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36:いってらっしゃい

 サヨは何年ぶりかのヒナガの部屋にいた。白を基調にした、清潔感と冷たさがある寂しい部屋だった。

 以前来たのは、何年前だっただろうか?

「あら、サヨではありませんか。どうしたんですか?あなたが私を訪ねてくるなんて」

クスクスと可笑しそうにヒナガは笑いながら、席を離れた。その際、なにかをそっとしまったように見えた。大切ななにかを。

 いまだに上品に明るい笑い声を上げているヒナガを、サヨは強い眼差しで見つめた。

「星司の事だよ」

サヨの言葉をうけたヒナガの顔は一瞬に、驚きに変わった。目を見開き唇を震わせていた。

「星司、ですか」

声色が明らかに平静を保っていなかった。そうとだけ呟くと、ヒナガはなにかを抑えつけるように目を閉じた。

 その姿に、サヨは胸が締め付けられた。

 こんなにも想い合っているのに。

「マスターが、会いたいって」

「それは、無理です」

即答するヒナガ。なにも考えたくないとでも言うように。

 しかし、サヨは引き下がるわけにはいかなかった。それが誰のためなのかは定かではなかったが。

 席に戻ろうと、ヒナガはサヨに背を向けた。

「どうして!?マスターに会いたくないの?」

「お帰りになって!」

まるで、子供のような叫びだった。ヒナガは恐れているように肩を震わせていた。その肩に置かれた手も、酷く震えていた。

 サヨは言い返す言葉が見つからなかった。気持ちがわかるから。そんな事言うと怒られてしまうか。

「来世なんか、本当に信じるの?」

星司に同じような事を質問したっけ?

 ヒナガは振り返ろうとしない。表情もなにも見えなくて、なにを考えているのかがわからなかった。

「わかりません」

まるで全てを諦めてしまったような声だった。サヨはぞっとした。

「どうして、あんな事言ってしまったのでしょう。はっきりと別れを告げるべきでした」

ヒナガがやっと振り返ったと思うと、その顔には笑みがあった。いつものような優しく上品な笑み。しかし、今のそれはどこまでも悲しくて切なくて、見ているこっちが泣いてしまう。ヒナガの頬が、少し濡れていた。

「どうして、そんな事言えるの?好きじゃないの?」

サヨは自分が言っていることが、自分自身にも跳ね返って来ているような気がした。

 自分に、こんな事言う資格があるの?自分のこともわかっていないくせに。

 頭の中で、また誰かが囁いた。

「今の私には、しなくてはいけないことがあるのです」

「星司を犠牲にしても?」

悲しい笑みを貼り付けたままのヒナガは、口を開こうとはしなかった。

 沈黙が部屋を満たす。

 お互いに言葉に詰まってしまった。

 星司の気持ちもヒナガの気持ちも、痛いくらいわかる。答えに困る気持ちもわかる。

 どうしていいのかわからないで、逃げだしたくて。でも、逃げ出せなくて。全て、なかったことにもしたくなくて。

 矛盾だらけの気持ち。自分がわからないって思って。

 いつまで経っても、前に進めないでいる。踏み出した先がどうなっているのか知るのが怖くて、過去ばかり振り返って、縛られていることにも気づかずにいて。それで、他人に心配をかけ、時には傷つけて。

 自分のしたいことがわからないと、耳をふさいだ。

 サヨは、あの頃の自分を思い出した。あの頃?あの頃なのかな?今は?迷いはないの?

 サヨはこの部屋にいるのが耐えられなくなって、なにも言わずに去っていった。


 犠牲。私は、星司を犠牲にした。

 視線が歪むのを自覚したヒナガは、上を向いた。目にたまったものが流れ落ちないようにと。

 星司に会いたい。

 しかし、今はそれを認めてはいけない。認めてしまえば、しなくてはいけない事を後回しにしてしまう。

 もう、時間がない。早くしなくては、大切な人達が消えてしまう。

 いつもの様に見えた彼女の体も、いつ崩壊するかわからない。

 酷いといわれても、やり遂げなければいけない事。

 星司には会えない。

 来世なんか、わからない。

 どうしてそんな事を言ってしまったのだろう。忘れてくださいとでも言えば、こんな気持ちにならずに済んだのだろうか?

 しかし、会えなくとも星司が待っていてくれている。いつか、会える日が来ると思うだけで全てがうまくいくような気がしていた。

 だからなのか、あんな事を書いてしまったのは。

 どんなに言ったって考えたって、私は星司を離したくなかったんだ。星司から離れたくなかった。

「サヨも、余計なお節介をしてくれますね」

会いたくなってしまった。今すぐにでも、彼のところに飛んで行きたくなってしまった。

 サヨにあんなに強気に言ったのに、情けない。

 これが、星司の言っていた心というものなのだろうか?

 不思議だ。天使には心がないはずなのに、心を感じられるなんて。

「もしそうなら、逆らってはいけないのですよね」

ヒナガは軽い足取りで、その部屋から出て行った。

 しばらく飛んでいなかったけど、飛ぶ力は衰えていないようだ。


 会いたい。考えてしまったら、口に出してしまったら、それしか考えられなかった。

 カウンターに突っ伏して、そのときを星司は待っていた。

 昔のことを思い出していた。ぶっきらぼうだったなと、一人で苦笑いをした。もう少し、愛想よくしておくべきだった。つか、そもそもヒナガは自分のどこに惚れたんだ?

 星司は一人で小さく笑っていた。

 過去を懐かしみながら、いつか来る今を待ち遠しく思っていた。

 日はもう傾いてしまっていた。夜がもうすぐ来る。

 星司は、目を閉じた。なぜだか、今が心地よかった。

「風邪ひきますよ」

あの頃より、少し声が落ち着いたような気がした。

 星司は目を開け、顔を上げた。夕焼けが眩しい。

 それを背にしている彼女は、記憶の中の彼女となにも変わらない姿だった。

 愛しい気持ちが全てを支配したような気がした。

 星司は、心が命じるままに動いた。ヒナガもまた、同じようにかけだしていた。

 ぶつかるようにお互いの胸に飛び込んだ二人は、なにも言わずにしばらく抱きしめあっていた。

 こんなに、小さかっただろうか?

 星司は、腕に抱かれている愛しい人を強く強く抱きしめた。

 別れたときにしたように。離れていかないように。

 この気持ちを表す言葉なんかないのではないか?

 そう、ここにいる。ふれあっている。存在を確かめ合っている。それが思いを伝える事のできる手段だった。

 ずっと、このままでいたい。時間なんてなくていい。

「星司、歳、とりましたね」

クスクスと可笑しそうに、ヒナガが見上げてくる。それにつられて、星司も微笑んだ。

「あれから、何年経ってると思ってんの?」

「そうですよね」

今度は、泣き出しそうな顔をするヒナガ。星司はそれに慌てた。

「お前こそ、変わってないじゃないか」

「…天使ですから」

精一杯の冗談のつもりだったのに、それは逆効果であったようだ。

 再び星司の胸にヒナガは顔を埋めた。

 天使と人間。この隔たりはいつになったら、消えるのだろう?

 星司は下唇を噛み、ヒナガの肩に顔を埋めた。

 辛いのか。悔しいのか。理解出来ない感情が星司を襲った。

 子供のように、嫌だ、離れたくない、ずっとそばにいてと、泣き叫びたい気持ちを必死に押さえ込む。

「いつになったら、お前は俺のところに戻ってくる?」

苦しげな星司の声に、ヒナガは胸が痛んだ。

 その問いには答えられない。

 いつか、自分でもわからない。もしかしたら、戻って来られないかもしれないのだから。

 ヒナガがしようといていることは、そうゆう事だった。

「星司…」

「待ってるから」

自分がこんな苦しそうな悲しそうな顔をさせているんだと思うと、胸が張りさせそうなぐらい痛んだ。

 好きなのに、苦しめてしまう。愛しているから、苦しませ続けてしまう。

 全てを投げ捨てて彼のところにいけるなら、どんなにいいだろう。

 しかし、彼女も大切だから、私が始めたことだから、決めた事だから、今更投げ出すことなんてできない。

 待ってる。その言葉がどんなにヒナガを苦しめ助けているか。星司は知っているだろうか?

 ヒナガはなにも答えられなかった。かわりに、星司を強く抱きしめた。

 今までの時間を、そして、これから会えなくなる時間を埋めるように。

「カプチーノ。飲んでいくか?」

ヒナガが答える前に、星司はカウンターに向かっていた。西日が差す店内は、昔よく通っていた喫茶店に似ていた。二人が再会したあの店に。

 離れた星司のぬくもりに少しだけ照れながら、ヒナガはカウンターの席に座った。

 カプチーノのいい香りが店内を満たしていく。それだけで、心が透き通っていくような気がした。

 カウンターに出されたカプチーノの湯気に目を細める。

 あの店内と、見慣れた常連さん、それと制服を着た星司が見えたような気がした。

 星司がカウンターの向こう側に腰を下ろした。自分のコーヒーに口をつけながら、昔話を始めた。その姿は昔と変わらない、ぶっきらぼうで無愛想で不器用な愛しい人だった。

 この人は、こんなに変わらないのに。どうして自分は変わってしまうのだろうとヒナガは目頭が熱くなって、鼻がツンとした。

 しかし、ニッコリと笑った。笑って昔話に加わった。他愛のない昔の事をずっと。

 日は、もうとっくに沈んでいた。店内はすっかり暗くなっていた。

 いつまでにこのままではいられない。心地がいいからといって、ここに残ることはできなかった。空っぽになったコーヒーカップを置いて、ヒナガは立ち上がった。

 昔話は、もう途切れていたから。

 できるだけ、星司を見ないように心がけ出口へ向かう。星司はもう、なにも言わなかった。

 からんっからんっ

 ドアベルの不規則な綺麗な調べ。

「いってらっしゃい」

星司はそれだけ言った。カウンターに突っ伏しながら、考えた末の言葉をはき出した。

 ぶっきらぼうな言い方。愛想の欠片もない。

 しかし、その不器用さにヒナガの心は満たされた。

 ふっと柔らかく顔を歪ませると、店を旅だった。

「いってきます」

帰りは遅くなるかもしれない。でも、できるだけ早く帰ってくるから、待っててね。


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