帝国ルール
こちらの様子を気にしたのか、ミサキがこそっと耳打ちをしてきた。
「クリンさん、どうかお気になさらず。冷めないうちに召し上がってください」
「……」
「クリンさんが食べ終わらないと、妹たちがずっとお腹を空かせたままです。彼女たちのためにも、どうか」
ミサキはずるい。そう言われてしまえば、こちらが意地を張り通せなくなるのはじゅうぶんわかっているだろうに。
しかしだからこそ、好きな子の前で女性を軽んじるような男ではいたくない。
「皇帝陛下、恐れながらお願いがあります」
「言ってみろ」
「僕が住んでいるアルバ王国では、女性は対等な立場にあります。命の重みに性差はない、両親にもそう教わってまいりました。食事は命を育む行為です。僕は女性と肩を並べてそれをしたいと思います。ですから今だけでも、彼女たちに食事の許可をいただけませんか」
皇帝は「ほう」と片眉を上げた。
「それは愉快な教育論だが、そなたの親は子どもに基本的な教育もできない愚か者のようだ」
「……。と、いいますと?」
「他国には他国のルールがある。我が国に立ち入った以上はここの習わしに従ってもらおう。ここはアルバのような田舎な島国とは違って、複数の属国を所持する大帝国だ。一緒にされるのは不愉快だ」
「……わかりました」
クリンの『これだけは許せないランキング』の中で一位は命を軽んじること、二位は両親を馬鹿にされること、三位に故郷をけなされることだ。その三つの地雷を事も無げに踏み抜いてくれたおかげで、抱えていた緊張感やプレッシャーは遠い故郷に飛んで行った。
だが、まあ、郷に入っては郷に従うという考えも一理ある。
クリンは近くにあった大皿に手を伸ばした。みずみずしいミニトマトをつまみ、口の中に放り込む。北の国は食事がうまいと聞くが、野菜の味なんて故郷と大した差異はない。
「ご馳走さまでした。僕はお腹がいっぱいなので、もう結構です」
即座に左隣から「俺も、もういらねー」とフォークを置いた弟の声。さすが弟、こういう時は息が合う。右隣では「もう、お二人とも……」とミサキが今にも頭を抱えそうな様子だったが、しれっと聞き流した。
大帝国の皇帝陛下は、機嫌を損ねてしまうだろうか。
「く……ふ、ははは!」
しかし皇帝の口から漏れたのは、怒声ではなく盛大な笑い声だった。こちらが呆気に取られているのもおかまいなしに皇帝は絶笑し続けている。そしてひとしきり笑い終えたあと、ニヤリと別の笑みを浮かべ直した。
「軍事帝国の王を前にして少しも怯まないとは、なかなかに度胸がある少年だ。気に入った」
それから皇帝は「食べろ」と隣の皇后に命じた。皇后は先ほどから浮かべている美しい笑みを一ミリ足りとも崩さずに、だが夫にだけ伝わるよう戸惑いをあらわにした。
「皇女を救った英雄にトマトだけ食わして帰したなどと、帝国の恥だ。少年に免じて、今夜だけは異国の慣習を受け入れようではないか」
再び皇帝に促され、皇后はおそるおそる大皿へ手を伸ばし始めた。皇帝とともに食事を摂るなど前代未聞なのだろう、喜びよりも戸惑いのほうが強そうだ。しかし一番端に腰掛けている背の小さな皇女だけは、「スープが温かいわ」と驚いて、頬を緩ませていた。
ほうっと、肩から息をしたミサキの皿へ、クリンは彼女の好きな鶏肉の香草焼きを取り分ける。目が合ったので「そちらこそ冷めないうちにどうぞ」と先程の言葉をお返しすれば、彼女は目だけで呆れた。
いよいよ交渉の時間となったのは食事が済んだ後である。こちらが話の場を設けてほしいと要求すれば、皇帝は二つ返事で了承してくれた。
皇帝の執務室には、仲間全員の他には皇帝の側近一名と護衛が二名。護衛の一人は先ほどセナのことをまじまじと観察していた壮年の男だった。
蝋燭の明かりが広い執務室をぼんやりと照らす。上質な椅子に腰かけ、皇帝は机の上に肘を置いた。
「さて。話を聞く前に、そこの者」
視線の先は、入り口でジャックとマリアの間に立つセナだった。
「名を告げよ」
「……セナだ。ラストネームは名乗らないことに決めてる」
あいかわらず簡潔に名乗ったセナの言葉に、皇帝は眉をひそめた。横に控える護衛が「無礼な」と咎め立てたが、皇帝は手だけで制した。
「レインという男を知っているか?」
「……」
まさか、ここで父親の名前が出てくるとは思わなかった。そういえば、セナの父親であるレインのことはけっきょく何もわかっていない。もしかしなくとも、レインはこの国の人間だったのだろうか。
セナの「どうする?」とでも言いたげな視線を受けながら、クリンは言葉に詰まった。停戦交渉の段取りをあらかじめ組み立てていたのに、出鼻をくじかれてしまった。
セナに、ここでリヴァルとレインの息子だと名乗らせたほうが得策だろうか。それは果たして不利か、有利か。リヴァルは交渉の切り札だ、有利に転ぶ可能性は高い。
だが……。
「セナは僕の弟です。それ以外を名乗らせるつもりはありません」
「……ほう。では、聞き方を変えよう。おまえたちがこれから話そうとしている内容に我が妹、リヴァリエは関係しているか」
「!」
「結構。その顔だけで十分だ」
やられた、さすがミサキの父親である。今のやり取りで、セナが二人の子どもであると勘づかれてしまったのかもしれない。