潜入捜査
マリアが「明日ってやっぱりあたしはお留守番だよね」と言ったのは、ミサキの部屋で就寝の準備をしていた時だった。
地下牢へ投獄された初日以降、マリアはずっとミサキの部屋で寝泊まりしている。皇帝が用意した急ごしらえの侍女が三名ほどいるが、ほとんど別室で待機させ夜は早々に下がらせているため、ミサキと同じベッドやバスルームを使うことを咎める者がいない。
「そのほうが安全ね」
「わかってる。言ってみただけ。あのね、それなら持っていってもらいたいものがあるんだけど」
風呂あがりの濡れた赤い髪を拭きながら、マリアは自身の荷物からあるモノを取り出した。
「これは……」
「えへ、秘密道具。準備段階での聖女の術は禁止されてないよね?」
マリアはソレについて、簡単に説明をした。難しい説明はいらなかった。
「すごいわ、コレがあれば心強いわね」
「でも、なるべく危ないことは避けてね」
「わかってるわ」
「それからね。ジャックさんがこんなことを言ってたんだけど」
「え?」
クリンとミサキが皇帝の執務室へ向かっている間、残された彼らにも会話があったらしい。
「『平民街にある時計塔はなかなか見晴らしがよくてデートにはうってつけだ。とくに夕方4時頃に見える明かりが最高だから時間があるなら行ってみるといい』だって」
マリアはぐっと声を低くしてジャックのモノマネをした。「なにそれ」とクスクス笑いながら、ミサキはその言葉の真意を汲み取る。
──なるほど。デートの提案ならば、裏切りにはなりませんものね、ジャックさん。
「クリンとの下町デート、楽しむのはいいけど目的は忘れないよーにね」
「はいはい。マリアも油断しないでね、一応ここは敵陣なんだから。あ、でもセナさんと二人きりのほうが今は危険かしら? ジャックさんがいて良かったわね」
「……」
からかうつもりだったのだろうが、マリアのいたずらな笑顔がみるみるうちに崩れていく。見事に返り討ちを果たして、ミサキはドレッサーの前で髪をとかし始めた。
明日……か。
心の中でつぶやきながら、頭の片隅に浮かび上がった小さな不安と向き合う。あのとき感じた彼女への違和感……ただの思い過ごしだといいのだが。
昼下がりの平民街は、せわしなく行き交う人の群れで溢れていた。いたるところに兵士を配置している街に活気こそなかったが、営みによる喧騒がそこかしこから聞こえてくる。
雑踏の中、クリンとミサキはチェルシア皇女の背中を追いかけていた。人と人との隙間を縫うように慣れた仕草で歩いていく彼女は、言葉どおり城を抜け出す天才で、難なく平民街へたどり着くことができた。
小さな皇女は淡いピンク色のコートに白いファーの帽子という、ちょっと裕福そうな平民の格好をしている。彼女の隣には、護衛騎士である若い女性の姿が。護衛もまた平民の姿で、どこかに隠し持っているはずの武器は傍目からは見えない。チェルシア皇女いわく、彼女は唯一の味方だそうだ。
幼い皇女はまだ皇室の職務にも社交界にも足を踏み入れていないため、世間に顔を知られていない。だがミサキは行方不明となり幾度となく似顔絵つきで紙面に晒されてきたため、勘の良い者に気づかれる恐れがある。そのため黒ぶちメガネに三つ編みという変装をしていた。
最初に訪れたのは小さな本屋だった。本屋と言っても新品は少なく、貴族たちが読み古した中古の書籍や雑誌が大半である。
「古新聞がありますね」
「うん」
ミサキが見つけてくれた古新聞コーナーで何か手がかりがないか探してみる。きちんと年代順に整頓されていたのが有難い。
「こちら、昨日調べた新聞と毛色が違うようです」
「やった」
やはり市井にしか出回っていない情報があるようだ。平民街での些細な事件から、ネオジロンドとの戦況や貴族への批判……なるほど、皇室の図書室ではお目にかかれないのも納得である。
立ち読みは気が引けたるため、いくつかめぼしいものと周辺の地図を購入することにした。
それから本格的にチェルシア皇女たちの観光案内が始まった。人気の雑貨店、貴族御用達のパン屋、新しくできた学校。
いたるところに配置されている兵士の目をかいくぐりながら、街中の様子に目をこらしていく。
生活用水に利用される上下水道の完備、住宅地区まで続く街灯、清潔さの保たれたごみ集積所。平民街は思ったよりもインフラがきちんと整備されているらしい。
しかし掲示板の利用制限や、届出のない集会の禁止、子どもだけでの外出厳禁など、やはり抑圧されている部分もあるようだ。
「次はここで休憩しましょう」
チェルシア皇女が指定した店は、大衆向けのカフェだった。二階建ての店内は広く、ワンフロアに十組は入るだろうか。しかし人気があるのか、平日の昼間だというのにずいぶんと混雑していた。
「コレに決〜めた。お姉ちゃんたちは何にするの?」
チェルシア皇女が無邪気な顔でメニューを差し出してきた。たいした演技力である。
城下へおりた時、彼女は言った。クリンは留学生で、三人姉妹の家に下宿をさせてもらっている設定にしようと。今日はこの街に早く馴染むため、街案内をしてもらっているのだ。自分のことはチェルと、それから護衛のことはフィナさんと呼ぶように、と言われたが……クリンはまだ呼べていない。
ひととおり注文を済ませて落ち着いた頃、購入した地図を眺めながら店内のざわめきに耳を傾ける。
「貴族街にまた爆破物が仕掛けられていたそうだぞ」
「へぇ。最近物騒だな」
「とは言え、まあ、貴族街だしな。俺たちには関係がないだろうよ」
「ねえ聞いた? ウナシュアー領の北側でまた鉱山が発見されたそうよ」
「でも雪で埋もれた地域でしょ。いやだわぁ、また男手が足りなくなるのかしら」
「北部ばかり開発しないで、早くネオジロンドを侵攻してしまえばいいのに」
「でもウォースンさんのところ、息子さん三人も戦地へ行って帰ってこないんでしょ。うちの子もあと数年後には……」
「第二皇女がまた貧民街へ生活援助金を支給なさるそうだ」
「ほーお、なんともまあお優しいことで」
「しかし皇帝陛下はあまり快く思ってないらしい」
「そりゃそうだろう。一時的に金をばらまいたって継続的な経済活動にはつながらないからな」
「噂では、第二皇女の政治介入は皇后のご意向だそうだ」
「なげかわしい。女に政治の何がわかる。皇帝陛下はいつまで女に大きな顔をさせておくつもりなのだろうな」
「おっと、声をおさえろ、不敬罪でしょっぴかれるぞ」
貴族街から離れた地区のせいか、聞こえてくる話題はどれも貴族や皇室の批判だ。
チェルシア皇女は大丈夫だろうか。ちらりと顔をうかがえば、彼女は難しい顔でメニューを眺めていた。
「やっぱり、こっちのケーキにすればよかったわ」
大丈夫そうだ。フィナという護衛騎士も、皇室専属騎士だというのに涼しい顔で店内の装飾を眺めている。おそらく平民街でのこれくらいの批判は日常茶飯事なのだろう。
地図をしまい、さきほど購入した古新聞に目を通してみる。『公爵邸で夜会中断。また義賊の仕業か』という見出しがトップ記事を飾っている。
皇族の傍系主催のパーティーに何者かが押し入り、招待客十数名が攻撃され死傷。黒い噂の絶えない公爵家に正義の鉄槌が下されたという内容だ。犯人は腐りきった国家を憂う国民の代弁者ではないかとも書かれており、事件を擁護しているようにも取れる。ずいぶんと過激な記事だ。
だが生物兵器については、どの記事にも触れられていなかった。やはり国民はその存在を知らないようだ。
だがレジスタンスの存在は認知しており、自分たちの生活を守る英雄のような扱いをしている。