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君の名前の由来

作者: 七種夏生


 僕の名前は渋谷(しぶや)利明(としあき)

 だけど利明は、本当の僕ではなかった。


 産後すぐに妻を失った父は、男手一つで赤子を育てていたが、その愛息子も一年経たないうちにこの世を去った。

 喪失感を埋めるように父は僕をこの家に迎え入れ、あろう事か本物の息子と同じ名前を僕につけた。


 だから僕は二人目、偽物の利明。

 この名前は本来、僕のものではなかったのだ。



 では、僕は一体何者なんだろう?



 その答えを見つけるため、僕は全てを捨てた。名前や父親と実家、仕事などそれまでの人生全てを。


 そして本当の自分探しを始めた。


 まず、本物の両親と本当の名前を見つけようと思った。

 それは案外簡単なことで、利明の父親が教えてくれた。

 どうやら僕は予定外の妊娠というやつで、母の妊娠中に両親は僕を手放すことを決めていたらしい。


 母親の所在はわからないという。

 故に、紹介出来るのは父親だけだ。と、利明の父親は言った。


「出て行かないでくれ。お前は俺の息子だろう?」


 大粒の涙を流す彼の言葉を無視して、僕は二度とこの家の敷居を跨がない覚悟で玄関を出た。






 僕の本当の父親が住んでいるアパートは、電車で駅を二つ越えたところにあった。

 家賃の安いボロアパート、玄関からちらっと見えた部屋の中は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。


「若いですね……」


 顔を突き合わせた瞬間、そんな事を口走ってしまった。

 家主、僕の生みの父親である大久保(おおくぼ)(よう)は不機嫌そうに顔を背けたあと、「十四歳しか変わらないからな」と言って、僕を部屋に招き入れた。


 畳の上に落ちている埃や髪の毛を手で払い、僕は部屋の真ん中に座った。

 僕と膝を突き合わせるように、彼が床に腰を落とす。

 机の類は無いらしい。台所の流しにあるカップラーメンは、どこで食べたのだろう?


「すまなかった」と、彼、今年で五十歳になるという僕の本当の父親が言った。

 太りにくい体質の僕と同じ血が流れているからか、それとも偏った食生活のせいか、彼は酷く痩せこけていた。

 手入れしていないにも関わらず口元の髭が薄いのは僕と同じ。やはり僕は、彼の遺伝子を継いで生まれて来たのだろう。


 ほろりと涙を流したあと、彼は堰を切ったように話を始めた。

 母親のこと。

 僕の出生のこと。

 その後の人生設計。

 彼女に母性はない、産まれた子は父が引き取ると約束した。だけど産み育てることが出来ないと悩んでいた時に出会ったのが僕の育ての父親だった。

 子どもを譲って欲しいという利明の父親に、僕の生みの親である大久保葉は喜んで了承し、僕を差し出したという。

 だけど年月を過ごすにつれて後悔の念を抱き、今日、僕のほうから会いに来てくれて嬉しかった、と。


 二時間に渡る言い訳と昔話を聞き、彼の声が途切れたところで僕は本題を切り出した。


「それで、僕の本当の名前はなんですか?」

「名前? 君の名前は利明だろう?」

「違うんです、それは僕じゃない。その名前はあの家の本当の息子のもので、本当の僕はあなたの子どもです。だから、僕の本当の名前を教えてくれませんか?」


 彼の顔が歪む。

 不思議そうに首をかしげたあと、やはり彼は表情を曇らせた。


「君が何を言っているのかよくわからないが、本当の名前なんてないよ」

「え?」

「産まれる前に手放す事を決めたんだから、名前などつけていない」


 僕は絶望した。


 名前なんかなかった、最初から。

 僕は大久保葉という父親から生まれた生命ではあるが、大久保なんたらという大久保家の人間ではなかったのだ。

 僕に名前はなかった。



 じゃあ、僕は一体、何者なんだろう?






 答えを見つけるきっかけをくれたのは、新しい家族だった。


「改名しましょう」と、彼女が言った。


 バスの中で偶然知り合った女性。

 引っかかった鞄を取ってあげた、たったそれだけで彼女は僕を気に入り連絡先を聞いて来た。


 一目惚れから始まった恋だけどあなたの事を愛しています。


 映画のような台詞で僕を口説き落とそうとする様が可愛らしくて、交際を拒む理由は見当たらなかった。


「苗字は私の姓にしましょう。仕事の関係で、私もそちらのほうが好都合なので」


 テキパキと婚姻の準備を進める彼女を、一度は止めた。

 名前を捨てると同時に職も実家も捨てた僕は、貯金を切り崩して暮らしていた。そんな生活が長続きするはずはないが、本当の自分を見つけるまでは定職にも就けない。

 こんな男を生涯の伴侶にするなどやめておいた方がいいという僕の言葉に、彼女はくすくすと笑った。


「家計は私が支えますから、心配しないでください。それに新しい名前をつけましょうとお話ししたでしょ? あなたはもう私の夫、秋徒さんです」


 相談したわけではないのに、彼女が僕の新しい名前を口にした。

 その後すぐに僕は彼女の夫となり、田畑(たばた)秋徒(あきと)という名前を手に入れた。





 杞憂をよそに、新しい人生のスタートは好調だった。

 時間に余裕が出来たので、今流行りの冒険小説を書いてネットに投稿する事にした。

 ふと、名前を考えないといけないことに気がついた。


 ニックネーム、偽名を考えなければ。


「名前を、考える?」


 途端、僕は吐き気を催して洗面所へ駆け込んだ。

 鏡を見ると、以前より膨よかになった僕の顔、秋徒という名前の男。

 確かに僕は、社会的には田畑秋徒という名前の人間に間違いない。


 だけどそれは所詮、妻がつけた架空の名前。


 いや、それを言い出したらキリがない。

 生後七日以内に役所に届ける氏名だって誰かがつけたもので… …

 じゃあ、利明という名前は? 偽物なのか? 違う、あれはあの家の本物の息子のものだ。

 僕は大久保葉から生まれた生命だけど、その家の本当の息子ではなくて。

 だけど秋徒という名前も、ある意味偽名に過ぎない。


 名前とは、その人の存在意義とは何なのだろう?


 本当の自分ってなんだ?


 本当の僕は一体、何者なんだろう?



 考え始めたらわけがわからなくなって、妻が帰宅するまでの四時間半、僕は洗面所に座り込んでいた。

 仕事から帰った妻に声をかけられたことで、ようやく我に返る。


「なんでもない。ただ少し、吐き気がして……」


 そう言うと彼女は不思議そうに首を傾げ、くすくすと笑った。


「私のつわりが、あなたにうつっちゃったのかな?」


 はっとして顔を上げると、彼女が穏やかに微笑んだ。


「正常なら今二ヶ月。明後日お休み取れたから、病院に行こうと思うの」



 土曜だったせいか、付き添いの男性はたくさんいた。

 同じソファに座り、妻の腹を撫でている者までいて、僕はどこに目を向けていいかわからず俯いていた。


「これが赤ちゃんです」


 写真を見せられてもよくわからなくて、コレが人間になるという実感がなくて、僕は呆然と医者の話を聞き、妻の後について病院を出た。


 嬉しそうに僕の前を歩く妻の背中。


 今思えば手を繋いで、僕が彼女の身体を支えてあげなくてはいけなかったのだろう。

 当時の僕はそれすら気づかず、【本当の自分】とやらを探すのに精一杯だった。





 転機が訪れたのは、妻の腹に新しい命が宿ってから九ヶ月経ったある日のこと。


「子どもがね、りんごが食べたいみたいなの」と、妻が言った。


 自分が食べたいだけだろとは思ったが、僕は黙ってキッチンへ向かった。

 産休中の妻に職場の同僚だという人が持ってきた、表面がキラキラした高級感溢れるりんご。

 サクッとりんごの皮にフルーツナイフの刃を突き当てた時、背後で呻き声が聞こえた。


 振り返ると、妻が腹を抱えて蹲っていた。


 ナイフもりんごも放り投げて彼女の元へ駆け寄ると、さらに苦しそうな声が聞こえた。

 緊急事態への対処法は心得ていたつもりだった。だけど実際にそれを体験すると頭が回らなくなって、僕は必死に妻の背中を撫でていた。

 しばらくして、大きく息を吐き出した妻が僕の手を握った。背中に置いた僕の手がゆっくりと正面、彼女の腹へと移動する。

 服の上からでもわかる、目に見えて波打っている妻の腹、胎児がいるであろう場所に手のひらが触れる。

 その時だった。



「おとうさん」と、声が––––…



 あり得るはずがない、子どもの声が聞こえた。

 茫然と固まって動かない僕に、妻が声をかける。


「産まれるわね……今日からあなたは、この子の父親よ」






 僕らの息子は予定日より一ヶ月早い出生を迎え、この世に誕生した。

 さすがに「お父さん」とは泣かなかったけど、大きな産声だった。



 時が過ぎるのは早いもので、息子はあっという間に三歳になった。

 生意気になり、自分からりんごを強請るようにもなった。


「おとうさん、りんご。あかいとこはとらないで。キラキラしてきれーだから」


 どうやらあの時、妻が腹を抱えて蹲った、息子が産まれた日、僕がりんごの皮を剥こうとしたことが気に入らなくて妻の腹の中で暴れ回ったらしい。

 ありえない、偶然だとは思うが。

 僕たち夫婦は、それが正解だと信じている。

 息子はとても賢い、将来は偉大な人物になるだろう。

 断言する、だって彼は僕の息子なのだから。


 二人でりんごを食べ終え、洗い物が終わると同時、休日出勤をしていた妻が帰宅した。


「遅くなってごめんなさい。じゃあ、行きましょうか」


 微笑んだ妻が、息子の右手を握る。

 僕は頷き、息子の左手を握った。

 三人揃って玄関を出て、足並みを揃えて歩き出す。





『本当の自分を探す』と言って飛び出したきり、実家には帰っていなかった。

 連絡先も伝えておらず、五年近い音信不通期間。


 利明の父親、僕を育ててくれた父さんは僕と妻、そして夫婦の間にいる子どもを見て涙を流した。


「おかえり、利明。えぇっと……」


 困惑した表情の父に妻と子どもの名前を伝えると、その顔が穏やかな笑みに変わった。


「いらっしゃい……いや、おかえりでいいかな……おかえり、俺の孫子」




 次に向かったのは、四年前と何も変わらないボロアパート。

 玄関のドアを開けた瞬間、大久保葉、僕に命を与えてくれた父さんは「おぉ……おぉ」と歓喜の声を上げ、やはり涙を流した。

 可愛い孫と綺麗なお嫁さんを汚い部屋に上げることは出来ないと、玄関先で十分程度の小話をしてその日はお別れした。




 家に帰る途中の道で、息子が躓いて転びそうになった。

 両手を繋いでいたので転んではいないし怪我もしていないが、怖かったらしく盛大に泣き始めた。


「大丈夫よ、お父さんがおんぶしてくれるから。ね、秋徒さん」


 妻に目配せされ、僕はしゃがみ込んで二人に背中を見せる。

 喜んで飛びついてきた息子が、僕の耳元でうふふっと笑った。


「ありがとう、お父さん」


 その声が可愛くて、嬉しくて。

 僕は立ち上がって一歩踏み出した。

 当然のように、僕たちの横に並ぶ妻。

 夕暮れの中、三人で家族の家へと向かった。





【本当の自分】



 それが何であるかの答えはまだ、見つかっていない。

 だけど一つだけ確かなことは、【自分はこの子の父親だ】ということ。


 何があっても絶対、それだけは変わらない。


 同じように、僕を育ててくれた人も、命を与えてくれた人も、【僕の父親】という確かな存在なのだ。



 帰り際、父達(息子の祖父達)に、「また遊びに来る」と約束した。

 彷徨っている、寄り道をしている場合ではない。



 生きなければ。



 しっかりと生きて息子を育てる、父親として頑張らなければ。

 そう思わせてくれた、僕に【父親】という存在意義を与えてくれたのは、背中にぴったりと貼り付いている小さな命だった。


「ありがとう、利久徒(りくと)


 呟いてしまった言葉に、息子が返事をした。


「どーいたしまして!」


 その声が本当に、本当に愛おしくて。

 夕日を見上げた僕たちは、家族三人、みんで一緒に笑い合った。



 いつか君に伝えよう。


 お父さんの最初の名前は『利明』っていうんだ。

 アパートのお爺ちゃんは『大久保』って苗字だね。

 お父さんの今の名前は『田畑秋徒』


 もうわかったかな、『利久徒』



 君の名前の由来はね––––




* * * 終 * * *


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