繋いだバトン
クリンの言いたいことを理解したのか、司教は「ああ」と言った。
「聖女の力が無事に失われたのでしたら、マリア・クラークスを処刑する必要はありません。その時は、どこへなりともお好きなように行かれたらいかがです?」
「……」
「なんです、クリン・ランジェストン。その顔は」
「いえ、司教さんのことだから、すべての責任をマリアに押し付けてしまうんじゃないかと」
「失礼な。あなたが私をどう見ているのか知りませんが、私はこれでもプレミネンス教会を束ねる大司教です。一介の聖女にすべてを押し付けるほど落ちぶれてはいませんよ」
「司教さま……」
マリアはじーんとした表情で司教を見つめた。その横で、セナがもっともな質問をぶつける。
「教会にいる神父や聖女たちは、俺たちがやろうとしていることを知ってるのか? そこから情報が漏れて、教皇の身内に妨害されたり……なんてことは、ねえよな?」
「おっしゃるとおり、情報漏洩を防ぐために彼らは何も知りません。ですが万が一に備えて、私の部下も教会内で待機しておりますので、安心して試練に臨んでください」
「じゃあ、儀式が終わったらパニックになるんじゃねーの? 結果的に俺らの安全は保障されてねえじゃん」
「ええ、そうでしょうね。ですが、問題ありません。そのあとのことは、こちらにお任せください。あなた方に矛先が向かないよう、台本は用意してありますので」
「……」
セナはまだ訝しげな目を司教へ向けている。その言葉を裏付けるかのように、司教は言葉を続けた。
「それと、あなたたちには船を用意してあります。行き先はアルバ王国の王都。巡礼が終わったら使者が案内しますので、すみやかに馬車で向かってください」
まさか帰りの船まで用意してくれていたとは思わず、クリンは単純に驚く。先回りして、自分達の懸念を払拭できるよう取り計らってくれていた。そんな司教の目に、何がなんでも巡礼を成功させたいという執念にも似た覚悟を感じ取る。
しかしあまりに都合の良すぎる展開に、今度はミサキが胡乱げだ。
「ずいぶんと用意周到ですね。その船、本当にアルバ王国へ着くんでしょうか? もしや途中で沈んでしまうのでは?」
「おや、さすが軍事国家のお姫様、そんな残忍な発想が出てくるとは。私の純朴な頭ではとても考えつきませんでしたよ」
ぶはっと、セナが吹き出した。
「よく言うぜ、さんざん煮え湯を飲ませておいて」
「では、こう言い換えましょう。帝国軍と繋がりのあるあなたたちを処分するのはリスクが高すぎますし、正直言って処分するほどの意味もあなたがたに見出せません。ですから、ご安心を」
「……言質は取りました。いいですね、途中で船の消息が途切れるようなことがあれば、わたくしたち帝国軍は黙ってはおりませんよ」
「お好きにどうぞ」
こうして、クリンたちは司教が用意してくれた船で故郷へ帰ることが決まった。マリアももちろん同乗する予定だ。そのタイミングでミサキはアパルたちと帝国へ戻る。ちょうどいいので、そこにリヴァルも混ぜてもらえばいい。
「あとは終戦締結ですね……。早めに結んでくれと言いたいところですが、教国が落ち着いた頃になるのでしょうか」
「おそらくそうだとは思います。それに向けての段取りも用意してありますので、そう先の遠い話ではないと思いますが」
「……」
まただ。また、クリンは司教の言葉に引っ掛かりを覚えた。先日、停戦協定の日にも、司教は少し気になる発言をしたのだ。
「あの。司教さん」
「なんです?」
「……」
クリンは聞くのを躊躇った。いや、というよりも、司教の目が「聞いてくれるな」と釘を刺しているように見えたからだ。
「いえ。なんでもありません。終戦締結の際は、またこの大陸にお邪魔しますので、お声がかかるのをお待ちしてます」
「ええ。その際はよろしくお願いしますね」
司教はにっこり笑った。あいかわらず胡散臭い笑顔だったが……クリンは少し、その笑顔に居心地の悪さを感じた。
とは言え、旅のゴールは具体的に決まった。これ以上ここで井戸端会議をするのは時間の無駄である。司教がこの場を去ったタイミングで、クリンたちはようやく馬車を走らせるのだった。
「ていうか、これ順調に行くとさ」
「? なんだよクリン」
「巡礼当日って、もしかして」
「はあ?」
「……いや、なんでもない」
日記帳を確認している意味を、弟はわからないらしい。クリンは言おうとして、けれどもそこに根拠のない意味を見出してしまいそうで、言うのをためらった。
「わぁ、見て!」
馬車を走らせて数時間、窓を眺めていたマリアが声をあげた。
空に向かってそびえ立つ巨大な結界壁が、次々と消え去っていく。聖女の光がキラキラと舞い落ちて、一気に視界が開けたせいで帝国の山々が遠くに見える。
「いい眺め……」
この歴史的瞬間に立ち会って誰よりも喜んでいるのは、やはり聖女であるマリアだった。
戦争が終わった。あの結界壁を守っていた彼女たちは、もう命を危険に晒されることはないのだ。
感極まって、思わず涙が出てしまう。
一方、御者席に並ぶクリンとジャックも、あの景色を眺めて言葉を失っていた。
生まれる前から続いていた両国の戦争に終止符が打たれた。いや、自分たちが打ったのだ。この達成感は、とても言葉では表せられない。
「クリン。この景色をよく見ておけ。きみのおかげで、何千、何万という命が救われたんだ。きみは……ひとつの歴史を変えた。たいした男だ」
「……」
首をふるふると振りながら、クリンはただ黙って消えていく結界壁を眺めていた。
……苦しかった、恐ろしかった。だけど、すべてがこの瞬間のためにあったのだとしたら、報われる。
胸の高揚感が涙腺を刺激して、目頭が熱くなった。ジャックがポンッと肩を叩いてくれたのがダメ押しになって、涙があふれる。
「まだです。まだ、終わってない」
次はマリアとセナが、世界を救う番だ。自分はそのためのバトンを繋いだだけである。