第七話 狭間 side夏子
……あ、まただ。
暗闇の中。何も見えない。
辺りを見回しながら一歩踏み出したその時、視線の先に見覚えのある後ろ姿が見えた。
『……秋?』
眉を顰めてその名を呼ぶ。するとその人間はゆっくりと振り返り、私に顔を向けた。
──本物の秋だ。
駆け寄ろうとする私を、秋は片手を前に翳して制止する。どうすれば良いか分からず戸惑っていると、秋は寂しげな表情で口を開いた。
『ごめんな。俺、消えるよ』
秋は再び私に背中を向け、前を歩き出す。必死で追い掛けても、届かない。距離はどんどん開いていく。
『……き、待って……』
息が苦しい。身体が思うように動かない。喉が締め付けられているような感覚に襲われ、声も出ない。
嫌だ、待って、秋。
お願い。お願いだから。
行っちゃダメ。一人になろうとしないで。
私が、私が──
「──秋!」
声が解放されたと同時に視界が一変。目の前は真っ白な天井だった。状況が理解できずに瞬きを繰り返していると、隣から鼻を啜る音が──
「……お母さん、お父さん?」
私が寝させられているベッドの側に置かれた椅子、それに腰を掛けながら泣いているお母さん。そしてその隣に佇みながら険しい顔で俯くお父さん。
私が目を覚ましたことに気が付いたお母さんは、目を大きく見開いて立ち上がる。
「夏子。目が覚めたのね」
震える声で涙を流しながら話すお母さん。布団の上に置かれた私の手を握ると、私から目を逸らすように視線を落とした。
「貴女が階段から落ちたと聞いて、病院に駆け付けて、先生から話を聞いて、それから、それから……」
お母さんは嗚咽を抑えるように口を手で覆うと、床に泣き崩れるようにして座り込んだ。お父さんは顔を歪めながらも「泣くな。母さん」と言って、お母さんの背中を擦る。
何が何だか分からず呆然としていると、お父さんはお母さんを椅子に座らせ、私の目を真っ直ぐに見据えた。
「夏子。お前に話さなきゃいけないことがある。聞いてくれるか?」
よくドラマや映画で見たワンシーン。
知らぬ内に病魔に犯されていたヒロインが、医者から余命宣告をされる場面。
あんなの他人事だと思っていた。
そんなに若いのに重たい病気に罹る訳無いでしょうって。そう思っていた。思いたかった。
「……お父さん」
何とか全てを話し終えたお父さんは、普段の冷静な表情からは考えられない程に顔を崩し、涙を流していた。眼鏡を取り、服の袖で涙を必死に拭う。
お母さんは椅子に座りながら身を屈めるように、嗚咽を漏らして泣き続けていた。
一方の私。当事者にも関わらず、自分でも驚く程に冷静だった。
そっか。あの痣も、高熱も、そういうことだったのか。全部が繋がった。
ストン、と何かが心の中に落ちる。
全てが腑に落ちた。そして私には時間が無い。
今の私に出来ること、それは──
「……お父さん、お母さん」
側で泣き続けるお母さん達に顔を向ける。お母さんはハンカチで涙を拭うと「何?」と優しく言葉を返した。
「……聞きたいことがあるんだけど──」
私は走った。
病院の廊下を駆け抜けた。
ナースさんに「走らないで下さい」と注意されるも、気に止める余裕は無く。
お母さん達に聞いたのは、秋の居場所。
てっきり学校にいると思っていたんだけど、私の病室にお見舞いに来ていたみたいだった。お母さん達が病室に戻った頃には姿を消していたとのこと。
「……はぁ……はぁ……!」
階段を必死に上る最中、夢の中の秋のあの言葉が脳裏に過る。廊下にいた患者さんの「黒髪の学生の子なら、さっき屋上に行くのを見かけたわよ」という言葉を頼りに階段を駆け上がっていく。
息を乱しながら走り続け、やっと屋上へと続く扉の前に辿り着いた。額の汗を拭い、唾を呑み込み、勢い良く扉を開く。
扉の先──フェンスを乗り越え、高い段差から地上を見下ろす一人の少年の姿が見える。紛れもない、本物の秋だ。
「──秋!」
吹き付ける風を身に浴びながら、その名を呼ぶ。
秋は此方を向く気配はない。気付いていないみたいだ。
私は走る。
秋の背中がフェンスから離れる。
私は秋の名を叫ぶ。
秋の身体が前のめりになるように傾く。
間に合え、間に合え、間に合え!!
「秋!!」
大きく身体が傾いた秋が此方を振り向く。同時に足場を失った秋の身体がそのまま落下──し掛けたところを、フェンス越しに彼の腕を掴んで何とか食い止める。
「……夏子」
秋の身体を繋ぐ命綱は私の腕一本。
腕が引きちぎれそうな程に痛い。フェンスに自分の肩が食い込む。秋の手が汗で滑ってしまいそうになる。でも離さない。死んでも離しちゃいけない。
「……っ……秋……死んだら、ダメ!」
歯を食い縛り、自分が伝えたいことを、声にして叫ぶ。
フェンスのせいで秋の顔は見えない。秋は私の手を握ろうとしない。このままでは、秋が地上に落ちてしまう。
「秋! お願い、しっかり手を握って!」
「……なつ……こ……」
秋の声が震えている。泣いているのかもしれない。
彼はまだ私の手をしっかり掴もうとしない。額を流れていく汗の通り跡の感触を得ながら、自分が出せる限りの精一杯の声を天に向けて、秋に向けて、叫んだ。
「一緒に! 一緒に生きるんだよ! 秋!」
──刹那、秋の手が私の手を強く掴んだ。
秋はもう片方の手で段差に手を掛け、唸り声を上げながら壁を這い上がる。私も出せる限りの力を尽くして彼の腕を引いた。
「……っ……はぁ……はぁ……」
何とか段差を上った秋は、息を乱しながらフェンス越しに私の顔を見つめる。
秋は泣いていた。
私も泣いた。
声に出して、身体を震わせながら。
「夏子。ごめん」
秋はフェンス越しに私の腕を引き、抱き寄せる。フェンスの鉄臭い匂いと、大好きな秋の匂い。そして生きている人の温かさ。込み上げてくる感情に涙を流し、フェンスから腕を出して同様に秋の身体を抱き締める。
「秋。生きてくれてありがとう」
「……うん」
「お願い。これからも生きて。私も秋と一緒に生きるから」
「……うん」
夏の日差しに照らされる中、フェンス越しに秋と抱き締め合う。
今までで一番、秋との距離が近くに感じられた。そんな気がした。