旅立ちの朝
早朝の軍事演習場には霧がかかっていた。息をするたびに冷たい空気が肺に入り込んで、体温を奪っていく。
マリアの移動術があるのにわざわざ外に出たのは、アパルたち騎士団を乗せた馬車も同行することになったからだ。
さすがにいっぺんには移動できないため、マリアは二往復することになっている。
「お姉さま、どうかご無事で」
「ええ。大丈夫、すぐに戻るわよ」
チェルシア皇女はモコモコのコートを着込んで、鼻を赤くさせながらミサキに抱きついている。こんな朝早くだというのに、しっかり見送りに来てくれた。後ろにはフィナも控えている。
「みなさまも、どうかお気をつけて」
「ありがとうございます。しばらくお会いできませんが……どうかお元気で」
クリンたちはミサキと違って、この城に戻ることはない。チェルシア皇女と会える機会はもう二度とないかもしれないのだ。
「あの、クリン様」
そんなチェルシア皇女は、もじもじしながらクリンに呼びかけた。
「ずっと言えなかったのですが、わたくし、嬉しかったのです。雪合戦の時に一緒に戦ってくれとおっしゃってくれたことも、平民街のカフェで『女性があとを継いだっていい』とおっしゃってくれたことも。『女は下がれ』が当たり前のこの国の男性とは違ったあなたの態度に、衝撃を受けました」
「そんな……たいしたことではありませんよ」
「ですからクリン様。ぜひ、考えておいていただきたいことがあるのです」
「? なんですか?」
「将来、わたくしの夫になっていただけませんか?」
「えっ?」
「はぁ?」
はぁ?と言ったのはミサキだ。聞いたこともないような低い声だった。
「わたくしが皇帝になるのに最も大きな障害は、夫です。いつ寝首をかかれて王座を奪われるかわかりませんから。ですからクリン様のように、王配としてわたくしを支えてくださる方が必要なのです。この国の男性には望めません」
「いや、あの。すみません、僕には荷が重いというか、ちょっと歳の差があるというか」
「ごほん!」
そうじゃねえだろとでも言いたげな恋人の咳払いを聞く。
こわ。
「すみません、僕が隣に立ちたいと願う女性は、もう決まっているんです。生涯、覆ることはありません」
「……そうですか。では、お姉さまと破談になるのを待つしかありませんね」
「「なりませんって」」
二人同時に否定して、さすがのチェルシア皇女もそれ以上は食い下がってこなかった。初めから色良い返事など期待していなかったのだろう。
「話は終わった? そろそろ行くよ〜」
そこへマリアが出発を告げたので、今度こそクリンはチェルシア皇女と別れを交わした。
クリンたちが無事に旅立ち、また、遅れて騎士団も立ち去った演習場には、チェルシア皇女が一人。
そこへ、雪を踏む足音が複数。
「風邪を引くぞ」
「皇帝陛下」
「……行ったのか」
「はい」
侍従と騎士を伴って現れたのは皇帝だった。
チェルシアの頭を上げさせて、皇帝は消えた馬車の痕跡を見つめている。
チェルシアにとって、父は目指すべき場所とも言えるし、また越えるべき障壁とも言える。
ただでさえ、愛のない親子関係だ、用もない今、交わせるような言葉が出てこない。
母は政治的理由で皇妃に迎えられただけ。義理と義務で産み落とされた自分が両親からさほど愛されていないことなど、生まれた時から知っている。
だからこそ、自分が王になったらこんな婚姻制度を廃止してやるのだ。
「市井巡りは、社会勉強になったのか」
「! は、はい。座学では得られない貴重な体験でした」
「そうか」
「……いつか、そこで得た知識や生の声を、公務に活かしたいと考えております」
せっかく父が話しかけてくれたチャンスだ。「執政に興味がある」ことだけでも伝えたいと、チェルシアはおそるおそる口にする。
「おまえは九歳だったな」
「は、はい」
父の視線が馬車からこちらへ向けられて、チェルシアは震え上がりそうになりつつも、耐えた。
「やがてこの国は変わっていく。チェルシア、ついてこれるか?」
「! は……、いいえ! わたくしこそが、先陣を切って変えてみせます!」
「……」
一拍遅れて、父から盛大な笑い声が降ってきた。
大人の誰かとこんなふうに笑うのは見たことあるが、その笑顔が自分に向けられるのは初めてだ。
「ではチェルよ。おまえにいくつか公務を任せる。俺を失望させるなよ」
「! はい……はい! ありがとうございます!」
愛称で呼んでもらえた。仕事をくれた。
チェルシアはパッと顔を輝かせる。
「朝食に付き合え。これからの時代は国際社会だ。他国の慣習に慣れておく必要がある」
「ともに……召し上がっても良いのですか?」
「温かいスープが美味かったのだろう?」
「……はい」
父娘ともに、あの少年と夕食を摂った時のことを思い出していた。
温かい料理は美味しい。そんな当たり前のことを、チェルシア皇女は知らなかった。
そしてこの国の女性たちがそんな当たり前を知らないということを、この男もまた知らなかった。
ともに衝撃的な一夜だったと言えるだろう。
とは言え骨の髄まで染みついた思想はなかなか抜けることはない。いざという時に戦えもしない女になんの価値があるのかと、皇帝は今でも思う。女は男が庇護してやる生き物だ。それこそが男の甲斐性であり、女はそこに甘えていればいいのだと。
それでも、やがてこの国は変わっていくだろう。クリン・ランジェストンという一人の少年と出会ってしまったせいで。
これにて帝国編、終了です!
次話からネオジロンド編、再会します。
最終巡礼まであと少し…!お付き合い願えたらと思います。