こうしてオリヴィアは死んだ
お読みいただきありがとうございます。
この世では、生まれた時神に一つの啓示をされる。
言葉も理解できぬ赤子の頃啓示を告げられ、成長するうちにゆっくりゆっくりその意味を咀嚼するのだ。
アウステラ侯爵家のオリヴィアもそうであった。上にお兄ちゃん、お姉ちゃんが一人ずついるオリヴィアは色んな言葉を幼い頃から知っていた。家族皆が、こぞって彼女に話しかけるからだ。
「愛してる」「大好き」「大きくなったらオリヴィアとお揃いのドレスを作るの」「オリヴィアに教えてあげられるくらい勉強を頑張るんだ」
夜空に輝く星々のように、一つだって輝きが劣ることのない言葉が、沢山沢山彼女に降り注いだ。
だけどオリヴィアは、啓示の意味は長らく理解出来なかった。
そしてオリヴィアが二歳になった頃。飼っていたカナリアがピクリとも動かなくなったことを契機に、彼女はようやく啓示の意味を理解する。
『オリヴィア、君は十五歳で死ぬ。だが心配は要らない。新しいオリヴィアがまた生まれるから』
ヒュッと喉が詰まった。自分も、こうなるのだろうか。鳴くことも動くことも出来なくなり、冷たい土に埋められるのだろうか。
オリヴィアはわんわん泣いた。啓示は誰にも話せないから、皆はカナリアが死んでしまったことが悲しいのだと彼女を慰めた。
「オリヴィア、大丈夫よ。また新しいカナリアを飼いましょう?」
「ええ、そうねそうしましょう。明日には商人を呼ぼうかしら」
「えー俺、次はもっと強そうなのがいい」
――オリヴィアが死んでも、皆はカナリアを新しく飼うように、オリヴィアの穴を『新しいオリヴィア』で埋めるのだろうか。
そう考えたらもっと切なくなって、目の周りが赤くなっても、鼻の下が痛くなっても、喉が枯れてもオリヴィアは泣き止むことが出来なかった。
◇◇◇
泣いて泣いて泣いて、オリヴィアは考えた。どうすれば、この未来は変えられるのかと。
そして、力をつければいいという結論に辿り着いた。
「オリヴィア、また一位だったのか!?」
「ふふん」
「兄ちゃん、オリヴィアが誇らしいぞ!」
「ふふん。……お兄様、淑女の髪をぐしゃぐしゃにするのは駄目ですわよ!」
「ごめんごめん」
もー、と怒りながらオリヴィアは髪を整える。十五歳。啓示の歳。この歳まで勉学に懸命に励んだオリヴィアは、学園では勉学、魔法ともにトップで、誰もが認める才媛となっていた。
「今日は第二王子殿下とのお茶会ですのに」
「そ、そういえばそうだったな」
オリヴィアの予定をすっかり忘れていたのであろう兄が、慌てたようにオリヴィアの髪を整え始める。だが余計に彼女の髪はくしゃくしゃになり、手をペイとはたかれた。
「では、行ってきますお兄様」
「行ってらっしゃいオリヴィア」
挨拶をしてから馬車に乗り込む。ガタゴトと暫く揺られれば、王城についた。第二王子、ルーファス殿下に迎えられる。
「よく来たねオリヴィア。座って座って。今日は君の為に、素晴らしい紅茶を取り寄せたんだ」
「まあ嬉しいですわ。ありがとうございます、殿下」
「堅苦しいなぁ。殿下じゃなくてルーファスで良いっていつも言っているのに」
「すみません、なんだか緊張してしまうので……」
頬に手を当て謝れば、「別に。オリヴィアの心に合わせてくれれば大丈夫だよ」と彼は笑った。その笑顔を見て、オリヴィアは申し訳ないという気持ちがまた一つ重なる。
十二歳の頃、王家から婚約の打診があった。断ろうと思ったが、神からの啓示は誰にも話せない。オリヴィアは流されるようにルーファスの婚約者に収まった。頑なにルーファスの名前を呼ばないのは、オリヴィアなりのけじめである。
「オリヴィアは果物を焼いたケーキが好きだよね?」
「はい。……まあ、いちじくが入ったパウンドケーキですか? 美味しそうです」
「良かった」
一口食べたオリヴィアは、ぱっと顔を華やがせた。その顔を見て、ルーファスも頬を緩める。
「そういえばオリヴィア。君の誕生日の日にちょうど公務が重なってしまったんだ。だから誕生日の三日前にお祝いしても良いかい? ……はあ、オリヴィアの誕生日はもう十五年前から決まっているのに、どうしていれるのかなー」
「しょうがありませんわ、公務ですもの」
「でも……」
「本当に、大丈夫ですわ」
その気持ちがとっても嬉しい。十六歳のオリヴィアを望んでくれたことが、とてつもなく嬉しいのだ。
そっと指切りをして。今度はオリヴィアもにっこり笑った。
誕生日の三日前。船上でオリヴィアは、ベッドに腰を下ろしていた。
「ふふ、もう十五歳が終わるのね」
はやる胸を抑える。もしかしたらあの啓示はオリヴィアの勘違いだったのでは、という期待があった。
使用人が荷解きをする隣でプラプラと足を遊ばせていれば、声がかけられた。
「オリヴィア、甲板に行ってみないか?」
扉の向こうからルーファスの声がする。
「すぐ行きますわ」
オリヴィアはショールを肩に掛け出た。ルーファスに連れられ甲板に立つと、潮の匂いが波とともに強くやって来る。息を吸って吐く。
波が船に当たり水しぶきとなっていた。
「素敵ですね、殿下」
「うん、本当に綺麗だ」
「……私の方に顔を向けてると、海が見えませんよ?」
「本当に綺麗だ」
「……もう」
苦笑したオリヴィアは、そっとルーファスに体を預けた。少し高めの体温を、あと何度感じられるのだろうと考える。
気持ちを切り替えるように、オリヴィアはショールを握りしめた。
その晩。オリヴィアは揺れる天井をベッドに寝転び眺めていた。寝付けなくて、ころりと体の向きを変える。
――三日後まで生き残れば私の勝ちね。
誰に勝つというのか。神か、それとも己の運命にか。それすら分からないまま、オリヴィアは冴えてしまった目をこする。
ずっと、考え続けた。自分はどう死ぬのか。幼い頃はそれに怯え護衛を沢山つけた。だけど護衛の一人がオリヴィアを誘拐した時を境に、彼女は護衛を一人残らず不要とした。代わりに自分の力を鍛えた。
波に合わせ天井は揺れる。オリヴィアの心のように。
枕に顔を埋めれば、兄と姉は豊かな金髪なのに、自分はどうしてくすんだ色をしているのだろうかと寂しくなったことを思い出した。そんな日は枕に顔を押しつけながらスンスン泣いた。父が誕生日にくれたうさぎの人形を抱きしめ寂しい気持ちを押し殺した。
唇を噛みしめ、強く瞼を閉じる。
「…………きゃっ」
大きな音の後、陸に打ち上げられた魚のように、オリヴィアが飛び跳ねた。同時に、木がミシミシと壊れる音がする。
「一体、なにが起こったの?」
声を出さなければ不安で。辺りを窺いながら上着を手繰り寄せていると、暫くしてから焦ったような声とともに使用人が入ってくる。
「お嬢様、船が氷山の一角に打つかり、穴が空いたようです!」
ドッ、と心臓が飛び跳ね汗がブワリと出る。
オリヴィアは、自分の命日を突きつけられた気がした。
「い、いや……死にたくない……」
「大丈夫です、お嬢様。緊急脱出用の転移魔術紋があります。慌てずゆっくり行きましょう。大丈夫です。事前に調べた所、その魔術紋は乗客全員を避難させられる程大きく精度が高いものだそうです」
「そ、そう……」
取り乱したことが急激に恥ずかしくなりながらオリヴィアは頷いた。
船内にはいくつもの声が反響している。静かな月の下で、走り回る音、人々を誘導させる声、大切な人を呼ぶ声が聞こえる。
オリヴィアは使用人が先導する道をしっかりしっかり踏みしめながら歩いていた。ゴウンゴウンと揺れ、真っすぐに立っていられない。
一際強い乾いた木が割れる音がした。手すりを掴んでいたオリヴィアのバランスが崩れる。
真っ黒な海が眼下に迫りオリヴィアは目を閉じた。
だが腕をよく知った温かいモノで掴まれハッとなる。
「大丈夫、オリヴィア!?」
「殿下、ありがとうございます」
「礼は良い。それよりも早く行こう」
オリヴィアは頷く。ルーファスに肩を抱かれながら、オリヴィアは緊急脱出用の転移魔術紋がある所まで急いだ。
人々が集まっているのが影で分かる。いくつもの言葉がオリヴィアたちを呼んでいるのを。
「おおーい、こっちだ!」
「急いで!」
ギシギシと悲鳴を上げる船の上で、人々は身を寄せ合っていた。貴族たちといえど寝起きのせいか簡易な服装で、水しぶきで濡れた体を温めるように、夫は妻を、親は子供を、子供は自分より小さな子供を抱きしめている。
人が多すぎて、キョロキョロと誰かを探す夫人もいた。
乗組員が大声で呼びかけた。
「皆様お揃いでしょうか!? 只今より転移します!」
「大丈夫だよ、オリヴィア」
「はい、殿下」
ルーファスに肩を抱かれたまま、オリヴィアはヘラリと安堵の息を吐いた。
良かった。助かる。自分は死なない。
だがそこでオリヴィアは顔を上げた。ルーファスに「どうしたの?」と話しかけられ「いいえ、なんでもありません」とすぐに頭を振る。
心臓がヒヤリと冷たくなった。
聞こえたのだ。微かな子供の泣き声が。ここにはいない。少し遠くの方から。
辺りを見回す。騒がしくて小さな子供の泣き声に気づく人はいない。
助けに行かなくては、と一瞬思ってから、しかしオリヴィアはぐっと留まってしまった。
――聞かなかったことにしなさい。
誰かが彼女の耳元で言った。生き残りたいでしょう? 死にたくないでしょう? そう問いかけられる。
水しぶきで冷えたせいか、体がぶるぶる震えた。寒さに顔を歪める。
見過ごせ見過ごせ見過ごせ見過ごせ見過ごせ――
誰もオリヴィアを罰したりなんてしない。他の人たちと同じように、彼女もまた気づかなかっただけだから。
グラグラ船が揺れる。思考が定まらない。
見過ごせ、見過ごして。誰かがオリヴィアの耳元で叫ぶ。それはもしかしたら悪魔かもしれないし、彼女を愛する家族かもしれないし、彼女が愛する婚約者かもしれない。
誰でも良かった。死にたくないだけだったから。身体から力が抜ける。大丈夫、と自分を慰めた。
――……ああ、でも。
ポツリと、オリヴィアの口から、すぐにでも掻き消されてしまいそうな小さな呟きが漏れる。
うさぎの人形を抱きしめ枕に顔を埋めて泣いた日。オリヴィアは声を押し殺していたのに、いつも皆が気づいて来てくれた。
姉は、オリヴィアとお揃いの人形を彼女の側に置き、ハンカチでそっとオリヴィアの目を拭ってくれた。
兄はオリヴィアの頭を撫でながら、彼女の体重を自分にかけさせた。
父は優しく、オリヴィアの鼻水をすする音が混じった拙い話を聞き、何度も何度も言葉を尽くしてくれた。
母は笑顔になる魔法、とマシュマロを入れたココアを差し出し、笑顔でオリヴィアを見守ってくれた。
オリヴィアが泣き止むまで、皆嫌な顔一つせず、むしろ側にいることが嬉しいというように、ずっと側にいてくれた。どんな時だって、オリヴィアが一度泣けば、すっ飛んで来てくれた。
とても、嬉しかった。
「ごめんなさい! すぐに戻ってきます!」
「……っオリヴィア!?」
走り出したオリヴィアを見て、ルーファスが驚愕の声を上げた。
足がグラつかないよう風の魔法を使いながら、オリヴィアは声を頼りに足を動かした。
◇◇◇
子供はすぐに見つかった。階段の手すりにしがみつき泣きじゃくっている。揺れが大きく、辺りも暗い。腰が抜けてしまい歩けなくなったのだろう。
「大丈夫。お姉ちゃんと一緒にお母さんたちの所に行こう?」
「う、うん……」
目をこする子供の手を握り、背で押しながら誘導する。さっきよりも揺れは強くなっていて体は右へ左へとたたらを踏み上手に歩けない。
風魔法も、魔力切れか段々使えなくなっていき、オリヴィアは荒い息を吐きながらルーファスたちがいる所を目指した。
海の雨が降りしきる。その中でルーファスが使用人に押さえつけられながらこちらに手を伸ばしていた。
オリヴィア付きの使用人がオリヴィアたちの下に行こうとするが、魔法を使えない彼女たちは立っているだけで精一杯で、乗組員たちも同じようであった。
「ロープはないのか!」という言葉が木霊する。
緊急脱出用の転移魔術紋まであと少し。オリヴィアは子供を半ば引きずるように走る。
バキバキッと甲高い音が強く強く波をうがった。
「オリヴィア……っ」
「ルーファス殿下、もう限界です!」
「もう少し待ってくれ! あと少しでオリヴィアたちが!」
水を吸い少し柔らかくなった木の床を滑るように走る。
あと少し。
誰もがそう思った。
叫ぶ。急げと。走れと。気をつけろと。
細い体つきの少女と幼い子供が、揺れる船の上を走る姿を見て、誰もが祈るように叫んだ。
子供の親である夫人は体を乗り出し、危ないと他の夫人たちに押さえつけられる。必死に子供の名前を叫ぶ夫人を必死の思いで皆で止めていた。
あと少し。
誰もがそう祈った。一緒に帰ろうと。
だけど、ガツンと殴られるような揺れの後、船が轟く。
人々とオリヴィアたちを隔てるように、船にヒビが入る。
一層大きな声がオリヴィアたちを呼んだ。早く、早く。
そんな声を聞きながら、しかしオリヴィアは安らぎに近い諦めを感じていた。
自分は、死ぬ。ここで。だって、神がそう言ったのだから。
それはきっと、覆されない。
だけど。
この子供は。この子供だけは。
最後に残った細々とした魔力を集約する。子供の背を両手で力一杯押した。
放物線を描くように、子供が宙を舞う。そして乗組員によって子供は抱きとめられた。歓声に近いどよめきが起こる。
オリヴィアはほっと顔を綻ばせた。
「オリヴィア、早く!」
使用人たちに肩が外れてしまうのではないかという程に強く体を押さえられながら、ルーファスがこちらに手を伸ばす。
早く、早くと声がする。
もうきっと間に合わない、と小さく返す。
伸ばされた手には、届かない。だからオリヴィアは伸ばしかけた右手を、天に向けた。全てが揺れる世界で、オリヴィアの真っ白な腕だけが凛と上へと伸びる。それをゆっくり左右に振った。
バイバイ、と子供が夕暮れを背に別れを告げるように。
最後なら許されるよね、と自問自答したオリヴィアは、精一杯笑う。
「愛しています、ルーファス様! さようなら、ありがとう」
「オリヴィア――!!」
波が船を叩きつける音が大きくても。二人は確かに言葉を交わした。
そして。切り離された船の一方では魔術紋行使の光が眩く放たれる。
もう一方の船には大きな波が覆い被さった。
迫りくる叩きつけるような感覚を前に、反射のようにオリヴィアは背を丸めた。
最後に、真っ黒な波の向こうで、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら必死にこちらに手を伸ばすルーファスを見た。
不謹慎にも、もう一度笑顔が漏れる。
もう波はすぐそこ
クジラの鳴き声のような、深い深い音が鳴って
瞳をゆっくり閉じて
こうして、オリヴィアは死んだ。
◇◇◇
『南へ行きなさい』
ルーファスへの神の啓示はこれだけだった。どれだけ勉学に励んでも、これへの理解は出来なかった。
だけど今はそんなモノにすら縋りたくて。ルーファスは暇ができれば南の方に足を運んでいた。
船が沈没したあの事件から二年。
あれから、アウステラ侯爵家は火が消えたように暗い。華やかだったあの家は、喪服のように黒く淀んでいる。
それは自分も同じか、とルーファスは苦笑した。
夢の中でオリヴィアに怒られるからと最低限の公務を行い、死なない程度に食事をとる。そんな毎日を送っている。
彼を今繋ぎ止めているのは、南へ向かうという目的だけだった。
今日も、兄に心配されながらルーファスは馬車に乗り込む。馬の方が速いのだが、フラフラのルーファスを馬には乗せられないと侍従が断固反対し、しょうがなくガタゴト揺られている。
本当は馬車の揺れを感じる度に吐きそうになるのだが、余計に心配をかけるからと口をつぐみ、今日もルーファスは南を目指した。
オリヴィア。大事な大事な、ルーファスの唯一人の婚約者。この二年縁談が数多く来た。それら全てをルーファスは断った。
もう、オリヴィア以上に愛する人なんて出来ないと知っていたから。
彼女の瞳が好きだった。陽の光をたっぷり浴びて育った草の色で、いつも優しくルーファスを見つめてくれた。その瞳に見つめられる度に、彼女に恥じない人間になりたいと思った。
――今の自分は、なれているのだろうか。
「ルーファス殿下、雨が強くなって来ました! 何処かで雨宿りしませんと……」
御者にそう言われ、ルーファスはようやく思考の縁から顔を上げた。
「ああ、そうだな」
「この近くに教会があるので、そこで雨宿り出来ないか聞いてみましょう」
「……ああ」
頷きながらあくびが一つ漏れた。うつらうつらと瞼を上げたり下げたりする。
もう一つあくびをして。そのままルーファスは眠りについた。
次に目を覚ました時、ルーファスはぼんやりと働かない頭を押さえながらカーテンの隙間から外を見た。
「……うっ」
「ルーファス様? どうなされたのですか?」
侍従が心配そうに問いかける。ルーファスが震える手で外を指出せば、侍従もカーテンの隙間から外を見て、それから声を上げた。
「海!」
御者は今日に限って、いつもとは違う者だった。そして侍従には、雨で掻き消され海の音も匂いも届かなかった。
ルーファスはあれから海、特に荒れた海を見ることが出来ず。一目見れば吐き気がこみ上げ立っていられない程だった。
「う、あ……」
「ルーファス様っ」
侍従に支えられながら、崩れ落ちるようにルーファスは気を失った。
◇◇◇
真っ黒に、オリヴィアが飲み込まれていく。
いつも通り優しく笑っている彼女が、最後に残した言葉。
「愛しています、ルーファス様! さようなら、ありがとう」
初めてくれた、愛の言葉。初めて呼んでもらえた名前。
抱きしめて、笑いあって、ルーファスも彼女の名前を呼んで愛の言葉を伝えたかった。
そう考える度に、自分の心にはポッカリ穴が開いたままなのだと自覚する。
鼻歌と共に、ルーファスの意識が浮上した。
窓を閉め切っているのか、部屋は暗闇だけで満たされている。いつも寝ているベッドよりも遥かに硬いベッドの上で寝返りを打つと、キイ、と扉が開く音がした。
ルーファスが包まる布団に、光が伸びる。
「あら、目を覚まされました?」
少ししわがれた声が耳朶を打つ。
「……なんで分かったんだ?」
「うふふ、うちの子たちが狸寝入りをする時とまるっきり一緒なんですもの」
「そうか」
水差しが変えられる音がする。
「ここは孤児院です。驚きましたわ、急に意識を失った男性を連れられるんですもの」
そうか、結局教会に来たのか、とぼんやり考える。
「事情は概ね聞いております。私も海は少し怖いので、気持ちちょっと分かりますわ」
その声と共に、海の音がしないことに気づいた。
海の音がなるべく聞こえない部屋に案内してくれたのだろう。
「気分が落ち着かれましたら下にいらっしゃってください。もう雨は上がりましたわ」
「……分かった」
キイ、パタン。最初に入ってきたように彼女は去っていった。トタントタンと階段を下りていく音を耳をそばだて聞きながら、ベッドに突っ伏した。
こうして寝てもいられない、とゆっくり体を起こす。
下に降りれば、きゃあきゃあ楽しそうな声が聞こえた。その声に導かれるように行けば、青々とした芝生が敷き詰められた庭に出る。
そこでは一人のシスターが、彼女の背丈の半分程しかない子供たちと一緒に白詰草を編んでいた。穏やかな鼻歌が聞こえる。
立ち尽くしてその光景を見ていれば、子供がルーファスを指差し「あーっ」と声を上げた。
「さっきの倒れてたお兄ちゃんだ!」
「もう寝なくていいの?」
「一緒に遊ぼうよ! 僕鬼ごっこが良い!」
「昨日も鬼ごっこはしたじゃん。僕は隠れんぼが良い!」
子供たちが一層楽しそうにきゃあきゃあ騒ぐ。子供たちを宥めながらシスターが、ルーファスに体を向けた。
呼吸が止まった。
シスターが頭に被っているウィンプルの隙間から覗く髪の毛は、艶を失い少し縮れてもいるが、陽の光に当たるとくすんだ金髪が、揺れる麦穂のような美しい色を放っていた。ルーファスを伺う瞳は、優しい草の色をしている。
「まあ、目を覚まされたんですね。……きゃっ」
「オ、オリヴィア……」
肩を掴み瞳を覗き込めば、シスターは怯えたように背を丸めた。
シスターを怖がらせる奴は絶対許さない子供たちは、すぐさまルーファスに殴りかかった。ポコポコとルーファスは殴られる。
「おい、シスターになにするんだ!」
「それに、シスターの名前はエラだぞ! オリヴィアじゃない」
「……違う! 君は、君はっ、オリヴィアなんだ……」
ルーファスの絞り出したような声に、子供たちはピタリと動きを止めた。
「お兄ちゃん、泣いてるのー?」
「シスターを怖がらせたのは許さないけど、可哀想だから白詰草の花冠あげるね」
「あげるから早く帰ってね」
パタパタと泣くルーファスが膝から崩れ落ちる。子供たちが僕も私もと乗せた白詰草の花冠が、ルーファスの頭の上に積み上がった。
瞠目していたシスターも、可笑しそうに笑ってからしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい。私、二年前に海辺で倒れていた所を拾っていただいたんです。それから記憶喪失で、なにも分からないままで……」
しわがれた声は、彼女が海に流されていた間の過酷さを表していた。
よりルーファスから涙が出る。
オリヴィアは死んでしまったのだ。
「オリヴィア、オリヴィア……」
「…………」
眉尻を下げながら、シスターは困ったように笑う。
「……一度だけ、抱きしめても良いだろうか?」
「はい、どうぞ」
子供たちが泣いている時にやるように、シスターが手を広げる。倒れ込むように、ルーファスがシスターを抱きしめた。
泣き縋るルーファスの背を、子をあやすようにオリヴィアは撫でた。
シスター服に、ルーファスの体温が染み込んでいく。
子供たちもわらわらと二人に集まり、ぎゅうっと抱きしめた。
暫くぎゅうぎゅうしていれば、子供たちの中で一番幼い子が、不思議そうに目をパチクリとさせた。
「シスター、ないてるの?」
「――え?」
そこでようやく。シスターは自分の頬に手を当てて。「あれ? なんで?」と呟いた。
ルーファスは顔を上げる。涙で滲んだ視界に、温かな光が飛び込んだ。
『オリヴィア、君は十五歳で死ぬ』
「どうして、涙が止まらないの……?」
ごしごしと目元をこする彼女の手を、ルーファスが優しく握った。シスターの腰に抱きつく子供たちが抗議の声を上げる。
「お兄ちゃんがシスターを怖がらせたの? 痛いことしたの?」
「いいえ、違うのよ……」
「じゃ、じゃあ私たち!?」
「ううん、違うの……なんだか、とっても切ないの」
彼女の濡れた一対の緑眼が、ルーファスを捉えた。
「貴方は、一体……」
「――僕は、カルレシラ国の第二王子、ルーファスだよ。そして」
ルーファスは笑った。暫く笑うことなどしていなかったような、ぎこちない笑顔だった。
「僕も、オリヴィアのことを愛してる」
初めて貰った愛の言葉に、ずっとずっと、こう返したかった。
『――だが心配は要らない。新しいオリヴィアがまた生まれるから』
緑の瞳から零れ落ちた涙が、パタリと柔らかな芝生を打つ。
「……………………………………………殿下?」
「そこは、ルーファスって呼んでよ」
「あ……あ……」と声を上げる彼女の背を、今度はルーファスが撫でる。
聞きたいこと、言いたいことが沢山ある筈なのに不思議と言葉は出なくて、口を震わせることしか出来ない。
目頭がツンと熱くなり、お腹の底から熱いモノが込み上げてくる。
子供たちの柔らかい声が優しい風と共に耳朶を打ち
オリヴィアはルーファスを強く強く抱きしめ
瞳をゆっくり閉じて
こうしてオリヴィアは産声をあげた。
良かった、と神は泣きじゃくるオリヴィアを見つめた。
オリヴィアへの啓示。それは本当は『オリヴィア、君は十五歳で死ぬ』までだけであった。しかしアウステラ侯爵家に啓示をする担当の神は、一つの願いを込めることにした。
どうかどうか。オリヴィアに幸せがありますように。
貴女が枕に顔を埋めて泣いた日。神の手では触れられないから、いつも皆を眠りから覚ますことしか出来なかった。貴女にあの日、貴女がその選択を出来ないと知りながら、見過ごせとしか言えなかった。
スン、と神は鼻を鳴らす。
それから、アウステラ侯爵家の可愛い子たちを、いつものように揺り起こしに行こう、とふわふわ浮上しゆっくりと歩き出した。
起きて、起きて、行ってあげて。貴方たちの大切な子が泣いているよ、と――
◇◇◇
お読みいただき、ありがとうございました
少しでも面白いと思ったら★★★★★押してもらうと励みになります。