始まりの春
四月。四季折々が日本の風情であるが、近年は地球温暖化やら気候変動やらの影響か、春の暖かな季節というにはまだ肌寒く、冬の名残を残す季節だ。
最近の学校では珍しく、昼休み限定で屋上の出入りを開放している我が校の憩いの場には寒さを嫌ってか今時期には人の影が少ない。
とはいえ春の寒さに臆したのは人間だけで前校長が曰く、都内の緑化政策の一環として庭園風にアレンジした屋上には園芸部が手入れしている花壇が春の到来を示すようコンクリートに彩りを付けてた。
校舎の喧騒からは離れたささやかな静寂の空間。
そのため、この時期に此処を出入りするのは決まって静かな場所を好む生徒か、図書室から気分を変えて野外で読書することを選んだ生徒といったもの好きぐらいだ。
──そんな状態だからこそ、俺も周囲を気にすることなく学生の勉強とは別の、生きがいを兼ねた『仕事』が出来るという訳だ。
「2三飛車、3三玉、1三飛車、2一玉、2三飛車……」
プラスチック製の駒を丁寧に指先で掴んではハンカチ程の布の上に落としていく。将棋と言えばイメージするのは大抵、将棋盤と呼ばれる木でできた四角形の番の上に漢字が刻まれた木の駒を並べたものを想像されるが、そういったキチンとした将棋道具は持ち運びが不便だ。
だからこそ出先に持ち込む際には市販で変えるプラスチックの小さな駒と9×9マスの将棋盤をデザインしたハンカチを用いて指している。
耳慣れした木盤に指す際のパチンというこ気味良い音が聞こえないのは落ち着かないが、まさかそのためだけに何かと嵩張る将棋道具を学校に持ち込む訳にはいかないだろう。
「2二銀、1三桂、1一玉、1二歩、1二玉……」
まあ、それを言ったらそもそも最近はわざわざ将棋盤や駒を現物で用意する必要すらないのだが。スマホを通せば将棋盤や駒など必要とせずに将棋は指せるし、何だったらインターネットを介せばネット上の将棋指しを相手に対局する事だってできる。
将棋の研究も、PCほどではないがスマホ向けにフリーの将棋AIがアプリとして配信されている。要するに現物など無くとも今は気軽に将棋が指せる時代なのだ。
世はデジタル全盛期。ましてや俺は十代でそういったものの恩恵を正に使いこなす側にいる。それでもアナログな手法をあえて選んでいるのは、ひとえに自分が、電子書籍よりも紙の書籍を、0と1で出来たプログラムアプリよりも現実の将棋盤と駒を好む文化的に保守的な気質があるというだけの話だ。
性格や好みによって利便性より多少の不便を選ぶのはそう珍しい話ではないだろう。
「2四桂、1一玉、2一桂成、2一玉、3三桂……」
だが、酔狂以外にも実際はそれなりの理由はある。最大の言い訳として、俺が使うのは普段からスマホ画面に目を落とし、将棋AIで形成や指し筋を検討するばかりでは、自力が失われるという持論があるからだ。
近年の将棋は将棋AIの普及が進み、研究将棋の全盛期とも言える時代だ。その日通じた新戦術が次の日には解析されつくされて通じないなどということが珍しくもなんともない昨今、トッププロを目指すのであれば将棋AIを使わない選択肢はあり得ない。
実際、俺も此処が出先で、学校でなければ家でPCを目前に将棋の研究に務めていたことだろう。だが、そればかりではいけないという危機感にも似た感覚が俺の中には常にある。何故ならば研究将棋の時代とは言え、実戦において将棋を指すのは己なのだから。
将棋AIが指し示す通りにしか将棋を指せないなどとは論外だし、そもそもプロともなれば研究外しも力戦形も当たり前に指してくる。膨大な研究という手札に加えて未知の局面においても正着を見切れる技量あってこそ現代では将棋棋士を名乗れるのだ。
「1一玉、1二桂成、1二玉、1三馬、1三銀……」
つまるところ、より高みを目指したいのであれば……。
「2一竜成」
己自身で考え、強くなる他にない。
「……とはいえ、詰将棋を指し続ければ強くなれるって話でもないんだが。『神童』が詰将棋の名手であることが原因だろうけど」
『図巧』から引き出してきた一連の詰将棋を並べ終えてほうっと息を吐きだす。詰将棋とはいわゆる王手を指し続けて玉を詰めす所までもっていくものだが、実戦とは違い芸術やパズルといった色合いが強い詰将棋は端手数ならともかく手数が長くなれば長くなるほど実戦では現れないようなものが増えていく。モノによっては千手を超える恐ろしい詰将棋も現実には存在するが、それを指せたからと言って別段実戦に強くなるわけがない。
初めから玉が詰んでいることが前提にある詰将棋と相手玉を詰ますことを目的とした実戦将棋は在り方が根本的に異なるのだから当然の話である。
「詰将棋をさせるからって強くなるわけでもなく、将棋AIだけに頼ったところで地力は培われず、かと言って実戦を重ね続ければ強くなれる訳でもない……強くなるための明確なメソッドが無い辺り、ホント大変だよな、将棋って」
仰け反って、雲一つない青空を見上げる。
何処までも続く群青に、果ての見えない高さ。
それを茫洋と眺めながらポツリと、言葉が口から洩れた。
「ああ、強くなりたいな」
「それって将棋の話?」
「うお……!」
不意に視界にアップで映り込む人の顔。
驚いて俺は仰け反りそのまま、座っていたベンチの後ろにある花壇に倒れ込んだ。
土の感触と草花の香りを直に感じる羽目になる。
「……大丈夫か?」
「大丈夫に見えるか?」
「ふむ……まあコンクリに頭打ち付けるよりかはマシなんじゃね?」
「……背中は花壇のレンガで打ったけどな……痛い」
「そりゃあご愁傷様か、お大事に?」
「加害者が言う台詞なのかそれ」
よっと、掛け声とともに身を起こす。
気軽かつ絶妙に馬鹿っぽい会話をするこの相手は当然学生で、ついでに言うならば同じクラスの友人だ。
活発そうな顔立ちに、茶髪に染め上げられた髪、適度に日に焼けた褐色の肌。
如何にもチャラそうな見た目でありながら学生生活は至って真面目かつクラスのムードメーカー、総評的にいわゆる『陽キャラ』と呼ばれる分類の男子生徒。
人吉悠斗。俺の数少ない友人の一人だ。
「わざわざ、こんな時期に屋上に来るなんてもの好きだな」
「先に来てたお前にだけは言われたくない台詞だね、それ」
「つーか何で此処に? 昼は校庭でサッカーするとか前の休み時間に言ってなかったっけ?」
「ああ、ほら。四時間目の終わりに五時間目が急遽体育になるって連絡あったろ? それでわざわざ昼に外出て、戻ってまた体育ってのも馬鹿らしいってなったのが一つ」
「体操着で外出ればいいだろ」
「もう一つは、今日は思いのほか寒かった」
「成程、そっちが理由ね」
悠斗は肩を竦めながら嘯く。
高校進学に伴い九州から出てきたという彼にとって都心の気候は厳しかったらしい。
「で、この肌寒い中、リョーマは外で将棋か。教室でやりゃあいいじゃないの」
「教室だと喧騒が耳に障るんだよ。別に集中してやりたいわけじゃないけど、元々静かな場所が好きだからな。図書室って手もあるが本も読まないのに席埋めるわけにもいかんだろ」
「それで此処ね」
「そう。で、お前はどうして此処に? 俺に用事でも?」
寒さを嫌って昼の休み時間を室内で過ごすことを選んだ奴だ。
それが屋外の屋上に顔を出すなど理由はそう多くないだろう。
「別に何か用事があるってわけでもないけどな。普段、クラスで若干浮いている友人の顔を気まぐれに見に来るのに用事も何も要らんだろ」
「浮いているは余計だろ。自覚はあるけど」
「あるんか」
「あるよ」
目前の友人が髪を染めているように我が校は生徒の自主性がうんぬんで普通の学校に比べて自由度が高い。制服はあるものの髪形や髪色は自由だし、病気を除いた私的な用事による休日を取ることにも割と寛容だ。そのためか校外活動に努めている生徒が比較的に多く、部活動以外のクラブ活動や習い事を行う生徒はそう珍しい存在ではない。
しかし──。
「この年でプロとして仕事しているようなのは流石に居ないからな。距離感に困るだろ向こうも」
「そうかぁ? 単にお前が近寄りがたい雰囲気漂わせてるせいだと思うけどな。俺だったらクラスに何かしらのプロいたら喜んでサインに貰いに行くけどな。てか行っただろ」
「ああ、来たな」
思い出すのは約一年前。高校一年生で入学して間もない記憶だ。
初対面でいきなり『将棋のプロってマジ? サイン頂戴!』そう言って、話しかけてきたのが後に友人となる目の前の奴とのファーストコンタクトだった。
「よくもまあ物怖じしない奴だって今でも思ってるよ」
「言うて同世代だろ。変に怖がる方が可笑しいし、何だったらこれからクラスメイトになる相手だぞ。仲良くなりたいってのが普通だろ? あとプロだぜプロ。将棋でも何でもサインは欲しいだろ」
「だからと言ってそれを実践できるのが……いや、良い。どうせそっちが正論ではあるし」
人間誰しもそういう風に振るまえればコミュニケーションに苦労する人間などいないのだが、そんな人見知りの苦悩をコイツに説いても無意味だろう。
それに誰であれ分け隔てなく接することができるのはコイツの美点でもある。指摘して直させるのも違う話だ。
「で、話を戻すけど何やってたんだ? 一人で将棋を指してんのはともかく、何か駒少なくない? もっと俺が前にネットで見た時はもっとこう色々あった気がするぜ」
「これは詰将棋。玉……王様に王手指し続けて詰ますことを目的とした遊びだ。普通に将棋を指すのとは違って限られた駒、限られた手順で指していくものだからな、パズルみたいなもんだよ」
「ほーん。パズルね。面白いの?」
「人によっては」
「やっていい?」
「どうぞ。五手詰だ」
興味深そうにやりたがってきた悠斗に応じて、俺は盤面を整えて渡す。言動から察せられるように将棋に関してはミーハーな悠斗は将棋に関して知っているのは駒の動きぐらいなので俺が先ほどまで指していた二十手を超えるような手はさせないだろう。
なので実戦でも起こりやすい簡単な、それでいて微妙に分かりずらい詰将棋を提示する。
案の定悠斗は「あれ?」と首を傾げながら手を進めて、戻すを繰り返す。
そして一言。
「むずくね?」
「まあ、だろうな。これは角打って、飛車で取らせて、桂馬飛んで、飛車浮かせて、金で詰み。これで五手詰だ」
「おお、鮮やか。なるほどワザと取らせて飛車の位置をずらせば詰むのか」
「そう。将棋素人だと無意味に駒を打って相手に取られるのは損に見えるけど、ある程度の将棋に慣れると、小駒をわざと相手が取れる位置に打って相手に取らせて位置を変えさせるっていう戦術や駆け引きもあるんだよ。よく聞くのは『叩きの歩』とかかな」
「あ、それ知ってる前に『神童』の対局がニュースで流れてた時にプロの人が言ってたわ。何か歩の使い方が凄くて凄いんだろ?」
「そうだな。取りあえずお前が良く分かっていないのは分かったよ」
将棋が世間一般でも聞くようになったとはいえ実情はこんなものだろう。寧ろ悠斗のようにルールをある程度知っているだけでも上等で大抵は駒の動かし方すら分からないのが普通なのだから。
「ははは、まあ将棋なんてからっきしだからな俺は。でもまあお前みたいに夢中になる人がいっぱい居るてんだから将棋が面白いんだってことはよくわかるぜ」
「そうか。一応、プロの端くれとしてその認識には感謝して置くよ。将棋の普及も俺たちの本分だからな」
将棋が強いことは当然として、プロを名乗るのであれば将棋という文化を後世に伝えていくのも大事な責務だ。どんな形であれ世間一般に将棋が知れ渡ることを嫌う棋士はいない。
友人繋がりのミーハーな理解とはいえ、将棋を知ってくれる悠斗の態度は俺としても素直に喜ばしいものである。
「と……そうだ、思い出した。雑談も楽しいが用事もあったんだった」
俺が密かに心の中で理解ある友人の態度を喜ばしく思っていると、ポンと唐突に悠斗が手を叩いていう。本人の言う通り昼休みの暇つぶしに雑談しに現れたのかと思っていたが。
「何だ結局、俺にあったんじゃないか用事」
「まあね。って言っても合ったから来たんじゃなくて、来る途中に降って湧いたんだが」
「何だそれ」
「いま一年のクラス持ってる数学の中村センセーいるだろ。来る途中に話しかけられたんだわ。月ヶ瀬くんにあったら宜しくねってな」
「何をよろしくって? 俺の方に心当たりは無いんだが……」
中村先生と言えば中年の優し気な顔つきをした女性教員だ。特に授業が優れているとか性格が濃いとかそういった要素はないものの誰にでも人当たりが良く、物腰が柔らかなため生徒の人心は良い。かく言う俺も前に数学で分からない所を質問した際、丁寧に教えてもらった記憶がある。
そして逆に言えば俺と中村先生との間柄はその程度。直接名指しされる理由など全く思いつかなかった。
「そりゃあまぁ、だろうなァ。センセーの用事はどっちかっていうと学校とはあんま関係ない内容だったし。だから受けるかどうかは月ヶ瀬くんに任せるって言ってたしな」
言いながら何処か面白そうに。或いはこちらを揶揄うように言う悠斗。
こういう時のコイツは敢えて迂遠な言動で相手の反応を楽しんでいるだけなので俺はさっさと先を促す。
「勿体ぶるなよ。要件は?」
俺の先を急かす言葉に悠斗はニヤリと笑って言う。
「弟子入り志望だと」
「……は?」
思わず、困惑が口に出た。
一瞬、悠斗が言っている言葉の意味を脳が処理しきれない。
そんな俺の戸惑う反応をさも期待通りと言わんばかりに言葉を重ねる。
「だから弟子入り志望。将棋の月ヶ瀬竜馬五段にってな。喜べ、何と相手は今年入学の一年でしかも女子だとよ。かっー! モテる男は羨ましいねぇ!」
茶化す悠斗の声が耳からすり抜けていく。
悪ノリする悠斗に反応できない程に俺は唐突に降って湧いた事件に困惑するしかない。将棋のプロに弟子入りする、それは将棋のプロを目指す子供にとってよくある話だ。俺自身も研修会に入る前に将棋のプロを捕まえて弟子入りを志願した立場だ。
だが、それはある程度プロとして将棋を指し慣れたベテランと年幼い子供の話であって、プロになってからまだ一年と経っていない人間には縁のないはずの話だ。
ましてや同じ学校の一学年下の女子生徒などと……。
「……どういうことだ?」
心の底からの困惑が澄み切った青空の中に消えていく。
──四月。春の季節。
冬の寒さを残したながらも春の気配を携えて桜が舞う。
雪解けを告げるように俺の新たな日常が動き出した。