リップクリーム
「あ・・・」
散歩中、その日の予定を確認しようと思って手帳を取り出すと同じポケット内に入っていたリップクリームがさながらパトリオットミサイルの様に外気に飛び出しました。
「ああ・・・」
急いで掴もうと思ってしゃがみましたが、ほんの先刻先に地面に到達していたリップクリームはそのまま地面をコロコロと転がりだして私の手をサッカードリブルの様に突破していってしまったのです。
「ああ、まって」
まって、あなたがいないと私ダメになるの。
この時期リップクリームが手放せません。放っておけば一日で唇はガサガサになります。それはもうガサガサになります。酷いことになります。くっつき虫の様にガサガサに。手でちぎった紙類の断面の様にガサガサになるのです。人間の頭でたたき割った角材の断面の様にガサガサになるのです。
これはもう大変です。リップクリームが手放せません。それなのに件のリップクリームは私が見てる目の前でコロコロと転がっていくのです。まるで脱走兵の様でした。捕まえたら一か月以上の独房罰が課せられる案件でした。
「まってえ」
私は手帳をカバンにしまってリップクリームを追いかけました。必死になって追いかけました。しかしリップクリームもコロコロと逃げていきます。全く追いつきません。
落とし穴をスルーして道を曲がり落ちている小石をジャンプ台にしてぴょーんと跳ね上がりました。まるで鯉の滝登りか鮭の遡上を見ているような。そんな感じでした。
「まってえ」
しかし私も諦められません。それは今年買ったリップクリームなのです。抹茶のにおいのするリップなのです。マスクの中で抹茶のにおいが充満するのがうれしい。大変うれしい。それを簡単に手放すわけにはいきません。メンソレータムリップ メンソレータム メルティクリームリップ 抹茶 リップクリーム 2.4gなのです。
「待ってえメンソレータムリップ メンソレータム メルティクリームリップ 抹茶 リップクリーム 2.4g」
しかしメンソレータムリップ メンソレータム メルティクリームリップ 抹茶 リップクリーム 2.4gは全く止まりません。
メンソレータムリップ メンソレータム メルティクリームリップ 抹茶 リップクリーム 2.4gはまるでこの世の春と言わんばかりに滑走していきました。
ボブスレーの様でした。
昔金ローで観たクールランニングの様でした。
「はあはあ・・・」
やがて私の足に先に限界が訪れて、私は止まってしまいました。
「どこだここ?」
そして気が付くと全く見たことも無いような世界に私はいました。
ムーミンの絵本の様な世界でした。
『それからどうなるの?』
あの絵本の事を思い出しました。