30:星司
新年を迎えても、世界は普通にまわっていた。いつも通りに変わらず。
クリスマスを終えたからと言って、新年を迎えたからと言って、サヨの周りには特に変化はなかった。
ただ、最近ウスイとユキゲがやたらと仲が良い。セイメイも、相変わらずセイメイだ。
ただ、変わったと言えば最近サヨ体がおかしい。うまく動かないことが多い。
どうしてしまったのだろう?
サヨには全く訳がわからなかった。
疲れかなと、一人で納得をしていた。実際のところは崩壊が進んでいると知らずに。
今日は、珍しくサヨはHEARTに顔を出していた。
いつか寄ろうと思っていたが、寄らないまま日にちが経っていた。
と、カウンターにはいつものようにマスターがいた。
しかし、今日は新聞ではなくいくつかの折り目のついた紙を読んでいた。それが手紙だと、気づくには時間はいらなかった。
文章を追っている目には、何とも言えない感情が見え隠れしていた。
愛おしそうな甘い目だったり、悲しそうな苦い目だったり。サヨには難しい、けれどどこか知っているような…。
胸が、思わず苦しくなった。息がうまく出来ない。よくわからないうちに、涙が滲んでいた。
ふと、マスターがサヨの方を見る。息をのんで目を見開く。いったいマスターは何をそんなに驚いているのだろうか。
「お、はよう、ございます」
思わず、ぎこちない挨拶をしてしまう。しかも、今は昼時だ。
どうしたらいいのかわからず、サヨはそのまま立ち尽くす。
静寂が店を包んだ。聞こえるのは外の音と店内に流れているひっそりした音楽。
からん、からん。
綺麗なドアベルが来店を告げる。
「いらっしゃいませ」
マスターが営業スマイル貼り付ける。それが、仕事をする出来た大人なのだろうが、どこか悲しかった。
「マスター。私が店番するよ」
「いや、でも悪いっしょ」
「もう、今更何言ってるのさ。昔だってこき使ってくれたじゃん」
サヨはイタズラっぽく笑ってみせる。すると、マスターは困った様な助かったような顔をした。
「ありがとね。じゃあ、ちょっと俺は休憩するわ」
急ぎ足で店の奥に入っていった。
サヨは、そそくさとお客の方に歩いていった。あの人は常連の人だ。
また、ドアベルが鳴る。
今日は客が多い日なのか?
「…ですね、かしこまりました。いらっしゃいませ~」
オーダーを取ったサヨは、大急ぎでカウンターに戻り営業スマイルを出入り口に向けた。
と、次の瞬間その笑顔は引きつった。
太陽を反射して眩しい、銀色の髪。安っぽい笑顔。
「やぁ、サヨチャン。まさか、今日はここにいたなんて」
セイメイは、幸せいっぱいというような眩しい笑顔でカウンター席に座る。
サヨは気にしないという素振りでコーヒーを入れる。
実は内心そんなんではない。セイメイとはいろいろとあった。実はあれ以来まともに話したことはない。ましてや二人でなんて。
後ろめたさと謝罪の気持ちと、感謝と、やっぱり友情と…気まずい。
「なんで、あんたがここに来るのよ」
何事も無かったかのように、昔のように接した。接しているつもり。
実際どうなっているんだろう?
サヨの胸は今にでも破裂しそうだった。
「一応客だヨ?そんな態度でいいのかい?」
「客なら注文しなよ」
サヨは入れ立てのコーヒーをさっきの客の席へと運ぶ。
カチャカチャと陶器がぶつかる旋律は、コーヒーの苦い独特の香りといいハーモニーを作り出していた。
なぜか指輪のさびが落ちていくように、サヨの心も綺麗になっていくような気がした。
「おませしました。……ごゆっくりどうぞ」
そそくさとカウンターに戻ってくるサヨ。
なにをそんなに急ぐ必要があったのか、サヨにすらわからないでいた。
「ボクもアレ」
「ホントに注文したし。お金持ってるんだか」
「失礼だネ。ボクだって働いてるんだヨ。それに、注文しろってサヨチャンが言ったんだからネ」
「そーでしたね」
サヨはてきぱきとコーヒーを入れはじめた。
なんか、以前と比べてセイメイが意地悪になったような気がする。
「で、なんで来たのさ。こうゆうとこ、セイメイ来ないじゃん」
「ちょっとオツカイさ」
「おつかい?あんたが?いったい誰があんたに命令するのさ」
「それは秘密なんだヨ。サヨチャンにも言えないんだ」
サヨはカウンターにコーヒーを出す。
しかし、セイメイは黒い液体を眺めるだけで、いっこうに口をつけようとしない。
しかも、話は途切れてしまった。どこか、気まずい空気。
と、さっきのお客が財布をサヨにかかげて見せた。お会計という意味だ。
サヨはレジを開ける。おつりもなければ、親しい会話もない会計が終わる。
とてとてと空いたコーヒーカップを取りに行く。
重たい空気はこの店に充満しているのだろうか?それとも、サヨにまとわりついているだけ?
空のカップを持って戻ってきたサヨに、セイメイが静かに話し出す。
「幸せかい?雨宮とうまくいってる?」
思わずサヨの心臓が大きく鳴った。
セイメイは未だにコーヒーに口をつけていない。なにかがその中にでも映っているように、ただただ見つめていた。
どこか寂しそうな表情。
一度は愛そうとした人のそんな顔は、サヨの胸に刺さった。
「…うん。幸せだよ。また、あの日だまりに戻ってきたみたい。信じられない」
一言目は、喉に絡みつきなかなか出てこようとしなかったが、出てきてしまえばその後はサラサラと言葉が流れ出てきた。
クスッと小さくセイメイは笑って、ブラックのコーヒーを口にした。
それがどういう意味なのかはサヨには全くわからなかった。
「キミには、日だまりが似合ってる。一生そこにいてもらわないとネ」
「変なセイメイ」
サヨにはわかっていなかった。セイメイの言葉にどんな意味が含まれていたのか。
今のサヨにはわかるわけがなかった。
純潔を失うことがどうゆうことか、知らない彼女には。
「サヨ。俺…」
散歩してくると言いかけたマスターは、目を丸くしサヨの後ろで静止していた。
やぁ。と、セイメイがそれに手を振る。
わけのわからないサヨは、二人の顔を見合わせることしか出来なかった。
「返事がもらえるかなっと思ってネ」
「…」
あの陽気なマスターが、下唇を噛み苦しそうにうつむいていた。拳は強く強く握られていて、小刻みに震えていた。
うっすらと、セイメイの瞳が現れる。ゾッとさせる色の瞳。
「その様子じゃ、返事はまだなんだネ。残念だヨ。チャンスは今しかないのに」
「俺は…」
「あの人が聞きたいのは、アンタの気持ちだよ。本当のネ」
「ちょっと!待ってよ」
ただならぬ雰囲気と、わけのわからない会話にサヨはパニックを起こしていた。
「いったい、なにが起こってるの?セイメイとマスターが、知り合い?あの人って?」
「サヨチャン。キミが知らなくてもいいことが世の中には、たくさんあるんだヨ」
「これがそうだって言いたいの?でも…」
チラリと、マスターを見る。
どこか昔のサヨに似ていた。
どうすればいいのかわからなかった時の。道に迷って、なにもわからなくなった時の。自分の気持ちを包み隠した時。愛するものを一番思ってた時。そして、失った時。
「知る権利は無いかも知れないけど、マスターをこのままには出来ないよ」
スッと、少し細めたセイメイの冷たい瞳がサヨを射貫く。
負けじとサヨも決意にこもった目で返す。
さすがのセイメイも心が揺れる。
「ボクが話すわけには行かないんだヨ。ボクは傍観者にすぎないからネ」
さすがに負けたセイメイは目をそらし、申し訳なさそうに言った。
飲みかけのコーヒーを置いて、セイメイは出入り口へと歩いていった。
からん、からんと、不規則なメロディー。
「また来るヨ。返事、早めにしな」
店を出て行った途端、セイメイの姿は消えてしまった。
後味の悪い、別れ方だった。
「あいつと、知り合いだったのね」
「それはこっちのセリフだよ。いったいなにが起こっているの?」
サヨはうつむいている星司を見つめた。何でも受け入れると言うように、真っ直ぐ。
「つーことは、サヨは天使ってわけなのね。いろいろと納得いくわ~」
目を細め、いつものような口調で明るく振る舞う星司は、痛々しくて見ていられなかった。空元気なのは、どう見てもわかる。
「マスターは天使を知っているの?もしかして…」
「いや、俺はいたって普通の人間よ。ただ…」
星司の言葉が詰まった。
言葉を選んでいるよう。決意を固めているようで。
口を開けては閉める。幾度もそれを繰り返す。
サヨは、その口から言葉が発せられるのを待った。
「サヨは、ヒナガを知ってるか?」
心臓が鷲掴みにされたように、胸が一気に苦しくなった。
ヒナガ。
その名はもちろん知っている。
「うん。知ってる。ヒナガは、私の…」
その後がうまく出てこないのはどうしてだろう?
しかし、なんて言っていいのかわからないのは確かだった。
「俺は…ヒナガを待ってるんだ」
「え?」
もう、何が何だかわからなかった。
どうして、ヒナガが出てくるのか。どうして、今になって星司の口からヒナガの名前が出てくるのか。
サヨの頭には疑問しか存在しなかった。
次に何が口から出てくるのか気になって、それを凝視した。
「俺はもう、十何年もあいつを待ってるんだ」
星司は、全てを静かに話し始めた。
それがどんなものなのか。今後のサヨの運命にどう影響するのかわからない。
でも、サヨは静かに耳を傾けたのだった。