救出作戦
それから使用人や騎士がスムーズな動きで会場を設営していく。入口はすでに固められ、逃げ場がない。
「おい、この木箱は邪魔だ。おまえのものか?」
「……っ。いえ」
使用人の一人がシアのすぐ横にある代車に手を触れた。
シアは瞬時に、ミランシャ皇女を捨てる覚悟を決めた。こんな重たいものを運びながら逃げるなんて、冗談じゃない。どうせ人質としては使えない女だ。今はとにかく、ここから立ち去るのみ。
「おい、どこへ行く」
「いや……私は」
「喜べ、女はとくに仕事があるらしい。皇女殿下が女性の雇用促進に力を注いでいらっしゃるそうだ」
気配を消して逃げようと動いた矢先、参加者と間違われて一般市民の波に放り込まれる。他の連中も同様に逃げ場を失ったらしい。いや、何名かは逃げただろうか。
シアはチラリと木箱を盗み見た。すでに運び去られた後である。
「ねえ、お姉ちゃん」
不意に声をかけられて、シアは固まる。孤児のようなみすぼらしい格好の小さな少女が、自分の手を握ってきたからだ。七つ……いや、もっと小さいだろうか。
「あのね。お姉ちゃんは大事なお仕事があるんだって。連れてきてってお願いされたの。一緒に行こう?」
「…………」
へえ、そういう手を使うんだ。
およそ少年らしくない卑怯な手に失望を覚え、相手を睨みつける。クリン・ランジェストンはその目に冷ややかさを湛えて一瞥を返してきた。
さて、どうするかと考える。自分が幼い子どもにまで手を出さないとたかをくくっているのだろう。
意に反して、ここでこの子を人質に取って逃げるという手もある。立ち去り際に少女の首を掻き切ってやったらあの少年はどんな顔を見せてくれるのか。
だが……。
「わかった、案内してくれる?」
シアは素直に応じることにした。少女の命などどうでもいい。
だがあの少年は武装して踏み込んではこなかった。こちらと話し合いをする姿勢は変わらないらしい。ならば、応じてやるのも一興である。
そう考えながら周囲に視線を巡らせる。先程までそこにいたクリン・ランジェストンの姿がない。
──お姫様は無事、王子様に助けられたというわけだ。
狭くて真っ暗な世界がガタガタと揺れ動いている。
やがて車輪の音が消え、動きが止まった。無遠慮に開けられた蓋から新鮮な空気が入り込み、ミサキは目を開ける。
月明かりの届かない場所にいるのか視界は暗い。人影がぬっとこちらを覗き込んできて、一瞬、恐怖で正気を失いかける。
「おう、生きてるか!」
だがすぐに慣れ親しんだ陽気な声が降ってきて、ミサキはほっと息をついた。
「セナさ……」
「もう大丈夫だ。起きれるか?」
セナは使用人の変装をしていた。台車をここまで運んでくれたのもきっと計画どおりなのだろう。
しかし体を起こそうとしたが、全身に力が入らない。喉の渇きはとっくに消え、頭痛と眩暈で視界が揺れている。
「ほれ、クリン手製の経口補水液」
けっきょくはセナの腕に支えられる羽目になり、口元で傾けられたボトルを素直に受け入れる。塩分と糖分が混じり合った液体がからっぽの胃に入り込んでいった。ほのかな柑橘の香りが混じって美味しいと思うのに、限界を越えた胃はあまり受け付けてくれなかった。
「生還祭って……」
「聞こえてたか? クリンの発案だよ。あいつらも、さすがに一般市民に囲まれて騒ぎなんか起こせないだろ。このまま拘束して話し合いに持ち込むつもりだ。でも、ほら、その前に」
セナの言葉に合わせるように足音が駆けてくる。
「ミサキ、ミサキ!!」
「しー、ばか、静かにしろ」
セナの腕からひったくるようにして引き寄せられ、弱った体をギュウギュウに抱きしめられる。
見えなくてもわかる。その相手は。
「クリンさ……」
「怖い思いしたよな。ごめんな……よくがんばったな」
「あ……」
もう嗅ぎ慣れた匂いと、どんな時でも安心させてくれる穏やかな声に、緊張した体がほぐれていく。だが、ミサキはすぐにクリンの肩を押し返した。まったく力は入らなかったが。
「あ、あの……お風呂に、入ってない、ので……汚いですから……」
胸は確実にときめいているはずなのに、コンディションが最悪である。セナに支えられていた時はまったく気にならなかったのに。
しかしどうやらクリンの耳には入らなかったらしい。いや、入った上で無視をしたのかもしれない。抱擁の力はちっとも緩みそうにない。
「おーい。イチャコラしてる場合か。クリン、お前はさっさと仕事に戻れ」
「わかってる」
クリンにはやるべきことが残っている。むしろまだ始まってもいない。だが……一目でいいからミサキに会いたかったのだ。
彼女がシアのもとでどんな酷い目に遭ったのかはマリアを通して知っている。マリアもこの二日間、泣き通して過ごした。
「ミサキ、マリアが待ってるよ。このままセナと一緒に帰って、あの子を安心させてやってくれ」
「……はい」
と言いながらもクリンの腕は正直なもので、なかなか解放しようとしないのだから困ったものだ。
一方のミサキも、乙女的な事情で彼との接触には抵抗があったが、その腕から逃れる体力も気力ももう残されていなかった。そうでなくとも、唯一触れられることを許せる相手だ。本気で拒むことなどできるはずもない。
おとなしく彼の腕に身を任せていたら、ずっと凍結していたはずの心がしだいに溶け始めて、じんわりと目頭が熱くなった。あれだけ散々我慢できていたはずなのに、勝手に涙が溢れ始める。
「……っ、く……」
心はたしかに安堵を感じているはずなのに、いまだ体の奥底にはびこっている痛みは消えない。
絶え間なく続く暴力に心は恐怖と安堵を繰り返し、どんどん擦り減っていった。
向けられ続けた悪意と侮蔑に満ちた視線。投げつけられた心無い言葉。自分の存在意義を、人生を、尊厳を否定され続け、もしかして本当に彼らのほうが正しいのではないかと何度も自分を見失いかけた。
押しとどめていた悲しみが涙とともにあふれて、どう我慢しても堰き止めることができない。
「クリ……さ……私、がんばったでしょ……。私……負けなかったんです」
だから、もういいかな。そう自分を許してあげた時、ついにそれは決壊した。
「もう、泣いても……いいですか?」
「ああ。もういいよ。大丈夫、もう我慢しなくていい」
「……う……」
「本当に……ミサキはがんばった。悪意には負けなかった。誰よりも強い子だ」
「……っ」
喉から出てきたのは、闇に消え入るほどの小さな嗚咽。そこから残されたわずかな力でクリンにすがりつき、泣けうる限りの涙を流し続けた。
そうしている間にミサキは限界を迎え、クリンの腕の中で意識を落としていった。
「セナ、頼んだぞ」
ただ城に戻るだけとは言え、皇帝との賭けはすでに始まってしまった。マリアの術は使えないので、セナはミサキを抱えたまま自力で帰還しなければならない。
「まかせろ。んで、おまえもな」
「ん」
互いに拳を作って、小突き合う。
さあ、反撃開始だ。