第六章 玄武の章――雪月の庭にて
冬の夜。雪に閉ざされた御所の庭で…
——真冬の夜気は、肺の奥を刺すほど冷たい。
三つの呪を祓ったはずなのに、帝も東宮も、なお床に伏しておられるという噂はやまず、むしろ近ごろは悪化のささやきすら混じっていた。
(どうして。あと一つの呪を解けば……本当に救えるの?)
「姫様、本当に夜更けに御所など……!」
「そうですそうです! もし見咎められたら、不敬の罪で即・島流しですから!」
両袖を引っ張る桐子と梅枝を、私はそっと振り返った。
「大丈夫。“お見舞い”として通るように女房筋へ手配したの。……でも、私が確かめたいのは別のこと」
声を落とす。
「呪詛の痕跡。三つ祓っても残る“なにか”が、まだここにいる気がする」
二人は顔を見合わせ、同時にため息。
「……こうなればお供するしかございません」
「責任、連帯で! 島流しは三人で行きましょう!」
(いや、行かないからね?)
そうして私たちは、東宮御所の北庭へと足を運んだ。
御所の北庭は、池に薄氷、松に白い綿帽子。吐く息は雲、月は刃。足を運ぶたび、雪がきゅっ、と低く鳴る。静けさの底で、耳鳴りのような不吉がわずかに渦を巻いていた。
「……姫様、どうか足元には——」
「ツルっと、ドテッと、ズサァッは尊厳に関わりま——」
梅枝の現代語が炸裂する前に、空気が凍った。
「——下がれ」
氷を擦るような声。朝嵐が雪の上に無音で立っていた。
銀の髪は月光を攫い、切長の一重が冷たく光る。右袖からは白符が舞い、左の指先で空に細い文字を刻む。唇がかすかに動くたび、温度が一度ずつ落ちていく気がした。
「北は水、冬は玄。地脈、凍てつけ——」
ぱしん、と見えない糸が結ばれる感触。雪に薄青の文様が咲き、池を中心に円陣が組まれる。
次の瞬間、氷下の闇が泡立った。細い舌のような影が氷を舐め、ひびが蜘蛛の巣のように走る。
(来る——!)
氷を割ってせり上がる黒い背。甲羅の紋は禍々しく歪み、尾は蛇。水気が一気に膨れて、白雪が湿り、重く沈む。
——呪詛が作った、偽りの玄武。
「姫様、近うてはなりませぬ!」
「逃げるなら今です!」
二人に袖を引かれながら、私は一歩、前へ出た。怖い。でも逃げて後悔するのは、もっと怖い。
そのとき、背にあたたかい風が触れた。深く清らかな香——サンダルウッドを芯に、ほの甘い余韻。
「無茶をするな、紫乃」
ふいに肩を抱かれる。痩せているのに、確かな力。
横顔は雪と月に磨かれ、清冽で、危ういほど儚い。白い息がほどけ、額の汗がすぐに凍りそうで、胸がきゅっと疼いた。
「今宵は月も弱い。長くはもたぬ。……だが、そなたを守る」
(やめて、そのヒーロー台詞。好きに決まってるじゃん——!)
心の中でツッコみながらも、私は一歩、彼の前に出た。守られるだけの姫でいたくない。言葉で護るって、決めたのだから。
偽玄武の蛇尾がこちらへ振り下ろされる。雪と氷が砕け、白い破片が霰みたいに顔を打つ。
朝嵐の声が低く重なる。
「北斗、転星。坎を正せ。——《玄武・正位》!」
青黒い光が結界を走り、偽の玄武を足止めする。けれど、甲羅の紋様から黒い墨が滲むように、呪が盛り返した。朝嵐の唇がわずかに強張る。(——押し負ける?)
胸が灼け、喉が熱い。言葉が、来る。
「——雪の夜よ 命の糸を 凍て結び
君の息白し わが歌火種に」
吐いた息が白から薄紫に変わり、袖口の刺繍が淡く光る。
月光が、私の歌に“寄る”。池の氷が一瞬だけ緩み、黒い水が呼吸をした。
朝嵐が顎だけでこちらを見る。氷の眼差しが「続けろ」と言っていた。
陽仁様の囁きが耳に落ちる。「……紫乃。そなたの声は、あたたかい」
(行ける。もう“盛れ写”じゃなく、言葉で戦える)
「——凍ゆる手 君の脈打つ 鼓ききて
春待つ泉 胸の底湧け」
結界の文様に“春”の気が忍び込む。偽玄武が唸り、尾が雪を割り、黒いしぶきが上がる。
朝嵐の印が変わる。指がしなやかに絡み、掌で月を掬うように。
「言霊、拝借。——北辰、応えろ」
池底から、深い青が立ち上った。
偽の殻を押しのけるように、本来の玄武の影が“上”に出る。甲は凍てた硝子、蛇は雪煙をまとい、瞳は星。青と黒がぶつかり合い、氷の縁が唸って軋む。
「——っ」
朝嵐の足もとで結界が跳ねた。黒い墨の矢が、結界の節目を狙って逆流する。
彼は身をひねってほとんどの矢をいなしたが、一本が死角から——
「朝嵐!」
叫ぶより早く、白い袖がはためいた。陽仁様だ。
彼は自ら結界の綻びに身を差し入れ、墨矢を引きつける。胸元の紐が弾け、白い直衣が黒く焦げた。
「や、陽仁様!」
「だい……じょうぶだ」
彼は片膝をつき、私たちから墨の矢筋を遠ざけるように身をひねった。守る、という選択。無理をしているのはわかるのに、笑ってしまうくらい綺麗だった。
(ダメ。守ってもらってばかりじゃ)
私は一歩踏み出し、声を腹の底に落とす。
今までより、もっと深く。誰かに届く言葉で。
「——氷解けよ 言葉の春に 道ひらけ
千々の鎖ほどけ 君、生き給え」
最後の句に、息を全部込めた。
月が雲間を割り、庭に白い滝を流す。私の声が光に乗り、玄武の青へ届く。
偽物の甲羅に走る亀裂。蛇尾がほどけ、墨のような呪が蒸発していく。
朝嵐が決着の印を結んだ。
「還れ。——北へ」
本来の玄武が低く鳴き、静かに池へ潜る。氷は再び硬く閉じ、夜は元の静寂を取り戻した。
……終わった?
膝から力が抜ける。けれど倒れる前に、私は振り返って陽仁様の手をぎゅっと握った。
「生きていてください」
夜だからこそ言える。月が聞いているから、嘘はつけない。
「昼の空でも、夜の庭でも。あなたが息をしてくれるなら、私は何度でも歌います」
陽仁様は驚いたように目を見開き、そして、微かながら確かな光で笑った。
「……紫乃。そなたは、強いな」
(強くなったの。あなたに、強くしてもらったから——)
ふ、と月が薄れる。
彼の輪郭が淡く滲み、白い吐息だけが残り、声が遠のく。
「やめて、行かないで」
口に出したときには、もう遅かった。陽仁様は月の影と一緒に、雪の闇へほどけていった。
庭に静けさ。篝火がぱちりと鳴る。
遠くで梅枝の「きゃーっ今の尊くないですか!?」という声がして、桐子の「梅枝、控えて!」が続く。(尊いはどこで覚えた)
朝嵐が雪を踏まずに近づいてくる。氷の眼差し——けれど、私にだけ少し柔らかい。
「……見事だ、紫乃。今の一首で、命がひとつ繋がった」
「陽仁様は……」
「月が満ちれば戻る。だが——」
朝嵐は視線を月から私へ落とし、囁きの温度で刃を渡した。
「呪を放ったのは、太政大臣。朱理姫の父だ」
「……!」
胸の奥が、氷より冷たく、そして火より熱くなる。
「帝を病に見せ、東宮の力を削る。二ノ姫を娶った第二皇子を押し上げるためにな。朱雀さえ歪ませた“赤”は、やつの欲だ」
私は唇を噛んだ。
その“赤”の奥に、産褥の痛みや、眠れぬ夜や、冷たい湯殿や、細く折れた桃の枝の影——朱理姫の痛みが見える気がして、胸がきしむ。
朝嵐は空を仰ぎ、細い息を吐く。
「四神は……揃った筈だった。今の戦いで玄武が応じたからな。しかしー朱雀、我らと共にいたその気が途絶えた」
ぞわ、と背中が粟立つ。
朱雀が、消えた?
「朱雀の炎がゆがみ、行方が知れぬ。……嫌な気配がある。抱き鬼だ。外からの呪ではない、内から育てられた怨。おそらく——」
朝嵐の冷たい目が、ほんの少しだけ痛んだ気がした。
「ニノ姫・朱理の内に巣食っている」
雪明かりの庭に、風が走る。
遠いどこかで、薄紅の羽音がひと刷毛、夜空を塗った。
「次で、終わらせる」
朝嵐の声は静かで、刃より固い。
「呪の根を断ち、月の鎖を切る。……紫乃、最後はお前の言葉だ」
私は頷いた。震える指を、そっと袖の中で握りしめる。
(飾りの言葉じゃない。相手に届く言葉を——私の全部で)
雲間から月が顔を出す。白い光が、凍てつく庭に、かすかな春の道を描いた。
その道の先で、紅椿がきしむ音が、確かにした。
(——朱理姫)
私は息を吸い、胸の奥で、まだ見ぬ彼女に向けて、言葉を温めた。
雪は静かに降り続き、夜は、決戦の気配だけを濃くしていく。
読んでくださりありがとうございます!
寒さも胸キュンも盛り盛りの回でした❄️✨
次回、いよいよ呪いの黒幕が近づいてきます……!