こんなはずでは
こんなはずでは
カノン雅彦
(1)
水彩画の様な真っ白な雲のある空。その彼方からやんわりと照り付けていた陽も翳り、辺りには闇がゆったりと落ちて来た。室井正雄はサンダルに足を通すと帳の落ちた庭に降り立った。この庭は彼の父が丹精を込め作った庭で、そのあちらこちらからコロコロと鳴く虫の音が美しい調べとして聞こえていた。正雄の住んでいるここS市は日本の北に位置する周りを山で囲まれた中都市だ。秋も深まったとはいえ、今年は未だそれ程寒くなく、Tシャツで過ごせた。遠く、山際には今しも出て来た月がほのぼのと輝いていた。
正雄は胸のポケットから煙草を取り出し火を点けると深々とふかした。煙草を吸う人が減って来た昨今だが彼は今だに愛煙家だ。彼は今しがた別れて来た山上京子の事を考えていた。京子とは学生の頃からずっと付き合っていて、彼はいつも快活に喋る京子の事を特に気に入っていた。京子は良く言った。
「私達は前向きに思考する事が大切なのよ。ネガティブに考えるのは良くないわ。ポジティブに考えれば免疫力だって向上するし、そうすれば長生き出来るのよ。だから毎日務めて良い方に良い方にと考える姿勢が大事なのよ」
京子の言うポジティブ思考の良さ、その意見を聞く度に「なるほどなぁ」と思い、惚れ惚れとした眼で京子を見つめる正雄だった。
正雄は京子とはおない歳だ。高校まで学校も一緒だったし、家も近い。二人は互いの家を同じ家族の様に行き来して育って来た。言ってみれば二人は兄妹の様なものだ。
正雄が京子を女として意識し出したのは中学に入ってからだ。その頃から正雄はまるで妹の様に彼にまとわり付いて来る京子に対して、一種戸惑いの念を抱き始めていた。正雄におかまいなく抱きついて来る事さえあったからだ。正雄はそんな時、一種の恥じらえさえ覚えたのだった。正雄はそんな自分の気持ちを京子に打ち明けてみた。しかしその時、京子は何も言わず黙って正雄を見つめていただけだった。
二人が互いを意識し合って付き合い始めたのはそれから少し経ってからの事だ。京子も正雄に対する自分の、心の底にわだかまっている気持ちが何なのかに気づいたのだ。京子の正雄を見る眼は、女の眼に変わって行った。
正雄は大学の英文科に入り、京子は看護学校へと進学した。そして二人供無事卒業し、S市に戻って来た。正雄は地元の高校の英語教師になり、京子は診療所で職を得、看護師として働らいている。
正雄は煙草の煙を空に向かってフーッと吐き出すと、吸殻を空き缶の中でギュッともみ消しジーンズのポケットに両手を突っ込み空を見上げた。空には雲は無く、満月が夜空に穴でも空いているかの如く、ぽっかりと浮かんでいた。遅咲きの花の香がかすかに漂っていた。それらが周りで泣き叫ぶ虫達の声と相まって一種幻想的とでも言える雰囲気を醸し出していた。正雄はこの雰囲気を永遠に味わっていたいとしみじみと思った。遠くでフクロウが鳴いていた。
(2)
京子は剣幕も露わに急ぎ足で歩いていた。怒り心頭に発するとは真にこの事であろう。彼女はコンビニの前で喧嘩をしている若者達に眼もくれず、サッと前を通り越した。彼女は正雄の家の玄関にたどり着くと、打ち付ける様に呼び鈴を鳴らした。ドアが空く迄に彼女はうっすらとかいた汗をハンカチで拭った。彼女の心の中では真っ赤な炎がメラメラと燃え滾っていた。正雄の立っている庭に案内されると、彼女は廊下から正雄の眼をしっかりと捉えながら言った。
「つい先日、誰か女性を連れてラブホに行ったって聞いたわ。本当なの? 確実な人から聞いた情報よ」
京子は重々しいがはっきりとした声でそう詰問した。
「えっ? ああ、確かに先日、行った事は行ったけど・・・・違うんだよ、仕事だよ、仕事さ。仕事で行ったんだよ」
正雄は京子の剣幕に押されてうろたえた。
「仕事も何もないわよ。本当に行ったのね? ああ、もう信じられない!」
京子は半分泣きそうな顔に変わって叫んだ。
「違うんだったら! 本当に仕事だよ!」
「学校の先生がラブホで仕事? そんな話聞いた事ないわ!」
京子は眼を潤ませ、首を振りながら言った。
「本当なんだよ、最近ね、生徒がラブホに出入りしているって情報が入ってね、それで俺がそこに確かめに行ってきたんだよ。まぁ、女の教師と行ったのはまずかったかな? とは思うけどね」
正雄はやっと彼本来の真面目な自分を持ち直し、理路整然と答えた。
「ええっ? そうなの? 私はてっきり・・・・」
「うん、フロントの人と話して来ただけさ」
「本当?」
「本当さ、第一あの時間は昼の授業時間だったよ。仕事の時間帯さ。そんな時間にラブホなんかに行く筈がないだろ?」
「私はある人から正雄さんが女性とラブホに入ったのを見た!って聞いたから、てっきり・・・・」
京子は消え入りそうな声でそう言った。
「安心しなよ。フロントの人と会って来た来ただけさ、俺はその目的でラブホに行くのは京子ちゃんとだけさ」
正雄はそう言って片目をチョンと瞑った。京子はそれを聞き、ぽっと頬を赤らめると、うっすらと微笑んだ。
「御免なさい、私はてっきり・・・・」
京子は小さく頷きながら、そう言った。
「分かってもらえたのなら、それでいいよ」
「私の早とちりだったわ、本当に御免なさい」
京子はバツが悪そうな顔をしながら微笑んだ。京子の怒りもやっと収まった様だ。
空の上からは銀色の月が二人を見守るかの様に優しい光を投げかけていた。虫の声が辺りを埋め尽くしていた。
正雄は教師の仕事が気に入っていた。熱血教師とまではいかなかったが、生徒の事を親身になって指導したので生徒からの受けも良く、皆から慕われていた。京子の影響を受けてか生徒には事ある如く、前向きに思考する様に、と言っていたが、ひとの性格等そう変われる物ではなく、彼自身ふとするとネガティブに考えてしまう事が良くあった。彼自身どうしても京子の様にはなれなかったのだ。
一方診療所で働いている京子は、大病院ではないので夜勤もほとんど無く、働いていてきついとは思わなかった。その上重い病気を持った患者も来ないので、ひとの死と向き合う事もなく、気分的にも楽だった。京子は持前の前向きな態度で皆と接していたので彼女も皆の人気者だった。彼女の診療所は家から遠い所にある訳ではなかったので、彼女は毎日自転車で通勤をしていた。彼女のお気に入りの赤い色の自転車だ。彼女は毎日鼻歌を歌いながら自転車を漕いで診療所へと通った。
良く晴れたある日曜の午後、正雄は京子を誘って近くの喫茶店へ出かけた。その店は昔からある落ち着いた感じの店だ。店内にはバロックが静かに流れていた。カウンターに席を取った二人は、最近起こった出来事等を話し、話題は京子の務めている診療所の話になった。
「診療所には症状の重い患者は来ないんだろ?」
正雄がコーヒースプーンを弄びながら言った。
「確かにそうだけど、たまに診療所でとんでもない病気が見つかる事もあるわ。そんな時はもう大変、診療所で応急処置をしておかなくてはならないし、皆てんてこまいしているわ。でもね医師としてもね、病気だけを診るのではなくて、人を診なくてはならないのよ。患者の心の状態、生活態度までね。それが本当の医療よ」
京子は自分に言い聞かせるかの様に言った。
「ふーん、医療ってのは大変なんだね、でも重症患者は皆大学病院に送り込むんだろ?」
正雄はニヤリとして茶化す様な顔をした。
「それはそうだけど、そういう重症な患者を見つけるのも診療所の仕事なのよ。お腹が痛いって言って来た人でもその原因がストレスや他の病気の事もあるわ。そういう人の原因を見極めるのはとても難しいのよ。その患者を永い事診ていたから解るって事もあるのよ。看護師が病気の原因に気づく事だってあるのよ」
京子は得意気な顔をして頷いた。
「患者の生活態度まで見続けるなんて、医療なんて大変な仕事だね」
「でも、やりがいはあるわ、だって人助けだもの。だから毎日が楽しいわ」
そう言って京子はニコっと微笑んだ。
話し込んでいるうちに店も込んで来て店内がザワザワして来た。二人は店を出ることにし、外へ出た。通りはたまに車が通るくらいで人通りも少なかった。
「今度山登りにでも行こうか?」
正雄が思い出したかの様に言った。S市の外れにあまり高くはないが富士山の形をした山があり正雄は以前、兄に連れられ登ったことがあった。正雄はそこから見た街の風景があまりにも綺麗だった事を思い出し、京子にもそれを見せてあげたいと思ったのだ。
「スニーカーでも履いていけば登れる様な簡単な山だよ。ハイキングみたいなもんさ、どう?行くかい?」
正雄は空を見上げながら言った。
「行く、行く、私お弁当作って行く」
京子も乗り気になって言った。二人は手を繋いで家へと向かった。西の空には真っ赤な太陽が沈みかけており、カラスが二、三羽黒いシルエットとなって飛んでいた。金木犀の香がやんわりと漂って来ていた。
(3)
翌日曜日、二人は山へと向かっていた。良く晴れた秋の日だった。市街地を抜けると畑が連なっていてトンボがあちらこちら飛び交っていた。畑が尽きると山の登り口に出た。二人は勇んで登り始めた。道は舗装はされてなかったが、急な登りではなく楽に登れた。上に行くに従ってゴロゴロした石が増えてきて歩くには注意が必要だった。二人はしゃにむに登った。中腹に差し掛かった所で休憩を取った。正雄は木の切り株に腰を下ろし、タバコに火を点けた。彼は煙草を二本の指で挟みさも美味そうに吸った。
「お弁当は何を作って来たの?」
正雄は煙を吐き出しながらそう言った。
「着いてからのお楽しみよ。楽しみは後に取っておいた方が良いでしょう?」
京子が姉が弟を諭すような口ぶりで言った。近くで小鳥がチチチとさかんにさえずっていた。振り返ると眼下を鷹が優々と舞っていた。二人はそれを無言でみていた。そして、又黙々と登った。
次に休憩を取った所で正雄は尿意をもよおした。
「ちょっと用を足して来る」
正雄はそう言い残して藪をかき分け中に入って行った。向こう側に抜けるとそこには岩がニョキニョキといっぱい立ち並んでいた。その中に岩の真ん中に穴の空いた一番大きな岩があり、吹いて来る風を受けヒューヒューと音を立てていた。正雄はその穴の前に立ち中を覗いてみた。
その穴は反対側まで続いていて通り抜けられる様だった。正雄は穴を通って向こう側まで行ってみようと思い、中に入って行った。恐る恐る歩いて行くと穴の壁は苔むしていてミミズを踏みつぶした様な匂いがプンとした。穴の中間位まで来た時、体がフワッと浮く様な感じがした。今のは何だろう?と思ったが、まぁいいか、と気を取り直し向こう側まで抜けて行った。ナラの木で用を足し、岩をぐるっと回って来た道を引き返した。藪を抜け山道へ戻ったが、そこにいる筈の京子がいなかった。どこに行ったのかなと思い、その辺りを探してみたが京子はいない。大声を出して京子の名を呼んでみたが返答はなかった。京子は忽然と姿を消してしまった。先に行ったのかな?とも思ったが、京子が自分を残して先に行く筈はないか、と思い返した。山頂まで行ってみようと思い山頂まで行ってみたが、やはり京子は見つからなかった。
「京子ちゃん!京子ちゃん!」
正雄は山頂から京子の名を大声で叫んでみた。しかし辺りはしんとして京子からの返答はなかった。一体何処に行ってしまったのだろう。胸騒ぎを覚え、正雄は急いで下山する事にした。のんびりと登って来た道を正雄はひた走りに走って降りた。木の枝が正雄の頬を引っかき、転んでは手の平をすりむいた。
山を降りると何はともあれ京子の家へと向かった。急ぎ足で街なかを通り過ぎる時、何か感じが違うかな、と思ったがそんな事など無視して京子の家を目指して急いだ。
京子の家に着くと呼びリンを立て続けに三回押し、ドアを激しく叩いた。はたしてドアを開けて出て来たのは何と、京子だった。彼女は正雄を見るなり「あっ!」と叫び、信じられないという顔をして首を振った。そして眼を大きく見開き唇をワナワナと震わせた。大きく開いた眼から涙がウルンと流れ落ちた。「正雄さん!」彼女はそう叫ぶと正雄にしがみ付いて来た。
「正雄さん!帰って来たのね!一体何処へ行っていたのよ?」
彼女は泣きじゃくりながら拳で正雄の胸を叩いた。正雄はびっくりして声も出せなかった。
「三年も何処へ行っていたのよ?ねえ、どうしていたのよ?」
京子は泣きながら訳の解らない事を口走った。
「どうして連絡もして来なかったの?」
京子は畳み掛ける様にそう言った。
「ええ?一体何の事?」
正雄には京子の言っている事が分からず、狐につままれた様な感じだった。そして聞いた。
「京子ちゃん、どうして先に帰って来ちゃったの?俺、随分探したんだよ!」
「えっ?何の事? それより三年間よ、三年もの間、何処に行っていたの? でも私はきっと帰って来ると思ってたわ。ずっと待っていたのよ、やはり私は正しかった。正雄さんは帰って来た!」
京子はそう言うと正雄を思いっきり抱きしめた。
「ちょっ、ちょっと待ってよ、ちょっと待ってよ」
正雄は京子を引き離し彼女の肩を両手で掴んで聞いた。
「三年間って? 三年間ってどういう事? 俺が三年間もいなくなっていたって事?」
正雄は訳が分からず聞き返した。
「覚えてないの?」
京子はびっくりして聞いた。
「覚えてないのね?」
京子はそう言うと正雄の驚く内容の話を始めた。
(4)
京子の話というのはこうだ。正雄は山で用を足しに藪の中に入って行った後、忽然と姿を消してしまったらしい。京子がそこら中探しても見つからなかったと言う。街へ戻って警察と消防に連絡を取り山狩りまでして探してもらったのだが、結局正雄は見つからなかったとの事だ。まるで神隠しにでも会ったかの様に消えてしまったのだ。警察では失踪者として処理され、捜査は打ち切りとなった。しかし京子は諦め切れず正雄が生きている事を信じ、今日迄暮らして来たと言う事だ。
「俺は本当に三年間もいなくなっていたの?」
正雄には信じられない話だった。
「そうよその通りよ」
京子は涙を流しながらそう言った。
「でっ、でも、俺はトイレに言って来ただけだよ、二、三十分の話だよ」
「そんな事より、早く家に帰ってご両親に元気な姿を見せて来たら? 随分心配していたから」
京子が正雄の両親を気遣い、そう言った。
「うん、まぁ、京子ちゃんがそう言うならそうするよ」
正雄は素直に京子の言葉に従った。
彼は家に向かいながら辺りをキョロキョロ眺めた。成程、周りの景色が以前とは少し違っていた。彼は歩きながら考えた。京子の言う事が本当の事なら一体自分は三年間もどうしていたのだろう?記憶を失っていたのか?何なんだろう?服を調べてみても朝着てきたまんまで、どう見ても三年間も来ていた服には見えなかった。靴だってそうだ。下ろしたての真新しいスニーカーだったが、新しいままで三年間履き古した靴には見えない。それらを考慮してみると記憶を失ってどこかで生活をしていたとは考えられない。とすると?一体どういう事なのだろう?正雄は考えに考えた。
以前コンビニのあった所に来たが、そのコンビニは不動産屋に変わっていた。正雄は三年後に来てしまった事を実感し、背筋が寒くなる思いがした。俺は本当に三年後の世界に来てしまったのだ・・・・正雄の心は不安さを通り越し、しだいしだいに驚愕の世界へと落ちて行った。正雄はボーっとした面持ちでゆっくりとゆっくりと、とぼとぼ歩いた。自分の家の前でふと、立ち止まり、家の者には何て言おうか悩んだ。良い考えがとんと浮かばないので、家の前でしゃがみ込み煙草を取り出し火を点けた。その時だった、「タイムスリップ」と言う言葉がふいに頭の中に閃いた。「えっ?、タイムスリップ?」正雄は愕然としてじっと考えに浸った。吸うのを忘れていた煙草の灰がポトリと地面に落ちた。そんな筈がない、タイムスリップなんて考えられない。正雄の頭はコンピューターの様に回転した。脳の中でショートした電極がパチパチと音を立てている様に思えた。しばらくそうやってしゃがみ込んでいたが、らちが明かないので玄関のドアを開けた。
「ただいま」
正雄はぼそっと言った。母親が奥から怪訝そうな顔をして出て来たが、正雄の顔を見るなり
「正雄!正雄なのね!帰って来たのね!」
と大声を上げた。そして今迄何処にいたのかとか、元気なのかとか、千とも思われる質問をして来た。正雄はそれらの質問には答えず、ただ
「疲れている、とにかく寝させて」
と言って二階への階段を登って行った。正雄の部屋は片付けもされずそっくりそのまま残っていた。正雄にとっては今朝出て来たままの部屋だったが、三年の月日が経っていたのだ。正雄は布団を敷いてドサッと倒れ込むと泥のように眠った。
眼が覚めたのは夕方の六時頃だった。下に降りて行くと父親がもう帰って来ていて、茶の間で晩酌をしていた。正雄の兄は東京で働いているので正雄は両親と三人暮らしだ。いつもは帰宅の遅い父親だったが、母が知らせたのであろう今日は珍しく早く帰っていた。父親は正雄の顔を見ると顔に笑みを浮かべ、ただ
「帰ったか」
と、言って盃をグッと空けた。寡黙な父親らしい喜びの仕草だ。正雄にはそれが、ただ嬉しかった。父親は正雄にも盃を渡して
「飲むか?」
と言って正雄の盃に酒をなみなみと注いでくれた。正雄はその酒をぐっと飲み干すと息を吸い込みフーっと吐いた。父がいつも呑んでいるお気に入りの辛口の酒だ。父はそれを見てウムーと籠った声を上げ、笑いながら自分の盃の酒を舐めた。夕食のおかずは正雄の好物ばかりが食卓の上に並んだ。
「正雄の爺さんから聞いた話だけどね・・・・」
父は酔うといつも同じ話をする。自分の父親から聞いた戦時中の話だ。
「世界大戦の前の日本ではね、天皇が全ての権限を握っていて、国民には権利とか自由と言う物が全くなかったんだって。そしてね、アジアで唯一の帝国主義の国家だったそうだ。そしてその体制の基で侵略をしたりして、戦争への道を歩んでいたらしいよ」
「フーン」
正雄にとっては何回も聞かされた話だったが、正雄は初めて聞いたかの様に受け答えをするのを常としていた。
「いわゆる天皇陛下が神様のように思われていた時代さ」
「しかし、内閣とか陸軍が全ての決定権を持っていて、天皇はただ君臨するのみだったと言われている」
父親はそう言うと盃の酒を又舐める様に呑んだ。正雄は父の話す戦時中の話が嫌いという訳ではなかった。いや、むしろ喜んで聞いた。正雄も戦艦大和とか零戦が活躍する話が好きだったからだ。
「爺ちゃんはね、原爆が落とされ戦争が終わった後学校で戦前とまるで反対の事を先生が言うのを聞いて、今迄信条として来た生き方はなんだったんだ?と思ったそうだ」
父親は宙を見つめる様な眼つきをしてそう言った。
部屋に帰って一人になるとまた悩みが戻って来た。仕事は休職扱いになったと言うことだし、周りの者皆が三年の時を経ている現実に正雄は言い知れぬ恐怖を抱いていた。京子の事もあった。そう、彼女は正雄より三つも年上になってしまっているのだ。皆に全て打ち明けてタイムスリップをして来た事を話してしまおうかとも思ったが、それも怖かった。京子に無性に会いたいと思ったが、会うのも怖かった。三歳上の京子と何を話したら良いのか皆目分からなかったからだ。
正雄は気分を変えようと窓をガラリと開け放った。下の庭からは虫達の大合奏が三年前と同じ様に聞こえていた。空を見上げると黒いシルエットとなった木の枝の彼方に、銀色の月がこれも三年前と同じ様にこうこうと輝いていた。
(5)
正雄は三日間一歩も外へ出なかった。下へ降りて来るのは食事とトイレの時くらいで、部屋にじっと籠っていた。京子からは何回か電話があったが、正雄がそれに答える事は一切なかった。両親は正雄がこの三年間の事を話したがらないのを察してか、その事に触れない様にしていた。正雄の引き籠りの生活は四日、五日と続いた。一週間が過ぎるとさすがの正雄も部屋に籠っているのがイヤになって来た。時が経って衝撃が薄れて来たのだ。京子に会いたいとは思ったがそれも止めた。三年間どうしていたのか聞かれるのは目に見えていたからだ。何とかせねばと思い、考えた結果「温泉にでも行って来ようか」と思い立った。そう決めたら行動は速かった。
翌日、正雄は学生時代四年間を過ごした東京に向かう急行電車に乗っていた。東京に着いたらそこで一泊をし、その夜行きつけだった飲み屋に顔を出し、翌朝箱根へ向かう予定だ。東京に着いて山手線に乗った正雄は隣に座っていた女性のスマホを何の気なしに覗いて驚いた。その女性はゲームをしていたのだが、その画面は三年前では考えられない程高度な画面だった。正雄はつくづく未来に来たのだな、と思った。
新宿は相変わらず人が多かった。ホテルでチェックインを済ませ心躍らせて街へと繰り出した。田舎へ帰って三年そして今度の事で三年の時が経ていた訳なので六年振りの新宿だった。さすが六年も経つと街も変わっていた。昔あった小さなお店等は違うお店に変わっている事が多かった。多くの人が正雄にぶつかりそうにして歩いていた。正雄はそれらの人を見て、俺からしたら皆未来人なんだな、三年間でも未来人なんだな、と思った。
新宿の歌舞伎町にゴールデン街という飲み屋街がある。多くの店はカウンター席しかないバーで、そういうバーが三百も一か所に集まっている。作家の卵とか演劇関係の人とか、いわゆる文化人と呼ばれる人達が良く呑みに来る飲み屋街で、一見さんお断りの店も多く、敷居が高いと言えば敷居の高い場所だ。
正雄は学生の頃、大学の先輩に連れられて一軒の飲み屋に出入りしていた。その店は四十歳くらいのママが一人でやっていた店だったが、薄暗い照明でユーミンの曲を静かに流していた店だった、正雄はその店が気に入ってしまい何度となく呑みに行っていた店だった。
東京に着いた夜、正雄はゴールイデン街を訪れてみた。お気に入りの飲み屋が有った所に行ってみると嬉しいことにその店はまだそこに有った。ドアを開けて急な階段を、そこかしこに置かれたフクロウに見つめられながら登って行くと、昔懐かしい店が現れた。まだ時間も早かったので客は誰もいなく、洗い物の手を止めて振り返ったママが、正雄を見て笑みを浮かべそして言った。
「あら、正雄君じゃない?随分久しぶりね、五、六年は経ったかしらね」
「ご無沙汰しました。あれから三年・・・・いや、六年です」
正雄は三年と言いかけ、はっとして六年と言い直した。そうあれから六年が経った計算になるのだ。正雄はしみじみと六年と言い治し、入口近くのカウンターに座りゆっくりと煙草を取り出した。
「六年も経つの?そうよね田舎に帰るって挨拶に来て以来だものね」
「今日もビール?ビールだったよね・・・・」
「はい」
正雄は出されたグラスをぐっと一口で空けた。ビールはキンキンに冷えていて旨かった。
「正雄君、田舎に付き合っている子がいるって言ってたわよね?その子とはどうなった?結婚でもした?」
「いえ、結婚はしてませんがまだ付き合ってます」
「結婚したいの?好きなんでしょう?」
「ええ、まぁ」
正雄は今ママの言った結婚、という言葉を聞いて言い知れぬ気持ちになった。確かに京子と結婚はしたいのだが、今回の事もあるしそれを手放しでは喜べないという気持ちがあったからだ。しかしママは続けて言った。
「結婚するなら早い方がいいわよ。色んな人を見て来たけど、だらだらと永く付き合っていた人は皆別れてしまったわ。この人って人がいたらパッと結婚するべきよ」
その時階段をドスドス音を立てながら登って来る人がいて次の客が来た。客は二人連れでカウンターに座るとママと息の合った話を始めた。どうやら常連の客の様だ。正雄は軽く目を瞑り三人のテンポの良い語りをジッと聞いていた。無性に京子に会いたいという気持ちが起こって来た。
(6)
翌朝正雄はロマンスカーに乗って箱根へと向かっていた。席にもたれ掛かった正雄の耳に昨夜飲み屋を出る時にママが後ろから叫んだ「早いとこ結婚するのよー」という言葉が響いていた。正雄は京子の思いでに浸っていた。しかし電車の律動はあまりにも気持ち良く、いつしか眠りに落ち入って行った。
眼が覚めたのはちょうど箱根に着いた時だった。たっぷり寝たので正雄の元気は全開で、勇んで駅に降り立った。駅には土産物屋がずらっと並んでいて、いかにも観光地の駅らしかった。宿を探そうと川沿いの道を歩いて行った。旅館は二人部屋が多く一人で泊まれる部屋はあまり無かった。やっとの事で露天風呂があり一人でも泊まれるという宿を見つけだし、チェックインをした。
部屋は川に面した広い部屋でとても気持ちの良い部屋だった。正雄は浴衣に着替えると中央に置かれたテーブルに座りお茶をすすった。しんとして何の音も聞こえて来なかった。窓からは下を流れる清流が見え、真に至福の時だった。
風呂にでも入って来ようと思い立ち、露天風呂へと向かった。風呂には老人が一人お湯に浸かっていた。正雄は湯で身を清めるとザブンと音を立てて湯に身を沈めた。飛沫が上がった。
「おいおい、お若いの、そんなに焦るんじゃないよ」
老人が厳かに言った。そして両手で顔をプルンと撫でた。
「すみません、若気の至りで・・・・」
正雄は素直に謝った。老人が続けて言った。
「君はまだ若いから焦って生きていると思うが、人生そんなに焦って生きる必要など、全くないんだよ」
老人はそう言って又両手で顔をプルンと撫でた。彼の頭の上にはタオルが畳んで乗っていた。
「別に焦っている訳ではないですが、何事も早くやらないと歳をとってしまいそうで」
正雄は普段思っていた事を正直に述べた。
「ウム、わしも若い時はその様な考えだったよ。しかしな、歳を重ねて行くに従って考え方なんてどんどん変わっていくのさ。若い時は二、三年でさえ大変な年月で、早い所なんとかしておかねば・・・・と思うが、歳を取って来るとそこは十年単位の世界になって来るのだよ。今のわしには十年なんてあっと言う間に過ぎてしまう。だから二、三年なんて物は有って無い様な物なのさ」
老人は頭の上のタオルを手に取り、顔に当てると静かに拭いた。正雄は今老人が言った事を聞き湯の中に首まで浸かり、その事を熟考した。木の葉がヒラヒラと舞って来て湯の上に浮かんだ。遠くには紅葉を始めた山々が霞んで見えた。露天風呂ならではの風景だった。
部屋に戻って来ると正雄はテーブルの前に座り呑み掛けだったお茶をゴクゴクと音を立てて飲み、煙草に火を点けるとのんびりと吹かした。清々しい気分だった。そして彼はさっきあの老人が言っていた事を考え始めた。あの老人は三年なんてあっという間だ、と言っていたな。彼の言う事を取り入れれば、タイムスリップして来た三年なんて無に等しい事になる。俺も彼の考え方を取り入れ様か、彼と同じように考え様か。正雄は手に挟んだ煙草を吸うのも忘れて考えに考えた。煙草の灰がテーブルの上にポトリと落ちた。
翌朝、眼が覚めて布団の中で両手を上げ、グッと伸びをした正雄は変わってしまっている自分に気づいた。そう、目覚めて直ぐ襲って来ていた「未来に来てしまった!」と言ういつもの重い気持ちが、全く無くなっているのだ。あの老人の意見を聞いた事で正雄は変わってしまったのだ。彼は清々しい気分で朝のコーヒーを飲んだ。
(7)
実家に戻って来た正雄はさっそく京子に会う手筈を整えた。旅行に行った事で京子に会う勇気が出たのだ。いつものコーヒーショップで正雄の隣に座った京子は言った。
「正雄さん、帰って来てから全然会ってくれないんだもの、私寂しかったわ」
「ごめんよ、ちょっと混乱してたから」
正雄は京子に本当にすまない事をした、と思った。
「もう何処へも行かないでね、今度いなくなったら私とても耐えられそうもないわ」
京子は正雄の眼をじっと見つめながらそう言った。
「大丈夫、もう何処へも行かないよ」
正雄にはタイムスリップをして来た原因が薄々分かっていた。山であの岩を通り抜けたからだ。あの洞窟が未来への入口だったのだ。それは正雄だけが知っている秘密だった。
「この三年間私寂しくって毎日の様に泣いていたのよ。あんな辛いこともうコリゴリよ、でもね私、正雄さんが絶対生きているって思っていたから 、それで耐えられたのね」
京子は眼を潤ませながら言った。そして続けて行った。
「でも、帰って来てくれたからそれでいいの、信じていて正解だったわ」
「本当に御免ね、俺にも何がどうなっているのか分からなくて・・・・」
正雄は口を濁した。
「本当に覚えてないの?」
「うん、俺にも何がなんだか皆目分からない」
正雄は京子に嘘を言っている自分に後ろめたさを感じ、謝りたい気持ちだった。
「おかしな事ってある物ね」
京子はそう言いながらティシューを取り出すと鼻をかんだ。
「でも、もう心配はいらないよ、もう俺は何処にもいかないよ。ずっと京子ちゃんと一緒にいる、誓ってもいい」
それを聞いた京子は一瞬にして顔をほころばせ、間髪を入れず言った。
「それってプロポーズ?」
「えっ?うん、まぁ」
正雄はうろたえて、しどろもどろになった。別にそう言うつもりで言った訳ではなかったからだ。
「ちゃんとはっきり言ってよ、もぅー、女はねぇ、プロポーズの言葉を期待しているものなのよ」
京子は急に快活になりそう言った。正雄は京子の様変わりに気圧され、言葉も無かった。
「プロポーズだ、プロポーズだ正雄さんからのプロポーズだ。もちろん答はイエスよ!」
京子は鬼の首でも取ったかの様にはしゃぎまくった。
二人は散々喋り、そして喋り・・・・コーヒーショップを後にした。京子は正雄の腕に自分の腕を絡め、ぶら下がる様にして歩いた。正雄はこれが幸せなのだな、と思った。その時である、正雄は背後に重い、車が近づいて来る音を感じ、振り帰った。そこには大きなタンクローリーが二人目掛けて突っ込んで来るのが見えた。
「あぶない!」
正雄は京子を道路の向こう側に投げ飛ばし、自分も反対側に飛び渡った。正雄は壁のブロックに頭をしかと打ち付け、正気がしだいに薄れて行くのを感じた。
(8)
京子の通夜は家で行われた。あまりにもあっけない死に様だった。京子の母親は眼に涙をいっぱい溜め、打ちひしがれた様に座っていた。正雄は涙こそ流さなかったが、夢遊病者かとまがう形相でぼーっとして座っていた。京子の遺影のそのあまりにも愛らしい姿が皆の悲しみを助長した。京子はもうこの世にいないのだ。正雄の心にその事実がひしひしと押し寄せて来た。正雄は思った、京子のいない世界に自分は生きていけるのか?と。
正雄は自分の部屋に戻ると崩れるように膝をついて倒れこんだ。涙が急に流れ落ちてきた。涙は後から後から流れて来て止めようがなかった。正雄はそれ程まで京子を愛していたのだ。正雄の嗚咽はいつまでもいつまでも続いた。
その日正雄は又あの山を登っていた。京子と一緒に登った山だ。わき目も振らず急いで登ったので、汗が滝の様に流れ落ちた。晩秋の良く晴れた日で、紅葉をした木々の葉が秋の陽に照らされ、キラキラと輝いていた。そんな美しい光景も眼に入らないくらい急いで、彼は登った。京子の死に遭い、彼は過去に戻ろうとしていた。もし三年前のあの日に戻れたなら京子の死を防ぐ事が出来る、あの道を通らなければ良いのだ。過去に戻れたならそうする事もできる。それとも・・・・京子の死は決められていて防ぐ事は出来ないのか?正雄には確信は無かったがやってみる価値はあった。方法はこうだ、あの洞窟を今度は反対側から通り抜けたらどうか?これも確信は無いが、ひょっとしたら三年前に戻れるかもしれない。正雄の期待は膨らんだ。あまりに急いだので足の筋肉が痛んだ、それでも正雄は洞窟を目指し急いだ。
洞窟のある所に着くと、洞窟の後ろ側に廻って行き、中を覗いた。前回と同じ様に苔むしていた。京子の死と出会い正雄はどうなっても構わない、と言う心境になっていた。正雄は祈りを込めて洞窟の中に入って行った。中間にて又フワッと体が宙に浮く様な感じがした。
通り抜けてみると、そこは雪景色だった。洞窟に入った日と同じ季節には戻らなかった様だ。辺りは全くの銀世界だったが、とにかく下山をしよう、と棒切れを杖代わりにして歩いた。スニーカーの中に雪が入って痺れる程冷たかった。ほうほうの体で集落のある所にたどり着いた正雄はほっとすると、何はともあれ京子の家を目指して歩き始めた。陽は翳って来ており辺りには闇が訪れて来ていた。
その時耳をつんざく様なサイレンの音が辺りに鳴り響いた。正雄は一体何事だ?と思った。訳が分からず見ていると、辺りの民家から人がパラパラと駆け出して来た。
「何してる!早くあそこに入れ!」
後ろから腕を掴まれ、正雄は振り返った。そこには初老の男が怒った形相をして叫んでいた。
「死にたいのか!早くこっちへ来い!」
その男に引きずられるがまま、正雄は土手に掘られた穴の中に入った。中はかなり大きい様だった。裸電球の灯ったその穴の中では、子供の泣き声があちらこちらから聞こえていた。
「ここは一体何なんですか?」
正雄は近くに立っていた小母さんに聞いてみた。
「貴方、何を言ってるの!防空壕に決まってるじゃないの」
小母さんは馬鹿にした様に叫んだ。
「えっ?防空壕って?・・・・」
正雄は怪訝そうな顔をして彼女を見つめた。
「おかしな人だね、アメリカの爆撃機が爆弾を落として行くのよ!」
それを聞いて正雄はぼんやりと分かったかの様な気がした。
「それではお聞きしますが、今年は一体何年なんですか?」
「本当に変な人だねえ、昭和十九年よ、しっかりしてよ!」
「えぇー?」
正雄はそれを聞いて頭の中が真っ白になった。