33:カプチーノ~あべこべ~
それから何日後かの昼。俺はヒナガとその店にいた。言ったからに破るわけにはいかないからな。
「ずっと楽しみにしてました」と嬉しそうにヒナガは言っていたが、その表情の裏にどこか影があるような気がした。
コーヒーの独特のいい香りと、ケーキの甘い香りが充満している店内は、オシャレで明るかった。女の子が好きそうな店。そんなイメージを持った。
さすが、人気店とあって店は人で溢れていた。こんな昼間からケーキ食いに来るなんて、物好きだと思ったけど、今は自分もその一人だった。考え直したさ。
向かい合わせで座っているヒナガは、嬉しそうにケーキを口に運んでいた。俺も、どこか不思議な気分でケーキをつついていた。美味しかった。別に食がすすまないわけでもないし、まずいわけでもない。ただ、空気が気持ち悪かった。
嬉しそうに食べてるヒナガが、なにか隠している。そんな気がした。
気のせいかもしれないと、何でもない風にケーキを食べるけど、空気が悪い。
早く話してくれないかとそわそわしているうちに、皿は空っぽになって、コーヒーはすっかり冷めていた。ヒナガの皿も空っぽで、残りはカプチーノだけだった。
しかし、口をつけない。カップの取っ手を掴んでいるが、飲む気配はない。
さっきまで、あんなに楽しそうにしていたのに、今の顔は辛そうだった。痛そう。そう言ってもいいくらいだった。見ていて、こっちも辛くなった。
なんだろう。どうしたんだ?
しかし、いっこうに話そうとしない。
聞いた方がいいのか?優しい言葉をかけるべき?
俺の口からは、どんな言葉も出てこなかった。
不思議な空気のまま、時間ばかりが過ぎていった。
突然首を振って頷くと、カプチーノをグッとヒナガは一気飲みした。そして、ニッコリと微笑む。今までのはなんだったのかと思わせるような、そんな笑み。
「さ、帰りましょう。今日もバイトがあるのでしょう」
確かに、この後もバイトで長いことのんびりも出来ないが、そんなの逃げる言い訳だ。
今別れたら、きっと終わりだ。
なんて思いながらも、俺たちは会計を終えて、店を出ていた。しかも、もう俺のバイト先につきそうだった。後五分も経たないうちについてしまう。
ヒナガがずっと話しをしてくるが、ほとんどトンネルのように耳を通り過ぎていった。
なにか考え事をしてわけではない。ただ、時間ばかりがいつの間にか過ぎていってた。
ふと、ヒナガが隣にいないことに気がついた。はっとして、あたりを見渡す。もしかして、もう消えてしまったのか?
ヒナガは俺の少し後ろで立ち止まっていた。なにを見るのでなく、ただ立ち止まっていた。
その隣を一組のカップルが通り過ぎた。手をつないで幸せそうな二人組。
「気づくの、遅いです」
俺と目があったヒナガは、ニッコリと笑った。それは誰よりも可愛らしく悲しそうな笑みだった。
小走りで俺の方に来ると、ゆっくり俺の体に腕を回しハグしてきた。
ここは普通の路地。通行人が好奇な目で見てくるのがどうしようもなく恥ずかしかった。それでも、離れたくなくて、離してしまいたくなくて、抱きしめ返した。逃げられないようにと、無意識のうちに腕の力を強くしていた。
運が良いのか、ここは人通りが少ない。つまり、好奇の目は少なくて済む。
しばらく、俺はヒナガを離さなかった。ヒナガも俺から離れようとしなかった。
さすが成長期。初めてヒナガに会ったときより身長は高くなっていた。
俺の鼓動を確かめるように、ヒナガは胸に耳を当てていた。
ヒナガはこんなに小さかったのか。細かったのか。壊れそうだったのか。
まるで花でも抱いているようで、力を入れることなんか出来なかった。それでも、感情が溢れる。強く抱きしめて、ヒナガのぬくもりをずっと感じていたい。
この矛盾が、理性を壊さなければいい。いや、壊してしまったら楽なのか?
なんで、こんなに悲しいんだ。
別に別れを告げられたわけでもない。
むしろ、喜ぶべきなんだろう。好きな人とハグをしてるのだから。
でも、どうしようもなく悲しい。苦しい。
この気持ちは俺のもの?それとも、ヒナガの?
こんなにも近くに彼女がいる。体も心も。
「離れるなんて…無理です」
ぽつりとヒナガは呟いた。その声は震えていた。ギュッと俺の服を握りしめ、顔を俺の胸に埋めた。
俺はなにも言わずに腕に力を入れた。
「今日で、お別れなんてしたくありません」
否定しているのに、言葉の奥には肯定が隠れていた。
離れなくては。お別れしなくては。
胸が締め付けられる。苦しい、痛い。
「愛しています。アナタが恋しい。星司」
胸に今まで以上に苦しく悲しいものが広がっていった。
今日は逆さまだ。あべこべの一日。
幸せのことがこんなに辛いなんて。
どうしてこんなに辛い。どうしてお別れなんだ。
どうして、こんなにもこいつが、ヒナガが愛しくて恋しい。
「星司。星司」
俺の名を何度も何度も繰り返すヒナガ。
忘れないように。これからの分まで、呼べない日の分まで。俺の名を呼んでいた。
「ヒナガ」
初めて呼ぶ名前。愛しさが胸に溢れ、もうヒナガを離すなんて出来るわけがなかった。
離したら、消えてしまうのだろう?
口でどう言おうが、俺の前からいなくなってしまう。
そんなの嫌だった。一生このままでも良いから、彼女をつなぎ止めたかった。
「どこにも行くな。俺が一生お前を離さないから」
離さないんじゃない。離したくない。
頷いてくれるヒナガを俺は待った。しかし、ヒナガは頭を横に振った。
「出来ません。私は…天使、ですから」
ヒナガの言ったことは俺には理解の出来ないことだった。
それから、彼女は天使のことを俺に説明した。
人間より長命で、心が無くて、禁忌があって、人間とは結ばれることは無いと。
俺には物語の中の話のようにしか聞こえなかった。しかし、全てを信じた。ヒナガが嘘をつくわけがない。
しかし、結ばれるわけがない?
それだけは納得いかなかった。
それなら、俺の気持ちは?ヒナガの気持ちは?心がない?そんなこと、あるわけ無い。
こんなにも心を感じあっているのに。
「ヒナガに心がないわけないでしょ。 心ってのは、その人自身の意志で、存在。俺はそう思う。自分の思いに逆らって生きると、自分を失う。だから、俺はお前を一生離さない。お前が離れたとしても、一生待ってる。俺には、お前だけなんだ」
「何十年も。あなたは待っているというのですか?」
「死んでも待ってる」
それが俺の心。
じゃあ、ヒナガの心は?
「天使のお務めは長い。本当にいつ終わるのかも、本当に終わるのかもわかりません」
俺は、覚悟を決めていた。どんな結果になっても、ヒナガをヒナガの思うとおりにしてやろうと。
今ヒナガの語っていることは、心。
それなら、否定なんて出来ない。
「しばらく、私はあなたに会いません」
つなぎ止められなかった。
俺は非力なただの人間だから。まだ、子供だから。
なにも出来なかった。
「…待っていて、もらえますか?いつになるかわかりませんが」
俺はただただ呆然としていた。
つなぎ止められた?
待っていてもらえますか。
その言葉が頭の中で響いた。
俺の腕から離れたヒナガは青い空を背に、花のように笑っていた。
頬に涙の後が残っていた。しかし、もう乾いていた。
そうだ。今は泣くべき時じゃない。
今は笑って、彼女を送らなければ。
泣きたい気持ちを抑え込んだ。
笑った。また会える日を祈って。願って。期待して。笑った。
「人間になって帰って来ます」
それだけだった。
なにも残さずに消えていった。
言葉通りにヒナガは姿を見せなくなった。
しかし、恋しい気持ちが変わるわけがなかった。今でも、愛している。
だから、俺はずっと待ち続ける。いつでも帰ってこられるように、またカプチーノをいれてあげられるように、喫茶店を続ける。
時折、銀髪の兄ちゃんがヒナガの手紙を届けてくれる。
俺を気遣う文章や、今の自分の様子、友達のこと。
そんな事をまとめて手紙をくれる。いや、くれてた。
ヒナガから、もう手紙は来ないだろう。
アイツは、アイツの守りたいものがあるらしい。
そのために、自分を捧げると。
最後の文章がこんなもんだから、俺はまだあいつを諦めずに待ち続ける。
『私達が本当に運命の相手なら、来世でも会えますでしょう。
わがままだとは承知の上ですが。
待っていてくださいますか?』