二人の未来のために。
いよいよ顔見せの時間がやってきた。
バルコニー前の広間で待機していたクリンは、やっと入室してきた主役二人を見て息を飲んだ。脇に控えているセナとジャックも、珍しく感嘆の声をあげている。
本日の主役であるミサキは、左右の襟を重ね合わせた黒い民族ドレスを着用していた。絢爛に施された赤と金の模様が、光沢のある黒い生地によく映えている。黒と赤は帝国のイメージカラーだ。
そのドレスは短い髪に合わせて肩まで大胆に開いており、普段の清純なイメージを覆すような妖艶な印象に仕上がっている。
「クリンさん、似合います?」
「うん」
正直、ドキッとした。と言葉にできなかったのは、背後に皇帝陛下が控えているからだ。彼もまた、娘のエスコートという仕事があるのだ。
国賓である聖女マリアの装いもなかなかのものだった。白いドレスは上質な絹でできており、よく巡礼の儀式で着ているものに酷似していた。ストレートにおろした赤髪は、深く被った白いヴェールに隠れている。顔を見せないような衣装をチョイスしたのは、ミサキなりの気遣いだろう。
「お時間です」
バルコニーに続く両開きのドアを、侍従が開ける。いよいよだ。
クリンは覚悟を決めて、ミサキの左側に並んだ。
「……クリンさん?」
「僕も、隣に立つことにしたよ」
「そんな……!」
予想どおり、ミサキは驚きつつも悲しそうな顔をした。きっとこちらが断ると思っていたのだろう。
「その意味を、あなたはわかってらっしゃるのですか?」
「もちろん。わかってるよ」
ミサキの戸惑いをよそに、バルコニーの外から盛大な歓声が届いている。
まずは宰相のスピーチがあり、そのあとで主役が登場するという手筈となっていた。そのミサキの横にクリンが、皇帝の横にマリアが立つのだ。
しかしミサキの心境は、それどころではない。
「あなたの夢はどうなるんです? お医者様になるために、あなたがどれほど努力してきたか、私だって知っています」
クリンの実家へ帰った時、私室にあった本棚の蔵書量に圧倒されたのをミサキは覚えている。勉強机に積み重なった参考書や問題集が、彼の血の滲むような努力を物語っていた。
「私のせいであなたの夢が潰えてしまうなんて、耐えられません。私に一生、罪悪感を背負って生きろとおっしゃるのですか?」
「そうじゃないよ」
「それで私が幸せになれると本気で思っているのですか? 馬鹿にしないでください」
「ミサキ」
クリンが何か言おうとしているのはわかっていたが、ミサキはあえて聞こうとしなかった。
ミサキにとって、これは未だかつてない屈辱だった。
こんな大事なことを、自分のいないところで勝手に決められてしまったことが。そしてこの決断がミサキにとって幸せであると信じて疑わない彼の傲慢さが。
ずいぶんと見下げ果てられたものである。
何年かかってでも、自分は必ずこの城を飛び出してクリンのもとへ駆けつけるつもりだったのだ。だからあなたは夢の先で待ってて、と。必ずそこへ行くから……と、伝えるつもりだったのに。
「私の誓いを忘れるなんて、酷いです。記憶が戻ってもあなたたちと共に生きるって……あの船の上で、誓ったじゃないですか。なのに……」
じんわりと目頭が熱くなって、ミサキはその熱をそらすために天井を仰いだ。
宰相のスピーチによって静まり返っていた庭園に、再び歓声が沸き始める。もう、皇女登場のタイミングになってしまった。
「忘れるわけないだろ」
「……え」
歓声の中で聞こえたクリンの声に、ミサキはパッと彼を見る。クリンは少し、困ったように笑っていた。
「時間だ。行くぞ」
会話を遮るように入ってきたのは、父・皇帝である。左腕を出されて、ミサキは無意識に手を添えた。父の足に合わせて歩いたら、もうそこは白いバルコニーの上。
寒空の下だというのに、視界一面に広がる、人の海。
熱気をはらんだ歓声の渦に圧倒されて歩みを止めてしまいそうになったところで、ポンッと軽く背中を押してくれたのは、クリンの優しい手。
ついに彼も群衆の前に出てきてしまったようだ。
「五年、猶予をもらったよ」
「……えっ?」
そのままバルコニーの端まで進んだら、より近くなった人々の視線が一斉に注がれた。打ち合わせ通り笑顔で手を振り、歓声に応える。
マリアは緊張しているのか、皇帝の一歩斜め後ろから前には出られないようだ。それでも笑顔を張り付けていられるだけ、上出来である。
割れんばかりの歓声の中で、左側に立つクリンが小さく耳打ちしてきた。
「陛下とまたひとつ、賭けをしたんだ。五年で僕は何かしらの功績をあげてみせる。帝国の皇女をひとり貰い受けても、誰にも文句を言わせないような、世界から認められるような大きな成果をね」
「……」
「付き合う時に言ったろ? ミサキ・ホワイシアとして僕と生きてくれって。君の誓いもあの約束も、僕は忘れてないよ。……必ず君を迎えに来る。だから、待ってて」
歓声に応えながら、二人の密談は続く。観衆はそれをどう捉えるだろうか。
あの少年は誰だろう。皇女とはどんな関係なのだろう。
そんな好奇心と羨望の中に存在する、戸惑いと少しの不信感。クリンは今、そのすべてを受け止める覚悟でここに立っているのだ。
小さな村から出てきた少年にとって、この大きな渦の前に立ちはだかることがどれほど勇気のいることか、きっと目の前にいる人々にはわからない。
その上、クリンはもうひとつの荷物を背負うと言ってのけた。二人がそろって幸せになれるための試練を。
それならば、自分の答えはひとつである。
胸の高揚感を押し隠し、ミサキは決意した。
「待つ? クリンさん、私が大人しく待ってるような女だと思っていらっしゃるんですか?」
「……え」
「おあいにく、王子様が迎えに来る前にさっさとこの城を下りてしまうかもしれませんよ」
ミサキの言いたいことを理解したのか、クリンは民衆へ向けたとのは違う笑みがこぼれる。
「私だって、一日も早くあなたの隣に立てるよう戦い続けてみせます。間抜けな王子様にならないよう、せいぜい死力を尽くしてくださいね」
「じゃあ競争だ」
「負けませんよ」
自然と肩を寄せ合って、笑い合う。
おそらく民衆は仲睦まじいその姿を見て、思うだろう。あれがミランシャ皇女の伴侶になるのだと。
結局は皇帝の企みに手を貸すことになってしまうとは、なんとも皮肉なものだが……。
ならば、と、クリンは思う。
ならば、しっかり牽制してやろうではないか。自分がいない間に寄ってくるであろう虫たちに。
クリンはミサキの肩を抱き寄せ、彼女の唇に自分のそれを重ね合わせた。
刹那、絶叫とも言えるような歓声が湧き上がる。まるで声の津波だ。
それを全身で受け止めながら、クリンはそっと唇を離して目を開ける。
驚くか、照れるか、怒るか。果たして彼女の反応は……。
「足りません」
催促だった。さすがである。
「次は二人っきりでね」
と、クリンは苦笑する。これ以上のアピールは必要ないだろう。それに皇帝陛下の偽物の笑顔が怖すぎる。
クリンは浴びせられる歓声、ひとつひとつに返すように笑顔を向けた。この後、群衆はミサキのスピーチにまた驚き、様々な反応を見せるだろう。
彼らは残念ながら味方ではない。自分と愛しい人にとっての大きな障壁となるのだ。
だが、受けて立つ。必ず探してみせる、自分が自分らしく生きていく未来を。そして彼女が望んだままに歩んでいけるような未来を。