対岸へ
うっそうと茂る木々を抜け、渓谷に出た。
地層がくっきりと描かれた岸壁、その何十メートルもの下にはかつて川だった谷底が見える。
対岸まで五十メートルはあるだろうか。向こうの岸壁にはこちら側から切り落としたであろう木製の吊り橋がぶら下がっており、その朽ち果てた姿に時の流れを感じさせられた。
「向こう側はもう、ジパール帝国だ」
茂みに身を潜ませながらそう説明したジャックの言葉に、クリンはごくりと生唾を飲む。
「七年前も、俺はここから帝国へ渡った」
「その時あの橋はかかってたのか?」
セナの質問に、ジャックは「いや」と短く否定した。
「この橋をネオジロンド側が落としたのはもう何十年も前らしい。だからこそ、ここは手薄なんだ」
「じゃあどうやって渡ったんだよ」
「馬で下った」
「この崖を!? 頭おかしーんじゃねえの」
ほぼ垂直のような崖を見下ろしている無神経な弟の頭を、クリンはバシッと叩いた。
連れ去られた妹を助けるために手段を選んでいられなかったその頃のジャックの心境を思えば、とてもセナのように茶化すことなどできない。当人であるジャックはまったく気にもしていないようだったが。
「今回は聖女様のおかげで、ラクに谷を渡ることができそうだな。その力がなくなってしまうのは……惜しい気もするが」
「えへ。だからこそ、今のうちにたくさん使っておこうと思います」
ジャックの称賛に眉を下げて微笑んだマリアは、悩みを完全に吹っ切ることができたのか、ずいぶんとすっきりして見える。目的地の見えている場所に飛ぶことなど、今のマリアならば容易い。そのために馬車は山の入り口で待機することになり、すっかり馬を気に入ったディクスが面倒を見てくれている。マリアはディクスが残ることを憂慮したが、ネオジロンド側の動きを見張るためにも誰かが残ったほうがいいとクリンは考え、食事の必要がないディクスに残ってもらうこととなった。
「さあ。教皇の見張りがいない間に、さっさと渡ってしまおうか」
「本当に目眩ましをしてくれているのかねぇ、あの司教が」
「信じるしかないさ」
そうセナと会話をしながら、クリンはリュックの中に入っている地図を意識する。そして「信じますからね、司教さん」と心の中で念を押した。
時は前日に遡る。
巡礼を再開してから続いていた監視の目は、やはり教皇の手の内の者だった。ネオジロンド教国は長きに渡る戦争に国民がくたびれている。束の間の平和のために、教皇はミランシャ皇女を人質に利用して一時休戦を申し入れようと企てているようだ。もしも交渉が決裂した場合は、多くの聖女を虐殺した罪でミランシャ皇女を処刑すれば良い。そうすれば少なくとも国民の士気は上がるだろう。
教皇の腹をそう説明してくれたのは、あの夜、帝国へ行くと決めた自分たちのもとに現れた司教だった。
なぜこのタイミングで司教が現れたのか。警戒するクリンの向かい側では、セナが「やっぱり盗み聞きしてやがったな」と唸っている。
司教はリヴァルの城で、含みのある言葉を置き去りにした。『何もしないという選択肢もある』というのは、もしかして巡礼の選択のことを言っているのかとセナは思った。つまり、司教はどこかでコリンナの研究結果を聞いていたことになる。
セナが問い詰めれば、しかし当の本人は隠すつもりなど毛ほどもなかったようで、「ええ、お渡しした地図を使ってお話を拝聴いたしました」と悪びれなく言ってのけたのだった。
まさかその地図にそんな仕掛けを施していたとは気づかず、一同がさらに警戒を強めたことは言うまでもない。
「あなたたちがそのまま帝国へ向かえば、間違いなく教皇はあなたたちを処罰するでしょう。たとえ戻っても、反逆者とみなされたマリア・クラークスの巡礼は許可してもらえないでしょうね」
そう淡々と考えを述べていた司教は、言葉の最後に「バレないように手伝ってさしあげましょうか?」と少しだけ悪い笑顔を作った。
「手伝うって……正気ですか? 仮にもあなたはネオジロンドの人間でしょう。私が帝国へ戻るのを見逃すメリットはなんですか?」
当然、ミサキもすぐに司教の提案を飲むことはできなかった。だが司教はそれすらも予想どおりだと言わんばかりの表情でこう言った。
「メリットなど決まっているでしょう、世界の平和と安寧のためですから」
「…………」
うさんくさ……。誰もがそう思ったが、声に出すのも馬鹿馬鹿しくて表情を消した。