第39話 人間標本(4)
少し早いですが投稿します。19時に二本目です。
その日、D組の六時間目は理科だった。理科室で実験と言うのは中学生にとってそれなりに楽しいイベントとされる傾向がある。だが今回は実験ではなくあくまで標本の観察をするだけだ。面白みがないばかりか、カエルのグロテスクな内臓を見せつけられるのだ。そう言ったものに興味を持つ子供はごく一部だろう(智也はその一人だが)。……挙句、六時間目である。
そして言うまでもないが、朝比奈毓はそういうものに興味がない方である。と言うより、彼は勉強全般に対して興味が薄い。むしろ「勉強」と銘打たれると言うだけで知ることが億劫になる。そう言う訳で、どの科目も成績は中の下だった。時々ライトノベルの知識が役に立ちそうとみると俄然やる気が出てくるが、結局大して点数の向上にはつながらない。
だが今日の彼の憂鬱は、そんなことによるのではなかった。あの悪夢。あの惨劇。あの忌まわしい記憶――ここ数日、それがずっと彼を支配し続けている。むしろそれらを忘れるために、いつも通りやかましい学校に身を置き続けているくらいだった。ついでに言えば、今週は一度も慎太郎たちにからかわれることもなかったのだが、今の毓はそんなことも幸運とすら感じられない。
今日一日中、喉のあたりで常に何かが破裂しそうに膨らんでいるような、それに引っ張られる向心力で頭も体も潰れてしまいそうな、不定期にぞわぞわと世界を揺るがすようなあの痺れのようなものが襲ってくると何もわからなくなってしまいそうで、つまりそう……彼はもうそろそろ、自己と言うものが限界であることを感じていた。
そんな、周りからはわからない死にかけた虫けらのようにもがく苦しみを余所に、授業が開始される。やたらと遠くから聞こえるチャイム。それに重なって理科準備室から、教師がドスッ、ドスッ、と足音を立てて侵入してくる。
「――ハイ、ミナサマご静粛に願いマス!」
その教師の声は、聞き覚えがないばかりか人のものとは思えないような、深い、奇妙な響きを持っていた。何人かの生徒が悲鳴を上げるのを聴き、さすがに毓も顔を上げた。
「っ…………!!?」
そこに立っていたのは確かに白衣姿の男ではあったが、いつもの理科教師ではない……異形の、怪物だった。頭蓋と腹部があり得ないほど膨れ上がっており、顔中がテープと糸でツギハギになっている。
「ワタクシはドクター那麻吾呂氏と申しますデス。今日は標本制作の実演のため、この通り日坂先生には検体となって頂きマス。なので授業は代理でワタクシが進行するわけです。」
そう言いながら怪人は、肩に担いでいた理科教師を乱暴に机の上に投げ捨てる。プリントの山やアルコールランプが弾き飛ばされ、一緒に地面に落ちて火が付いた。
「オット、イケマセン!」
那麻吾呂氏は慌てた様子でどたどたと歩いて行き、そのずんぐりと大きな靴で火をバンバンと踏みつける。振動で教室中が上下に揺れ、近くにいた生徒たちは凍り付く。
離れたところにいる生徒たちは教室の扉に殺到するが、なぜか開けることができない。……窓も同様だった。
縄でぐるぐる巻きにされた日坂は、振動のたびに机に頭をぶつけながら、なんとか逃げ出そうと体をよじっていた。
「コラッ!検体は暴れるでナイ……!オイッ、助手ヨ!コイツをおとなしくさせナサイ!」
「うるせーな、ったく……!」
そう言いながら準備室から出てきたのは、マスクにマントを身に着け、赤く染まったバットを担いだ少年だった。その場にいる生徒の何人かは、どこかで彼を見たことがあるような気がした。
「おいてめぇっ!おとなしくしやがれっ!お前の頭も鬼瓦みてぇに潰されてぇのか!?」
「っ!?っ~~~~!」
日坂はその言葉を聞いても、あの出来事を思い出すことは無い。だが、目の前の「こいつ」に対する恐怖だけは、確かに覚えていた。
そしてそれを聞いて激しく動揺したのは、毓も同じだった。
――鬼瓦って……ていうか、こいつ……。
そうだ、自分とこいつは「共犯」だったのだ――
「よし、おとなしくなったぞ……!」
「ヨロシイ。それではミナサマご注目。これから標本製作の実演を開始致しマス。」
そう言って那麻吾呂氏は、どこからともなく差し棒ほどの大きさの針を、片手に一本ずつ取り出して見せた。
「先ずは軸を固定シマス。」
そう言いながら、日坂の胸骨の下に、右手の針をブスリと突き立てる。
「っ~~~~~!っ!っ~~~~~!!!」
日坂が悶絶する。
「おいっ動くなっつっただろうが!黙って刺されろよ!ていうか、殴って気絶させた方が早いんじゃねーの!?」
「イケマセン。検体に傷がついてしまいマス。」
「チッ……。」
「サテ、次は下半身デス!」
かくして二本目の針は、折り重ねられた日坂の両足を貫通した。彼は生徒たちの絶叫に合わせて、再び声にならない絶叫をあげる。
だが、確かに感じたと思った痛みは体の痛みではなく、何かもっと深い部分だけを貫かれたような感覚だった。現に、針が刺さった部分から出血などはしていない。
「サテ、次は腕デスネ!助手ヨ、彼の左腕を抑えナサイ。」
「へいへい……。」
那麻吾呂氏はまたどこからともなく新しい針を取り出し、それを使ってギコギコと縄を切る。処刑人が机の生徒側に回り込み、解放された日坂の左腕を掴む。那麻吾呂氏は右腕を抑えながら、その手首に針を突き刺した。細身の日坂は、彼らの怪力に敵うはずもない。
……そんな調子で、日坂の体にはどんどん針が増えていった。そのたびに彼は、痛みではない何かを理由に絶叫をあげ、涙を流す。
しまいには、彼の体は剣山のようになっていた。すっかり気を失い、本当にただの標本のように力なく横たわっている。
生徒たちももはや、逃げることを放棄して茫然としていた。
「サテ、これでヨシ!ホラ皆さん、下を向いてないで、しっかり見てくだサイヨ……!」
「おいお前ら!しっかり見ろとよ!」
処刑人がバットでガンガンと床を叩いて脅すので、生徒たちは仕方なく、その凄惨な検体に目を向ける。
「後は――待つだけデス。」
那麻吾呂氏は歯をむき出して、ニヤリと笑う。
すると、日坂に突き刺さった針が、ずぶずぶと彼の体に沈み始めた。再び生徒たちは悲鳴を上げる。
もはや通り抜けてしまうほどの深さに達しても、針は沈み込むのをやめない。
やがて、全ての針が完全に消えた――その直後。
彼の体内から、ごそっ……と妙な音が響いた。
ごそっ、ごそごそごそっ……!
彼の口がだらしなくあんぐりと開き、その隙間から二本の、肌色の棒のようなものが突き出す。
そしてそれは少しずつ外に伸びてきて、下に続く「頭部」が露出する。頭……で間違いなかった。左右に色の薄い眼球もついている。
それが生物であるという事実に気づいた生徒たちは、再度絶叫して教室の後ろに寄り集まる。
「あぁ~、まったくっ!いちいち叫ぶなっ、うるせえんだよっ!」
「チョットッ!彼らも大事な検体デスヨ!何度言えばわかるんデスカ!」
処刑人がバットを振りかざすのを那麻吾呂氏が羽交い絞めにして止める。「自分たちも検体である」と知ってますます叫ぶ生徒たちに、二人はコミカルな言い合いを見せつけ続ける。
『――マア、このやり取りも言ワバ、』
『――ただのお人形遊び、なんだけどナ。』
「彼」は心中でそんな「会話」を交わしながら、怒りながら宥めながら密かに生徒たちを嘲笑する。
そう、これはあくまで喜劇なのだ。彼らにこれが喜劇だと教えてやるのだ。お前たちはその喜劇の一部。お前たちの恐怖、苦痛、怒り、悲しみ、罪、その全てが――
そのあいだに日坂の口からは、少しずつ体節を引き出しながら、ナナフシがその全身を現しつつあった。
虚ろな目をしたそれは、何の感情もなくただ、ぽきぽきと体をひねり、脚をあちらこちらに向けて泳がせる。
毓はもう、ほとんど何も考えられていなかった。
これは夢か、現実か……?
というか、いつからが夢だったんだ?
自分が鬼瓦を殺したことは……?
駄目だ、何も……何もわからない。
「――おい、契約者。」
「……っ!?ひぃっ!」
数秒遅れて、毓は目の前に処刑人が立っていることに気づいた。教室の前方では、バットで殴られたらしい那麻吾呂氏が、たんこぶを抑えながら目を回している。
「お前は覚えてねえだろうが、約束だからな……お前の魂、いただくぜ。」
「っ…………!?」
処刑人は毓の顔をわしづかみにする。
「――そして、俺と言うキャラクターも、役割を終えて消える……お前の魂の中に還る。」
処刑人の腕が、毓の顔の中に沈んでいく。
「えっ、あぁっ……!?やめろ、やめっ……あっあっあっ…………。」
あっという間に腕だけでなく全身が吸い込まれ、処刑人は消滅した。
――なんだよ、どうなったんだ、俺の……
お れ の から、だ。
バリッ、バリバリバリッ――と。彼の背中を突き破って、金色の上翅が飛び出す。
続いてその額をめりめりと引き裂きながら、黒光りする角が飛び出してくる。
角はそのまま彼の後頭部にかけて引き裂きながら、その頭を露わにした。
背中から四本の脚が這いだし、その全身を彼の「中」から引き抜く。
「アッ、アアアアァ……。」
抜け殻となった毓を打ち捨ててそこに立ったのは、まごうことなきヘラクレスオオカブトだった。
それに呼応するように、「処刑人」と契約した他の生徒たちも変身し始める。ヒメカブト、ヤマトカブト、ノコギリクワガタ――
「……オオ、助手の数がだいぶ増えましたネ。これは心強い。ゲッゲッゲッ……!」
那麻吾呂氏が頭を押さえながら起き上がった。
フナムシ及び甲虫達は、その黒光りする多くの前脚に、柄付き針を握りしめる……生徒たちはもう、自分たちの運命からは逃れられなかった。




