コリンナの実験
翌日のランジェストン家の診察室には、緊張感を伴った静寂が訪れていた。
二つ並んだ白いベッドには、クリンとセナがそれぞれ横たわり、白衣を着たコリンナとハロルドが二人を見下ろしている。万が一の回復役として、セナのベッド脇にはディクスが待機中だ。
チクチクする針の痛みを左腕に感じながら、セナがぼんやりとつながれた管を見ていると、ハロルドの固い声がふってきた。
「コリンナ。万が一、異常が見られたらすぐに抜いてくれよ」
「わーかってるわよ。心配性」
「君が無鉄砲すぎるんだ。いいか、これは人体実験だぞ。まだ立証もされていないことに対してこれはあまりにも」
「あーうるさい。今から立証するんでしょ。あっち行ってなさいよ、邪魔」
「冗談じゃない、大事な子どもを君に任せておけるか」
いい大人がわいのわいのと騒いでいるのを横目に、クリンのほうを確認すれば、彼も呆れたように大人たちを眺めていた。
『緊張が伝わってくる。うまくいくことを私も願っている』
反対側からディクスが肩に触れてきてそう言ったので、セナは無言で頷いた。
以前、『ルッカの母乳を飲んで血液を融合させたから、あなたは人間の細胞を多く体に取り込んだ』と彼女は言った。みんなにはディクスと会話ができるようになったという話の流れでその話題を伝えただけだったが、コリンナはずっとその話を気に留めていたらしい。
彼女は今日「セナの体に人間の血液を注入してみたい」と言った。つまり輸血である。
理由は‘母乳も血液という意味では一緒だから’だそうだ。セナが引き取られた日、オッドアイだった瞳はやがてリヴァル特有の赤色が消えて金色に変わった。それは母乳を飲んだ直後だった。つまり、人間の血液を体に融合させることで今の赤い瞳にも変化があるのではないかとコリンナは考えたのだ。
しかし母親の母乳がもつ栄養分と一般の輸血で得られる成分は微妙に異なるので、これは万が一の可能性にかけただけの、失敗を前提とした実験である。
「今さらだけど俺ってB型じゃなかったっけ? 血液型違うと輸血しちゃダメなんじゃなかったっけ」
緊張を押し隠すためにした質問に、コリンナは管を注視しながら答えた。
「クリンはO型だから大丈夫よ」
「なんで?」
「あんた医者の息子のくせにそんなことも知らないの? O型は抗体がないから全部の血液型に輸血できるのよ」
「へー」
ちなみにルッカはAB型、ハロルドはO型だ。ハロルドは緊急時に必要とのことで、白羽の矢を立てられたのはクリンだった。クリンも同じように管で繋がれて、不安げな表情を浮かべていた。
とは言っても出血をしているわけではないため、注入する量はごく数ミリリットル程度のものである。しかしその数ミリ単位でも、拒否反応が出ることは大いにありえるのだそうだ。不安になるなというほうが無理かもしれない。
しかしセナは不思議なことに恐怖や嫌悪感はまったく感じられなかった。近くに父がいるからなのか、実験を施すのがコリンナだからなのかはわからないが、リヴァルに向けられた視線はあれほど嫌悪感を抱いたというのに、今は皆無だった。積み重ねてきた信頼というプロセスがあるのとないのとで、こうも違ってくるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、目は閉じないで欲しいと言われていたので天井を眺めていると、「あら」とコリンナの声が降ってきた。視線を向ければ、こちらを覗き込むコリンナには笑顔が広がっていた。一拍遅れて見下ろしてきた父も驚きの表情を浮かべている。
「なんだよ……?」
「痛みや違和感はないか?」
「別になんにも。退屈で死にそう」
「ふ。そうか……」
父とやりとりをしている間に双方の管は抜かれ、先に起き上がったクリンもこちらを見るなりあんぐりと口を開けていた。やっと自由になって体を起こした自分に『おめでとう』とディクスの声が降ってきて、父が渡してくれた手鏡を見る。
そこには見慣れた金色が当たり前のように存在していた。
「……戻っ……た」
別に好きだったわけではない金色の瞳。だが今となっては、あの女の支配下ではないという証明になる大切な色。じんわりと喜びが胸に広がってくる。
「すげえ……。すげえな、おばちゃん」
「おばちゃんって呼ぶな」
「痛てっ」
ゲンコツはかなり痛かった。だが、それでも笑顔は消えなかった。肩に触れてきたディクスから『たしかにリヴァルの力が減った』と告げられて、さらにガッツポーズまで出てしまった。
「巡礼中も毎日続けてみるのはどうかしら。効果がどれほど得られるのかわからないけど、やらないよりはマシでしょう」
再びセナの採血をし始めたコリンナの言葉に、兄弟そろって素直に頷くのだった。
しかし喜びも束の間、巡礼という言葉が出たことで父の表情は固いものに変わった。
「実験成功で喜んでいるところすまないが……」
「いいわよハロルド。言うなら今しかないわね」
ふいに大人二人が神妙な顔つきになったので、クリンもまたその顔を怪訝なものに変えた。
「なんですか?」
「残す問題は、その巡礼とやらだ。このままでは残念ながら、クリンの当初の望みは叶えられそうもない」
「……うん」
父の言葉に、クリンはずっと胸に抱えていた気がかりを思い出した。いや、忘れたことなど微塵もなかったが、議論に取り上げるほどの答えも手がかりも得られず、胸にとどめておいただけだ。
教会がシェルターを施すとは言え、その精度や強度は完璧ではなく、また長期間に渡れば国が疲弊してしまう。マリアとセナはすぐにでも巡礼に立つつもりだろう。クリンにはもう彼らを止める言葉が見つからなかった。
しかしこのまま巡礼を終わらせてしまったら、マリアはリヴァルを殺し、同胞に処分され、セナの体にどういった変化が起こるかわからない。それ以前に彼も騎士として一緒に殺されてしまうのだ。
「ひとつだけ……回避する手段が見つかったといえば、見つかった」
「えっ、本当?」
「だが事が事だ。考えようによってはリヴァルさんを殺してしまうことよりもずっとおそろしいことだ」
「……」
「だからマリアさんも含めて、全員で話をしよう」
父の目は今まで見た事もないほど真剣味を帯びていて、クリンは頷きつつも、ごくりと唾を飲み込んでしまった。
セナの瞳の色が戻りました。
さて、次回はちょっと深刻なお話に。