9:追憶~禁忌~
眩しいと思ったら、朱い飛沫が舞った。
けたたましい騒音と悲鳴。
私の血じゃないことはわかったけど、悲鳴はどっちのものかわからなかった。
つないでいたはずの彼の手は、いつの間にか離れていた。
何が起きているかは何となくわかっていた。でも、認めたくないせいか彼に駆け寄ることも、見ることも出来なかった。
どうしても、振り向きたくなかった。
自分が薄情者の冷血だったら、どんなに良かったんだろう。
でも、現実は現実だ。
振り向いたら、そこには現実があった。
電柱にぶつかって潰れた車。その近くで放り出されている真っ赤に染まった希。
希がひかれた現実が。
「希!」
どうしてこうなったのかわからない。
私は彼に歩み寄った。まだ息はある。奇跡だ。
「サヨ。僕、死んじゃうのかな」
今にでも消え入りそうな声。どこから溢れているのかわからない血。
私の頭はショート寸前だった。
彼を失いたくない。けど、私にはなにも出来ない。
ふと、私の頭にあることがよぎった。
私なら、否、天使なら彼を失わなくてすむ。これしかない。
でも、禁忌…。
「死にたくないよ…」
私は息をのんだ。
迷ってる場合じゃないんだ。
自分がこんな人間のためにここまでの覚悟をするのか、わからない。
心があったならわかったのかもしれない。
息を深く吸い込む。
瞬間、辺りが青い光に包まれた。
それは1秒ほどの間だった。
再び光の中から現れた彼は、まるで死んだように寝ていた。
少し、不安になった。
震える手を口元に持って行く。するとくすぐったい息がかかった。
「よかった」
安堵の息が漏れた。じわっと涙もあふれてきた。
本当に良かった。こんなに嬉しいこと、今まであったかな。
ふっと体の力が抜けた。ふらっと視界が揺れる。
「サヨ!」
「え?」
私は地面に手をついて体を支えた。パシャッと音を立て血が少しはねた。
声がした方を振り向くと、そこには驚いた顔をしている小さな天使がいた。
「ユキゲ、帰ったんじゃ…」
「おせぇから心配してきたんだよ。それなのに」
ユキゲは目をつり上げた。
「なんだよ、これ!お前、禁忌を犯しやがったな!」
「これは…」
「んだよ!言い訳なんか聞きたくねぇ」
「ユキゲ」
こうなるとはわかっていた。承知のうちでやったことなんだ。
でも、何だろう、辛い。
「サヨ、天界に帰れねぇぞ」
「うん。知ってる」
「知っててどうして…!」
はっとユキゲは息をのんだ。
「ごめん」
悲しそうな顔をしてユキゲはうつむいた。
ユキゲとはずっと一緒で、パートナーで、親友で、家族みたいなものだったから、離れるのは寂しい。
でも、今は希の方が大切。一番って言ってもいいくらい。
「帰らねぇのか」
「うん。帰られないし。希といたい」
私は眠っている彼に手を伸ばす。
この人間が愛おしい。この人間と生きたい。この人間と同じ世界を見たい。
でも、彼は私が心のない天使だと知ったらどうするんだろう。
それだけが、気がかりだった。
「わかったよ」
彼ならわかってくれると思った。
「上には言わないでおく」
「ありがとう」
飛び立っていく彼の背を何とも言えない気持ちで見送った。