つぐないの儀式
「ジャックさん、お話があるのです」
口火を切ったのはミランシャ皇女のほうからだった。クリンは見守ることに徹したらしい。
顔を上げれば、ミランシャ皇女の背後に皇宮が見えた。
七年前もそうだった。
この場所で、あの位置で、彼女はああやって妹の首を眺めていた。
「病み上がりなのに、こんな真夜中に外出していいのか。クリンの立場が悪くなるぞ」
「そうなってでも、意味があると思ったから会いに来ました。私はあなたに……あなたたちに、罪を償わなければいけません」
「……」
ジャックは返す言葉を詰まらせた。あれは、君のせいじゃない。頭ではそうだと言っているのに、心がそれを拒否しているのだ。
「私はずっと、自分のことを被害者だと思っていました。毒を飲まされたことも、聖女たちを助けられなかったことも。自分のせいだと嘆き、涙しながらも……心の奥底ではずっと誰かのせいだと訴えている卑怯な自分がいました。皇女として生まれた責任も放棄して、被害者ぶって、逃げて。亡くなった聖女や残されたご遺族にたった一言の謝罪もなく、ここでのうのうと息をしている。そんなことが許されていいはずがありません」
「……」
ミランシャ皇女はその場に膝をつき、両手を組んで深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「やめてくれ……!」
彼女の苦しみは知っている。もう、彼女一人を恨んだりなどしていない。
そんな謝罪を望んでいると思われたなら心外である。
「これは俺の問題だ。あとはもう、俺が自分の中で片付けるしかない」
「いいえ……! それでは、今度はあなたがあなたを責め続けるでしょう。妹さんを想うたびに、復讐を途絶えたご自分のことを。ずっと妹さんに謝罪し続けるでしょう?」
「……」
そんなの、このお綺麗な世界でよく謳われる美しい結末ではないか、とジャックは思う。
皆が口を揃えて言う。復讐は何も生まない、死んだ人間はそんなことを望まないと。
痛みを、苦しみを、悲しみを忘れて、相手を許して真っ当に生きることが素晴らしいことで。闇から這いずり出てきた真っ黒な感情は、まるで悪のように扱うではないか。この黒い塊こそが愛故に生まれたものだというのに。
だからこれでいいのだと。……そう自分に言い聞かせたのに。
「捨てなくていいんです。あなたの憎悪は、妹さんを想うあなたの愛です。復讐を止めることと恨みを捨てることは、決して同じではありません。私を怒ってください。あなたの妹さんは、私のせいで殺されたのです。私の父が、そう望んだのです」
「……っ」
衝動的に、剣へと右手が伸びる。だが、その衝動を止めたのも自分自身。
妹が望む望まないではなく、他人が言ういかにもな綺麗事ではなく、自分が……今の自分が、彼女を殺したいと思うだろうか。
「……たとえ、あなたがもう望まなくても……私は私を許すことができません」
その場に跪いたまま、皇女は短剣を取り出して自身の首に押し当てた。
「!」
気がつけば駆け寄って、その剣を持つ彼女の腕を掴んでいた。
街灯の消えた暗い世界に月明かりは心もとなく、彼女の怪我の有無まではわからない。
「放してください。わたしは聖女たちの死に報いねばなりません。そうでなくては、私自身が前に進めない」
「死んだら終わりだ。前には進めない」
「……」
皇女は思いの外、あっさりと腕の力を抜いた。
「では……ひとつ、儀式を行いませんか」
「……儀式……?」
「はい。シャングス・ルグ・サジラータ様。あなたの手でどうか、ミランシャ・アルマ・ヴァイナーの罪を終わらせてください。そしてミサキ・ホワイシアとして、あなたはジャックさんとして、生まれ変わりましょう」
「……」
何を……と、笑ってあしらうことができなかったのは、彼女の腕が震えていたからだ。
この腕を通して、彼女の苦しみが伝わってくる。彼女もまた、救いを求めているのだろうか。
ああ、だからクリンは何も言わないのか。
「何をすればいい」
「あなたに任せます。あなたが望むなら、この腕でも、両目でも、両足でも」
「そんなものはいらない」
「では、この命を」
「……」
ふと視界に入ったのは彼女の残された髪の毛。この国では、髪は女の命と聞く。
「……承知した」
彼女の腕から手を放し、その手で剣の柄を握った。
だが、不思議とそこから先が動かない。痛みを与える行為ではないというのに、それでも自分は今、躊躇している。
「……っ」
「ジャックさん。これで、終わらせてください」
「……」
ジャックは観念して剣を抜いた。月に照らされた白刃の光が、彼女の金色の髪に触れる。
彼女はこの先を理解したのか、その手で髪を束ねた。
この剣で、いつかこの首を切り落とす日を夢に見ていた。
積年の願いがいざ果たされる日が来たというのに、迷いと恐怖が占めて右手を鈍らせる。この体たらくはどうだ。
妹は情けない兄の姿に、がっかりするだろうか。
……いや。もう苦しまなくていいよと、微笑むのだろうな。
あの子の笑顔を思い出したこの瞬間、覚悟が決まった。
ジャックは剣を振り払った。
白銀が線を描き、金糸の髪を揺らす。たったの一度で切り落とされた髪の束は、彼女の手の中で月の光を浴びて輝いている。
「これでミランシャ皇女は死んだ。俺の復讐は、終わった」
「……ありがとうございます。ジャックさん。……つらい役目をさせてしまいましたね」
ジャックは強く首を振った。
果たしてこの行為に意味があったかと問われれば、それは当人同士にかわからないだろう。だが、これにより少なくともジャックはひとつの区切りを迎え、救われたことは事実だ。
復讐は成した。もう、前を向いて生きるしかなくなったのだ。
「あんたを許すよ、ミランシャ皇女」
「……」
皇女はぐっと口を結んで、泣くまいとした。
いや、違う。ここにいるのはもう、ミランシャ皇女ではない。
自分が救われたように、彼女もそうであらねばならない。
ジャックは跪いたままの彼女に手を差し伸べた。彼女は素直に手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
その手を放すことなく、ジャックはその手にわずかに力を入れる。
「君とは初めましてだな」
「……っ」
彼女はすぐに握手の意味に気がついたようだ。
「ミサキ・ホワイシアです。よろしくお願いします」
握り返してくれた白い手は震えていた。
ジャックはこの手の脆さを覚えておこうと思った。生涯残るであろう胸の痛みとともに。
「ジャックだ。よろしく頼む、ミサキ殿」