い間休んでるって聞いたんだけど、本当?」
「ああ、そうだよ。もう一週間近いかな?」
「休みの理由って分かる?」
「いや、俺は知らないよ。ただ、あいつは元々よくサボってるし学校以外のつながりもあったらしいから、その手の理由なんじゃない?親も先生も何も言わないみたいだしさ。」
「そっか。話してくれてありがとう!」
「ああ、じゃあ。」
話し終えた生徒は何事もなかったかのように去っていった。ノアと正太郎は生徒を見送った後、他の生徒にも話を聞いてみたが、いずれも似たような内容だった。
「うーん…。もしかして、と思ったんだけど、違ったのかなあ…。」
話を一通り聞いたノアは悩める顔で首を捻った。行方不明事件を調べていると、ノアはもしかして自分が通う高校にも行方不明になった人がいるのでは?と思い始めた。故に正太郎と一緒に学校を休んでいる生徒を調べた結果、今に至っていた。
「まだ分からないだろ。これから外に出て調べるんだから、そいつの家も行ってみたらいいんじゃないか?」
「…そうだね。せっかく住所も知ってるんだから、調べものの最後に行ってみよっか!」
正太郎にフォローされたノアは笑顔で元気よく答えた。自分の考えが理論的に妥当かどうか、そして正しいのかは独りだと判断しにくい。しかし、いつも落ち着いている正太郎がいてくれるとノア自身も落ち着いて考えられるのでありがたく、心強かった。…それに、学校以外で正太郎と一緒に行動できることは稀なので、ノアは嬉しく、やる気になっていた。そんなやる気のノアに正太郎はのんびりとついていくのだった。
正太郎とノアは行方不明者が最後に発見された所を分かる限り回った。そして、地図上に一つずつチェックを入れていった。今も二人は現場付近を歩きながら話をしていた。
「何となくこの辺りに多くない?」
「確かにそうだな。ただ、その人間が最後にいた所が消えた場所そのものじゃない。まだ断言しない方がいい。」
「確かに…。でも、この辺って夜は人通りが減って路地裏も多いから、怪しさは満点だよね。」
「ああ。…ん…?」
正太郎は会話中、不意に違和感を覚えて路地裏の方を向いた。薄暗い路地裏はまるで正太郎を誘っているようだった。
『…へえ。面白い気配だな。』
『!』
いつもは話しかけても出て来ない悪魔、シンが急に声を出したので、正太郎は驚いて一瞬声が出そうになった。しかし、何とか声を抑えて心で会話した。
『おい、どうしたんだ、急に?』
『今、変な感じがしただろ?それは俺とつながってるからで、いわゆる魂を感じ取ったんだよ。』
シンは質問に答えずに話していたが、正太郎は会話の内容が自分に関わることだったので何も言わなかった。
『まずは感じるままに調べてみろ。細かいところは俺が教えてやるよ。じゃあな。』
『お、おい、シン…。』
正太郎が声をかけてももうシンは答えなかった。心の中でため息を吐いていると、先を歩いていたノアが不思議そうな顔で振り返った。
「どうしたの?早く行こうよ。」
「白木、ちょっとそこの路地裏が気になるから行ってくる。その辺を調べるか待っててくれ。」
「え?え?」
首を傾げるノアを置いて、正太郎は問題の路地裏に入り込んだ。
路地裏は薄汚れていて、少し変な匂いがした。何とも言えない油臭さとかび臭さだ。正太郎は路地裏を進むとまずはスマホで前情報を確認した。
「…さっき見た以上の情報はないな。この近くでの目撃証言が多いくらいか。」
その上で正太郎は周囲を見回した。理屈は全く分からないが、自分の中で何かが訴えていた。…ここで何かがあったと。正太郎が地面を調べていると、ノアが小走りにやって来た。
「もう、いきなり行かないでよ。びっくりしたでしょ。」
「悪い悪い。ちょっと気になってな。何か落ちてないか調べてたんだ。」
「刑事の勘ってやつ?正太郎にそんなことできるの~?」
「…まあ、そう思うよな。」
正太郎は渋い顔で答えた。何しろ自分でも不思議なくらいだ。ノアから見れば奇行そのものだろう。しかし、律儀にノアは正太郎と並んで地面を見始めた。
「別に無理して俺に合わせなくていいぞ。」
「別に無理はしてないよ。せっかくだから勘を信じてみようかなって思っただけ。って、あれ…?」
「ん?どうした?」
ノアが変な声を出したので正太郎が振り向くと、ノアはゴミ箱とゴミ箱の間に手を伸ばしていて、そして何かを拾った。
「正太郎、これ…。」
「何だ?」
ノアは拾ったものを見て、正太郎に見せた。それは汚れて割れたポイントカードだった。幸い名字は見えていて、そこには「鍬」と書いてあった。
「鍬って、今日学校で聞いた奴のことか?」
「断言できないけど、ほら、生まれた年も私達と同じ。だから多分…。」
「本人ってことか。それにしてもはさみで切ったみたいにすぱっと切られてるな。しかも結構汚れてる…。」
『そりゃ血だな。死んでから4~5日ってところか。』
「血?」
「えっ⁉」
血、と聞いてノアは反射的にカードを落としてしまった。正太郎は地面に落ちたカードを再度拾い上げ、じっくり観察した。
「…確かに血が固まった感じだ。匂いも血っぽい。でも、本当に死んでるのか?」
「ち、血なの、それ⁉しかも死んでるって、どういうこと?」
血と死という言葉に驚き怖がるノアだったが、正太郎はそんなノアに努めて落ち着いた様子で答えた。
「今シ…悪魔が言ったんだ。この汚れは血で、死んでから4~5日経ってるって。」
ノアは悪魔と聞いて顔を強張らせた。悪魔に取り憑かれていると伝えて以来ずっと心配しているようなので仕方のない反応だろう。ところで、正太郎はノアに話す際に悪魔をシンと呼ばなかった。自分でもなぜそうしたのか不思議だった。とはいえ、今理由を考える暇はなかった。
「悪魔がって、本当?だって、それじゃ鍬君はもう死んじゃってるってことだよ?そんなの信じられないよ。…悪魔が言うなら尚更。」
『そう言われてもなあ。魂の痕跡から分かっちゃうんだよなあ。』
『ちょっと黙ってろ。ややこしいから。』
『はいはい。』
「…白木の言うことは正しいと思う。でも、そもそもここには俺が何かを感じたから来たんだ。悪魔の言葉も無視はできない。」
正太郎はシンにツッコミを入れ、そしてノアに説明した。今後のためにも、ノアには悪魔への不信感を増すことなく納得してもらわないといけなかった。
「とりあえずこのカード片は回収しておこう。部長なら少しは何か分かるだろ。それと、先に鍬の家に行こう。その方がすっきりするはずだ。」
「ここが鍬の家なのか?」
「うん。」
正太郎とノアがたどり着いたのは何処にでもある普通のアパートだった。敢えて言うなら少し古びている、その程度だ。
「ここの101番に住んでるらしいよ。」
「ってことは、ここだな。」
正太郎はノアの言う通りにアパートの一階、一番手前のドアに近づいた。表札がかかっていて、そこには「鍬」と書いてあった。
「…ふうん…。」
正太郎は不思議な感覚を味わっていた。目の前の住居からはいつもは二人の人間が住んでいる。そのうち一人はここ最近帰っておらず、また他数人が訪ねてきたことも理解した。気配でも匂いでも洞察でもない、説明できない感覚だ。これがシンの言う「魂の痕跡」なのだろうか。
(…こんな風に徐々にシンに近づいていって、いつの間にかシンに喰われてるのかもな。)
正太郎はぼんやりとそんなことを考えた。やはり、全く怖くなかった。
その時、鍬家のドアが静かに開き、中から中年女性が出てきた。女性は入り口付近にいた正太郎とノアに少し驚きつつ、二人に少し緊張した口調で声をかけた。
「あ、あの、何か用ですか?」
「え、あの、その…。」
「あの!私達、鍬君の友達なんです。鍬君、学校に来ないし連絡も返さないので、気になって様子を見に来たんです。鍬君はどうしてますか?」
正太郎は口ごもったが、ノアは機転を利かせて女性にうまく答えた。女性はノアの言葉を信じたようで、少しほっとした様子になり笑顔を見せた。
「翔の友達?ごめんなさい、あの子は家にいないの。友達が心配してくれてるのに、一体どこで遊んでるんだか…。」
恐らく女性は鍬の母親なのだろう、申し訳なさそうに頭を下げため息を吐いた。正太郎とノアは一度顔を見合わせ、ノアが言葉を選びながら再度質問した。
「あの、鍬君と友達になって間がないからよく知らないんですが、こんなに長く家や学校にいないこともあるんですか?」
「親としては情けないことだけどそうなの。3~4日くらい他の友達の家に入り浸ったりするのよ。だから心配しないで下さいね。いずれ帰ってきますから。」
「え?でももう一週…。」
「あの、学校はともかく、家にはどれくらい帰ってないんですか?」
ノアは「一週間も学校に来てない」と言いかけたが、正太郎によって言葉を遮られた。当の正太郎はノアに喋らないよう目で合図をした。一方、女性は二人の様子に気付くことなく正太郎に答えた。
「2日前に一瞬帰って来たけど、すぐに出て行ったわ。だから、またそろそろ帰ってくる頃だと思うわ。」
「…そうですか、ありがとうございます。俺達もまた連絡してみます。邪魔してすみませんでした。」
「こちらこそお構いできずすみません。あの子と仲良くして下さいね。」
女性は何度も頭を下げてから立ち去った。正太郎とノアはその場を動かずに女性を見送った。
しばらくして、ノアは女性がいなくなったことを確認してから正太郎に話しかけた。
「ねえ正太郎。さっきの女の人、多分お母さんだけど、どういうことなの?全然心配してないし、2日前に帰って来たって…。」
「…。」
正太郎はノアに尋ねられてもしばらく無言だった。色々情報が出てきたのでまとめる必要があった。
「まず、鍬は学校には一週間来てない。で、悪魔の話では鍬はあの路地で4~5日前に死んでるらしい。そして鍬の母親は鍬に2日前に会ったと言った。」
「うん。でもおかしいよ。死んでる人が家に帰ってきたことになるもん。…ってことは、やっぱり悪魔が間違ってるんじゃない?」
「…鍬って、母親と二人暮らしなのか?」
「え?えっと、そう。母子家庭なんだって。でも、それがどうしたの?」
ノアがメモを確認しながら答えると、正太郎は真剣な顔で考えつつ口を開いた。
「最近ここに帰ってきてるのは一人だけだ。その一人は母親なんだから、当然鍬は帰ってきてないってことになる。」
「…なんでそんなことが分かるの?」
「俺も分からない。そう感じてるだけだ。ただ、正しい自信がある。」
「…正太郎のことは疑ってないよ。でも、だったらさっきのお母さんは鍬君の幽霊を見たってこと?」
「…それは、俺も分からない。変装?まさかな…。とにかく、鍬が何らかの事件に巻き込まれた可能性は高いと思う。」
正太郎は小さくため息をついて空を見上げた。学校を出てからそれなりに時間が経っていた。
「今日はもう帰ろう。調べたことは明日部活で相談したらいい。」
「そうだね…。」
正太郎はノアを促して帰ることにした。今日は分かったことが増えたような、逆に謎が増えたような、もやもやする結果に終わった。
ノアは帰りながら正太郎の背中を見つめていた。別に正太郎の言葉を疑ってはいない。ただ、正太郎が悪魔に似た感覚を得たことは問題だ。やはり正太郎は悪魔の影響を受けている。
(悪魔なんかに正太郎は渡さない。)
ノアは誰にも聞こえない小さな声で呟いた。
「…結局、他の場所でも似たような違和感、つまり行方不明者が死んでる可能性がありました。ただ古いからかそれ以上は分かりませんでした。悪魔も途中から何も言わなかったので…。」
フィールドワーク翌日の放課後、オカルト研究会は前日の調査について話し合っていた。正太郎が真面目な顔で報告する横で、美琴は思案気な顔をしていた。
「う~ん…。時間によって情報が消えちゃうのは残念ね。行方不明者はここ最近発表されてないから、これ以上調べるのも難しい、と。」
「はい。」
「ミミ先輩。行方不明の人達はもう死んじゃってると思いますか?」
ノアはやや勢いよく尋ねた。悪魔の話に信憑性があるのか。これは行方不明事件においても、オカルト研究会の全員にとっても重要な問いだった。
「全員死んでるかは分からないけど、鍬君は死んでるでしょ。血が付いたカード片が落ちてて、しかも連絡が取れないなんてまず生きてないわよ。」
「え⁉先輩、もうあの汚れを調べたんですか?」
ノアが驚いて声を上げた。汚れたカード片は朝に正太郎が美琴に渡したはずで、まだ一日も経っていない。正太郎も目を丸くしていた。
「もちろん。私にかかればあんなの瞬殺よ、瞬殺。で、確かに血だったわ。」
「そ、そうですか…。」
ノアは思わず落胆したような声を出した。鍬が死んでいる可能性が上がったことは残念だが、それ以上に悪魔が正しいことを言ったという事実が不満だった。
しかし、隣の正太郎は残念がることはなく冷静に考えを巡らせていた。
「行方不明事件の犯人は殺人犯かもしれない。そう考えた上で部長はどう思いますか?これ以上事件に関わるかどうか。」
「…皆に危険が及ぶかもしれないし、これ以上は止めるべきね。連君、ノアちゃん、残念だけどそれでいい?」
「…俺はどっちでもいいです。」
「私も中止でいいと思います。じゃあミミ先輩、その分調べものをやりませんか?。」
「そうね。あ、でも先にカード片を匿名で警察に送らないと。ノアちゃん、ちょっと手伝って。」
「分かりました!」
美琴とノアがほぼ同時に立ち上がった。そして、のっそりと正太郎も立ち上がった。
「手伝えることはないだろうし、俺は帰ります。」
「ええっ⁉正太郎、帰っちゃうの?」
「今までも先に帰ることはあっただろ。昨日はよく歩いたから家で休みたいだけだ。」
「ぶぅー…。」
理由を聞いてもノアは不満そうだ。懐かれるのは不快ではないが、押しが強すぎるのも困りものだ。正太郎はノアをなだめつつ、美琴に見送られて部室を出たのだった。
そして、正太郎はすぐには家に帰らなかった。もう一度行っておきたい場所があったからだ。そう、鍬のカード片が落ちていた路地裏だ。
「よし…。」
正太郎は路地裏につくなり意識を集中しながら周囲を見回した。
(この感覚は視覚でも、聴覚でも、嗅覚でもない。説明できない、まさに第六感ってやつなんだろうな…。)
集中していると、今まで何となく感じていたものがはっきりしてきた。…地面の一角にカードに残っていたものと同質の力を感じるが、ぐずぐずに崩れ消えそうになっている。きっと死ぬ前の断末魔、最期の残り香のようなものなのだろう。生きた人間からも似たものが感じ取れるが、それとは全く違い、冷たく虚無的だ。
「これが魂、なのか?」
『そうだ。心から生まれるエネルギー。感情や意志で揺れ動き、操ることができる力。精神生命体にとって肉体ともいうべきもの。それが魂だ。』
正太郎は急にシンが出てきても驚かなかった。シンは神出鬼没、風のようなものだと割り切ることにした。諦めたとも言う。
『…急に出て来るなよ。とにかく、俺は魂を感じ取れるようになったってことか。』
『ああ。とはいえ初心者だ。犯人さがしはできないぞ。』
『そりゃ残念だ。』
正太郎は全く残念そうではない声だった。犯人の魂を感じ取れないのだから当然だった。「シンは分かるのか」と聞こうかと思ったが、止めた。どちらにせよシンは動かないだろうと思った。
「…一応もう一度来たけど、やっぱり意味なかったな。」
ひとしきり路地裏を調べた後、正太郎はぼそりと独り言を言った。危険があるとはいえ、調査を中途半端な形で終わることに思うところがあった。こんな無意味な終わり方でよいのだろうか。もっと調べれば自分にとって何か意味のあることが見出せるかもしれない。そう思っての行動だったが、やはり意味はなかった。不思議な力を得たところで無意味だった。そう断じる他なかった。
路地裏から出て来た正太郎の目に日の光が差し、正太郎は眩しそうに眼を細めた。少しずつ目が慣れてくると、そこにはいつもの町の様子があった。何も変わらず、何も始まらない世界。正太郎が思わず目を逸らすと、偶然道の反対側に同じ高校の生徒が歩いていた。
(え…。)
正太郎は思わず向こう側にいる生徒を凝視し、急いでスマホを取り出した。スマホの写真アプリを開き、最近ノアから送られてきた画像を確認した。
「やっぱり鍬だ…。」
向こうを歩いている生徒の顔は鍬と同じだった。
正太郎は鍬に似た生徒の尾行を行っていた。悪魔の話でも自分自身の感覚でも鍬は死んだと考えていたのに、鍬似の生徒は何食わぬ顔で歩いていたのだから無視できるはずがなかった。
(こっちが間違ってるのか?似てるだけで別人なのか…。)
頼みのシンはこういう時に限って出て来なかった。そのため、正太郎は自力で調べるしかなかった。
鍬に似た生徒が怪しい素振りを見せることはなかった。ゲームセンターへ行ったり買い食いをしたり、普通の学生といった動きをしていた。
「…特に怪しい動きはないな…。」
正太郎は思わず考えを口に出していた。それくらい鍬に似た生徒の行動には不審な点がなかった。そして、ずっと気を張って監視していたのでそろそろ疲れてきた。
「いっそ直接質問してみるか…?」
その方が簡単かつ手っ取り早いだろう。そもそも、本人でも他人の空似であっても、話しかけたところで問題は特にないはずだ。
『いや待て、正太郎。近づくな。』
「え?」
相手に近づこうと正太郎が足を踏み出したが、そのタイミングでシンが再度出て来た。そのため正太郎は立ち止まった。一日の間にシンが複数回出てきたことは今までになかった。
『シン。また出て来るなんて、どういう風の吹き回しだ?』
『俺のことはいい。それより、うかつに姿は見せるな。危険だ。』
『危険…。』
『ああ。少なくとも一人は殺ってるんだ。用心して越したことはない。』
『…確かに。』
知らず知らずに気が急いていたようだ。正太郎はシンの指摘を受け、軽く深呼吸をした。…よし、落ち着いた。冷静さを取り戻した正太郎は今度こそ焦れたりしないように尾行を再開した。
鍬に似た生徒はふらふらと色々な店に出入りした後、今は路地裏を歩いていた。正太郎が調べていた路地裏とは別の場所で、そこには男と正太郎以外誰もいなかった。
(こんな所に何の用があるんだ?)
鍬に似た生徒は角を曲がり見えなくなった。正太郎は慌てず角に急ぎ、そしてゆっくりと角の先を窺おうとした。すると、
「おい。お前、俺に何の用だ?」
いきなり見えない角の向こうから声がしたので、正太郎はびくりと身を竦ませた。
(気付かれていたのか…!)
「さっさと出て来いよ。とりあえず話をしようぜ。な?」
硬直した正太郎の耳に再び声が聞こえて来た。声は怒っているわけでも威圧してくるわけでもなかったが、どこかうすら寒い、危険を感じさせる声だった。
(出るか?いや、逃げた方がいいか?)
『落ち着け、正太郎。』
正太郎がどうするべきかと焦っていると、シンが落ち着いた声で静かに言った。…シンの声は不思議と正太郎の心に響き、冷静さを取り戻させてくれた。
『出てみればいい。お前には俺が、悪魔がいるんだ。何も心配するな。』
『…分かった。行ってみる。』
シンに背中を押され、正太郎は小さくゆっくりと息を吐いた後、角を曲がろうと動いた。
角を曲がる際にふと思った。自分のことをつまらない、どうでもいいものと思っているはずなのに、何故今自分は緊張しているのだろう。もしかして、未知の危険を前にして、ようやく怪我や死への恐れが生まれたのだろうか。それはそれで格好悪いと思うが…。と、もう少し考察したいところだが、もう角の向こうが見える。雑念はここまでだ。
正太郎が曲がった先にはにやにやと笑う男がいた。
(…え?)
男は鍬とは似ても似つかない顔だった。鍬によく似た人物はどこを見てもおらず、影も形も消え去っていた。呆気に取られた正太郎を余所に、男は軽薄そうな様子で正太郎に話しかけた。
「ようやく出て来たか。で?俺に何の用だ?」
…驚いている場合ではない。今や正太郎は人の魂を感じることができ、だからこそ分かることがある。ゆえに、正太郎は男を正面から見た。
男は若く、恐らく20代前半だろう。一見するとただの若者だが、目が普通ではなかった。男の目はタガが外れたかのような危うい光を放っていて、本能的に危険を感じさせた。何人も殺した人間の目はこんな感じだろうか。正太郎はふとそんなことを思った。
しかし、男がどんな人間であろうと正太郎には聞くことがあった。
「…俺が追いかけてた人ですよね。見た目を変えられるんですか?」
「は?お前、何言ってんだ?」
「見た目が変わっても分かるんです。魂の感じが同じなんで。」
「…。」
腹の探り合いは面倒だ。ということで、正太郎は直球で質問した。男は無表情に正太郎を観察した後、芝居がかった仕草でため息を吐いた。
「魂とか言われても意味が分からないな。中二病なら余所でやってくれ。大体、姿形なんてどうやって変えるんだ?」
「方法は知りません。ただ、鍬の偽物をしてたってことだけは分かります。…それと、鍬を殺ったんですか?」
「…ふーん。」
男は正太郎の話を聞いてわずかに目を見開いた。そして鼻を鳴らしつつスマホを取り出した。男が片手でスマホを操作すると、どこからか白い靄が現れ男を覆い隠してしまった。
靄はすぐに晴れていき、そこには鍬と同じ姿の人間が立っていた。
「お前の言う通りだよ。俺がこいつの振りをしてたんだ。他人の姿で好き勝手する方が楽なんでね。」
「変身したのか…?」
「変身、というか擬態だな。でも見た目だけじゃなくて、声や性格、記憶もコピーしてるんだぜ?便利だろ。」
男はへらへらと笑いながらスマホを軽く振った。すると男の体から白い靄が出て来て、靄が離れ消えたかと思うと、男は元の姿に戻っていた。正太郎は男を注意深く観察しながら質問を続けた。
「…ここ最近で行方不明者が多いのはあんたの仕業か?」
「多分な。何人やったかなんて覚えてないけど、結構遊んでるからなあ。それなりの数になるだろうさ。」
「…遊ぶ金欲しさでやってるのか?」
「分かってないな。金だけじゃない、相手の大事なものも秘密も、要は全てが俺のものなんだ。手に入れるのも壊すのも自由。しかも、スマホをちょっといじるだけで。こんな力、使わないなんてありえないだろ。」
男は心底楽しそうに笑った。他人から奪うことに何の躊躇いもなく、そして好き勝手出来る自分に酔っているようだ。
正太郎は男への嫌悪感で反吐が出そうだった。他者への敬意なく、一方的に害を振りまくだけの存在。他人を害すること自体を楽しみ、そんな自分を肯定できる精神性。正太郎は奪われない人間が奪うことは公平ではなく悪だと思っているため、男の身勝手さを欠片も肯定できなかった。…しかし、肯定はできないものの、男を人間らしいと思った。自身の欲望に忠実で、ひたすら楽しみを求める生き方は、生きる意味を見出せない虚ろな正太郎より幸せだろう。基本的に人間は幸せを求めるのだから、男はある意味正太郎より人間らしく生きていた。
正太郎は思考にまとわりつく暗い思いを振り払った。だから、今そんなことを考えている場合じゃない。
「…行方不明の人達はどうしたんだ?鍬と同じように殺したのか?」
「ん?あー、まあ正確には別次元がどうこうらしいけど、死んでるな。ただ、俺がちゃんと殺したのはさっきの鍬って奴だけだ。」
「…。」
正太郎は男を観察しながら話を聞いていた。やはり男は殺人を繰り返しているらしい。しかも殺した自覚は薄く、罪悪感もないようだ。タガが外れたという印象は正しく、もはや人間というより化け物だ。
話を聞いて警戒する正太郎とは対照的に、男は馴れ馴れしい笑顔を浮かべた。
「なあ、俺よりお前の方こそ教えてくれよ。なんで俺が擬態だと、しかも殺したって分かったんだ?」
「…俺は鍬と同じ高校だ。それと、魂を感じとれる。」
「へえ、魂ねえ。俺の力も魂を使ってるらしいし、分かる奴には分かるのか。そういえば、俺も変な感じがしたからお前に気付いたんだよな。それも魂なのかもな。」
男は面白そうに笑った。…こういうところは普通の人間のようで、逆に男の異常性が強調されていた。正太郎としては一層の警戒感を持ったが、男は笑顔で話を続けた。
「俺以外に力を持った奴なんて初めてだ。…なあ、お互い協力しないか?お前も自分の力を使って自由にやってんだろ?力を合わせればもっと面白いぞ。」
「俺は好き勝手生きたいわけじゃない。」
男は正太郎にも不思議な力があると勘違いしていた。勘違いを利用して男に近づく手もあったが、正太郎的にその選択肢はなかった。そして、ここで初めて男が笑みを消して怪訝な顔をした。
「本気か?せっかく漫画顔負けの力が手に入ったのに、何もしないのか?いい子ぶっても意味なんかないぞ。」
「善人ぶりたいんじゃない。欲しいものがなくて、金もある程度でいい。それだけだ。」
正太郎は心の中で苦笑した。生きる意味があるのかも分かっていないのに、随分偉そうなことを言うものだ。
一方、男は正太郎の話を聞いてやれやれと肩を竦めた。
「あー…、そうかそうか。惰性で生きてるだけのつまらない奴だったか。勿体ない。それじゃあ、せっかくの力も宝の持ち腐れだな。」
「…。」
「ん?もしかして怒ったか?でも仕方ないだろ、事実なんだから。」
男は呆れたような声で言った。正太郎は男の言葉を否定できなかった。少し暗い気分になり、一瞬だが気を緩めてしまった。しかし、その一瞬の隙をついて男はいきなり手に持ったスマホを構えた。
「!!」
『悪いな、ちょっと変わるぞ。』
正太郎は何も反応できなかった。そもそも相手の行動の意味も意図も理解できなかった。しかし、代わりにシンが反応した。シンは意識を正太郎と交代すると、曲がり角にある建物の陰に全力で飛び込んだ。
カシャッ!
スマホの写真を撮る音が響いた。と同時にシンの後ろにあったごみ袋数個が白い靄に包まれ、消えた。シンは体勢を整えつつ、ごみ袋が消える様子を見つめていた。
「ちっ、外したか。」
男の舌打ちが聞こえ、そして足音が近づいてきた。近づいてきているようだ。
『ここで俺達を殺るつもりか。随分と大胆な奴だな。』
『…。』
シンは余裕そうだが、正太郎は意識の交代と動きが急すぎて何も言えず、返事ができなかった。そのため、シンは一人で即断即決した。
『逃げるぞ、正太郎。それと、後で文句を言わないでくれよ。』
シンは言うなりすぐ近くにあった水道蛇口の根元を無造作に掴んだ。
バシャアアア!!
いきなりシンが握っていた所から水が大量に吹き出した。はっきり見えなかったが、正太郎にはシンが掴んだ水道管が握った部分だけ消え失せたように見えた。そして、シンは濡れるのも構わずその場から全速力で逃げ出した。
「くそっ!なんで急に水が…⁉」
男の悪態が聞こえてきたが、シンが振り返ることはなかった。
シンは逃げ出した後もそのまま正太郎の家まで走り続けた。そして、今は正太郎がシンの代わりに自室のベッドで疾走後の苦しさに耐えていた。
「おい…。ちょっと全力で、走りすぎ、だろ…。」
全身が疲労と痛みで悲鳴を上げていた。限界を超えて体を動かした結果を正太郎は身をもって経験していた。
『仕方ないだろ。下手すりゃ死んでたんだ。それよりましと思ってくれ。』
シンは全く悪びれる様子がなかった。実際、特に悪いことをしたのではないのだから当然なのだが、正太郎としては納得いかなかった。シンに聞きたいことがいくつもあった。
正太郎はしばらく無言で息を整えた後、ようやく静かに息をしながら口を開いた。
「…何だったんだ、あれ?」
『あれってどれだ?』
「全部だ。あいつの変身したり物を消したりした力。逃げる時にお前が水道にしたこと。とりあえずその二つだ。」
正太郎はあえて口に出して尋ねた。自分の中でまだ情報が整理できていないので、耳に聞こえる自らの言葉は自身への確認でもあった。
『ふんふん。じゃああっちの話からしよう。あれは情報処置の力だな。スマホで撮ったもののデータを測定して記録する。記録したデータを自分に使って擬態する。そんなところだな。』
シンの話は美琴が聞いたら泣いて喜びそうなものだった。
「…そんな魔法みたいなことができるのか?」
『なんであいつにあんなことができるのかは知らん。でも、魂を使えば十分可能なことだ。まず脳のシナプス経路を含めた人体全てを数値として記録する。xyz軸の値をゼロにする。保存した数値を再現する。それだけだからな。』
「それだけって…。お前はできるのか?」
『今の俺じゃ無理だ。お前に取り憑いてるからできることが限られてるんだよ。』
「…。つまり、今のお前にできるのがあの時水道管にしたことなのか?」
『そういうことだ。あれは水道管を部分的に消して水を吹き出させたんだ。…そうだな、そこのシャーペンを持ってくれるか?』
「ああ。って、え?」
正太郎は特に何も考えず、条件反射のように行動した。すると、握ったシャーペンは最初からなかったかのように手から消え失せた。一瞬の出来事だった。
「…どこにいったんだ?」
『虚数三次元だよ。あっちは三次元にあるものを座標ゼロにして消すだけだけど、お前は違う。軸の全てに虚数iをかけてものを別世界に連れていけるんだ。で、しかも…。』
「…!」
シンが言葉を切ると、ふっと手にシャーペンが再び現れた。…いや、違う。先に消えたシャーペンとそっくりだが、表面は傷だらけな上に途中で折れ曲がっていて、ひどく壊れていた。
「…壊れてるけど、これ、俺のなのか?」
『ああ。正真正銘お前のだ。虚数にiをかけると実数になるだろ。でもそうするとマイナスがつく。マイナスの位置にあるものなんてないから現実と齟齬ができて、結果壊れるんだ。』
「…。」
シンが説明する中、正太郎は暗い気分で壊れたシャーペンをじっと見つめていた。
シンの力なのか自分の力なのか分からないが、なんとも陰鬱な力だ。シンの言葉を信じることが前提になるが、ものを虚数、つまり存在しない世界に送る力。そこから戻すとしても、本来持っていた意味は向こうに置き去りとなり、無意味になったものだけが戻ってくる。意味を見出せない自分に相応しい、そして自身への痛烈な皮肉だった。
「…なあ、この力って、お前の力なのか?それとも俺の力なのか?」
『両方だ。お前の心から生まれる魂を使うからこんな形の力になった。でも、俺がいなけりゃそもそもお前は力を使えない。』
「…そうか…。」
虚無で満ちた正太郎だからこその力だと分かり、正太郎は心でため息を吐いた。いっそ自分自身に使い、どう壊れるのか見届けたいくらいだった。
シンはしばらく無言で正太郎に付き合っていた。力のことを話せば正太郎が落ち込むことは分かっていたが、いずれ話すことだったので仕方ないことだ。さて、と気持ちを切り替えてシンは正太郎に話しかけた。
『生産的な力じゃないのは諦めろ。魂は気質的なものだから変えようがないんだ。それより、これからが問題だぞ。』
「…これから?何があるんだ?」
『賽は投げられたんだよ。これからきっと色々な事が起きる。お前の力も必要になると思うぞ。』
「なんでそんなことが分かる?」
「そうじゃなきゃ俺が呼び出されない。お前は生きるため、生きる意味を知るために力を使うことになる。」
シンの言葉は不思議と説得力があった。正太郎は運命を信じていないが、必ず通る分岐点はあるのかもしれないと思った。
「俺の力を人に使ったらどうなるんだ?」
『虚数の世界に生きるもクソもない。けど、現実から消えるなら死んだと同じだ。因みに戻した結果、体や精神がどうなるかは分からない。まあ、ろくなことにならないだろうな。』
「…そんな力を使うことになるのか?」
『きっとな。さしあたっては今日のあいつが殺しに来るかもしれない。鍬と同じ高校に通ってることはばれてるからな。』
「…。」
正太郎は路地裏のことを思い出していた。シンがいなければ死んでいたと考えると心がひやりとした。
「あいつが来るとして、スマホ写真を撮られたら死ぬと思うか?」
『ああ、死ぬ。消えたごみ袋のように、全身写真ならきれいに消滅して即死、下半身だけなら下半身だけ切り取られて出血多量で死亡。』
「ちゃんと殺したのは鍬だけ、みたいなことを言ってたな。」
『殴る蹴るをしたか、それとも体をばらばらにしたか…。いずれにせよ、人を消すことを何とも思ってないだろう。次はちゃんと殺しに来るぞ。』
「………。それはつまり、やられる前にやれ…ってことか?」
正太郎は少し迷うように言った。シンの言うこともその必要性も理解しているが、やはり殺すことに抵抗があった。正確には、生きる意味を持たない自分が他人の生命を奪っていいのかと思っていた。そして、正太郎に対してシンの反応は軽いものだった。
『その通りだ。ただ、普通に殺すとお前が大変だろ?で、お前の力の出番ってわけだ。』
「…随分簡単に言うけどな。俺達は国家権力じゃない。悪だって証拠もないのに相手を殺したら、それはそれで悪じゃないか?」
『善悪の話はしてないぞ。善悪、お前風に言えば生きる意味の有無か?どっちでもいいけど、そんなものなくていいんだよ。』
「…え?」
正太郎はシンの言葉が理解できず戸惑いの声を漏らした。シンは正当性がなくても問題ない、と言ったのだろうか。
『俺が話してるのはただの生存競争だ。お前は意味を知るために生きたい、相手は自分の幸せのためにお前を殺したい。どっちが正しいとか、生き残るべきかじゃない。同列の主義主張がぶつかっただけ。その結果がどちらかの死亡ってだけだ。』
「…そうだな。その通りだと思う。」
けど、俺はそんな風に割り切ることはできない。生き残るに足る意志と意味を持たない自分は、人を殺してまで生きる価値があるのだろうか。そう思わずにはいられない正太郎だった。
正太郎は行方不明事件の犯人と出会ったことを美琴やノアに話さなかった。注意を促した方がいいか、巻き込まないよう何も言わない方がいいか…二つを天秤にかけた結果だった。幸い、二人に感づかれることはなく、犯人との遭遇から一週間が経とうとしていた。
「…。」
「…
「…。」
正太郎、美琴、ノアは部室でそれぞれ別のことをしていた。具体的には、美琴は魔術書を読み、ノアは睡眠中、正太郎は問題集を解き進めていた。誰も話さない、無言の部室だったが、正太郎はそんな時間が嫌いではなかった。各々が自由でありながら他者を尊重し、誰もが不快感なくいられるという状況はなかなかないだろう。
さて、しばらく経った後、美琴が不意に本から顔を上げた。
「そうだ。連君、最近ノアちゃんとどう?」
「どうの意味がさっぱりなんですが。」
「悪魔のことで喧嘩になったりしてない?」
「なってません。そもそも喧嘩したことすらないです。」
「そう?ならいいの。」
美琴は安心したように笑った。今までの正太郎なら何も聞かずに話を終えたのだろうが、悪魔に憑かれた正太郎は違った。
「…なんで喧嘩してると思ったんですか?」
「喧嘩してると思ったんじゃないわ。最近ノアちゃんに魔術書を調べる手伝いをしてもらってるでしょ?で、ノアちゃんが連君のことをすごく心配してるから、心配し過ぎて思い詰めたり、もめたりしてないかなって気になったの。」
「そういうことですか。…だから最近よく見てくるんだな。」
正太郎は合点がいったように何度か頷きつつノアを見た。ノアは穏やかな寝顔で寝続けていた。思えば、近頃のノアは真剣な顔で、しかも黙って正太郎を見てくることが多くなった。正太郎も少し気になっていたが、ようやく意味が分かった。
「白木から悪魔の話は出ません。ただ、俺を見てることが増えたので、部長の言うように心配はしてるんだと思います。とにかく、喧嘩はしてないので心配しないで下さい。」
「オッケー。でも、連君を見てるのは前からだと思うけどね。」
「そうですか?」
「そうよ。最近連君が丸くなったっていうか、雰囲気が変わったから気付いただけよ、きっと。」
美琴に指摘されても正太郎は不可解そうに首を傾げていた。ノアとの縁は小学校からだが、やはりそんなに見られていた覚えがなかった。
「…俺が悪魔に取り憑かれる前じゃ、白木が俺を見る理由がないと思いますけど。」
「いやいやいや!って、やば…。」
美琴は思わず大きな声を出してしまい、慌ててノアを見た。幸いノアが起きることはなく、美琴はほっと息をついた後、小さな声で正太郎と話を続けた。
「…あるでしょ、ほら。二人とも仲いいんだから、ね?」
「ね、と言われても。何があるんですか?」
「そりゃあ、その、あれよ、彼氏彼女的な?」
美琴は少し照れながら言った。どうもオカルト関係では饒舌でも、恋愛話は慣れていないらしい。ただ、当然ながら正太郎は美琴以上に恋愛に理解がなかった。
「男は彼女にはなれませんよ。」
「んなこたあどうでもいいわよ。そこじゃなくて、恋愛は同性でも成り立つってこと。それに、ノアちゃんは男っていうか中性でしょ。いい子だし、どう?」
「いや、そう言われても。俺は一人でいいですから。」
正太郎はそっけなく答えた。はっきり言って、正太郎に他人への恋愛感情はない。承認欲求もないので、誰かに傍にいて欲しいとも思わない。性欲はあるが大したものではない。結論として、正太郎に恋人は不要だった。むしろ、自分といても他人は面白くないだろうからいない方がいいと思っていた。
「連君ならそう言うわよね…。まあいいわ。とにかく、ノアちゃんに優しくね。心配かけ過ぎないようにすること。」
「分かりました。」
美琴は話をまとめながら正太郎を見ていた。正太郎は相変わらず淡白な返答だったが、それでも以前より言葉が増え、感情を見せることも出て来た。悪魔が憑いたせいかどうかはともかく、変化は悪いことではないだろう。美琴は、可愛い後輩二人が仲良くいられるよう、すれ違い・仲違いしないよう願った。
「おい。白木、起きろ。白木。」
「ん?うーん…。」
ノアは正太郎の声で目が覚めた。まだ寝ぼけているのか、目を擦りながら体をゆっくり起こした。
「正太郎、おはよ~…。今何時?」
「もう6時だぞ。」
「ふーん…って、6時⁉」
ノアは一気に目が覚めたらしい。びっくりした様子で周囲を見回し、時計を見た。
「本当だ。もう6時か…。」
「よく寝てたから様子を見てたんだけど、早く起こした方が良かったか?」
「あっ、ううん、大丈夫。別に用事はないよ。ただ驚いただけ。…正太郎は大丈夫?」
「ああ。俺も何もない。勉強してたから退屈もしてない。」
「そっか、良かった。ミミ先輩は帰ったんだよね?」
「ああ。」
「なら私達も帰ろっか。」
「だな。」
何気ない会話を交わし、二人は帰り支度を始めた。窓から見える空は赤いものの薄暗くなり、まさに昼と夜の境という景色だった。
「正太郎、待っててくれてありがとう。」
「お礼を言われることはしてない。」
「でも気持ちは伝えないと。だから、ありがとう。」
「…ああ。」
そんな会話をして、二人は揃って部室を出た。
廊下には誰もいなかった。空の様子・残った光が作る陰影も相まって、どこか非現実的な、違う世界にいるような印象だ。事実、ノアは少し不安そうな様子で正太郎に身を寄せた。
「放課後の学校ってちょっと不気味だね。なんかホラーの世界みたい。」
「やっぱり早く起こした方が良かったんじゃないか。」
「違うってば!別に責めてないから!」
ノアは少しむきになって正太郎に言い返した。だが、正太郎の顔を見た瞬間話を止めた。
正太郎はわずかだが、微かに、穏やかに笑っていた。さっきの言葉はノアが言い返してくるようにわざと言ったのだろう。今までも正太郎が優しい時はあったが、今回のように軽口を言って場を和ませるなんてことはしたことがなかった。そんな正太郎の優しさと変化を見て、ノアは嬉しくもあり不安でもあった。悪魔が取り憑いてから正太郎は良い方向に変わってきているが、最終的にどうなるかは分からない。何しろ悪魔に取って代わられる可能性もあるのだ。だからこそ悪魔祓いの方法を探しているのだが、それは本当に正太郎にとって良いことなのだろうか。そして、正太郎が変わったら、二人の関係はどうなるのだろうか。良くなるのか、悪くなるのか。ノアにはどうにもならないことばかりだった。
「…ん。先生がいるな。」
「え?」
考え事をしていたノアは正太郎の声で現実に帰って来た。窓の外に教師が一人(見たことはあるが名前は知らない)、ちょうど正太郎達が向かう靴箱のある方向に歩いていた。
「当直の先生かな?」
「だろうな。見つかったら早く帰れだの何だの言われるかもな。」
「そうだね。その時は私が謝るから、正太郎は何も言わなくていいからね。」
「…ああ。」
話をしながら二人が靴箱に向かうと、やはりというか、不運にも先の教師がいた。背中を向けているのでまだ正太郎達に気付いておらず、周囲をきょろきょろとして何か、あるいは誰かを探しているようだ。
「こういう時の予想は当たっちゃうよね。」
「そういうもんだ。」
ノアが苦笑しながら教師に近づこうと一歩踏み出した。その時、教師が振り返り正太郎と目が合った。
「!!」
「え?」
ノアは何が起きたのか分からなかった。正太郎がいきなりノアに抱きつき、そのままノアを抱えて横にあった渡り廊下に飛び込んだのだ。しかも、そのまますごい速度で隣の校舎、そして図書室の前までノアを抱えたまま移動した。全てがあっという間の出来事だった。
「え?え?ど、どうしたの?何があったの?」
混乱するノア。正太郎は緊張で顔が青白くなり、小さな声で呟いていた。
「あいつは、まさか…。いや、そんな…。」
正太郎がただならぬ様子なので、ノアは逆に少し落ち着くことができた。
「だ、大丈夫?正太郎?」
「白木、図書室に入ってろ。後で説明するから…。」
「お前等!こんな時間に何してるんだ?」
「「⁉」」
不意に図書室の戸が開き中から声がしたので、正太郎もノアも驚いて声の方を見た。ノアに至っては少し飛び上がったほどだ。視線の先にはさっきの教師ではない、別の教師がいた。図書室の中で働いていたが、物音で出て来たようだ。
「先生…⁉」
「もうとっくに帰る時間だぞ。今回だけは見逃してやるから、早く帰りなさい。」
「いや、その、あの…。」
部屋から出て来た教師に注意され、しどろもどろになるノア。その一方、正太郎は焦ったように来た道と教師を交互に見ていた。と、先の教師が廊下に姿を見せた。その手にはスマホが握られていて、正太郎達を見るなりスマホを正太郎達に向けた。
「くそ!」
正太郎はノアの手を掴んで一緒に図書室の中に飛び込んだ。教師には手が届かなかった。ノアは手を引かれるまま呆然と正面を見ていた。前には教師がいたが、次の瞬間に靄と共に消えた。本当に、冗談のようにふわりと消えてしまった。
「…え…。」
「奥に行ってろ!絶対動くなよ!」
正太郎は乱暴に図書室の戸を閉めると、ノアを本棚が並ぶ陰に押し込んだ。自身は本棚の隣、戸が見える位置に陣取った。少しして、静かに戸が開き、先の教師が入って来た。スマホを持ったまま、にやにやと怪しく笑っていた。
「おい、もう帰宅する時間だぞ。」
「その姿の先生も殺したのか?」
教師は正太郎に答えずにやにやと笑っていた。しかし、教師の全身が靄に包まれ、そして靄が消えると教師ではなく男がいた。行方不明事件の犯人だ。
「せっかく擬態したのに、なんで分かったんだ?本当に何か、魔力だの気だのを感じてるのか?」
「目で分かったんだ。お前、殺しても何も感じないだろ。」
「ふーん。目、ねえ。分かる奴には分かるってことか。」
男は笑いながらもじりじりと動き、机の陰にスマホを持つ手を隠した。正太郎は位置を変えないまま神経を集中して男を睨んだ。
(…来る。)
男が動く。そう感じた正太郎はさっと本棚に隠れた。同時にスマホのシャッター音が鳴り、本棚に並んでいた本がごっそりと消えた。しかし、本の裏に正太郎はいなかった。
「ちっ…。」
男は笑みを消し、不愉快そうに舌打ちをした。何度も写真を撮ろうとしたが、少年の凄まじい動きのせいで全て失敗に終わっている。少年に逃げられた時に水道管が壊れていたことといい、少年の力は人間離れした身体能力、ということなのだろう。
(逃げられないように追い込まないとな。しかし、それにしても…。)
この力を手に入れてから、自由も金銭も才能も、欲しい物は何でも手に入った。最初は好き放題することや殺人に罪悪感があったが、今はもう何とも思わない。ただ欲が満たされる満足感、持つ者から奪う優越感、そして更なる欲望があるだけだ。この少年の体を奪えば、少年の力を使えるはず。そう考えるだけで男は笑いが込み上げてくるのだった。
正太郎がわずかな本棚の隙間から男を観察すると、男は慎重に図書室を見回していた。学校の図書室はなかなか広く、奥は天井まで届く本棚が多く並び、手前の入り口付近は読書スぺ―スになっていた。
(やっぱり適当に動くことはないか。)
写真を撮るだけで相手を殺せるのだから、わざわざ動く必要はない。むしろ、隠れやすい本棚の方に行かない方が有利と考えているのだろう。
「さて、どうするか…。」
正太郎は無表情な顔で小さく呟いた。わざわざこんな時間、こんな場所で襲って来たのだから、今逃げのびてもいずれ殺される。当然一緒にいるノアも殺すだろう。なら、とるべき行動は決まっている。
「…。」
正太郎はまだ迷ってはいたが、覚悟を決めた。ただ、何をするにも男に近づかなければならないのに、写真を撮られるだけで致命傷になる相手にどうすればいいのか。
「…えっ?」
正太郎は思わず声が出た。男を確認しようとしたが、見える範囲に男はどこにもいなかった。正太郎が男から目を離した時間は数秒に過ぎず、もちろん男が逃げるはずがない。背筋に冷たいものが走り、急いで本棚の陰から出て行こうとしたが、出て行く寸前で自分でも説明できない危機を感じて足を止めた。
(…?まさか、まだいるのか…?)
狭い視界では絶対とは言えないが、何度見ても男は読書スペースにいない。しかし、近くに来ていればもう正太郎は消されているはずだ。なら、男はまだ…。
正太郎は深く深呼吸すると、危険を顧みず本棚から飛び出した。目にも止まらない全速力で、机の間を走り抜けた。耳には何度かシャッター音が聞こえ、すぐ後ろの机と椅子が消えていった。寒気は感じたが、恐怖はなかった。
(死の危険を感じること、死の恐怖を感じることは別なんだな…。)
不思議とどうでもいいことを考えてしまった。そして正太郎はすれ違いざまに椅子を掴むと、カメラの音がした方向に投げつけた。一つ、二つ、三つ。投げる勢いも半端ではないので、椅子がボールのように跳ねまわり、窓ガラスが割れた音がした。しかし、正太郎から見るとどのガラスも割れていなかった。
「これでどうだ!」
正太郎は4つ目の椅子をガラスが割れる音がした付近、まだどの椅子もぶつかっていない所に投げつけた。すると、
「がっ…!」
椅子が何かにぶつかる音がして、男の姿は見えないのに男のうめき声が聞こえた。そして、音が聞こえた辺りに靄が生じ、靄が消えるとそこには今まで見えなかったうずくまる男、散乱した窓ガラスの破片が見られた。男は窓ガラスの側、腰くらいの高さの本棚の上にいた。おまけに男は明らかに身長が縮んでいて、小学生くらいの大きさになっていた。
「背景を世界に張り付けて幻を見せる。しかも自分は小さくなってるなんてな。まさに画像加工アプリそのものだ。本気で焦ったぞ。」
「く、くそっ…。」
正太郎と男の距離は2メートルほど。男は片膝をついてしゃがみ込み、左手にスマホを握りしめていた。到底正太郎の動きより先に正太郎を写真に撮るなどできない体勢だ。
「なんとか俺の勝ちみたいだな。」
正太郎が呟きながらさらに近づこうとすると、男が笑った。
「いや、まだだ。思い切りやられたけどな、お前の彼女のお陰だ。」
「は?」
「そこからでも見えるだろ?俺のスマホの画面。見て見ろよ、何が映ってる?」
男のスマホには窓ガラスが映っていた。…いや、窓ガラスにややぼやけてはいるがノアが映っていた。物音で奥から少し出てきてしまったらしい。
「反射か…!」
「ちゃんと実験済みだぜ。ただ姿は鮮明じゃない分きれいには消せない。苦しんで死ぬことになるだろうな。どうする?彼女が惨殺されてもいいのか?」
「…。」
正太郎はしばらく男を睨んでいたが、やがて力を抜いてその場に立ち尽くした。それを見た男は笑いながら正太郎に近づき、靄と共に元の大きさに戻った。そして、正太郎の腹を思い切り殴った。
「うっ…。」
正太郎が痛みで前屈みになると、男はさらに追い打ちをかけた。頭を、腹を、背中を、笑顔で殴り、蹴った。
「ははっ!いい眺めだ。よくも俺に舐めた真似してくれたな。俺の幸せを奪うんじゃねえ。もっと苦しめよ!」
男はしばらく殴る蹴るを続け、最後に手近な椅子を正太郎に叩きつけた。正太郎は意識こそ失わなかったが、痛みと衝撃で床に倒れ込んでしまった。
「はあ、はあ…。よし、もういいか。じゃあ、そろそろ楽にしてやるよ。」
男は少し息を切らせながら、右のポケットを探った。出てきたのは二つ目のスマホだった。
「狙いをお前に切り替える時に襲われたら困るんでね。二つあると同時に二人狙えて便利だろ?」
男は正太郎を警戒しながらスマホを構えた。
ノアと正太郎、二人の姿が男のスマホ画面に映った。後は男が画面をタッチするだけで二人は死ぬことになる。正太郎はここに来て初めて怖くなった。死ぬことが、ではない。自分が失敗すれば自分ではなくノアが死ぬ。何もできずに終わることを恐れた。だが、このままじっとしていても結果は同じだった。
(なら、やるしかないだろ。)
正太郎は自分で自分の背中を押し、恐れを乗り越えた。
「な⁉」
いきなり男が立っていた周囲の床が消え、男と正太郎は20cmほど落下した。正直落下というほどではないが、男が体勢を崩すには十分だった。正太郎は体に鞭打ち起き上がり、男の腹を蹴りつけた。男は蛙が潰れたかのような声を上げて吹き飛ばされた。男が持っていた二つのスマホは手から落ち、正太郎の足元に転がった。正太郎は無言でスマホを二つ拾った。次の瞬間、スマホが一瞬消えたように見え、そして壊れた。ハンマーで殴ったかのような壊れ方だった。
「…お前も、こうなる。」
正太郎は冷たい表情でぽつりと言い、男に近寄った。男はまだ痛みで立ち上がれなかった。
「ま、待て!スマホはないんだ、もう何もしない。お前等とは二度と会わないから、それで許してくれよ!」
「信用できないな。」
「誓うって!お前も人殺しなんてしたくないだろ?」
「…。」
手を持ち上げかけた正太郎が動きを止めた。その時、本棚の陰からノアが恐る恐る出て来た。
「正太郎…?」
「⁉」
正太郎がノアをちらりと見た一瞬に男が動いた。ポケットから素早く3つ目のスマホを取り出して構えた。しかし、画面を押す前に正太郎の足がスマホを吹き飛ばした。それで終わりだった。
「もう一つくらいスマホがあるかも、とは思ってたんだ。これで誓いの無意味さも証明されたな。」
「あ…。た、頼むよ、助けてくれ!そうだ、俺が稼いだ金もやる、もう悪さもしない!それでいいだろ⁉」
「…。」
男の生き汚さと惨めさに正太郎は頭痛すら感じていた。良いことではないのだろうが、男のお陰で決意が固まった。ノアが混乱した様子で正太郎を見ているが、関係なかった。殴れば殴られる、盗めば盗まれる。殺される覚悟がないなら殺すべきでなかったのだ。
「…じゃあな。」
正太郎は無表情のまま、絶望の表情を浮かべる男に手を伸ばした。
翌日、男は〇県警に保護された。後に週刊誌記者が次のような記事を書いたので転載する。
『男子学生に起きた謎の精神異常!行方不明事件との関連も!』
×月△日、〇県警が一人の男性を保護した。男性は17歳、同県の高校に通う学生で、通っているのとは別の高校で発見、保護された。男子学生は学校の無断欠席など品行方正とは言い難かったものの、特に言動、性格に異常性はなかった。しかし、発見された時の男子学生は呻くばかりで意味のある言葉を出せず、相手の言葉も理解できない、食事や排泄も満足にできない状態だった。男子学生が見つかった高校の図書室は暴れた後のように荒らされていたが、何があったのか、男子学生に何が起きたのかは不明だ。しかし、男子学生の自宅の部屋には家族が知らない高額の現金や貴金属が残されていて、一部は最近同県で行方不明になった者の持ち物であることが分かっている。故に、男子学生が多発行方不明事件に何らかの形で関わっていた可能性が高いと考えられている。行方不明事件も謎が多い中、この男子生徒の事件も続報が待たれるところだ。




