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蜀貨あまねく天下に行き渡る

 司馬孚は、文帝(曹丕)即位後から先帝(曹叡)薨去までを、個別の将や相の動きではなく、全体として纏め直してみた。

 そうでないと、誰がどのように動いたか、よく分からなかったからだ。

 歴史編纂で言うなら、紀伝体から編年体にしたものだった。

 全ては魏の年表で記す。


黄初元年 十一月 魏国建国

黄初二年 四月 蜀にて劉備が皇帝を称す

黄初二年 七月 劉備、兵を発し呉に攻め入る

黄初三年 八月 呉の陸遜、火計にて劉備を破る

黄初三年 九月 文帝、三路より呉に攻め入る

黄初四年 先年の呉への出兵は疫病の為に撤退

黄初五年 文帝十余万の兵を率いて広陵へ親征、戦わずに撤退

黄初六年 文帝十余万の兵を率いて広陵へ親征、寒波と呉の反撃で撤退

黄初七年 六月 文帝薨去

黄初七年 襄陽に侵攻した呉の諸葛瑾を司馬懿が破る

太和元年 蜀の諸葛亮、天水方面を攻める

太和二年 春 張郃将軍、蜀軍を破る

太和二年 八月 石亭に於いて曹休将軍、呉の陸遜に敗れる

太和二年 十二月 蜀の諸葛亮、陳倉城を攻める

太和三年 春 蜀の諸葛亮、武都・陰平を攻め落とす

太和三年 五月 呉王孫権、皇帝を称す

太和四年 八月 曹真将軍、蜀を攻めるも大雨により撤退

太和五年 二月 蜀の諸葛亮、岐山に進出する

太和五年 呉の孫布、偽って降伏し、出迎えた王淩将軍が孫権の伏兵に撃破される

太和六年 先帝皇子曹殷、皇女曹淑死亡

太和七年 青龍に改元する

青龍元年 遼東の公孫淵、呉より燕王に封じられる

青龍二年 二月 蜀の諸葛亮、五丈原に進出する

青龍二年 七月 先帝親征し、合肥新城にて呉軍を破る

青龍二年 八月 蜀の諸葛亮、五丈原に死し、蜀軍撤退する

青龍三年 呉の孫権、屯田兵を北に送るも、満寵将軍による攻撃で撤退

青龍三年 蜀の馬岱が侵攻するも牛金将軍がこれを撃退

青龍三年 この頃より宮殿造営が始まる、また現陛下(曹芳)が斉王に封じられる

青龍四年 三月 景初に改元する

景初元年 呉の諸葛恪・陳表・顧承ら山越を討伐

景初元年 呉の孫権、五銖銭五百枚を発行

景初元年 七廟の制を整備

景初元年 遼東にて公孫淵が反乱を起こし、毌丘倹将軍が敗れる

景初二年 呉の孫権、五千銖の価値を持つ大銭を発行

景初二年 司馬懿が公孫淵討伐に出陣し八月に鎮圧、同年蜀の廖化が隴西に侵攻した後撤退

景初三年 一月 先帝崩御




 黄初年間、つまり文帝(曹丕)の在位期間は財政は厳しかった。

 即位式典の後は連年の出征、しかも二度は親征。

 そして得るもの無く撤退。

 文帝は規律に厳しい。

 武皇帝(曹操)が死亡した時に、敵である漢中王劉備が弔問の使者を送って来たが、皇帝はその使者を斬るよう命じた。

 即位前年には魏諷の反乱に伴い、多くの名門・高官の子息を処刑。

 後漢の混乱を見た為か、宦官を一定以上の官位に昇進出来ないようにする。

 そして魏国の今日に至るまでの基本方針、皇族曹氏の弱体化が為された。

 特に魏王太子の時代に、後継者の座を争った曹植への扱いは厳しかった。

 司馬孚はかつて、曹植の奔放さを随分と諫めて、逆に反感を買ったものだが、この曹丕による迫害を受けた後には

「あの時の貴公の諫言が、今になって有難かったものと知った」

 と感謝されている。

 皇后も愛情を失い、その不満を口にしたら処刑された。

 生母が処罰された事で、先帝も立場が危うくなっていた。

 このような、後に「軍事独裁」「恐怖政治」とも言われそうな文帝の統治下に、蜀貨は入り込む余地が無い。

 なにせ、弔問の使者すら受け付けられないのだから。




 では太和年間、先帝(曹叡)統治初期はどうであったろうか。

 最初の三年間、諸葛亮は軍事だけで魏を倒そうとしていた。

 無論、呉との連携によるが、この最初の時期は軍事力だけで倒せる可能性があった。

 しかし、魏は次第に諸葛亮の侵攻を既定のものとし、対策を始める。

 魏は当初、関羽以外に外征をして自分たちを倒せる将は居ないと蜀を侮り、関羽と劉備亡き後は統率者に欠けると考えていた。

 それ故に諸葛亮の攻撃は政治的な奇襲効果を生んだが、何度も繰り返すと効果は無くなる。


 太和三年が鍵かも知れない。

 この年、呉の孫権は皇帝を名乗る。

 蜀は本当の国号は「漢」であり、魏という献帝から禅譲された帝位を認めず、自らの「劉」姓をもって正統とする。

 それが、漢の皇帝からの禅譲でもなく、劉姓でも無い者が帝位を僭称する等、本来許せる筈が無い。

 しかし蜀は孫権即位に対し祝賀の使者を送る。

 そして兗州・冀州・并州・涼州を蜀、幽州・豫州・青州・徐州を呉に属すものと決める分割協定を結んだ。


 やがて呉の活動が活発になる。

 孫権即位の翌年、衛温・諸葛直が夷州と亶州(いずれも南方)の探索を行う。

 魏への攻撃を行う。

 公孫淵へ調略の手を伸ばす。

 通貨政策を始める。

 つまり、呉の経済が向上したのだ。

 おそらくは、蜀の良質の貨幣が大量にもたらされた。

 銭が行き渡った呉は、領土拡大や領内の整備が出来るようになる。


 この頃、司馬孚自身も蜀や呉と向き合っていた。

 魏では、度支(たくし)尚書という軍事財政専任の大臣が置かれ、司馬孚はこれに任じられた。

 故に、この頃の事は誰に聞くでも無い、彼の記憶にある。

 年が過ぎるに連れ、金銭面での問題は無くなっていった事を思い出す。


(そう、次第に兵の徴募を兎も角、物資の補充、兵糧の輸送手配に銭がかかるようになっていった。

 だが、それを支払うだけの銭が有ったのも事実だった。

 儂は、蜀と戦う兄、呉と戦う先帝陛下の行動を先読みし、必要な物を必要な時期まで揃える苦労はした。

 しかし金が無くて業務そのものが止まった事は、一度も無かった)


 そして、連年絶え間なく戦をし、国内は荒む筈なのに、一方で銭を多く持つ者たちも現れていった。

 先年誅殺した何晏や李勝ら、高貴な身分にして文才のある者たちが、人々から賞賛され、お互いに格付け等をし合っていた。

 先帝は、父の文帝と似たところがあり、質実な事を望んだ。

 文帝は詩才が有ったが、先帝は文学等よりも兵法等の実学を好む。

 それ故、詩才のまるでない兄・司馬懿と気が合ったのかもしれない。


 先帝は文帝程に残酷では無い。

 先帝が「軽薄である」と嫌った、四聡八達三豫と呼ばれた才人たちを、処刑する事は無く、ただ官職を剥奪して遠ざけただけである。

 先帝は彼等を表し「画に描いた餅」こと「画餅」と言った。

 余りにも「実」が伴っていない、という事だ。

 だが、そんな先帝は不思議がっていた。

「彼等は何故、そのように銭を多く持っているのか?

 金持ちになる為の、官吏になる資格は朕が剥奪したと言うのに、どこから富を得ておるのだろう?」

 

 司馬孚は今にして思う。

 この時期、国土の開発もしていなく、新たな銅鉱山を得た訳でも銭の鋳造技術が上がった訳でもない魏に銭が増えた理由、それは蜀から流されて来たのだろう。

 それは呉がかつて奪った、蜀のもう一つの侵攻口たる荊州からだろう。

 荊州北部・南陽郡や南郡は、魏の都とも近いのだ。

 それをする為に、蜀は呉と癒着する必要があったのだろう。

 現実と対魏の作戦、その為に呉の帝位を認め、軍兵ではなく銭を兵として荊州を通過させるよう、認めさせたかもしれない。

「道を借りて草を枯らす」

 兵が自国を通過するなら呉は拒否したであろう。

 しかし、商人や使者が銭を持って通るのなら、呉は歓迎だ。

 彼等が道中で費やす経済効果も期待出来る。

 蜀は、かつて失った攻め口を、兵ではない別の手段での攻め口として回復したのだ、それも蜀呉お互いが利を得る形で。

 

 呉は蜀を自身の財源として必要とし、蜀は魏を落とす為の銭の流路として呉を利用したのだろう。


 果たしてその効果は如何なるものだったのだろうか?

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