序章
序章
人が生きる理由はなんだろうか。それを考えるためには、まずなぜ生まれるのかから考えるべきだ。当たり前だが、全ては発生から始まるのだから。
ではなぜ人は生まれてくるのか。これは単純明快で、理由などない。全ての生き物は生まれたいから生まれるのではなく、前の世代が勝手に作り勝手に産み落とした、偶然の産物に過ぎない。その上、生まれた後の環境がどんなものになるかも偶然でしかない。人間で言うなら裕福か貧乏か、愛情を受けるか受けないか、自らの体が健康か否か、誰もコントロールできない。恐ろしく不平等でありながら選べないという点で極めて公平なシステムだ。
前述から、全ての人間は生きる理由を始めは持っていないと言える。人々は生きる中で生きる理由を見つけ、またその理由は時が進むにつれ変化することもあるだろう。中には生きる理由を考えない人間もいるが、それは生活に必死で考える余裕がない、暗愚なため考えようとしない、日々に安住して考える必要がないといった状況が原因だろう。生きるだけで精一杯な人間はともかく、他の理由は自己を見つめる作業を放棄しているためつまらない。他者を楽しませるために生きる理由を考察する必要はないが、精神をより高みに到達させるためには必要なことだ。我々のような存在でなくても、精神の成長は望ましいことなので、生きる理由は各々が検討し見出すべきと考える。
学校に行って、勉強して、部活をして、家に帰り、寝る。毎日その繰り返しだ。一応友人はいる。家族もいる。しかもそれらは普通の人々だ。特に生活に困難はなく、体や心に疾患と呼ばれる異常はない。なのに、毎日が乾いている。退屈、つまらない、くだらない。自分も含めた全てが意味のないものと感じている。…なのに、今この瞬間も生き続けている。そんな自分に疑問と嫌悪を感じていた。
~~~♪
授業終了のチャイムが鳴り、教師が終了を告げて教室から出ていった。教室にいた生徒達は各々が自由に行動する中、一人の男子生徒が仏頂面で勉強道具を片付けていた。
「…。」
男子生徒は周囲を一瞬だけ見た。周りの生徒達は話したり、スマホを見たりと忙しそうだ。…くだらない。意味のないことにどうして騒げるのだろう。まあ、意味がないと思っているのは自分だけで、本当は意味があるのかもしれない。それならくだらないのは自分だけになるが…。
男子生徒がつらつらと考えていると、その隙にいきなり誰かが男子生徒の頬を指でつついてきた。男子生徒がつつかれた方向を見ると、女子生徒が一人笑顔で立っていた。
「また目つきが悪くなってるよ。もうちょっと優しい顔しないと友達できないぞ。」
「…止めろって。それと、別に友達なんていらないからな。」
男子生徒は不愛想な顔で指をどかし、その持ち主である女子生徒を睨んだ。
「もう、そんなだから私以外に友達がいないんだよ。私がいなかったらどうなってたか…。」
正太郎と呼ばれた男子生徒は目を逸らし心の中でため息を吐いた。
連堂正太郎は中肉中背、無造作に真っすぐ伸びた黒髪と、目立たない高校二年生だ。ただ、正確には目つきは冷たく悪い意味で特徴があり、口数が少なく愛想もないことから周囲には敬遠されていた。
「俺のことはどうでもいい。で?」
正太郎の言葉を受けて女子生徒は小首を傾げた。可愛らしい仕草だった。
「で?って?」
「何の用だってことだ。今日は部活がないってお前が言ったんだろ、白木。」
正太郎が話している生徒は白木ノア(しらき のあ)と言う。正太郎と同級生だが、背は正太郎より少し低く細身、短めの茶髪で可愛らしい容姿だ。親が日本・北欧の出身であるため顔つきは日本人離れしていて、なかなかに目立っていた。まあ、目立つ理由は他にもあるのだが…。
「そうなんだけど、予定が片付いちゃったらしくて、できれば集まってだって。正太郎にも連絡来てるはずだよ。」
正太郎はノアの指摘を受けてスマホを確認した。そこには確かに未読の連絡があった。
「…確かに。見てなかったな。」
「やっぱり。私がいなかったらミミ先輩に怒られるところだったね。」
「まあ、そうだな。助かった。」
「うんうん。じゃ、部室に行こっか。」
「ああ。」
ノアは楽しそうに笑いながら、正太郎は仏頂面のまま部室に向かった。雰囲気が全く違う二人だったが、二人に違和感や戸惑いは見受けられなかった。凸凹な二人にはこれが日常だった。
正太郎とノアは別棟の部室までやって来た。部屋のプレートには「オカルト研究会」と書いてあった。正太郎が入り口を開けると、中には小柄な女生徒が一人で分厚い本を読みながら座っていた。後から来た二人はその女生徒に近づいて声をかけた。
「ミミ先輩、正太郎を連れて来ました!」
「お疲れ様です。」
「待ってたわよ、二人共。さあ、今日も魔術の研究をしていくわよ!」
女生徒は本を閉じるとびしっと二人を指さして言った。
「はーい!」
「はい。」
二人の返事を聞いた女生徒は堂々とした態度でふふんと満足げに笑った。
女生徒は御夜霧美琴、高校三年生だ。小柄で細身だが自信満々な態度、長く伸ばした緑の黒髪のお陰で正太郎達より年下には見えなかった。そんな美琴は正太郎、ノアを入れて部員が三人だけのオカルト研究会部長だ。ちなみに副部長はノアだ。
「急遽集まってもらってごめんね。本を受け取る予定だったんだけど、先方が持ってきてくれたの。で、折角あるんだから、皆で一緒に読もうと思ったわけ。」
美琴は言いながら手に持った本をばん!と机に置いた。かなり古そうな本で、表装はぼろぼろで黒ずんでいた。タイトルは、ない。正太郎は目を眇めて本を確認しながら言った。。
「部長。これ、タイトルがないんですけど。」
「ふふふ…。これはね、無銘の魔術書とか異界秘文とか呼ばれてるものよ。かなりレアな品物で、知る人ぞ知る本物の魔術書と言われているの。」
「へえー。今までもレメトゲン、ミュンヘンなんとか、後は確か、ガルドラボーク?でしたっけ?色々仕入れては読んでましたけど、今回は本物なんですか?」
ノアは純粋に疑問を口にしただけだったが、美琴はそれを疑惑と解釈したらしく、少しむすっとして言い返した。
「今までもいくらかは効果あったでしょ。眠りの質が良くなるとか、肌荒れが治るとか、ちょっとむらむらするとか…。」
「あー、まあそうでしたね…。」
「それ、プラセボ効果ってやつじゃないですか?しかも効果がしょぼいですし…。」
「こら、連君!しょぼいって言わない!」
美琴は呆れ気味な正太郎にくわっとつっこんだ後、ふっふっふ…と自信あり気に笑った。
「まあ、確かに今までは悪魔を呼ぶみたいに派手なことはできなかったわ。でも今回は違うわよ。本当に悪魔だって呼べると言われてるんだから。」
「そうネットに書いてあったんですか?」
「いいえ、これはレア過ぎてネット検索くらいじゃ出てこないわ。危険だからって公には秘密にされてるくらいだから。」
「そんなものをなんで知ってる上に手に入れてるのかはもう聞きませんけど、読めるんですか?これ。」
正太郎は本をめくりながら冷静に尋ねた。無銘の本には図と文が書かれているものの、意味がまるで分からなかった。そもそも正太郎にはどこの国の文字なのかすら分からなかった。しかし、美琴は正太郎の言葉を聞いても変わらず笑顔だった。
「私を舐めてもらっちゃ困るわ。これは元々アラム語で書かれたものをアラビア語訳したものだけど、私なら問題なく読めるわ。」
「さすがミミ先輩!『才能の無駄使い』って言われるだけのことはありますね!」
「ノアちゃん、それ褒めてないから。とにかく、今流し読みして何をやってみるか探してるとこなの。だから二人共、あと10分くらい待ってくれない?急いで今日の活動内容を決めるから。」
「はーい!」
「了解です。」
話が一旦終わった後、美琴は一心不乱に魔術書を読み、その側でノアと正太郎は雑談をしていた。
「待たせるくらいなら明日でよかったんじゃないか…?」
正太郎は無表情に呟いた。怒っている様子はないが、待つことを良く思ってもいないようだ。
「そんなこと言っちゃ駄目だよ。欲しいものが手に入ったから喜びを分かち合いたいんだよ、きっと。」
「欲しいもの、ね…。」
ノアが笑顔でフォローしたが、正太郎は無表情なまま目を閉じてしまった。
別に帰れないことは嫌ではない。待つことが嫌なわけでもない。ただただ意味を感じられないだけだった。正太郎はこれまで何事にも意味を持てなかった。意味がなければ価値も必要もない。よって正太郎は友人や恋人を作ろうとせず、趣味を持たず、夢や希望を持たなかった。そんなつまらない自分を嫌いつつ、しかし自身を変える強い希望も方法もなく、だらだらと日々を過ごしていた。
(…帰ったところで意味はないのにな。)
正太郎にはない美琴の輝きを見て、勝手に劣等感を覚えている。そんな自分に嫌気がさす正太郎だった。
「よし、分かったわ!」
「わっ!」「っ。」
美琴が急に叫んだのでノアと正太郎は少し驚いて美琴を見た。美琴もいつになく興奮した様子で二人を見返した。
「願いを叶える魔術っていうのがあったわ。これでいきましょう!」
「ミミ先輩がいいならそれでいいんですけど、じゃあ何をしたらいいですか?」
「ちょっと待ってね、必要な物は、と…。」
美琴は魔術書片手に黒板の前まで行き、どんどん文字を書いていった。どうやら魔術に必要な物らしい。
「よし、これで全部ね。明日儀式をするから、誰が何を持って来るかを分担するわよ。まず処女の生き血、これは私がするから…。」
まだまだ部活は終わりそうになかった。とはいえただ待つだけよりはましなので、正太郎は気持ちを切り替えて美琴の話を聞くことにした。
一日の終わりは睡眠だが、正太郎は眠ることが好きではなかった。眠ってしまえば退屈や苛立ちを感じなくて済むが、それはただの現実逃避だと分かっていた。加えて、生きる意味を持てず何もしない自分が睡眠という休息をとるなんておこがましいとも感じていた。つまらない現実、それ以上につまらない自分。どうして自分は生きているのかとつい考えてしまうのだ。
「…そうだ、明日の準備だ。」
正太郎は暗い気分ながらも部活のことを思い出して声を漏らした。寝る前に用意と確認をしようと思っていたのに忘れるところだった。
「必要な物は、蝋燭10本、マッチ一箱、鋏と瞬間接着剤、魂が込められた血が染みこんだ布…。」
呟きながら机の上に真っ白のハンカチを置き、注射器と翼状針、アルコール綿と駆血帯を引き出しから取り出した。それらは本来病院で採血する時に使うものだが、美琴から受け取ったものだった。魔術ではヒトやカラスなどの血を使うことがしばしばあるのだが、正太郎は血の提供を自ら率先して行っていた。侵襲的なことをなるべくノアと美琴にさせないという配慮があったが、一番の理由は自傷的な行為そのものにあった。つまらない自分への罰であり、自らを傷つけること自体が気晴らしになり、抜けていく血を見ると自分の中にある淀みも抜けていくように錯覚できるからだ。
「…。」
正太郎は無言のまま駆血帯を締め、消毒して針を刺した。ちくりと痛みがあり、わずかに針に血が流れ込んだ。注射器を引き、少しずつ血を抜くと、赤黒い血が注射器に溜まっていった。
「…汚い色だな。」
静脈なのだから暗赤色で当然なのだが、正太郎にはまさに自分の魂が混じっているように見えた。何事も無意味と感じ、嫌い苛立っている自分の魂に相応しい色だと思った。
血を30mlほど抜いた正太郎は淡々と道具を片づけ、ハンカチに血を垂らした。みるみるうちにハンカチは血で汚れていった。…これで明日になれば乾いて完成だ。
「オカルト研究会、か。」
別にオカルトに興味はない。学校の有名人である美琴が同じくある意味で有名なノアを勧誘し、そしてノアが友人である正太郎を無理矢理引き入れた結果だ。ただ、正太郎はオカルト研究会のことが嫌いではなかった。つまらないと嫌いは違い、つまらないからといって避ける理由にはならない。将来的に好きになる可能性は残っている上、オカルト研究会は日常の中の非日常だ。非日常が自分に新しい何かを運んでくるかもしれない。小さな子供のように、淡い願いを心の片隅に抱いていた。
「…寝よう。」
ごちゃごちゃと考えてしまう頭を振り、正太郎はベッドに横になるのだった。
もしかすると、正太郎は何かを感じていたのかもしれない。つまらない自分に起きる、始まりの予感を。
翌日の放課後、オカルト研究会は忙しかった。まず部室の机を全て端にどかし、床にカラスの血で直径2mほどの魔法陣を描いた。六芒星の頂点に美琴の血を垂らしその上に蝋燭を立て、魔法陣の周辺には等間隔で銀の指輪を置き…と、とにかく準備が多かった。
「今回は本当に大変ですね。カラスも何匹も尊い犠牲に…。」
「なってないからね。ノアちゃんがかわいそうだっていうから頑張って採血したの。そのせいで四匹も必要になったんだから。」
「そ、それはお疲れ様です!」
「もう…。あ、連君?そっちはどう?」
「…よし。できました。」
正太郎は瞬間接着剤とマッチ棒を持っていた手を止め、美琴に答えた。正太郎が作っていたものはマッチ棒の先と棒で作った点、線、立体で、できた六つの形を魔法陣の最も外側に配置した。
「作りましたけど、これ、何なんですか?」
「次元を表現してるらしいわ。ゼロの点、点と直線で二次元、XYZ軸で三次元、ってね。四から六次元は私達が認知できないから三次元に棒を置くだけになってるけど。」
「次元…。古代の人間がそんなこと分かってたんですか?」
「本によると次元とは書いてなくて、違う世界って表現してるの。ま、連君の言う通り、学問的にはオーパーツ気味だと思うけど、魔術の世界にオーパーツかどうかを話してもね。」
「確かに。」
正太郎は同意しながら血が固まったハンカチを魔法陣の中心に置いた。…これで、ほぼ準備ができた。
「そういえば、願いを叶えるって具体的に何が起きるんですか?」
準備がひと段落したので、ノアは気になっていた疑問を美琴にぶつけた。願いと一言でいっても千差万別であり、たとえ魔法があっても全ての願いに対応できるとはとても思えなかった。美琴もその点は理解しているようで、顎に手を当てて考えていた。
「無銘の魔術書に具体的なことは書いてないの。でも、願いを叶えてくれる存在と言えば悪魔よね。別次元の話や銀の指輪を使ったのも召喚の儀式っぽいし。」
「ああ、ソロモン王の話ですね。確かに。」
正太郎は美琴の意見に乗った。どうあれやってみないとどうなるか分からない。本当に悪魔が出てきたら大丈夫なのかという問題も、出て来ないことにはどうにもならないのだ。そして、美琴も正太郎と同じらしかった。
「とにかくやってみましょう。何かあったらいけないから二人は私の後ろにいて。」
「「はい。」」
美琴は正太郎達が移動したことを確認した。そして全ての蝋燭に火をつけると魔法陣の前に立ち、真剣な表情で自分の髪の毛を一房鋏でざくりと切り取った。
「あー、せっかくきれいな髪なのに勿体ない…。」
「静かにしろよ。怒られるぞ。」
「はーい…。」
正太郎はノアを小声で注意した。そもそも美琴は魔術で使うために髪を伸ばしている筋金入りの魔法使いだ。そんな本気の人間を邪魔してはならない。ただ、ノアもつい感想が漏れただけなので、笑顔で正太郎に謝り静かになった。
前述のように正太郎とノアはいつも通りの様子だが、美琴は二人のことなど全く気にならない様子で真剣に儀式を続けていた。蝋燭一本一本に少しずつ髪の毛を落とし焼かせ、ちょうど最後の蝋燭で切った髪全てを焼ききった。
「我、この世から低きを見下ろし高きを見上げる者、そしていと高き所におわすものを求める者なり。火を灯し、命を燃やし、知識の光を以て闇を探る。…。」
美琴は魔術書を片手に朗々と呪文を読み上げていった。その声はまるで歌うようで、まさしく魔法使いといえるものだった。具体的には昨日しっかり練習した成果だった。
そして、美琴が詠唱を始めてすぐ、変化が起きた。
「え…。」
「何…?」
締め切っているはずの部屋に空気の流れが起こり、蝋燭の火が揺らめき始めた。隙間風かと思ったが、風は魔法陣の周囲を回っているようで火も円周を描くように揺れていた。そして、いつしか蝋燭の火は明らかに当初より強くなり、美琴の長い髪の毛とスカートが風に流されるようになっていた。しかも、よく見ると血で描かれた魔法陣はほのかに、だが明らかに発光していた。この事態に三人は思わず息を呑んだ。
「まさか、本当に魔法が…?」
「す、すごい…!」
「…くう、最高…!」
ノアは非現実的な光景を見てただ驚いていたが、正太郎は珍しく高揚感を隠せない様子だった。本当に何かが起きようとしている…!そして、呪文を唱え続ける美琴もまた興奮で声がうわずりそうになる自分を抑えつつ、詠唱の締めに入った。
「…門を開き、来りて現せ。捧げた魂に応じ、この世に相応しい形をとり給え。渇きと飢えを満たす、新たなる扉を開き給え。叶えよ、我が願い!!」
呪文が終わった瞬間、部室は魔法陣の中心から出た眩い光に満たされた。
「きゃあっ!」
「っ!」
「くっ…!」
三人は真っ白な世界を見た後に意識を失った。
「う、うん…。」
三人の内、ノアが一番初めに意識を取り戻し、床に倒れていた体を起こした。
「あ、正太郎…!」
ノアは隣に倒れている正太郎に気付くと慌てて彼の体を揺らした。
「正太郎!起きて、正太郎!」
「う…。」
ノアが何度か声をかけると正太郎は呻きながら目を開けた。ノアはほっとしながら正太郎の様子を確認した。
「大丈夫?私のこと分かる?痛いとことかない?」
「ああ、多分大丈夫だ…。とりあえず、顔が近いぞ。」
「あ、ごめん。」
ノアは身を起こし思わず正座した。その横で正太郎はゆっくり身を起こし、頭を振った。
「光が広がって、そこから…。あれで失神したのか。白木は覚えてるか?」
「ううん。私もさっきまで倒れてたから、一緒に気を失ってたみたい。」
正太郎はノアが首を振る様を確認した後、周囲を見回した。蝋燭の火は消え、魔法陣は焼き切れたように形がぼけていた。そして中心に置いていたいくつもの道具…血濡れのハンカチも含め、跡形もなく消えていた。そして手前には美琴が倒れていた。
「部長、大丈夫ですか⁉」
正太郎がやや大きい声を出しながら美琴に近づくと、美琴は自力で身を起こした。
「うーん、えーと、何が起きて…。って、儀式は⁉どうなったの⁉」
「こんな感じです。」
目を覚ました美琴はまず結果が気になったらしく、正太郎とノアに語気強く尋ねた。そして出された正太郎の指をたどり、魔法陣の姿を見た。
「あの光で全員気絶したみたいです。俺も白木も光が出た後のことは分かりません。とりあえず、あれから5分くらい経ったみたいです。」
「そう…。残念ね。…ふふ、ふふふ…。」
美琴は言葉少なに俯いたが、しばらくすると体を震わせ始めた。少し怪しい感じだった。
「ミ、ミミ先輩?大丈夫ですか…?」
「ねえ、二人も見たでしょ⁉あの超常現象!あんなの魔法じゃないなら何だって言うのよ!やっぱり私が思った通り、魔法は現実にあるのよー!」
美琴は小躍りしそうな勢いでまくし立てた。先程の現象がとにかく感動的だったようだ。もちろん、それはノアも正太郎も同じだった。
「ほんとにすごかったですね!あんなの見たら誰だって魔法を信じちゃいますよ!」
「よね⁉」
「一応確認なんですけど、風や光が起きる原因が他にあったりは…。」
「絶対ないわ!二人も一緒に準備したから分かるでしょ?今日用意したものじゃあんな現象は起こせない。つまり、あれは魔法そのものよ!」
「でも、肝心の願いは叶いませんね。」
ノアが少し残念そうに呟くと、美琴は腕を組んで考え込み始めた。
「そうね…。何かミスがあって失敗したのか、それとも願いが叶うってことの認識が間違ってるのか…。」
そもそもこの場には三人いるので、誰の願いが叶うのかも不明だ。実はもう叶っている、あるいは現在進行形の可能性も…?
「…よし、今日のところは片付けて、また明日にしましょう。私は魔術書をもう一度読んでミスがないか確認するわ。二人は何か身の回りに変化がないか気をつけてみて。」
『ほお…。』
「え?」「はい!」
ノアは美琴に返事をしたが、なぜか正太郎は疑問形の声を出して振り返った。当然美琴もノアも不思議そうだった。
「どうしたの、連君?」
「そうよ、急に変な声出して。…まさか、幽霊とか⁉」
「…いや、何でも。変な声が出ただけなんで、気にせず。」
正太郎は強引に話を終わらせ片づけを始めた。二人はまだ不思議そうだったが、それ以上は聞くことなく正太郎に続いた。
先程、正太郎は誰かの声が聞こえたような気がした。ただ、一瞬だったので気のせいかもしれなかった。あまり騒ぐと今回の出来事に興奮していると思われそうなので、ノアと美琴には何も言わなかった。それでも、正太郎の中には聞き間違いではないという妙な確信があった。
正太郎は気付けば暗い空間の中に一人で立っていた。何も見えない、何も聞こえない所だった。
「…ここ、どこだ?」
そもそもさっきまで何をしていたんだろう?…そうだ、寝たはずだ。部活が終わったその後、結局身の回りには何も起きなかった。しかし、焦ることはなかった。いずれ分かることだと思い、寝ることにしたのだ。なら、ここは自室なのか?その考えに至ると、不思議と真っ暗のままなのに周りが見えてきた。…やはり自室だ。
…いや、違う。正太郎はこの場において初めてぞくりと背中を震わせた。数メートル離れた所に何かがいた。しかし、誰なのかは分からない。部屋が暗いからではなく、体全体が部屋の暗さより黒く塗られていた、まるで空間を人の形に切り抜いたようだ。
(夢、なのか?)
訳の分からない恐れを抱えつつも、正太郎はから目を離せなかった。そして、正太郎より先にその黒いものが動いた。
「はじめまして、連堂正太郎。俺は…そうだな、悪魔だ。そう扱え。」
「悪魔、だって…?」
「分かりやすいからそう思ってくれ。お前は俺に取り憑かれた。有り体に言えば『悪魔憑き』になったんだ。どうだ?嬉しいか?」
自称悪魔は正太郎に気軽な様子で話しかけてくるが、その態度があまりに気安く、そもそも荒唐無稽な話なので、正太郎は戸惑っていた。しかし、黙っているわけにもいかない。
「…嬉しいも何も、いきなり悪魔とか言われても信じられないだろ。大体昼の部活でしたのは願いが叶う儀式で、悪魔を呼んだんじゃない。」
「らしいな。お前の記憶を見たから知ってるぞ。でも諦めて受け入れろ。俺なら願いを叶えられる。そう判断されてのことなんだろうからな。」
自称悪魔がくっくっと面白そうに笑うので、正太郎は悪魔を否定する気がなくなってしまった。しかし、代わりに聞きたいことができた。
「…おい。俺の願いって、何だ?」
「ん?」
悪魔は一瞬不思議そうな声を出した。質問の意味が分からなかったようだ。
「お前は願いを叶えるために呼ばれたんだろ。なら、俺の欲しいものを知ってるはずだ。それを言ってみろってことだ。」
「…ああ、そういうことか。」
正太郎が重ねて言うとようやく意味が分かったらしく、悪魔は意地の悪い笑い声を出した。
「くくくっ。それで?俺が悪魔か確かめるのか?それとも自分の願いが何なのか知りたいのか?」
「っ…。答えろ。」
正太郎は言葉に詰まりつつも表面だけは冷静に尋ねた。悪魔の指摘通り、正太郎は自分の願いが何なのか分かっていなかった。何となく、今のつまらない自分を変えたい、くらいは思っていたが、具体的な願いなど考えたこともなかった。自分すら分かっていない願いとは何なのか、それは目の前の存在が悪魔なのかどうか以上に知りたいことだった。
「そう怒るなよ。別にお前を責めてるわけじゃない。自分の願いなんて明確に分かってる奴の方が少ないもんだ。」
「…。」
「願いを俺が教えてもいいけどな…。折角だ、自分で考えてみろよ。」
「…は?」
ここまで勿体つけておいて言わないのか?
「焦ることはない。どうせ長い付き合いになるんだからな。まずは自分で考えて、それから答え合わせをすればいい。」
「ちょっと待て、長い付き合いってどういうことだ?」
「言葉通りだ。さて、今回は挨拶で来ただけだから、そろそろお暇させてもらうか。」
「お、おい、まだ話は…!」
まだ聞きたいことがあった正太郎は悪魔をひきとめようとしたが、正太郎が言い切る前に悪魔は闇に溶けて跡形もなく消えてしまった。
「…結局何だったんだ?」
あの黒い人型が悪魔だったのか、なぜ正太郎に話しかけて来たのか、正太郎の願いは何なのか、何も分からなかった。一人くらい部屋に残された正太郎は苛立ちで思わず舌打ちをした。その時、暗い部屋に光が差し始めた。朝になった…というより、夢から覚めようとしているのだろうか。まさかここにいたままだと目覚めないのだろうか…などと正太郎が考えている間に明るさは増し、正太郎の意識はゆっくりと消えていくのだった。
………。
「う…。」
目が覚めた正太郎はベッドの上にいた。当然自室だ。
「…夢か…。」
正太郎は失望混じりにため息を吐いた。夢の中では戸惑いと苛立ちを感じていたのに、いざ夢だと分かると残念に思うとは自分でも意外だった。それだけ新しいこと、非現実的なことを求めているのだろうか。
「ふぅ…。」
どうあれ、現実を生きなければならない。正太郎は軽くため息を吐いてベッドから立ち上がるのだった。
夢で何があろうと、正太郎は今日も今日とて高校に向かっていた。
「いつもの通学路ももっと刺激的ならいいんだけどな。」
正太郎は人気のない道を歩きながら一人ぼやいた。しかし、刺激的とは言っても具体的には答えにくかった。冒険的な意味か、お遊び的な意味か、はたまた性的なものか。考えてもどれもパッとしなかった。
「これじゃ、俺の願いってのも胡散臭いもんだ。」
まだ夢を引きずっているようで、正太郎は自分の願いについて考えながらぶつぶつと独り言を呟いた。…ノアがいれば正太郎の異常に気付いただろう。いつもの正太郎は独り言を言うことはない。ぼやいたり皮肉っぽく話したりすることもない。つまり、今日の正太郎は違和感だらけの存在だった。
そんな「変な」正太郎は交差点を歩いていたが、ふとあらぬ方向を見て立ち止まった。
「あれは…。」
正太郎の視線の先には車椅子に乗った高齢の女性がいた。彼女の目の前には階段があり、階段の先を見上げ、手元のスマホを見て、を繰り返していた。
(階段か。登れないんだな…。)
「…。」
自分にできることはない。義理すらない。ない、のだが…。
「おい、持ってやろうか?」
気付くと正太郎は女性に近づき話しかけていた。しかも、妙に乱暴な言い方で。
『な、なんで話しかけてるんだ、俺?』
思わず戸惑った声が出たが、体は反応せず声は出なかった。明らかに異常だが、不思議と焦りや恐怖はなく、どこか夢の中にいるような感覚だった。
「え?い、いえ、大丈夫です。階段が昇れないから道を探してるだけで…。」
声をかけられた女性もまた戸惑っていた。いきなり柄が悪い男に声をかけられ、それでいて手伝いの申し出をされたのだから当然の反応だ。
「まあそう言うなよ。階段の上に行けばいいんだろ?黙ってじっとしてろ。」
正太郎(?)は相変わらず勝手に話しながらにやりと笑い、車椅子に手をかけた。
「い、いえ、本当にいいですから…。」
ひょい。
「え、ええ⁉」
『え…。』
車椅子はいとも簡単に持ち上がり、その事実に女性は勿論正太郎も驚いていた。勝手に動く体だが、重みは確かに感じていた。しかし、全く苦痛を感じないのだ。そして、正太郎(?)は女性を車椅子ごと持ち上げたまま階段を上り始めた。
「だ、大丈夫ですか?無理しなくても…。」
「別に無理はしてない。気にせず構えてろ。」
「は、はあ…。」
「…よっ、と。」
階段は15段程度だったので、正太郎(?)はあっという間に階段を登り終え、車椅子をゆっくりと地面に置いた。息も切れず、腕も疲れた様子はなかった。地面に戻されて安心した女性は正太郎(?)に頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。遠回りしないと、と思っていたので助かりました。」
「大したことじゃない。ただの気まぐれだからな。」
正太郎(?)は手をひらひらさせながら女性に背中を向けており、女性が頭を上げた時には既に離れた所にいた。女性はキツネにつままれたような顔でぽかんとしていた。
一方、正太郎もまた勝手に動く体の中でぽかんとしていた。
『…これ、現実なのか?』
体は相変わらず勝手に歩いていて、いつの間にか通学路に戻っていた。
(体が勝手に動いて話すなんてな…。)
異常事態だが、それ以上にこんな異常事態でもさして動揺しない自分の異常性が不快だった。もっと慌てたり恐怖したりしてもよいのに、こんな非日常を経験してもなお乾いている自分が嫌だった。
『…ん…?』
不意に体が立ち止まったので、正太郎は顔を上げて正面を見た。体は正面を見て歩いているのに顔を上げるとは不思議な話だが、とにかく正太郎が顔を上げると、そこには窓ガラスに映った自分がいた。
「…。」
正太郎(?)は反射で写る自分を見ていた。いや、違う。正太郎を見ていた。正太郎は自分と目が合った気がした。そして、正太郎(?)は無言のまま正太郎ににやりと笑いかけた。
「…!」
思わず背筋が震えた。しかし、次の瞬間、正太郎は窓ガラスを見ながら立ち尽くす自分に気付いた。どうやら戻って来れたらしい。
「…何だったんだ、一体…。」
窓ガラスの中にいる自分はもう笑っていなかった。
その夜、正太郎は不思議な夢を見た。自分が夜の街をふらふらと歩いていた。歓楽街を歩いているのか、周囲のネオンで眩しく、夜なのに人の気配は多くうるさかった。しかし歩いている正太郎は特に不快感なく歩き続け、そして偶然目に留まった同世代の少女数人に声をかけた。
「――…。―――。」
「―。―!」
何を言っているのかは分からない。ただ、どうでもいい、つまらない内容のようだ。そのまま正太郎は少女達と別れ、また歩き出した。
(いつまで続くんだ…?)
そう思った時、視界がぼやけ始め、やがて何も見えなくなった。
「下らない世界だな。お前が意味を感じられないのも分かる気がする。」
「!」
いきなり声がしたので、正太郎は一気に覚醒した。気付けば体は立ち上がっていて、制服を着ていた。そして目の前には影が立ち上がったような人型。昨夜話をした相手だ。
「ところで正太郎。お前は夜遊びなんてしないのか?」
「しない。って、そんなことよりお前、夢じゃなかったのか?」
正太郎が若干困惑した様子で尋ねると、黒い影は肩部分を震わせた。笑っているらしい。
「お前的にはその方が楽だったかもな。でもまあ、諦めろ。昨夜の夢も、朝の出来事も、今の夜の独り歩きも、全て現実だ。」
「現実?…もしかして、全部お前がやってたのか?」
影の話を理解した正太郎は息を呑んだ。影の言うことが正しいとするなら、最近の夢のようなものはすべて正太郎の体に起きた現実ということだ。そして、目の前にいる影はあらましを知っている。つまり、正太郎の体を動かしていた本人なのだろう。
「ああ、お前の代わりに楽しませてもらったぞ。といっても別に楽しくはなかったけどな。あくまで試運転だ。」
「試運転?」
「そうだ。俺がお前の中で生きるためのな。」
影は答えつつ、指を鳴らした。すると、影の全身が揺らいだかのように見え、続けて黒い表面が蒸発するように消えてしまった。そこには人が一人立っていた。…正太郎と寸分違わない姿だった。しかし、全身から発せられる気配とにやりと笑う様は本人とは明らかに違っていた。
「どうだ?これが今の俺の形だ。さしずめもう一人のお前ってところだな。」
「…それで、どうするんだ?俺の体を乗っ取るのか?」
正太郎は固い声で言った。目の前の存在が悪魔なんだと既に心で認めてしまっていた。一方正太郎の姿をとった悪魔は苦笑していた。正太郎の言葉があまりに的外れだったからだ。
「おいおい、そんなことするわけないだろ。俺はお前の敵じゃない。心配するなって。」
「…悪魔なのに、敵じゃないのか?」
「昨夜言っただろ、俺はお前の願いを叶えるために呼び出されたってな。お前の体を間借りはしても、お前の害になることはしない。」
「…そうなのか?」
正太郎は少し緊張を解いて若干小さな声で尋ねた。悪魔が嘘を言っているようには聞こえないが、鵜呑みにするには不可解な存在過ぎた。そんな正太郎に悪魔は正太郎の顔で可笑しそうに笑った。
「ああ。大体、実のところ俺は悪魔じゃない。分かりやすいからそう名乗ったけどな。本当は高次元精神生命体と言って、実体を持たない精神だけの存在だ。」
「高次元、精神生命体?」
「漫画でいう精霊みたいなもんだ。胡散臭いだろ?」
「自分で言うなよ…。」
正太郎は聞き馴染みのない言葉のせいで難しい顔をしていたが、悪魔の言葉に思わず呆れた声を出した。そのお陰か程よく力が抜けて話しやすくなった。確証はないが、やはりこの自称悪魔は悪い存在ではないようだ。
「…なあ、お前がその高次元?生命で、悪魔で、俺の願いを叶えるためにいるのは分かった。納得した。でも、俺に取り憑いて、具体的には何をするつもりなんだ?」
諸々の不思議を飲み込んで納得しても、願いのくだりだけはまださっぱり分からなかった。悪魔がどうやって何をするのだろうか。質問を受けた悪魔は何故かん?と目を丸くした。
「何をするのかって?さあ。」
「いや、知らないのかよ…!」
正太郎からつっこみが入った。思わず大きな声が出てしまった。つっこまれた側は悪びれる様子もなく笑っていた。
「お前達がやった儀式が勝手に俺を呼び出しただけだからな。選ばれた基準も俺に求められることも分からない。まあ、お前の願いは分かってるんだ。ぼつぼつやっていくさ。」
「呑気なもんだな…。」
「そう言うお前もな。」
正太郎と悪魔はお互いに軽口を言った。何となく悪くない空気だった。その時、正太郎に擬態した悪魔の姿が映像事故のようにざざざ…と乱れ始めた。
「おい、大丈夫なのか⁉」
「目が覚めるみたいだな。最後に言っとくが、俺は原則前に出ない。お前が寝てる時にたまに動くくらいだ。話しかけられても基本的には答えないから、そのつもりでな。」
「分かった。けど、大事な時は答えろよ!」
「分かってる分かってる。じゃあまたな。」
悪魔はひらひらと手を振り、消えていった。そして悪魔が消えると同時に正太郎の意識も覚醒していくのだった。
「ふわ…。」
昼休み、正太郎は食事をしながら小さく欠伸をした。夢で悪魔と会話した日以来、あまり眠れていなかった。日中は悪魔と話したことをつい考えてしまう。夜はまた悪魔が出てくるかもしれないと身構えつつ寝るが、結局何も起きず朝になる。また、いつ悪魔が体を勝手に使うか分からないため、自分に異変が起きていないか常に気にしていた。そんな日々が続き、流石の正太郎も疲れてきていた。ノアはそんな正太郎を見て笑った。
「欠伸なんて珍しいね。夜更かしでもしたの?」
「いや、違う。違うけど…、まあそんなもんか。それで頼む。」
悪魔のことは説明することが難しい。おまけに夢で見たことなので、ただの夢だと普通は思うだろう。ということで、正太郎は詳細をノアに説明しなかった。
「?何か含みのある言い方だけど…。正太郎が元気ならそれでいいよ、私は。」
「…俺、そんなに元気そうか?」
むしろ夢のせいで疲れている気がするが。
「うん。なんて言うのかな、活気があるっていうか、やる気がある感じ。」
「やる気、か…。」
正太郎は呟きながら目を余所へ向けた。確かに今現在の正太郎は悪魔に取り憑かれるという世にも珍しい現象の真っ只中にいて、これからどう生活するべきかを考えていた。つまり、未来に対して一種の意気込み・やる気があり、概ねノアの指摘通りだった。容易く思考を読まれたことが情けなかったが、それ以上に正太郎のやる気を喜ぶノアが眩しかった。いくら珍しいこととはいえ、無気力な友人がやる気を出しただけで喜ぶなんて、人が良すぎると思えた。
(思えばこいつも変な奴だよな。)
他人が異常だと思う点はどうでもいい。ただ、ノアとは小学生からの付き合いだが、何故か昔も今もこちらを気に入って世話を焼いてくる。どうして自分のような無意味な人間の友人になろうと思ったのか、何故今も友人でいてくれるのか。白木ノアは本当に不思議な存在だ。
「ん?どうしたんだろ…。」
正太郎は昔を思い出して少しぼうっとしていたが、ノアの訝しげな声で現実に戻って来た。教室内は少しざわついていて、そしてノアは教室の入り口を見ていた。正太郎がノアの視線を辿ると、視線の先には見慣れぬ男子生徒が三人いた。恐らく上級生、三年生だろう。その三人は正太郎達の方を見ると笑いながら近づいてきた。
「よっ。お前、白木ノアだよな?」
「は、はい。そうですけど…。」
「へえー。ほんとにこんな感じなんだ。」
「おもしれー!」
「いいじゃんいいじゃん!これなら話題としてちょうどいいぜ。」
ノアが若干顔を曇らせつつ答えると、上級生達は勝手に盛り上がりげらげらと笑った。彼等の視線と声は好奇と侮蔑で満ちていて、正太郎ですら不快だった。しかし、目の前に立ちふさがっているので無視はできず、ノアは嫌だが気持ちを押し殺して声を出した。
「あの、私に何か用ですか…?」
「ああ。頼みたいことがあるからさ、ちょっと俺達と来てくれよ。」
「分かりました…。」
「…用ならここで話したらいいんじゃないですか?」
ノアが立ち上がったタイミングで、正太郎は一際陰気な雰囲気でぼそりと言った。ノアは驚いていたが、男達はへらへらした態度で正太郎につっかかった。
「え?何お前、もしかして白木の彼氏?」
「違いますけど。」
「なら関係ないじゃん。別にお前のものってわけじゃないだろ?」
「…。」
「あれ?黙ったってことはもういいってこと?折角先輩相手にカッコつけたのにねー。」
「だせえなあ。なあ、何か言ってみろって、おい。」
「…。」
「しょ、正太郎!私は大丈夫だから、ちょっと待っててね。先輩方、お願いします。」
空気が剣呑なものになりつつある中、ノアが正太郎の前に割り込んだ。自分のせいで正太郎が危険な目に会うのは嫌だった。幸い上級生達は正太郎のことはどうでもいいらしく、正太郎から視線を外してノアを取り囲んだ。
「OKOK。そう言ってくれるなら俺達も助かるってもんだ。」
「じゃあこいつは放っておいて、さっさと行こうぜ。」
「ああ。こんな暗い奴、無視無視。」
場はこれ以上荒れることなく終わり、男達は笑いながらノアを連れて教室を後にした。
正太郎は教室に一人ぽつんと残された。誰も彼に話しかける生徒はおらず、彼の耳には周囲の声ばかりが聞こえて来た。
「あの先輩達って、確か面倒な人達なんじゃなかったっけ?」
「そうそう。半分不良みたいな。とにかく、関わらないのが一番ってやつ。」
「だな。こっちまで目つけられたら困るからな。」
「白木さんも大変だね。…まあ、自業自得かもしれないけど…。」
「ちょっと、それは言ったらまずいんじゃない?」
「あいつもちょっと言い返したけど、やっぱり駄目だったな。いつも暗くて地味な割には頑張った方か。」
「そんなこと言ってるけど、お前だったら最初の一言も言えないんじゃないか?」
がやがや。
「…。」
いつの間にか周囲は平常の騒がしさを取り戻していた。…五月蝿い、そう思った。娯楽感覚で人の不幸を眺め、助けようとはしない。視界から消えれば、次は目線をスマホの画面に移すだけ。勝手な言葉を並べ、無関心・差別意識を隠そうともしない。そんな奴等と結果的に同類の自分。全てがつまらなく、下らない。まさに無意味、無価値の極みだった。
その時、
『正太郎。お前はどうしたい?』
「え…。」
奥に引っ込んでいるはずの悪魔がいきなり正太郎の心に話しかけてきた。急なことだったが、怒りに満ちた正太郎は逆に冷静だった。
『…何だよ、急に。基本は出て来ないんじゃなかったのか?』
『基本は、だろ。それに、俺から話しかけないとは言ってないしな。』
『はあ…。で、何のようだ?用がないなら話しかけるなよ。変な奴に見られるだろ。』
正太郎は少しつっけんどんに言った。悪魔が軽い調子だったので少し怒りが収まったが、まだくすぶっている思いがあった。悪魔はそんな正太郎を笑った。
『そう邪険にするなって。俺はただ、心のむくままにやれと言いたいだけだ。その手伝いとして俺がいるんだからな。』
悪魔は笑いながら、しかし口調は不思議と真剣だった。正太郎も思わず聞き入ってしまい、ぽつりと声が出た。
『…役に立てるのかよ、今。』
『お前の願い次第だ。お前は、どうしたい?』
「…俺は…。」
正太郎は小さく呟きながら立ち上がった。
「そ、そんなことできません…。」
「えー?いいだろ、顔は隠すし、裸になるわけでもないんだからさあ。」
場所は周囲から見えない階段の陰。ノアは上級生三人に囲まれていた。三人の様子は教室に来た時と同じだが、ノアは明らかに嫌がり怖がっていた。
「小遣い稼ぎの動画撮影にちょっと協力するだけだって。簡単な上に再生回数が伸びればお礼もするぜ?」
「でも私、カメラの前で脱ぐなんて…。」
「大丈夫。白木って女装してるだけなんだろ?」
「そうそう。男の娘ってやつ。だからちょっと脱いだくらい合法だし、BANされることもない。」
「お前みたいにほんとの女みたいな男なんて珍しいから、動画を上げたら盛り上がるぜ。皆に見てもらえて、しかも儲かるなんていいことだらけじゃん。」
「…。」
ノアは何も言わずに俯いていた。それでも耳には男達の声が入っているので、可能なら耳を塞いでしまいたかった。
先に男達が言ったことだが、ノアは見た目こそ女性のようだが生物学的性には雄だった。ではなぜ女性のように振る舞っているかというと、それがノアにとって最も自然だからだ。しかし、別に女性になりたいのではなかった。ノアは男性でも女性でもなく、どちらかに限定されることが苦痛な、LGBTQでいうQのタイプだった。ちなみに男女どちらに対しても恋愛ができた。小学生の時に両親に相談し、以後見た目は女性(正確には自分に似合うものを選んでいるだけだが)として生活していた。
そんなノアは少数派としてずっと世間の偏見・差別の視線を受けて来た。しかし、今回は特にひどかった。男達はノアを異質・変なモノと見て、ノアの在り方を軽視し、なおかつ望まない行為を強要していた。ノアは逃げ出したいが囲まれていてどうにもできず、精一杯の勇気で拒否の言葉を絞り出すしかなかった。
「と、とにかく、動画撮影なんて私にはできません。」
「ふーん…。」
男の一人が鼻を鳴らしたかと思うと、スマホを取り出してノアの写真をいきなり撮った。
「な…!止めて下さい!」
「うっせえなあ。男のくせにノリが悪い奴。うっとおしいからとりあえず撮ってみようぜ。そしたらこいつもやる気になるだろ。」
「…そうだな。それでいいか。どうせこんな奴のことなんて誰も気にしないよな。」
「そうそう。むしろ何かあってもキモい奴が消えてラッキー、とか思うんじゃね?」
「だな。よし、腕を押さえてろよ。そのまま化学準備室に行くぞ。」
「OK。」
「いっ…!」
手首を強く掴まれたノアは痛みで声を上げた。しかし、男達は気にすることなくノアを引っ張り近くの部屋に連れ込もうとした。密室に入ったら何をされるか、考えただけでノアは背筋が凍る思いだった。
(助けて…!)
正太郎の顔が思い浮かんだが、正太郎には自分で大丈夫だからと言ってしまった。あんなこと言わなければ良かった。それなら助けに来てくれたかもしれないのに。…でも、まだマシかもしれない。助けてと言っても助けてもらえないより、このまま独りで苦しむ方が…。
「ちょっと待てよ、お前等。」
もう少しでノアが部屋に押し込まれるところで、誰かが男達に声をかけた。それはノアのよく知る声だ。だが、いつものそれよりもずっと力強く凄みがあった。そして、男達は急に聞こえた声に驚き、声がした方を向いた。
「!…って、何だ、さっきの奴か。今遊んでるところだから、あっち行ってろ。」
「それじゃ来た意味がないだろ。お前等が消えろ。」
「「「は…?」」」「え…。」
男達もノアも、思わずぽかんとしてしまった。今の正太郎は先程ぼそぼそと喋りノアを庇った人とは別物だった。暗いながらも堂々とした雰囲気、低く凄みのある声、そして爛々と光る二つの目。その全てに迫力があり、男達はわずかにたじろいだ。しかし、群れているお陰で虚勢を張ることくらいはできた。
「おい、何偉そうな態度とってんだ。調子に乗るなよ。」
「クソ相手に調子に乗るも何もない。」
正太郎はつかつかと男達に近づきながらそっけなく答えた。その答えが癇にさわったのか、リーダー格の男が気色ばんだ。
「なめんなよ…。邪魔するならどうなるか、分かってんだろうな。」
「知るか。お前の好きにしろよ。俺は俺で勝手にするだけだ。」
「っ!この野郎!」
「きゃっ!」
正太郎の言動をきっかけに、男は虚栄、自尊、怒りに突き動かされ正太郎の顔面を殴った。ノアは思わず小さく悲鳴を上げ、目を背けた。
「本当に痛くないんだな。…下らない。」
「な、何だよ、お前…。」
「え…?」
正太郎の声が聞こえたので、ノアは恐る恐る視線を戻した。そこには殴られたのに全く痛がらない正太郎がいた。頬は殴られて赤くなっているのに表情一つ変えていなかった。正太郎は冷たい表情のまま男を押しのけ、そのままノアに近づくと無言の圧力で男二人をノアから引き離した。力が抜けたノアは倒れそうになったが、正太郎がとっさに体を支えたので倒れずに済んだ。自由になったノアは戸惑った様子で正太郎を見た。
「正太郎…?あの…。」
「…。」
正太郎はちらりとノアを見たが、無言のままノアを立たせ、それから男達に向き直った。
「…後はお前達が二度と俺達に関わらないようにしないとな。」
「は?」
次は一瞬だった。気付けば正太郎は男達の前に走り寄り、男達は三人ともお腹を押さえてうずくまった。どうやら今の短時間で三人の腹を殴ったらしい。そして正太郎はリーダー格の胸ぐらを掴んで窓際に引きずっていった。
「ぐぁ…!は、離せ!」
「…。」
正太郎はもがき喚く男を無視して窓を開けた。そして、なんと男の胸ぐらを片手で掴んだまま持ち上げ、男の体を窓の外に出した。つまり、男は正太郎の腕だけを支えに窓の外…三階に浮いていた。
「や、止めろ!殺す気かよ…!」
「白木の動画よりお前が果肉入りジャムになる方がバズるんじゃないか?動画っていうのは刺激的な方が好まれるんだろ?」
「お、おい、まさか…。」
ぱっ。
「「「「!!」」」」
男は50cmほど自由落下したところで再び正太郎に胸ぐらを掴まれ、止まった。男が落ちた瞬間、その場にいる正太郎以外の誰もが息を止めた。しかし、正太郎だけは異常と言えるほどに落ち着いていた。
「驚いたか?今のは冗談だけど、そのまま落とすもよし、このまま締め上げるもよし。どっちがいい?」
「ひ…!た、助けて…!」
男は見栄もプライドも捨て、正太郎に命乞いをした。残る二人は氷像のように固まり、何もできなくなっていた。それだけ今の正太郎は圧倒的だった。
「…これくらいでいいか。」
正太郎はしばらく怯える男を冷たい表情で見ていたが、ぽつりと呟くと掴んだ男を残り二人の足元にぽいっと投げた。
「ぐあっ…。」
「うわあっ!」「お、おい…!」
ごみのように転がった男に周りの男二人が集まった。そこで正太郎が冷たい目で睨んだ。
「さっさと行け。次に俺か白木に関わったら、今度こそ落とす。」
「い、行こうぜ…!」
「あ、ああ…。」
転がった男を引きずりながら男達は正太郎達の視界から消えていった。
不思議な感覚だった。自分の意志で喋っているにも関わらず、他人が話しているような感じもあった。殴られると痛みという意味の電気信号を感じたが、そこに苦痛はなかった。暴力を振るう時、言葉を発した時、自分の中で何かが燃えるような感覚があった。そして、それらを感じる自分を見る、冷たく乾いた自分も一緒にいた。ただ、それでいて頭は夢の中のようにぼんやりとしていた。
『どうだ、暴力は?快感でも嫌悪でもいい、何か感じるものはあったか?』
正太郎の視界には逃げていく男達の後ろ姿があった。現実ではない意識の世界で悪魔は冷静に正太郎に尋ね、そして正太郎は悪魔に抑えた声で答えた。
『…別に何も。それより、何だったんだ?今の。お前の魔法か?』
『そんな大それたものじゃない。俺の精神をお前の精神に溶け込ませて、お前の脳を刺激しただけだ。火事場の馬鹿力を意図的に使ったと思ってくれ。』
『そんな感じなのか。分かってはいたが本当に悪魔、いや高次元生命だったか。なんだな。』
『他にも色々できるけど、それはまたおいおい教えてやるよ。それより、何もないことはないはずだ。少なくともすっきりはしただろ?』
『…まあ。」
正太郎は曖昧に頷いた。確かに悪魔の言う通り、すっきりしたというか、視野が広がったような、重荷が少し軽くなったような感じがあった。
『それはお前の中で眠ってたものだ。お前は意識的でも無意識でも自分を抑えている。それじゃあお前の願いは叶わない。お前はまず自分自身を知る必要がある。』
『だったら何なんだ、俺の願いって。知ってるならいい加減言えよ。』
正太郎は苛立ちを隠すことなく大声で悪魔に尋ねた。思わせぶりな悪魔の口調にいい加減我慢できなかった。しかし、悪魔は正太郎の怒りを受けても全く動じずに笑っていた。
『そんなにいらつくなよ。でもそうだな、自力で分かるにはまだ時間が必要だろうし…。時間を進めるか。おい、正太郎。』
悪魔の声は真剣だった。お陰で苛立ちはすぐさま引っ込み、正太郎は冷静に話を聞くことができた。
『まずはさっきのクソ三人組のことを話すか。奴等はノリと勢いで生きてる。周囲や自身を深く考えるなんてしないだろう。なのに、それなりに生を楽しめてる。そんな奴等がお前は羨ましくて、憎いんだ。自分じゃ到底得られない、充足感ってものを持ってるからな。』
『…。』
正太郎は悪魔の話を聞いても何も言わなかった。正確には何も言い返せなかった。言語化したことはなかったが、悪魔の発言は正太郎の本心を的確に言い当てていた。
正太郎は自他に意味を感じられず、楽しみも喜びも希薄な人間だが、周囲で笑う人々を見ると何とも言えない暗い気分になることがあった。それは不快感であり、嫌悪感であり、怒りであり、嘆きだった。今までは気付いていなかった、いや自分の醜さを無視してきたが、悪魔によって直視させられた。『自分が無意味に思っても本当に無意味かどうかは分からない』、そう思い他者を否定しないようにしてきたつもりだが、無意味なまま怠惰に生きる自分への苛立ち、無意味なことに気付かないまま漫然と生きる他者への嘲り、そんな他者が見せる笑顔への嫌悪が根底にあった。
『確かにそういう一面はあると思う。…情けないことだけどな。』
『まあそう言うな。嫉妬は醜いけど、お前には必要なものだ。嫉妬がないと他者と自分とを比較しない。だから自分で自分を評価して成長するしかない。でもそれには克己心が必要だし、目指す先も見えにくい。』
『…。』
正太郎は悪魔の話を神妙な顔で聞いていた。悪魔が正太郎の本心を言い当てた以上、話を軽視することはできなかった。そして、次の話題、「目指す先」が何なのかを聞かなければならなかった。
『お前も考えてる通り、次はお前が目指す先、つまり望みは何だって話になる。で、お前自身感じてるだろ?自分の中にある虚無を。知ってるだろ?何もかもに意味を見出せない自分を。そこが変わらないとお前は永遠に穴の開いたバケツみたいなもんだ。何をどれだけ入れても零れていって、何も残らない。』
流暢に話していた悪魔は一旦話を区切りもったいつけ、そして口を開けた。
『ここで悪魔は一旦話を区切りもったいつけ、そして口を開けた。
『さあ、お前の願いを教えてやろう。それは自分や周囲に意味があるのかどうかを見極めたい、だ。意味を知りたい、じゃなくてな。』
『…それは同じだろ?』
『いやいや。お前は全てに意味があるとは思ってない。だから最終的に何もかも無意味だって結論もありだと思ってる。意味があるなら肯定を、無意味なら否定を。いずれにも転がり得るのが連堂正太郎、お前ってことだ。』
『…。』
正太郎は悪魔の言葉を聞いて一人考えた。悪魔に願うほど強いかは分からないが、確かに自他に意味があるのかどうかは日々考えてきたことだ。今さらな気もするが、無意識に願ったとしても不思議ではない。今まで物事に意味あり、あるいは価値ありと思ったことはないが、この悪魔といれば新しい知見を得られるかもしれない。そう思うとわずかに気持ちが高揚した。しかし…。
『肯定はともかく、無意味だと判断したら全てを否定するなんて、とんだやばい奴だな、俺は。』
『くくく、俺を信じるのか?悪魔を。否定してもいいんだぞ?』
『しない。お前の話は心で納得できた。抵抗なく受け入れてしまったものを否定してもしょうがないだろ。…認めたくないところもあるけどな。』
正太郎は悪魔に素直に答えた。既に色々見抜かれている相手に虚勢を張っても無駄だと思ったからだ。すると悪魔は可笑しそうに声を出して笑い始めた。
『はははっ。それでいい。いや、それがいい。否定したいことも受け入れる度量は必要だ。今後何が起きるか分からないからな。』
『度量があるかはともかく、何だよ今後って。何が起きるんだ?』
正太郎は悪魔の言葉に引っかかりを感じて尋ねた。まるでこれから何か起きるかのような言い方だった。しかし、悪魔は正太郎の問いに首を振った。
『さあなあ。俺は未来視ができるわけじゃないからな。まあ楽しみに待とうぜ。お前はまずは目の前の問題を片付けないとな。』
『は?』
正太郎が聞き返すよりも早く、彼の意識は現実に戻っていった。
静かになった廊下で、ノアは座り込んだままで正太郎をじっと見ていた。正太郎は微動だにせずノアに背中を向けていた。ノアは迷うように何度か口を開け閉めした。話しかけた相手が自分の知る正太郎ではなかったらと思うと怖かった。しかし、それでも意を決して正太郎に話しかけた。
「正太郎、大丈夫…?」
「…。」
反応はなかった。ノアは湧き上がる不安を抑えつつ立ち上がった。もう一度、もう一度聞いてみよう。
「正太郎…!」
「…何だ?どうかしたのか?」
正太郎はノアの声に反応してゆっくり振り返った。その真面目そうだが陰気で気怠い様子はまさしくいつもの正太郎であり、先程三年生をぼろぼろにした時の気配は消え失せていた。
「…良かった…。」
ノアは緊張で息を止めていたらしい。正太郎の返事を聞くと大きく息を吐き、思わずしゃがみ込みそうになった。
「っと、大丈夫か?」
正太郎が咄嗟にノアを受け止めると、二人は自ずと見つめ合う形になった。ノアはまじまじと正太郎を見たが、正太郎はどこからどう見ても正太郎だった。
(本当に正太郎なんだ…。)
「うえぇん!正太郎、怖かったよう…!」
正太郎がいつも通りなことへの安心、男達に囲まれた時の恐怖と解放された安堵。ノアは色々な感情が一気に湧いて来て泣き出してしまった。受け止める正太郎は困り顔だ。
「おいおい。もう高校生なんだからそんなに泣くなよ。無事だったんだし。」
「だってぇ…。」
正太郎はぐじぐじと泣くノアをなだめつつ、ハンカチで涙を拭いてあげた。こういう時の正太郎は妙に紳士になるのだ。
「ほら、そろそろ午後の授業だ。いい加減泣き止まないと遅刻するぞ。」
「う、うん…。」
正太郎はぐずるノアになるべく優しく話しかけた。そのお陰かノアはようやく泣くのを止めて顔を上げた。
(目元は少し赤くなってるけど、これなら教室に戻ってもいい、か。)
「よし。じゃあ教室に戻るか。」
正太郎はノアの様子を確認してからその手を引いて歩き始めた。ノアは手を引かれたまま無言で正太郎の後ろを歩いていたが、その目はつながれた手を見つめていた。
「…正太郎。」
「何だ?ああ、速すぎたか?」
「違うよ。…小学校の時もこうやって助けてもらったなあって思って。」
手を引かれている内に完全に泣き止んだらしい。ノアは歩きながら穏やかに笑っていた。しかし、対する正太郎は怪訝な顔をした。
「小学校の時?…助けたことなんてあったか?」
「あったよ。私が見た目や服装でいじめられてた時。かばってくれたでしょ?」
「あんなのかばったに入らない。当たり前のことを言っただけだ。」
「当たり前じゃないよ。少なくとも私にとってはね。すごく嬉しかったんだよ。」
ノアはつないでいる正太郎の手を強く握った。正太郎の手は昔と同じように温かく、そして昔のようにノアを安心させた。…正太郎は好き嫌いの感情が薄いが、その分物事や人を公平・平等に見る。それに、本人は自身を優しいとは思っていないが、ただ冷血なだけの人間はいじめられている人を助けたりはしない。
「…だからね、正太郎。助けてくれてありがとう。」
「…どうも。」
正太郎は振り返ることなく答えた。若干の照れとわずかな不快感、そして罪悪感を抱えていた。
「…で、結局あれは何だったの?」
「…。」
ノアを助けて教室に戻り、授業が終わり、そして放課後。正太郎はオカルト研究会でノアと美琴から尋問を受けていた。
「怒ってたにしても、自分より大きい相手を片手で軽々と持ち上げるなんて変だよね?それに話し口調も変わってたし。」
「ああいう奴等が嫌いだからな。思わず力が出たんだ。」
自分でも苦しいとは思うものの、悪魔のことを話すのは躊躇われた。信じてもらえるか分からない上、いらぬ心配をかけたくなかった。しかし、正太郎の嘘を見抜けないノアではなかった。
「そんなばればれな嘘なんて吐いても駄目だからね。話してもらえるまで今日は帰さないから。」
正太郎は昼とは別人のように力強いノアをちらりと見て、心の中でため息を吐いた。泣いたり授業があったりでうやむやにできたと思ったが、全然誤魔化せていなかったようだ。
(どうしようか…。)
「ちょっといい?」
正太郎が困っていると、ノアの隣にいた美琴が話しかけてきた。美琴は先程まで母親のようなノアとお説教される正太郎をにやにやしながら見守っていた。しかし、正太郎がなかなか口を割らないので手を貸すことにした。
「連君、そろそろ話してもいいんじゃない?なんで隠そうとしてるのかは分からないけど、ノアちゃんに心配かけたいわけじゃないでしょ?」
「それは、まあ。」
むしろ心配かけたくないから話したくないのだが。
「ね?それに、黙っててこの場が収まると思う?巌モードのノアちゃんから逃げられる?」
「ミミ先輩、その言い方じゃあ私が悪者みたいなんですけど。」
「まあまあ。とにかく私もノアちゃんもちゃんと聞くから話してみなさいよ。私も部長として連君に起きた怪現象に興味あるから、ぜひ聞かせてほしいわ。」
「…正太郎、どう?」
美琴に続いたノアが心配そうな声を出した。…正太郎もそんな顔をされると弱かった。
「…分かったよ。そこまで言うなら話す。けど、信じられない話だと思うぞ。」
一言断っておいて、正太郎は今自分が置かれている状況を話し始めた。
「悪魔に…?」
「憑かれてる、か…。」
正太郎は以前の儀式で悪魔が呼び出され自分に取り憑いたこと、時に体を勝手に使うことがあり、今回は珍しく手助けしてくれた(みたい)だと説明した。話を聞いた女子二人は正太郎の話を疑うことなくあっさりと信じた。昼の出来事から正太郎が普通ではないことは確かで、加えて正太郎はこんなオカルトな話を嘘として話すはずがなかったからだ。しかし二人の反応はばらばらで、ノアは心配そうな顔を、美琴は研究者の顔をしていた。
正太郎の話が終わると、少し沈黙が流れた。まず何を言うべきか全員迷っていた。と思ったら、美琴が勢いよく立ち上がった。
「羨ましい!私も憑かれたい~!」
かつてない大声だった。まさに魂の叫び、というやつだった。
「部長、五月蝿いです。」
「だってだって~!」
正太郎が顔をしかめつつ抗議したが、美琴は駄々っ子のように腕を振り回した。
「こ~んなに悪魔に会いたい人がここにいるのに、なんで連君がそんな面白可笑しいことになるわけ⁉」
「そう言われても…。使った素材に『魂が込められた血がついた布』ってあったじゃないですか。あれが理由みたいです。」
「じゃ、じゃあ私がやれば私に悪魔が憑いてくれるってこと?よし、ならもう一回やりましょう、すぐ!」
「ええ…?」
正太郎は美琴のあまりに強い勢いにたじろいでしまった。しかし、それを制する一本の手があった。
「ミミ先輩、ちょっと待って下さい!そんなことより正太郎が大丈夫か確認する方が先です!」
ノアが片手を出して美琴を抑えると、美琴も正気を取り戻したらしくはっとした。
「そ、そうね、ちょっと興奮しすぎたわ。ごめんなさい。」
ノアは謝る美琴を目で確認しつつ、正太郎を心配そうに見つめた。
「正太郎、そんな変なものに取り憑かれて大丈夫なの?体を使われることがあったって。昼の時は自分の意志だったって言ったけど…。」
「話した限りではそんなに悪い奴じゃない、と思う。そもそも悪魔じゃなくて、高次元精神生命体だとか何とか言ってたぞ。」
「こ、高次元?」
ノアは訳が分からないという顔をした。難しい話は苦手なのだ。しかしノアの横で美琴は目を閉じてうんうんと頷いていた。
「あの儀式は別次元、いわば異世界とコンタクトを取る方法だったってことか。で、その住人が『悪魔』ってことね。私達が漫画を見るみたいなものかしら。ってことは、『悪魔』は存在そのものじゃなくてこの世界に投影された影みたいな…。」
「ちょっと、ミミ先輩?おーい!」
「え?ごめん、考え事をしてたわ。何?」
美琴は我に返りノアに聞き返した。ノアを見るその目はいつにも増して輝いていて、ノアは少し困った顔になった。
「ミミ先輩、本物の悪魔が出て来て興奮するのは分かりますけど、正太郎が大変なんですよ。今は正太郎のことを考えないと。」
「そ、そうね。ノアちゃんの言う通りね。」
美琴は咳ばらいをして場を切り替えると再び話し始めた。
「連君、その悪魔は悪魔憑きの副作用というか、デメリットについて何か言ってなかった?」
「いや、デメリットなんて考えたことがなかったので、聞いてないです。」
「悪魔に聞くことはできるの?」
「今すぐは無理ですけど、多分聞けます。」
「そこは聞いた方がいいわね。本当のことを教えてくれるかはともかく、聞いて損はないわ。それで何か分かったら私達に教えてね。」
「分かりました。」
美琴は正太郎の返事を聞き満足そうに頷いた。
少し話がまとまったところで、何故か少しくねくねしながら正太郎にきらきらした目を向けて言った。
「ち~な~み~に、なんだけど~。怪力以外に特殊能力なんてないの?」
「「は?」」
正太郎とノアは思わずぽかんとしてしまった。特殊能力、とはどういう意味だろうか。
「先輩、特殊能力って何ですか?」
「え、何って、その、色々あるじゃない?炎を出したり、電気を出したり、瞬間移動したり。そういうやつよ。」
美琴は少し照れたように笑いながらも子供っぽい、わくわくした様子だった。そしてノアはそんな美琴を眺めていたところ、突然声を上げた。
「分かりました!漫画でよくあるやつですよね?必殺技とかスキルとか、どれも似たような、コピー品みたいな力。」
「コピーって言わない!神話もそうだけど、人間の創造性には類似性が出るの!」
「す、すみません。」
「もう…。とにかく、異世界とか悪魔がいるなら魔法じみた力だってあるんじゃない?ねえねえ、どうなの?」
「と、言われても…。」
正太郎は美琴に迫られて困っていた。悪魔と話したことがあるとはいえ、まだ正太郎自身が手探り状態だった。デメリットは先に話した通り、そして特殊能力のことなど思いもしなかった。なので、美琴の期待には沿えそうになかった。さて、こういう時に何と言うべきか…。
「先輩、夢を見るのは止めましょう。」
「ひどくない⁉」
言葉の選択を間違えた正太郎だった。
その後も悪魔について色々と話した結果、次のような方針となった。
・今後調べること:
悪魔憑きについて
悪魔祓いの方法
・悪魔から聞くこと:
悪魔がいた世界はどんなものか
悪魔(精神生命体)とは何なのか
悪魔が憑いたメリット(特殊能力)
悪魔のデメリット
担当する仕事
美琴:魔術書を読んで調べる
ノア:美琴の補佐、正太郎の様子を観察
正太郎:悪魔と交流
※経過は毎週月曜日の部活で報告すること。
「隠し事はしない。得た情報は必ず報告して皆で相談。いい?」
「分かりました!」
「気をつけます。」
「なーに、その返事?連君、また黙ってるつもりじゃないでしょうね?」
「いや、そういうわけじゃ…。」
「本当~?」
「正太郎。ちゃんと報告するよね?…ね?」
「…はい。」
そんな話をして本日の部活は終わった。
『今日は随分楽しそうだったな。どうだ?無意味な部活動は。少しは虚無が埋まったか?』
『…早速お出ましか。』
正太郎は渋い顔をしながら呟いた。この一週間近く声をかけても眠っても無視だったのに、今日は昼といい大盤振る舞いだ。思わず皮肉っぽい言い方をした正太郎に悪魔は可笑しそうに笑った。
『何しろ昼間の話を聞いてたからな。聞いた以上は答えてやらないと不誠実だろ?』
『そう言うなら昼間に出て来て説明すれば良かったんじゃないか?』
『あの場じゃお前の体を奪ったと思われるだろ。せっかくこれから一緒にやっていくんだ。あえて嫌われる必要はない。』
『へえ…。』
目の前にいる存在はやはり悪魔というには理性的、友好的だった。思わず感心した正太郎だったが、聞くことがあったと思い出して気を引き締めた。
『出て来なかった理由は分かった。じゃあお前も聞いてたんなら教えてくれ。まずお前のいた世界はどんなもので、どうやって生きてたのか。お前が取り憑くことで俺にメリット、デメリットがあるのか。そのあたりを説明してくれ。』
『ああ、いいぞ。俺が分かる範囲で教えてやるよ。』
悪魔は拍子抜けするほどあっさり同意した。そのため、正太郎も少し驚いてしまった。
『…いいのか?』
『ああ。隠しても意味がないからな。』
悪魔はそこで一回軽く咳ばらいをした。どうやらそれなりに長い話をするつもりらしい。正太郎も少し居住まいを正した。
『まずは俺のいた世界か。俺のいた世界は六次元、三次元に三つ軸が追加された世界だ。ただ、三次元のお前じゃ想像も理解も及ばない世界だから、詳しい説明は無理だ。』
『何かないのか?過去や未来の自分が見えるとか、自分の背中が見えるとか。』
『そういう分かりやすい説明ができればいいんだけどな。でも俺の生態を話すには次元軸の話が必要だから難し過ぎる。残念だけどそういうもんだと思ってくれ。』
『そうか…。』
正太郎はやや納得しきれない顔をしながらも頷いた。説明を聞いてみたい気もしたが、六次元について詳しく説明されても分からないだろう。悪魔は正太郎を可笑しそうに見ながら話を続けた。
『次は俺がどう生きていたか、だな。元の世界では何もしてなかった。ただ生きて世界を見るだけだった。』
『…それだけ?それで終わり?』
『ああ。』
悪魔は正太郎の顔でけろっとしていたが、正太郎は戸惑い、というか呆れ顔だった。
『いやいや、もう少し説明してくれよ。何を食べてたとか、仲間がいたとか、趣味がどうだとか。』
悪魔は正太郎の指摘に一瞬ぽかんとしたが、すぐにくつくつと笑い始めた。
『悪い悪い。確かに説明不足だな。お前が呆れるはずだ。』
『いやまあ、そう強くは言わないけどな…。』
『くくっ。詳しく言うとな、精神生命体に食事の必要はない。生物の精神活動から自然にエネルギーを得ているんだ。で、体がないから睡眠も生殖もしない。自然発生して、意識があっても何もせず、他と交流せず、個で完結した存在。それが精神生命体だ。』
『…そうか。』
正太郎は顎に手を当てて唸った。悪魔の生態を聞いたが、恐ろしく淡白な存在のようだ。美琴が聞いたらつまらないと文句を言うこと間違いなしだ。しかし、正太郎的には何の趣味も持たずただ生きているだけの自分と通じるところがあり、不思議な親近感を感じていた。そして、だからこそ聞きたい質問があった。
『なあ、お前は生きていて楽しいとか有意義だなんて思ったり、自分の意味を考えたりはしなかったのか?』
『楽しいとも退屈とも思ったことはない。そこに在りただ見続けるモノが俺だからな。で、そんな俺に意味なんてあるはずがない。俺から見れば全ては無意味だ。せいぜい価値があると自他を騙すのが関の山だ。』
『…お前はそんな風に思うんだな。』
俺の顔で全ては無意味だと断じるのか…。
『そんな顔をするなって。今のは俺だけの意見。お前の答えはお前が見つけろよ。そのために俺が呼ばれたんだからな。…よし、じゃあこの流れで俺がお前に与える影響を教えてやるか。』
『ああ、頼む。』
正太郎は素直に頷いた。若干気落ちしてしまったが、悪魔のフォローで少し持ち直した。
『了解。まず俺がいると性能が上がる。俺は精神を司るものだから、高速で思考する、限界以上の力を出すとかな。』
『そうか、だから昼間にあんなことができたんだな。』
『そういうことだ。他にも力はあるけど、それはいずれでいい。そっちよりも問題点の方が大事だ。』
『問題点?』
正太郎は悪魔の言葉に少し不穏なものを感じて思わず聞き返した。悪魔は一度頷いた。
『俺と共にいると、お互いの知識や記憶が混ざり始める。それに、精神が相手の精神の影響を受ける。具体的には性格や嗜好に変化が起きる。』
『自分の体の中にいるんだから、それくらいはありそうだな。?もしかしてそれだけなのか?』
『いや、まだだ。最終的に精神は完全に混ざり合い、最後はお前か俺か、あるいはどちらでもない何かが残る。』
悪魔はごく当たり前のことのように話したが、その内容は普通ではなかった。しかし、正太郎は冷静に思考を巡らせていた。
『…精神的に死ぬかもしれないってことか。ああ、だから悪魔って呼ばれるようになったんだな。』
『そういうことだ。俺は自分の意識が消えても問題ないんだけどな。如何せん人間と俺達じゃ精神のスケールが違いすぎて、大抵は人間が喰われることになる。…どうだ?怖いだとか、悪魔祓いをする気になったか?』
悪魔はにやりと笑いながら正太郎に尋ねた。その意地が悪い笑みはいかにも悪魔然としていたが、正太郎は全く動じることなく首を左右に振った。
『いや、別に。怖がったところでどうにもならないんだろ。それに、お前が意図して起こすわけじゃない。しかも、もし消えるとしても俺だけだ。だから怖くないし、お前を祓おうなんて思わない。』
本心からの言葉だった。正直、今の自分なら今この瞬間に消えても問題なかった。そして、悪魔としてはその答えは予想通り、そして面白くないものだった。
『そうか。俺としては仲良くやっていきたいから助かる。…んだが、自分が消える可能性に恐怖がない、というのは面白くない。それは自分に意味がないと感じてるせいだからな。今後はその認識も変わる。いや、変えてもらう。』
『…ああ。それが俺の望みだ。』
正太郎は小さく頷いた。口調も落ち着いて者だったが、目はまるで暖炉の火のようだ。悪魔は正太郎の視線を正面から受け止め、満足そうに笑った。
『それでいい。あのクソ共との出来事すら、お前の人生に置かれた変革の機会だ。もちろんこれから起きることも、だ。そして、俺はお前の願いが叶うように動く。というわけで、これからよろしくな。』
『…ああ、よろしく。』
悪魔が爽やかに手を伸ばしてきたので、正太郎はその手を取った。やはり悪魔は悪意ある存在ではなかった。しかし、自分と同じ顔で笑ったり爽やかだったりされるのは永遠に慣れそうにないと思った。
一方、悪魔は純粋に今後が楽しみだった。今後何が起き、どうなっていくのか。敢えては言わなかったが、正太郎は既に変化が始まっている。感情が揺れやすくなり、表に出やすくなった。異常にすんなり適応し、悪魔の力も己の意志で使った。そして、悪魔自身も正太郎の精神から影響を受けていた。今後、正太郎の心を喰うのか、それとも正太郎に喰われるのか、はたまた共倒れするのか。完成しているが故に不満も満足もなかった悪魔にとってはどんな結末も面白いものだった。
(楽しんで、楽しませてくれよ、正太郎。)
悪魔は闇の中でほくそ笑むのだった。
正太郎は悪魔をすぐに受け入れたが、周囲も正太郎と同じ、とはいかなかった。正太郎が悪魔から聞いた話を説明すると、美琴は、
『異次元(異世界)の存在が正太郎の代わりに生きることは危険がある可能性がある。』
との意見を出し、ノアは、
『正太郎が精神的にでも死ぬなんて。』
と、悪魔と共存することに猛反対した。悪魔祓いの方法はまだ分かっていないために動きはなかったが、今後悪魔を祓う方法が見つかれば荒れるかもしれない。そんな不安定さは残りながらも正太郎は悪魔と共存していた。
正太郎が悪魔憑きとなって一ヶ月以上経ったが、特に正太郎にも状況にも大きな変化はなかった。悪魔は本当に普段表に出て来ることはなく、夢に出て来ることすら稀だった。正太郎が話しかけても基本的に反応はなく、あってもわずかに返事をする程度だった。しかし、何故か不意に話しかけて来ることもあった。例えば、こんな感じに。
『…正太郎、起きろ、正太郎。』
『…ん…。』
正太郎は誰かに話しかけられて目を覚ました。そして、ふと気付くと私服を着て歓楽街にいた。
『…夢か。』
『待て待て待て。せっかく起こしたんだから話くらい聞いてもいいだろ?』
『はあ…。』
正太郎は色々面倒臭くなり寝直そうとしたが、悪魔に止められて渋々意識を起こした。
『どうせ俺が寝てる間に遊んでたんだろ。俺のことは気にせず好きにしたらいいぞ。』
しっかり話して以来、時々朝起きると服を着ていたり電子マネーの金額が減っていたりしたので、悪魔が深夜出歩いていることは分かっていた。
『いや、確かにお前の言う通り遊んでたんだけどな。今日は違うんだよ、今日は。』
『何が違うんだ?』
『正太郎は夜遊びなんてしないだろ?試しに全く知らない、クソどうでもいい世界を見てみるのも一興じゃないか?』
『…つまり、俺にお供をしろってことか?』
『そんな感じだな。悪魔の夜遊び見学ツアー、名付けるならこんなところだ。』
『…分かった。じゃあ後ろから見学させてもらう。』
正太郎は最初の態度の割にすんなり同意した。夜遊び自体に興味はないが、悪魔が自分の体を使って何をしているのかは気になっていたのだ。そして、正太郎からいい返事をもらった悪魔はとても満足そうだった。
「よしよし。それなら早速行くとしますか!」
悪魔が大きな声を出すと、周囲の人々は何事かと怪訝な目で正太郎を見たのだった。
こうして正太郎の体は正太郎の意志とは関係なく声を上げ、歓楽街を歩き始めた。正太郎…いや悪魔は特に目的はないらしく、以前夢の形で見たように人や建物を眺めつつふらふらと歩き続けていた。
『なあ、遊ばないのか?』
「ん?何だ?」
悪魔がゲームセンターの台を一つ一つ眺めていると、正太郎が悪魔に声をかけた。財布を持っているのにどうして何もしないのか不思議だった。せっかく夜遊びに出て来たのなら「悪魔」らしい行動をすればいいのに、と。
『ゲームだよ。しないのか?』
「ああ、それな。いいんだ、別にゲームをしたくて見てるんじゃないんだ。」
『じゃあ何で?』
正太郎に尋ねられた悪魔はふふふ、と思わせぶりに笑った。
「俺は精神生命体だろ?だから精神に関係したことに興味を持つんだよ。要は俺自身よりも他人に興味があるってことだな。」
『そういうことか…。って、今気づいたんだけど何で声を出してるんだ?変な奴に見られるぞ。』
「今更だな。周りに人がいるわけじゃないからいいだろ。いたとしても俺達とは縁もゆかりもない奴だけだ。見られても放っておけばいい。」
『知らない奴に変人扱いされるのは御免だぞ…。』
「そんなもんか?でも他人の視線が気になるってことは他人に一種の意味を感じてるってことでもある。いいことだ。」
『はあ…。』
悪魔は正太郎がつっこみを入れても相変わらず普通に声に出して返事をした。正太郎はマイペースな悪魔の様子にため息を吐きつつも、悪魔の言い分を受け入れていた。自分の感覚も悪魔の感覚も、どちらも間違いではなく正しい、あっていいものだ。せっかく一つの体に二人の心があるのだから、違いを比べて考察するくらいがちょうどいい。
「おっ。あっちが騒がしいぞ。面白そうだから行ってみるか。」
そして、悪魔は何か感じ取ったのか、にやりと笑って小走りに移動を始めた。
『…分かった。でも暴れないようにな。』
「りょーかい!」
正太郎は苦笑しながら悪魔についていくのだった(実際は強制的に連れていかれているのだが)。
正太郎の体を使う悪魔が歩いていくと、そこはクラブだった。深夜にも関わらずちょっとした人だかりができていた。早速近くの若者に尋ねてみた。
「ちょっといいか?何があったんだ?」
「あ?何って、ただの喧嘩だよ。よくあるだろ、これくらい。邪魔だし空気が悪くなるから余所でやってほしいよな。」
「でも見てる分にはちょっと面白いじゃん?火事と喧嘩は江戸の華、みたいな。」
「そうかあ?」
「へえ…。」
悪魔が騒動の中心を見ると、なるほど確かに二人の若者がお互い体を拘束されつつも睨みあっていた。どちらも20台前半くらいの男性で、服の乱れ、打撲痕が見られることから少しやりあった後のようだ。状況を理解した悪魔は穏やかな笑みを浮かべながら中心に歩いていった。
その時、抑えられていた若者の一方が腕を振り払って相手に飛び掛かった。
「この野郎っ!」
「おっと、待て待て。」
悪魔は殴ろうとした男の目の前にふらりと出ると、微笑を浮かべながら楽々と男の拳を掴み制止した。いきなり出て来た未成年に周囲はどよめき、拳をあっさり止められた男も驚いていた。
「な、何だ、お前?」
「俺はまあ、どうでもいい奴ってことで。それより、せっかく楽しくやってるんだから喧嘩なんて止めましょうよ。それでもやるっていうなら止めませんけど、ね。」
悪魔は喧嘩の当事者達に話しかけつつ、拳を掴む手にじわじわと力をかけた。また、その顔は笑っていたが、言い知れない迫力があった。
「うっ…。」
「そ、そうだな。警察沙汰になってもよくないよな。」
男達は悪魔の迫力に気圧され冷静になり、喧嘩を止めた。それぞれが違う方向に去っていき、囲んでいた人々も散っていった。
『なあ、なんで喧嘩の仲裁なんてしたんだ?』
『ここで暴れられるとみんな逃げるだろ?それじゃつまらないからな。もしかして嫌だったか?』
『いや。お前は喧嘩を止めただけだから大丈夫だ。単純に悪魔なのに和を尊ぶんだな、と思って。』
『くくっ、そうだな。結果的にはな。』
さすがに周囲に人が多いからか、悪魔も声を出さずに正太郎と話をした。
正太郎は答えを聞いても悪魔に感心していた。他人なんて生死すらどうでもいい存在なのだから、無視で問題ないはずだ。しかし、悪魔は自分の利益があるとはいえ男達に関わった。
(俺よりこいつの方がよっぽど人間だな。)
「ねえねえ、ちょっといい?」
正太郎がぼんやり考えていると、いつの間にか悪魔は男女数人に囲まれていた。正太郎なら戸惑っただろうが、悪魔は落ち着いた笑顔で対応した。
「何だ?」
「すごいじゃん、さっきのバシッ!ってやつ。空手とかやってるの?」
「いや?元々強いだけだ。」
「おお、言うじゃん。」
「あはは、すっごい自信。ね、こっちで一緒に飲まない?」
「ああ、喜んで。」
悪魔は躊躇いなく頷き男女についていった。しかし、それに戸惑ったのは正太郎だ。
『いいのか?未成年だとばれたら…。』
『大丈夫だって。面倒になれば逃げればいいだけだ。精々一期一会を楽しもうぜ。』
『おいおい…。』
悪魔は楽観的だが、正太郎は慎重派だ。自分の体を好き勝手使われても不満は全くないが、さすがに警察の厄介になってしまうと面倒だ。正太郎としては悪魔の行動を止めたかったが、今体の主導権は悪魔にある。また、悪魔なら何があっても何とかするだろうとも思っていた。結局、正太郎は少々心配ながらも悪魔を見守ることしかできなかった。
それから、悪魔は正太郎をお供に遊びを続けた。話しかけられた男女と飲み交わし、さらに他人に話しかけ、そこで偶然会った女性と親しくなり、そのままホテルに、とまさに好き勝手の限りを尽くした。そして、今は女性の睡眠中にホテルから出て来たところだ。
『置いていって良かったのか?』
「ああ。よく寝てたし、そもそもお互い遊びだからな。」
『遊び、ねえ…。』
悪魔は笑いながら答えたが、正太郎は何とも言えない声で唸った。男女の関係に明るくない正太郎にはよく分からなかった。
『遊びの感覚は分からないけど、出会った当日にベッドインするのはなかなかないんじゃないか?』
「そうだろうな。ただ俺も狙ったんじゃないぞ。たまたまそんな流れになったんだ。それより、どうだった?悪くなかっただろ?」
『ん?そうだな…。』
正太郎は難しい顔で悪魔の行為を振り返った。
性行為、生殖行動、あるいはセックス。一般論としては愛情を伴う行為であり、恋人、夫婦が行うものだ。一方、今回は初対面の相手であり愛情というほどのものはなく、避妊もしていた。そのため快楽を目的とした趣味的なものだったと理解している。正太郎が自らしたわけではないが、悪魔とは感覚が共有されているらしく、行為一連の快感・性的興奮はあった。正太郎は元々性的なことに興味がなかったが、これで不能ではないことは分かった。しかし、よかったかと言われると疑問だった。
しばらく考えた正太郎は、考察を続けながら静かに話し始めた。
『確かに気持ち良くはあった。興奮もした。ただ、それだけだな。よかったとか、またしたいとかは思わない。』
「やっぱりそうか。これでセックス大好きになってくれれば人生楽なんだが、そうはいかないよな。」
『…悪いな、こんな奴で。』
悪魔は自由に正太郎の体を使っているが、同時に正太郎のこともきちんと考えてくれている。そのため、正太郎は少し申し訳なく思った。しかし、悪魔は正太郎の思いを感じ取り、笑い飛ばした。
「ははっ!悪魔に謝ってどうすんだ。勝手に体を使われて、セックスまでされてるんだぞ?」
『それは、まあ、そうなんだけどな…。』
悪魔の言う通りだが、正太郎は責める気は全くなかった。所詮自分の体なので、何があったとしても大きな問題ではない。相手ともちゃんと話をして対処をしていたので、誰かに迷惑をかけているでもない。結論、自分の体で良ければ自由に使えばいいと思っていた。そして、そんなことよりもふと思いついたことがあった。
『お前はどうなんだ?ああいうことが好きなのか?』
「俺か?嫌いじゃないが、所詮セックスは体の快楽であって精神活動じゃないからな。どこまでいっても遊び止まりだ。」
悪魔は正太郎の疑問に少し鼻で笑うように答えた。それが正太郎には少し意外だった。いくら正太郎に見せる目的があったとはいえ、悪魔にとっても性行為に意味が、楽しみがあるのだろうと思っていた。しかし、実際は予想よりはるかに淡白な反応だった。そして、悪魔の反応にわずかに親近感を覚えた。
『そんな感じか。ってことは、俺と少し似てる、のか?』
「いや、違う。お前は俺のようなモノとは別だ。」
『え…?』
悪魔が突然はっきりと否定してきたので、正太郎は少し驚いた。一瞬否定的な意味で違うと言われたかと思ったが、悪魔は力強くも穏やかな様子であり、どうやら違うようだ。
「いいか、正太郎。お前はあらゆるものに意味を見出せない。だから何もかもつまらない、価値がないと思う。一方で、意味があってほしいと願っている。…俺は違う。俺は全てのものは無意味だと確信してる。個々が勝手に価値を盲信していると理解してる。だから、他を軽んじはしないが敬意も持たない。分かるか?確かに俺もお前も物事を無意味だと思ってるが、その実中身は別物だ。お前は理解を深めた上で見極めなきゃならない。…その上で俺と同じ意見になるのはありだけど、俺としてはなしだ。それじゃ願いが叶ったとはとても言えないんでな。」
『…。』
正太郎は悪魔の話を黙って聞いていた。色々思うこと、考えることはあったが、とりあえず言いたいことは一つだった。
『…お前、やっぱり悪魔じゃないよな。』
「くくっ。お前の心を喰う化け物かもしれないぞ?」
『それでも、だ。いい奴、とまでは言わないけど、悪人じゃない。』
「そうかそうか。お前がそう言うならそうかもしれないな。」
はっはっはと笑う悪魔。落ち着いた正太郎。悪くない組み合わせだった。
『…なあ、前から思ってたんだけど、お前に名前はないのか?』
「ないぞ。名前ってのは他者の存在あってこそだ。個で完結する精神生命体には必要ないものなんだよ。」
『じゃあ、俺が名付けてやろうか?俺の体にいる間ずっと名無しじゃ面倒だろ?』
正太郎はごく自然に提案していた。悪魔は正太郎の提案に少し考え込み、答えた。
「俺としてはどっちでもいいけど…。まあ、お願いするか。」
『ああ。………なら、シンはどうだ?精神のシンと心のシンから取ったみた。』
正太郎は比較的すぐに考えがまとまった。…もしかしたら、前からぼんやりと考えていたのかもしれない。
「シン、シンか…。悪くない、ああ、悪くないな。よし、今日から俺は『シン』だ。よろしく、正太郎。」
『ああ。よろしく、シン。』
そうして二人は初めて名前を呼んで挨拶を交わしたのだった。




