交渉日
ついに交渉の夜が訪れる。
約束の19時よりも少し早い時間。例の侯爵家が運営する物流会社の廃倉庫へ、暗闇に乗じて彼らは集った。
30名ほどいる男たちの中に、女性はシア一人だけ。彼女を中心に、それぞれが木箱を椅子にしたり、その場にあぐらをかいたりしている。もちろん外には見張りが数名。武器は常に携帯しているが、銃を持つものはいない。拳銃は帝国軍が管理下においているため簡単には手に入らず、作戦を実行する時だけパトロンが融通してくれているのだ。そうでなくてもホームグラウンドでの銃撃戦はリスクが高い。
「そろそろ出てきていいよ、お姫様」
シアは横にある台車を見る。正確には台車の上に乗せられた大きな木箱だ。しかし声をかけても反応はない。
「ねえビビってんの? それともさすがにくたばった?」
木箱の蓋を開ければ、膝を折った状態でびくりと震える皇女の姿に、シアの嗜虐心がわずかに刺激される。
手足こそ拘束はしていなかったが、ずいぶんと衰弱しているように見える。仲間の男どもが台車に乗せてここまで運んできたのも、もう自力で歩くことが困難だったからだ。
さすがに空腹が限界を越えたかと思ったが、皇女は生きていた。つまり声は聞こえていたはず。それなのに出てこなかったということは、心が恐怖に侵されている証拠である。
皇女はそれでもその目に確かな強さを宿して、こちらを見上げてきた。
シアはにっこり笑って、木箱に蹴りを入れた。倒れこそしなかったが、皇女が再びびくりと反応することに言いようのない快感を得る。
こちらの実験は聖女の加護によってことごとく失敗に終わった。だが四六時中、悪意を抱いた男たちに囲まれ、気まぐれで暴力を受ける状況は心休まる暇がなかったに違いない。精神の疲弊に加え、丸二日間、一切の睡眠も食事も摂れなかったのだから、心身ともに限界だろう。
しかし、生ぬるいとシアは思う。生理現象を懇願してきた時のあの屈辱的な表情だけが唯一満足させてくれたが、それにしても彼女は一度も涙を流さなかった。いや、それだけではない、まるでこちらの吐き出すものをすべて受け入れるように毅然とした態度を崩さなかった。
自分と同じ目に遭わせてやれば、さすがの彼女も泣き叫び許しを乞うだろうか。だが、聖女の術がそれを邪魔した。
「あれだけ大勢の聖女様を虐殺しておいて、自分はちゃっかり守られちゃってるんだもの、さすが腐れ帝国のお姫様よね」
ね、お姫様。と笑いかけても、皇女は無反応。いくら結界が身を守ってくれても、恐怖は確実に心を蝕んでいるはず。そんな彼女にはもうすぐ救いの手が差し伸べられる。自分には訪れなかった救いの手が。
そうしているうちに、時計の針は7の数字に近づいていく。まだ時間になっていないとは言え、人質もいるのだから普通は早めに訪れるはず。しかし、見張りからの報告はおろか少年がやってくる気配は微塵も感じられない。
「来ないじゃないの、王子様。あんた、見捨てられたんじゃない?」
シアは腕組みをして、皇女が入っている木箱の縁に腰を下ろした。皇女が何かを知っているふうには見えず、シアは違和感を覚える。なかなかに利発で小生意気な少年だった。怖気付くとは考えにくい。そうでなくともあれだけ別れ際に渋っていたのに……。
そこまで考えて、シアはふと顔を上げた。倉庫の外から、たしかに物音がしたのだ。
「……ずいぶん賑やかね」
異変はすぐに感じ取れた。なぜなら言葉通り、聞こえてくる音が騒がしいのではなく賑やかだからだ。
やがて大勢の声とともに、倉庫のシャッターが大きな音を立てて揺れ動いた。シアたちは懐の武器に手を添える。
「いい? 狙うのは十代後半の茶髪の少年よ。生かしたまま腕の一本でも切り落としてやって」
シアの指示に、ミサキはひやりと背筋を凍らせる。だめ、やめて。声に出したくても、乾いた喉はうまく音を発してくれない。
最悪はマリアがなんとかしてくれるだろうか。
一縷の望みを託して胸元のペンダントに触れた、その時。
──え?
ペンダントは音もなく消え失せて、ミサキは絶望に襲われる。
無情にもシャッターは開かれていく。しかし中に入ってきた人物を見て、シアたちは武器を取り出すことなく固まってしまった。
「なんだ、先客がいるなら開けておいてくれればよかったのに」
「いやいや。若い者がたくさん集まって、ご苦労なこって」
ぞろぞろと入ってきたのが武装した集団──ではなく、一般市民たちだったからだ。見たところ、ざっと15名。見事に老若男女が揃っている。
シアは彼らに見つからないようにミサキを木箱の中へ閉じ込め、それとなく尋ねた。
「みなさん、集まる場所を間違えているんじゃなくて?」
「ええ?」
「そんなはずはないよ。ほら」
一人の老婆が、一枚のチラシを取り出しシアへと手渡す。それを見て、シアは絶句した。
『ミランシャ皇女生還祭、開催実行委員募集』──大きく書かれた見出しの下には、行方不明だったミランシャ皇女が無事に生還し帰城したことや、盛大に生還祭が開かれることが記載されていた。
その祭りは皇女たっての希望により貴賎問わずすべての国民に参加が認められるそうだ。
しかし大々的な祭りになるため人手が足りず、平民からも実行委員会の参加者を募るとのこと。選ばれた者たちには多大な報酬を約束する、とも書かれている。
その募集要項に書かれている審査会場が、なんとこの場所、この時間なのである。
「こんな……」
これでは、武器が出せない。シアが心の中で舌打ちしている間に、招かれざる客はどんどん増えていく。見張りはいったいどうしたというのか。
すぐに倉庫は多くの人でいっぱいになってしまった。怪しまれる前に撤退を、と仲間へ指示する直前、入口を見てシアは目を見張った。
「静粛に! 一同、その場を動かぬように」
若い少年の声が倉庫内に響く。大勢の騎士と侍従を引き連れて現れたのは自分たちのパトロンであり互いの弱みを握り合う相手・デリア侯爵。その男が直接ここに姿を現したことも予想外だったが、さらに驚いたのは彼の横に立っていたのがあの少年、クリン・ランジェストンだったからだ。
少年は貴族服を着用し、堂々と民へ整列を促している。
「こちらのデリア侯爵は皇帝陛下直々の命により、今回の祝祭を一任されている。よって、そなたたちは一時的に侯爵家直轄となる。そのことを肝に銘じ、心して仕事に励むが良い」
少年の口から飛び出た言葉に、シアはさらに耳を疑う。祭りの指揮を侯爵が担う……。
なるほど、侯爵がスパイだということが帝国側にバレていたようだ。そして侯爵は少しでも量刑を軽くするために、帝国に寝返ったのだろう。
ならば、いっそこの場で暴れてやろうか。この祭りが失敗すれば侯爵は大恥をかき失脚を免れない。
……いや、だからこそ彼は、何がなんでもこちらを叩き潰しにくるはずだ。結局は帝国の思う壺である。
「これから説明会と簡単な質疑応答を行う。その後、仕事を希望する者は申込書に必要事項を記入するように」
それから少年は一歩下がり、この場の指揮を他のものに任せた。侯爵の取り巻きがクリンに頭を下げたところを見ると、彼の立場はそれなりに上層階級に位置するようだ。