第四章 朱雀の章――炎の祭りに舞う翼
夏の都はお祭りムード! けれど私にとっては遊びじゃなくて……呪いの気配を追うためのお忍び参加。
でも、そこに待っていたのは炎と――思わぬ胸キュンで!?
夏の都は、熱を持っていた。
通りという通りに高い松明が掲げられ、朱の幟がひらめく。太鼓は腹に響き、笛は夜気を切り裂く。露店の羅列からは甘い蜜の香、焼いた餅の匂い、どこかで焚かれた香木の気配まで混じり合い、空は低く、月は薄絹をまとったように朧だ。
——今宵は火華祭。炎を鎮め、無病息災を祈る夏の大祭。
私は女官の狩衣もどきに着替え、顔の半分を薄紗で隠し、桐子と梅枝を連れて人の海に紛れた。胸のどこかで太鼓が鳴っている気がするのは、きっと自分の鼓動のせい。
「姫様……春の花宴の後は、紫乃姫様と東宮様のご縁談で持ちきりでしたのに」
桐子が簾越しに囁くような小声で言う。
「けれど近ごろ、“東宮様のご体調がまた……”“病ではなく呪いでは”と、宮中でささやかれております」
私は唇を強く結んだ。
(だから来た。——噂の源を、この目で確かめる)
帝も、陽仁様も、ただの病ではない。朝嵐が囁いた「呪」の言葉が耳の奥で冷たく反芻される。
「姫様、やはりお戻りを……」
「そうですそうです! 万が一見咎められたら——」
「大丈夫、見つからない。私、地味コーデ得意だから」
(いや、藤色に銀糸の刺繍入り“地味”って何……自分で心のツッコミが止まらないけども!)
そう軽口を叩いた矢先だった。
太鼓の音が、かすれた。
松明の炎が、しゅう、と細くなる。
次の瞬間、夜空の端を黒が食む。炭の蛇のような影が幾条も、うねりながら集まって来る。
「きゃあっ!」
子を抱く母の悲鳴。小さな袖に火が移ろうとしていた。
「危ない!」
気づいたら体が先に動いていた。私は人混みを押し分けて飛び込み、子をすくうように抱きかかえる。
熱が背を舐め、裾に火が走った。
(ちょ、リアルに燃え——!)
その刹那、強い腕が私の肩をさらう。ぐい、と胸の前に引き寄せられ、ふわりと高貴な香りに包まれた。青磁の壺に焚いた上等の香木に、柑の花のようなほのかな明るさが混じる——「誰でもない」はずの香りなのに、心の底が懐かしくなる魔法の香。
「大丈夫ですか、紫乃姫。あなたは——無茶をしすぎる。……私の腕の中にいなさい」
低く澄んだ響きが、耳の奥のやわらかいところを鳴らす。
顔を上げた。月の薄衣がその横顔を撫で、睫に白い線を描く。細身で高い背、凛とした立ち姿、清らかなのにどこか儚げな影。
「と、東宮様……!」
「——陽仁、と呼んでほしい」
あっさり世界が反転する一言。
(名前で……? いやそれ、反則……! 呼んだら沼るやつ!)
けれど沼っている暇はなかった。黒い影がさらに膨れ、蛇腹のような口を開いて群衆へ——。
「退け」
氷を落とすような声。朝嵐だ。黒衣が炎の間を切る線になり、彼は袖から符を散らした。地を奔る光が紅の紋となって交差し、結界がぱん、と鳴って立ち上がる。
「夏は火。南の気——朱雀よ、翔けよ」
扇を切り上げる所作とともに、空に朱の円相が描かれた。
紅蓮の翼が夜を裂く。尾羽は炎そのもの、羽撃くたびに火華が雨のように舞い、鳴き声は金属を擦るように透きとおっている。朱雀——火の王。
「陰陽師様だ!」
人々のざわめきが歓声に変わる。
「全く、お転婆姫は手のかかる…」
腕が伸び、朝嵐が私の手に触れると銀色に光出した、氷のように冷たいのになんだか心地よい…火傷が跡形もなくなって消えていく。
「私の戦いの邪魔をしないでくださいね」
光と火傷が消えてなお、手をぎゅっと強く握ったままの朝嵐。
厳しい口調なのに優しい目で見つめてくるから、ドギマギしする。
「じゃ、邪魔なんかはしたくないけど、私にだってできることがあるはずでしょう!」
だからこの時代に私を呼んだんでしょう、この陰陽師はもったいぶって、、でもやっぱりイケメンすぎる…。
ドキドキしてるのがバレないように真っ直ぐ朝嵐を見つめ返す。
「必要以上に姫に近づくな」
陽仁さま—私を再び後ろから抱き寄せたその声が低く震える。近すぎる距離、胸板の固さ、熱い体温、そして香。
「紫乃は私の婚約者候補だ。軽々しく触れるな」
嫉妬の棘を含んだ声音。
(えっ、ちょ、勝手に修羅場召喚しないで!? でも嫌じゃないかも…!)
「おや、ずいぶんとお熱いことで」
朝嵐が歩み寄り、冷ややかに私の顎を指先で取った。
「俺の目を逸らさず、ここまで言葉を放った女は初めてだ」
さらり、だが酷薄。背中に電流みたいなのが走る。
「——手をどけろ」
陽仁の低音が鋭さを増す。ふたりの間に火花、いや、本当に火花。朱雀の炎が尾を引き、夜の色が深まる。
と、その時。
夜空を裂いて、さきほどの“番”なのか、さらに大きな黒蛇が現れた。赤黒い火を纏い、狙いすましたように陽仁へ一直線。
「危ない!」
私と朝嵐の声が重なる。朝嵐はほとばしるように符を投げ、朱雀が翼の炎で蛇の顎を押しとどめる。だが黒炎は油のようにまとわりつき、結界の縁を焦がしていく。
胸の奥が、きゅ、と痛んだ。
——間に合え。
「……紅に舞う 火華は尽きずとも
君を護らん 月と翔けゆけ」
自分の声だと気づくのに、半拍遅れた。
袖口が、ふっと紫に灯る。月光が増し、言葉が光の帯になって朱雀の翼へ巻きつく。炎はただの燃料ではない、浄めの羽根へと組み替えられ、黒炎を呑み、呪の芯だけを焼き尽くした。
「歌が……炎を鎮めたぞ」
「月と……共鳴しておる……」
ざわめきが波のように広がる。視線が、熱を持って一斉にこちらへ押し寄せた。
頬が灼ける。けれど逃げたい気持ちより、胸の奥で小さく灯る誇りの方が強かった。
(届いた。私の言葉、届いた)
黒蛇が灰となって散る。朱雀は炎の尾をひと振りして高く鳴き、火華の雨を撒くと、円相の向こうへ溶けて消えた。
静けさが戻る。太鼓はまた規則正しく打ち始め、松明の炎は明るさを取り戻す。
気づけば私は、また陽仁の腕の中にいた。
彼の瞳は夜の水面のように澄み、どこか苦さを湛えている。
「……紫乃。今宵も、そなたの言の葉に救われた。何と礼を申せばよいか」
言いながら、指先でそっと私の焦げた裳裾に触れ、眉を寄せる。
「無茶をするな、と言ったはずだ」
「だって、子どもが——」
「知っている。……だが私の心臓に悪い」
小さく、けれど冗談めかした色の少ない声音。胸がぎゅっと縮む。
「残るは——あと二つ。すべて祓えれば……私は昼でも、そなたと並んで歩ける」
“昼でも”。
それは、月の呪(あるいは加護)に縛られた彼自身の秘密を、そっと告げる言葉。
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……必ず、祓う。私の言葉で」
言った瞬間、彼は何かを決めるように瞼を伏せ、微笑に似た影を口許に灯した。
——が、その光は長く続かなかった。
薄雲が流れ、月がふっと隠れる。
同時に、彼の輪郭が淡く揺らぎ——
「陽仁さま——!」
伸ばした指先は空を掴む。残ったのは、香の余韻だけ。
私はしばらく立ち尽くし、呼吸を整える。
(月が、彼を縛ってる。——でも、月は私の言葉にも応えてくれる)
背後で、朝嵐が低く舌打ちした。
「好機を狙い澄ました呪……“夏の火”を使うあたり、相手は心得ている。南、朱、炎——朱雀を逆手に取る型だ」
彼はするすると私の側へ寄り、誰にも聞こえぬ高さで囁く。
「紫乃。無闇に名乗るな。お前の歌は“目印”だ。狙いも集まる」
「……うん」
冷たい声なのに、不思議と安心するのは、本当に性格が悪い(褒め言葉)イケメンの仕様だからだと思う。
「それと——」と朝嵐は、人混みの向こうを顎で示した。
「見ろ」
太政大臣家の家紋を染め抜いた衣をまとった女が、朱の帷を背に立っていた。
黒髪は艶やかに梳かれ、頬の紅は椿の花びらのよう。朱を主にした直衣の重ねは、火華祭の灯りの中でなお一段と鮮やかだ。
若さも色香も持ち、目元にだけ冷えた光が差している。
——ニノ姫、朱理。
第二皇子に嫁ぎ、今は懐妊の噂すらある女。
人々は囁く。「第二皇子こそ東宮にふさわしい」「いずれ帝の位も……」と。
口にしてはならぬ大それた望みを、誰かが巧みに育てている。
そして今、朱理姫の視線は、はっきりと私に向いていた。月を映したような冷たい赤が、ひやりと皮膚の上を這う。——朱雀の尾の残光に、彼女の影が赤く長く伸びる。
「……見られてる」
「お前が“見つけた”のだ。向こうもまた、お前を“見つけた”」
朝嵐は結界の名残を指で払うように空を切り、「引くぞ」と短く言った。
群衆は「月の姫だ」と勝手に名を与え、囁きは祭の喧噪に飲まれていく。
私は桐子の手を取り、梅枝を促して松明の影へ身を滑らせた。
足袋越しに伝わる地面の熱はまだ生々しく、胸の奥には陽仁の体温の残像がある。
空を仰げば、雲間から月がほんの少しだけ顔を覗かせ、白い光を落とした。
(——待ってて。残り二つ、必ず祓う。あなたが昼にも笑えるように)
耳の奥で、火華のはぜる音と、朝嵐の淡い嘆息が重なる。
「まったく……手のかかる姫だ」
氷の声に、どこか微かな苦笑が混じっていたのは、たぶん聞き間違いじゃない。
なんとか夜は終わったけど、胸のざわめきは消えない。
都の人の視線も、あの人の声も、ぜんぶ熱を残しているみたい。
……次に何が起こるのか、私にもまだわからない。