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第五章 白虎の章――紅葉疾る言霊

今回は秋。紅葉の美しさにうっとり……のはずが、やっぱり一筋縄ではいきません。

 秋の風は、刃のように冴えていた。

 山寺への参道は、紅と金に燃える楓が覆い、足もとには落葉が絨毯のように敷き詰められている。香は金木犀、そこへ焚かれた香木がほのと混ざり、甘いのに凛とした気配を纏わせる。


「姫様、足もとはお危のうございます」

 籠から降りる私の手を持ち桐子が袖を取り、梅枝が前を掃くように落葉を払う。

「御身は宝、転んだら一大事!」

「……梅枝、声が大きゅうございます」

「だって本当に危ないのですもの!」


 私は苦笑しつつ、結い上げた髪を指で確かめた。秋の席に合わせた直衣は、薄藤を基調に、裾へ向かって銀の刺繍が霜のように降りている。香は控えめな白檀に、すこしだけ金木犀を。——「映え」より「近づいたときに残る」香りを選ぶのは、ここで覚えた流儀だ。


 山寺での法会は、帝と東宮の快癒祈願も兼ねる、と聞いた。噂はすでに都を満たし、——「病ではなく呪い」「誰かが東宮を退けたいのだ」と人々は囁く。

 太政大臣家のニノ姫、朱理姫の名も、しばしばその尾に現れる。第二皇子の御台であり、懐妊の噂。彼女を正妃の座へ、それにはまず第二皇子を東宮へ——そんな世論を煽る声すらあるのだという。


(……だから、確かめに来た。言葉で。歌で)


 山寺の境内は紅葉に包まれ、僧たちが静かに経を誦している。境内の片隅では和歌会が開かれていた。題は「秋の風」。

 そこへ、紅の唐衣を重ねた女房たちが波のように道を開ける。朱がひときわ濃い。椿の花弁のごとき艶。目を引くのは、朱の単衣に金糸で波を刺した上着——秋にもかかわらず、燃える季節をその身に纏ったようだった。


「……朱理姫」

 桐子が息を潜め、梅枝が眉を吊り上げる。

「太政大臣家のニノ姫、朱理姫様にございます。第二皇子の御台、今は御身ごもりの噂も」

「しかも近頃は——“第二皇子こそ東宮にふさわしい”など、物騒な囁きまで」

「梅枝」桐子が制す。「軽々しく……」


 朱理姫は、ふと視線をこちらへ流した。まっすぐではない。けれど、見ている。朱の唇が微かに笑う。

それはまるで冷たい氷月のよう。美しいが、触れたら割れそうなほどな繊細さが見て取れる。


 先に席へ通されたのは、姫君達の身分順。私は最後に御簾の陰に控え、歌会の流れを待つ。やがて、女房が題を示す。「秋風」「紅葉」「もののあはれ」。

 朱理姫が先に立ち、張りのある声で詠む。


 深山木みやまぎの 色もをさまる 秋の空

  わが身にさやぐ 風のすさまじ


 見事な調べだ。紅葉の色合いを自身に映し、吹きすさぶ風の冷たさを「世の声」に重ねる——「私は揺るがぬ」という宣明。周囲から感嘆の吐息が洩れる。


(うん……強い。綺麗。敵にしたらまずいタイプ)

 胸の底で苦く笑っていたとき、梅枝が袖を引く。

「姫様……こちらを」

 渡されたのは、薄紫の巻紙。墨跡新し。和歌が一首、したためてある。


 をちこちに 紅の雲の たなびけば

  想ひは同じ 秋の夜の色


 差出人は記されていない。けれど、紙端に淡く薫るのは……(白檀に、ごく微かな梅——朝……いや、違う。これは)

 胸がざわつく。封の折り方は御所の式次第に近い。——だが、どこか雑。

(東宮様の手よりは、粗い。似せて書いた……?)

 恐る恐る、もう一枚を開く。今度は私宛の呼び名が、あえて「紫の姫」とぼやかされていた。

(偽の和歌……誰かが、私と“誰か”の縁を誤解させるつもり?)


 桐子が心配そうに覗きこむ。「姫様、どうかなされましたか」

「ううん、大丈夫」私は巻紙を袖に滑らせた。(こんな時こそ、“本当の言葉”。飾らず、届く言葉を)


 女房の声。「紫乃様」

 足が自然と前へ出る。風の色は冷たく、紅葉の匂いは甘い。秋は、全部を静かに燃やしていく季節だ。


「——山おろし 落つる紅葉の 行く末は

  君へと運ぶ 風と知るらむ」


 声が出た瞬間、周囲の空気が一拍、静まった。

 風——「承認」を運ぶ“数字の風”ではなく、たった一人に、届くための風。

 頬が熱くなる。けれど、その熱は恥ではない。届いて、ほしい。


 僧の鈴がちり、と鳴り、遠くの空が急に曇った。

 山の稜線の向こうから、黒い鴉の群れがきしむような声を上げ、境内を覆う。落葉が逆巻き、篝火が大きく揺れた。


「下がれ」

 冷たい声が、風を割る。——朝嵐だ。黒衣の裾を払って印を切ると、石畳を縫うように銀の線が走り、四方を囲む結界が立ち上がる。


 鴉の影は人の形にほどけ、おもてをかぶった童のような鬼へと変わった。面の穴からのぞく目は赤く、口は墨で塗りつぶしたみたいに黒い。

「う、うそ。子どもの形……?」

「姫様、目を合わせてはなりませぬ!」桐子が震える声で袖を引く。


 鬼の唇がゆがみ、囁いた。「——オモイ、クレ。ホメコロセ。ハナセ」

 背筋が凍る。(承認……欲求……?)


 朝嵐が袖から符を払う。「西は秋、金の息——」

 言葉を言い切る前に、鬼たちの影が集まり、一匹の巨大な影へと束ねられた。茨のように尖った尾、風そのものを噛む牙。

 篝火が一斉に吹き消され、境内は紅葉の闇に沈む。


 私は一歩、前へ出た。

(逃げてるだけじゃ、終わらない)

 袖の中で、偽の和歌がからりと鳴る。私はそれを懐から出し、結び目を引きちぎった。

「借りものの言葉じゃ、誰にも届かない」


 胸の奥に、月が灯る感覚。喉が熱い。

 私は、はっきりと言葉を選んだ。


「——散り敷きて 色は移ろふ 紅葉もみじなれ

  我が言の葉は 君にこそ咲け」


 紙片のような光が唇から生まれ、ひゅ、と風に乗って舞い上がる。落葉が一斉に閃き、銀の筋を描いた。

 朝嵐の声が重なる。「白き路を、切り拓け——白虎、せよ!」


 堂の屋根を蹴るように、銀の影が飛ぶ。

 白いたてがみが風を裂き、瞳は琥珀、爪は月鋼。紅葉を疾走する銀の虎——白虎が、結界の内をひと刈りで駆け抜けた。

 鬼の影が切り裂かれ、黒い埃のように崩れていく。

 私はさらに踏み込んだ。

(届いて、お願い。私の——言葉)


「 秋風に 散るや紅葉の 惜しけれど

   移るは色のみ 真は変はらじ 」


 白虎の鬣が、言葉の光をひと刷毛の筆のようにすくい上げ、鬼の胸を斜めに断つ。

 面が割れ、中から現れたのは——泣いている童の顔。

 「ミテ、ホメテ、アイシテ」

 その声は、あまりに小さくて、痛い。


「……ごめん。もう、盛った“すごいね”じゃなくて」

 私は膝をつき、掌を合わせた。

「あなたのことを、ちゃんと見る。届くように、言う」


 光がふっと落ち着き、鬼は灰のかけらにほどけて消えた。

 白虎は一声も上げない。ただ、境内の隅でくるりと尾を翻し、落葉の山へ身を沈めると、銀砂のようにほどけた。


 ざわめきが戻る。僧たちの読経が、風で揺れる紅葉の葉裏にやわらかく反射する。

 朝嵐がこちらへ来る。

「よくやった」

 氷みたいな声なのに、不思議と温かい。

「借りものの歌は、呪いを肥やす。今、そなたは自分の言葉で断ち切った」


 私は息を吐いた。喉がひりつく。(……怖かった。でも、言えた)


「——紫乃」

 振り向くと、そこに立っていたのは陽仁だった。狩衣は秋の夜気を含んで、月の色に淡く光っている。足もとには落葉。香りは雅で、けれど微かに弱い。

「ご無事で……?」

 彼は頷き、そっと私の肩に手を置く。指の温度は驚くほど低い。

「いつも無茶をするなと申してあるのに…だがまたそなたの歌で、風が澄んだ。感謝する。そして、私の心まで清められた……もはやそなたなしの私ではいられぬ」


 胸が痛いほど熱くなる。(ずるい。そんな言い方、反則だよ)


 そのとき、朱の影がわたしたちの間へ滑り込んだ。

 朱理姫だ。紅葉の下、朱の衣は篝火のように鮮烈で、瞳は鋭い光を秘めている。

「さすがは……右大臣家の一ノ姫。見事な御歌でしたわ」

 称賛めいた声音。けれど、笑っていない。

「ただ……“誰に向けたお言葉”か、少し気懸かりでして」


 女房が一歩進み出て、巻紙を掲げた。——私の袖から消えた、あの偽和歌。

 いつの間に。

「秋の夜に想いは同じ、ですって。都では大層、噂になっておりますのよ。紫乃姫様と、どなたか“やんごとなき御方”の、心密かなるやりとりが」

 朱理姫の紅い唇が、月の下で冷たく笑む。

「帝も東宮もお弱りの折。火種は少ない方がよろしいでしょう?」


 ——罠だ。私が否定すれば、「図星だから慌てた」と囁かれる。肯定すれば、それはそれで炎上案件。

 喉がからんと鳴る。陽仁は静かに目を伏せ、朝嵐は表情を動かさない。(助け舟は、来ない)


 私は、吸い込んだ息を、言葉に変えた。

「その御歌に、私の筆致はございません」

 まず、事実を。

「そして——今、ここで詠んだ歌は、誰にでもなく。“届くべき相手”に届くように、祈って詠みました」

 視線を逸らさず、朱理姫を見る。

「噂のための歌は、詠みません」


 朱理姫の瞳が、わずかに揺れる。

 彼女は腹の底で怒っている。けれど、その怒りは純粋な敵意だけではない。苛立ち、焦り、恐れ。——そして、孤独。

 彼女の手が無意識に腹へ触れ、ほんの一瞬、朱を帯びた瞳が柔らいだ。

(……赤子。守らなきゃ、と思ってる)


「御身、お冷やしになりませぬよう」私は一歩下がり、浅く頭を下げた。

「どうか、御身体を第一に」


 朱理姫の睫毛が、ひときわゆっくりと瞬いた。

 その刹那、空の月が薄雲に隠れ、境内の光がいくらか褪せる。陽仁の輪郭が、微かに霞んだ。

「……また月が」

 思わずつぶやいた私に、陽仁が小さく微笑む。

「月が戻れば、また会える」

 あまりにも穏やかで、だからこそ胸に刺さる声。次の瞬間、彼の姿は紅葉の影と同化するように淡く消えた。


 風が吹き、紅葉が一斉に鳴る。

 朝嵐が低く囁いた。「——見たろう、噂は刃だ。偽りの歌は、呪いの鞘にもなる」

「うん。だからこそ……本当の言葉を、選ぶ」

 私は袖を握りしめ、山の冷たさを肺いっぱいに吸い込んだ。

(飾りを脱いだ歌で、守る。彼を。私を。誰かを)


 白虎の足跡は、もう見えない。ただ、落葉の上に、かすかな銀砂の煌めきだけが残っていた。

 それが夜風に運ばれて、どこまでも遠くへ散っていくのを、私は見送った。


 ——秋は、終わりへ向かう季節だ。

 けれど、その終わりははじまりの形をしている。

 紅葉が枯れて土になるように、私の言葉も、誰かの心に根を張れるのだろうか。


 山道は来るときよりも暗かった。

 それでも、紅葉は美しく心も思いのほか軽い。

 偽の歌は袖から消え、代わりに胸の奥に、確かな“言霊ことだま”の根が宿っていた。

お読みいただきありがとうございます!

秋といえば芸術の季節、ということで和歌がたっぷり登場しました。

紫乃も少しずつ“姫らしさ”に目覚めてきた……かも?

次回は冬編、ますます波乱の予感です。お楽しみに!

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