12:追憶~そして~
「サヨ、聞いてくれる?」
「ん?なに?」
私は食べかけのカレーパンを片手に、後ろを歩いている希を振り返った。
希のアトリエまでは後数分の道路。
近くには建物が少なく、街灯も少ない。人通りもほとんどない。ここに住んでからこの通りで人と出くわした回数なんて数えるくらいだろう。
「付き合ってくれない?」
「へ?何?食事に?それとも、買い物とか?あ!もしかして、また絵のモデルとか!」
「や、そうじゃなくて」
希が困ったような顔をした。
やっぱり、いや、違うよね。や、でも、これ以外に何が…でも…。
私の頭の中は混乱していた。かなりパニックしていて頭が爆発しそう。
「その…」
希が口ごもる。
熱いのか、緊張しているのか、カレーパンを持つ手が汗ばむ。
どちらかと言われると、後者のほうが正しいと思う。
希の口から、どんな言葉が発せられるのか。
希の目が泳いでいる。言いたそうに何度も口を開いては、言いずらそうに口を閉じる。
秋の少し前のはっきりしない風が、髪を揺らし頬を撫でる。
カレーパンの最後の一口を喉に押し込んだけど、味が全くしなかった。喉に何かが落ちる感覚だけが、食べたこと教えてくれる。
どこからか、フッと血の臭いが鼻をくすぐったような気がした。
でも、カレーの臭いにかき消された。
ほんの一瞬の事だったから、気のせいかもしれない。もしかしたら、緊張しすぎて鼻血が出てきたのかもしれない。
私は自然を装って、鼻をこする。大丈夫。鼻血は出てない。
希が意を決したように、頭を上げまっすぐ私を見る。目は本当にまっすぐで、真剣そのものだった。
「サヨのことが、好きだから。付き合ってほしい」
ドクッと心臓が鳴った。
嬉しくて涙が出そうだった。だけど、怖かった。怖すぎた。嬉しい以上に恐怖が私を襲った。
両思いだとわかった今も、私は迷っている。
もう、分かれ道は選んでしまったのに、戻れないのに、迷って止まっている。
一体、私は何がしたいんだろう。
「答えを出すの、今すぐじゃなくていいよ」
希は少し微笑んだ。優しい声、微笑み。しかし、そこには少し憂いの表情があった。
答えはきっと出ていた。でも、それを伝えてしまった後の事を考えてしまうと、言葉は喉に突っ掛かってしまう。
喉がカラカラに渇いていた。つばを飲み込む音さえ、うっとうしい。
「明日でも、明後日でも、いくらかかったっていい」
今伝えなきゃ。今伝えなきゃ。
頭の中で、その言葉がグルグル回っていた。
そう、頭では何もかも、たぶんこれから先のことも今何をしなくちゃいけないことも、わかっていたんだと思う。
わからないふりをして、何かを隠そうとしていたのかもしれない。
でも、言わなくちゃ。
「私…」
ピチャッ
思いきってあげた顔に朱い雫が跳んできた。
生臭い、血の臭い。
蛇口から滴る水のような朱い雫。
真っ赤に染まった、希の体。
顔に触れた手のひらを見ると、真っ赤に染まっていた。
視界がぼやける。
崩れ落ちた希の傍らに、一人の少年が立っていた。
真っ赤な翼。真っ黒い服。真っ赤に染まった大鎌。
それが誰で、何をしたのか瞬時に理解できた。
いずれ、こうなるとわかっていたのに…。
死神。とても希少な天使。
天使の犯した禁忌の後始末役。禁忌を犯した天使の後始末役。
神のご命令で、私の後始末に来たんだ。
禁忌で蘇らせた者を始末し、禁忌を犯した天使を捕まえるために。
こうなると、初めからわかっていたのに…。
きっと、氷みたいに冷たくなった希を見つめる。
他の死神に、羽交い締めにさせられる。
希はこんな死に方を望んだだろうか?
あのときの、私の決断がこんな事をまねいてしまった。
希の傍らにいた死神が、手をかかげる。
すると、希の体が淡い黄色い光に包まれた。
足の先から、シャンパンのような黄色い粒子になり、死神の手に集まっていった。
これが終わり、彼らを従えている魔王の手にそれが渡れば、この世のものすべて希の事を忘れてしまう。文字通り、消えてしまうの。
私のような、この世のものでないものには残りはするが、きっと意味がないことだろう。
足から胴体、腕、首、顔。すべてが粒子になり、彼の手に収まるのにそれほどの時間はかからなかった。
一回その手をギュッと握り、また開くと、円いシャンパン色の個体になっていた。
それを見た瞬間私の体温は一瞬に引き、すべてのものがシャットダウンした。
その間、私が何をしたのか、どうしてこんな事になったのかわからない。でも、私の体に残った血の臭いと、微かに残る感覚で、私がこれを起こした張本人だと理解でした。
気がつくと私は血の海に立っていた。
髪にも、顔にも、体、腕、足に誰のかもわからない血がこびりついていた。
時折、髪から滴る血が海に落ち、ぴしゃっと音をたてる。
血に濡れた手の中には、さっきの結晶。希が握られていた。
立っている力さえなくなったのか、膝ががくりと折れそのまま地面に崩れ下りた。
「希…」
目から、血ではない透明な雫が滑り落ちた。
私は、間違っていたのだろうか?
「ボクの配下が殺されてるって聞いて来てみたんだけど、まさか、こんな女の子だとは思わなかったよ」
後ろで声がすると思って、私は顔をあげる。
首にうまく力が入らないのか、少し顔がのけぞる。
目だけでそっちを見るけれど、暗いせいか特徴も何もわからなかった。そこにいるという事しか、私はわからなかった。
「希を…消さないで…」
私の口からはそんな言葉が零れた。
「希は私の被害者だから」
そう、希はサヨというわがままな天使の被害者なんだ。
私があのとき、生きかえさなければ希はこんな死に方もしなかったし、みんなから忘れ去られなくてもすんだのに。
そうじゃない。
「私と出会ってしまったせいか」
悲しいのに、なぜか笑えてくる。実際に、口から渇いた笑いが小さくもれている。
私なんかに出会わなければ、希はあのとき死ななかった。
きっと、今よりずっと幸せに暮らしていた。
私は、所詮心のない人形でしかなかったんだ。
あんな、暖かな日だまりにいてはいけないモノだったんだ。
ふと見上げた月がぼんやりと歪んでいた。