最終話 夏から秋へ
俺は愚かにも死のうとした。
自分が今置かれている状況から逃げたくて。全てを投げ去りたくなって。
そして今。
病院の屋上から身を投げ出そうとした俺を助けてくれた夏子が、目の前で泣いている。
また、この子に救われてしまった。
辛い思いをさせてしまった。
もう二度とこんな思いはさせたくない。
泥水を啜ってでも生きたい。夏子と一緒に、二人で。
フェンスをよじ登り、夏子の元へ。
遮る物が無くなった夏子の側に駆け寄り、躊躇すること無くその身体を抱き締める。
「……秋」
夏子の身体、こんなに細かったんだ。
こんな小さな身体で俺を必死に助けようとしてくれたのか。
身体を震わして嗚咽を漏らしながら泣く夏子の身体を、更に強い力で抱き寄せる。
「夏子、ごめん。俺、生きるから」
「うん」
「夏子も生きてくれ。俺と一緒に」
「……うん」
夏子は言葉に応えるように俺の背中に腕を回し、鼻を啜りながら身を這わせる。そんな夏子の髪を優しく撫で、ただ抱き締めた。
俺は生きる。例えこの先、病魔に一生蝕まれたとしても、夏子さえいれば、俺は、俺は──
それから一ヶ月以上経っただろうか。
夏子はまだ病院に入院していた。
最初は階段から落ちた時の怪我がまだ治ってないのかと思ったけど、それにしても時間が掛かりすぎている。
何度もお見舞いに行こうかとメッセージを送ったが、今は会えないとの一言。痺れを切らした俺は、直接病院に出向くことにした。
「……あっ」
病院の受け付けで夏子の病室を確認し終わり、廊下を進もうとした所、階段を下りてきた夏子のお母さんと丁度鉢合わせた。
夏子のお母さんは俺を見るなりギョッとしたような表情を浮かべ、その場に踏み止まった。
「……秋君? 何でここに?」
「夏子の見舞いに来たのですが……今、まずいですか?」
俺の言葉に夏子のお母さんは視線を床へと落とす。
「今、夏子は……」
夏子のお母さんは暫く何かを考えるように黙り込んだ後、顔を上げて俺の顔を見据えた。
「秋君。夏子のどんな姿を見ても驚かないって約束してくれる?」
病室の前。夏子のお母さんは大きく息を吐き出すと、ゆっくりと扉を開いた。一旦、廊下で待つように言われた俺は言われた通りその場に待機。
夏子のお母さんは病室に入り、一度扉を閉める。中からは何かを話し合う声が聞こえる。これは夏子の声だろうか──そんなことを思ったのも束の間、扉が再び開き、夏子のお母さんが姿を現した。
「……秋君。入って」
夏子のお母さんの言葉に心臓が飛び跳ねる。
何故か込み上げる緊張に唾を呑み込み、恐る恐る病室へ一歩を踏み出す。そしてそこにいた夏子の姿に、目を大きく見開いた。
「……なつ……こ?」
ベッドの前に佇む夏子は、一ヶ月前の姿から変わり果てていた。
顔も、身体も、骨と皮しか残っていないと勘違いしてしまう程に痩せている。ニット帽を深く被ったその頭からは髪の毛がある気配が感じられない。
医療の知識が深くない俺でも分かる。分かってしまう。これは抗がん剤の副作用によるもの、だろう。つまり夏子は、夏子は──
「……秋、ごめんね。ビックリしたよね」
点滴に繋がれた夏子は弱々しく微笑む。
俺は必死に首を横に振り、夏子の側に駆け寄った。
「……何で、今まで言ってくれなかったの?」
俺の問い掛けに、夏子は繋がれた点滴をそっと握り締めながら、消え入りそうな声で小さく呟く。
「……驚かせちゃうかと思って。でも今週末から病室移っちゃうから、秋に会わなきゃとは思ってたの。でも勇気が出なくて、嫌われちゃうんじゃないかと思って。でも、でも」
「夏子」
夏子の言葉を遮るように、彼女の身体を優しく抱き寄せる。夏子は一瞬身体が硬直したように固まったものの、俺の肩に顔を埋め、鼻を小さく啜った。
「……ごめん。一緒に生きようって言ったの、私なのに。私なのに」
「謝るな。夏子が謝ることじゃない」
震える夏子の身体を強く握り締める。
夏子の身体は以前にも増して細い。細過ぎる。
こんな身体にさせるまで俺は夏子に心細い思いをさせてしまったのか。
暫く夏子を抱き締めていると、背後で扉が閉まる音が聞こえた。後ろを振り返ると、夏子のお母さんが姿を消していた。恐らく俺達に気を使ってくれたのだろう。
「……秋。苦しい」
夏子のお母さんが去っていったことに気を取られていると、腕の中から夏子のか細い声が聞こえた。慌てて腕を離して夏子の顔を覗き込む。
「ごめん。大丈夫?」
「ふふっ。へーき」
夏子は目を細めて優しく微笑む。以前と同じ、変わらない笑顔だ。つられて笑う俺の顔を見て夏子はまた笑う。
「ねねっ。ちょっといい?」
「ん?」
夏子に腕を引かれ、そのままベッドの上へと座らせられる。夏子はベッドの側にある机の引き出しの中から何かを取り出し、それを背中で隠しつつ俺の隣に腰掛ける。
「じゃじゃーん」
変な効果音と共に夏子が顔の前に掲げた物、それは手紙だった。
「これ、秋に渡そうと思って書いてたの。病室が移る前に渡せて良かった」
「手紙か。ありがとう」
夏子の手から手紙を受け取る。そのまま封を開けようとすると、夏子は小さな悲鳴を漏らして両手を手紙の前で掲げた。
「ダメ! それは帰ってから読んで!」
「え? 何で?」
「もう! 何でも!」
頬を膨らませて拗ねたような表情を浮かべる夏子に思わず笑い声が漏れる。それと同時に溢れる夏子への愛おしさ。目の前にいる夏子の頭をニット帽越しに撫でる。
「あっ。子供扱いしてるでしょ」
「してないよ。可愛いなって思っただけ」
「してるじゃん!」
再びムッとしたような表情を浮かべる夏子。
やっぱり夏子はどんな姿でも夏子だ。
いつでも元気がいっぱいで、誰よりも笑顔が可愛い。
俺は夏子といたい。
これからもずっと一緒に。
大丈夫だ。きっと病気だって治る。
俺はそれを信じて出来る限り夏子を支えよう。
夏子と他愛もない話を続けている内に、気付けば面会時間も終わりに近付いていた。夏子もそれに気付いているのか、時計を見てソワソワしている。
……名残惜しい気持ちもあるけど、帰らなくちゃな。
「夏子。そろそろ帰るね」
「うん……」
何処か寂しそうな表情を浮かべて俯く夏子の頭に、優しく手を置いて顔を覗き込む。
「また今週末会いに来る。鹿野達も連れてきていい?」
俺の言葉に夏子は顔を上げる。表情は一変、嬉しさに満ち溢れていた。
「うん! 勿論!」
「おっけ。じゃあまたね」
床に置いていた鞄を手に取り、病室の扉へと向かう。そのままその場を去ろうとしたが、腕を突然掴まれ、足を踏み止める。
振り返るとそこには僅かに息を切らしている夏子の姿が──
「秋。手紙」
「ん?」
「手紙は本当に辛くなったら読んで」
夏子は優しい眼差しを向けて、優しい音色の声で囁くように言葉にする。気付けば俺は夏子の頬に触れ、口付けをしていた。
「んっ」
僅かに声を漏らす夏子。惜しむように唇を離し、今度は額に唇を落とした。
「ありがとう、夏子。じゃあまたね」
「……うん。また」
小さく胸の前で手を振る夏子。その姿を目にしながら、ゆっくりと扉を閉める。
ガチャン──扉が閉まり切った音と共に口から小さな息が溢れた。
……今週末。学校が終わったら会いに行こう。直ぐにでも。
心の中でそう言い聞かせ、俺は病院を後にした。
金曜日の朝。
今日は夏子に会いに行く日。
鹿野にも能瀬にも事情は話した。二人ともそれを理解した上で見舞いに来てくれるとのことだった。
制服のネクタイを結ぼうと姿見の前に立つ。
この間は何も持たずに病院に行ってしまったから、今日は何か見舞いの品を持っていこう。そんな事を考えていたその時だった。
──プルルルルルルル。
部屋の静寂を切り裂くような携帯の着信音が響き渡り、身体が小さく震える。何かと思い携帯の画面を覗き込んだ。
「えっ……」
携帯の画面に表示された名前──それは夏子だった。
入院しているのに何で電話が……
嫌な胸騒ぎが襲い、心臓の鼓動が速まる。
俺は震える手で携帯を手に取り、着信ボタンを押した。
「……もしもし」
『……もしもし? 秋君? 夏子の母です』
「あっ。こんにちは」
電話の相手は夏子ではなく、夏子の母親。彼女の声は僅かに震えており、鼻を啜る音も混じって聞こえた。
……まさか。まさか。
考えたくない結末が脳裏に過り、首筋に冷や汗が伝う。
『急にごめんね。実は今朝、夏子が──』
月日は流れ、気付けば秋。
夏子が死んでから一ヶ月が経った。
俺は夏子の死に目に会えなかった。あの見舞いの日が彼女に会えた最後の日だったんだ。
夏子の葬式の日、鹿野も能瀬も、他のクラスメイトも声に出して泣いていた。早すぎる彼女の死を皆が嘆いていた。
でも俺は泣けなかった。心に穴が空いてしまったのか、感情その物が消失してしまったのか、あの日からただ流されるように生きている。俺が考えているのは夏子のことばかりだった。
「……夏子」
街の外れの公園のベンチに座りながら、風に靡いて落ちていく紅葉を見つめる。
夏子。お前がいないのに、俺はどうすればいいんだ。どうやって生きれば──
頭に浮かぶ夏子の笑顔。それと共に最後に彼女が俺に残した言葉が甦った。
『手紙は本当に辛くなったら読んで』
手紙──確か、鞄の中に入れたきりだ。
横に置いていた鞄の中を無我夢中で漁り、目的の手紙を取り出す。少しシワが作られた手紙。震える手で封を切り、恐る恐る中身を取り出す。
数枚に渡って綴られたそれを顔の前で広げた。
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大好きな秋へ。
これを読んでいるってことは、秋に何か辛いことがあったんだと思います。今、私は病気で秋の元に駆け付けることが出来ません。だからこの手紙で秋にエールを送ります。
秋、無理して頑張る必要は無いんだよ。
私は秋が真面目で優しいこと、知ってます。伊達に三年間も付き合ってませんから。
秋のことを見守ってくれる人は私だけじゃないです。秋のお母さんやお父さんだって、鹿野や優希だって、他にも沢山の友達、皆、秋のこと心配してくれてるよ?
だから、一人で抱え込まないでね。無理は絶対にしちゃダメ。
最後に。これは万が一の話。
もし私が永遠に秋の元へ行けない場所に行ってしまったら。
私のことは忘れてください、とは言いません。頭に焼き付けて一生忘れるな、とも言いません。こんな彼女いたな、ってたまに思い出してくれるくらいで大丈夫です。
秋は素敵な人だから、この先、きっとそれ以上に素敵な人に出会えると思います。
もしそんな人に出会ったら、迷うことなく真っ直ぐに愛してあげてください。周りの目なんか気にする必要は無いです。心から愛して、その人のことを守ってあげて、支えてあげて。
話は長くなりましたが、以上です。
秋、大好きだよ。
P.S.病院食が不味いです。早く退院したいな。
夏子より
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ポツリ、ポツリと手紙の上に涙が落ちていく。
夏子らしい字で書かれた、夏子らしい言葉が、心に流れ込み、大きく空いた穴を徐々に塞いでいく。
気付けば俺は泣いていた。
涙と鼻水が混じった液体が顔を伝って手紙を濡らしていく。
手に持っていた手紙を握り締め、人目も気にせず声に出して泣く。通り過ぎる人々を気にする余裕なんか無い。
ただ夏子を想って涙を流していた──その時だった。
「おいおい。何泣いてんだよ」
突然、頭上から聞こえた声。
顔を上げると、口角を上げて不敵な笑みを浮かべる小田の姿があった。
奴の姿を目の前に、先程まで流れていた涙も悲しみも全て引いていく。
「ほら、忘れてねーだろうな。金」
小田はいつも通り、手を目の前に差し伸べる。俺は暫くその手を見つめた後、立ち上がり──
「えっ」
小田の腹部を思い切り蹴飛ばした。
身体のバランスを崩した小田は、後方にあった池へと大きな水飛沫を立ててダイブ。小田は底が深い池で暴れまわりながら、此方を鋭い目で睨み付ける。
「て、てめえ! こんな事してただで済むと思ってんのか!? 病気のことが世間にバレてもいいのか!」
何とも言えないダサい格好で怒声を放つ小田。その滑稽な姿に思わず薄ら笑いを浮かべる。
「勝手にしろ。お前に二度と金は払わない。俺は生きたいように生きる」
その言葉を最後に、小田に背中を向けて前へと進み出す。
背後から小田の叫び声が聞こえたが、知ったこっちゃない。
──夏子。
俺、お前に会えてなかったら、きっと今頃この世にはいなかったと思う。
夏子のおかげで、本当の愛を知ることが出来た。
夏子のおかげで、生きたいって思えた。
夏子のおかげで、自分らしく生きようって思った。
これから、これからも。
俺はお前のことを忘れない。多分、こんなに人を愛おしく思えたのはこれが最後。少なくとも今はそう思うよ。
お前に助けて貰った命を、二度と自ら絶つことなんてしない。命ある限り、何をしてでも生きる。
俺は、俺らしく生きる。
ありがとう、夏子。
俺はこの先、お前に紡いで貰った命を、繋いでいく。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
夏子と秋より愛を込めて。