第五話 落下 side夏子
身体が熱い。息が苦しい。
周りは真っ暗。何も見えないよ。
嫌だ、一人は怖いよ。
誰か助けて。お願い──
「秋……」
無意識に名前を呼ぶと同時に、視界が明るくなっていく。目の前の光を求めようと手を伸ばしたその時、何者かに手首を強く掴まれた。
「夏子ー。大丈夫ー?」
目の前にあったのは秋の顔──ではなく、優希の顔だった。
「あれ? 起きた途端、何その微妙そうな顔?」
眉根を顰める優希に、誤魔化すように視線を逸らし、顔の下半分を布団で覆う。
「……そう言えば、此処は……?」
片方の目を擦りながら上体を起こし、周囲を見渡す。見覚えのある机、椅子、タンス、ぬいぐるみ。今自分が寝かされている場所もそう、見覚えのあるベッドの上だった。
「何も覚えてないんだね。観覧車の中で倒れてたのを遊園地の人が見付けてくれて、家族に連絡してくれたらしいよ。それであんたの両親が迎えに来て、当のあんたは家でぐっすり寝てた。で、今、私は迎えに来たってワケ」
……迎えに来た? 家にいるのに何で?
疑問に思いながら、然り気無く窓の外に視線を向ける。
あれ? さっき遊園地にいた時は夕方だったのに、何で外が明るくなっているんだろう。
ていうか、休みの日なのに何で優希は制服を着て……ん? あれ? もしかして──
「私、一日寝てた?」
「うん」
「そうなると、今日は月曜日の朝?」
「せいかーい」
親指を立てて頷く優希に、一気に血の気が引く。
「ち、遅刻しちゃ……ゲホッ……ゴホッ……」
立ち上がろうとした瞬間、止まらなくなる咳。熱があるせいなのか、動悸がする。息切れも酷い。優希は咳き込み続ける私の背中を撫で、顔を覗き込んだ。
「体調悪いなら無理しちゃ駄目よ? あんたここ最近ご飯も食べれないくらい調子悪かったじゃん。今日くらいは休みなって」
「……で、でも」
優希に視線を向けようと顔を上げたその時、視界にある物が飛び込んだ。それは手首にいつの間にか出来ていた、大きな痣。
何、これ。
知らない間に何処かでぶつけた?
心臓が大きく跳ね、額に冷たい汗が滲む。痣から目を離せずにいた私を、優希が怪訝な表情を浮かべて覗き込んだ。
「どうかした?」
「う、ううん!」
反射的に手首を背中の後ろに隠し、誤魔化すように笑う。眉を寄せて私を見つめる優希に苦笑いを溢しながら、ハンガーに掛けてあった制服を手に取った。
「あれ? 学校行くの?」
「う、うん。テスト前だし」
「真面目だね~」
感心したように優希は呟く。そんな彼女を前に背中の後ろに隠した手首の痣を、そっともう片方の手で撫でる。
この痣のことは、後ででもいいや。
今日は取り敢えず学校に行こう。
秋が元気かだけ、確かめたい。
下駄箱で靴に履き替え、優希と共に教室に向かう。うん。学校に行けるくらいは元気だ、私。大丈夫。昨日の痣もきっと知らない内にどこかでぶつけただけ。
自分の中で必死に言い聞かせたその時、後ろから肩を思い切り叩かれた。
「っはよー! 元気かー?」
振り返るとそこにいたのは鹿野。八重歯を覗かせながら目を細めて笑っている。いつも通り楽しそうだ。うん、何も考えてなさそう。
「そう言えば萩、昨日のデートどうだったよ?」
鹿野は私と優希の間から顔を覗かせ、明らかに嫌そうな顔を浮かべている優希を完全無視。興味津々な顔色で私を見つめる。
「うん。やっぱりフラれた」
「んあ!? マジ!」
三白眼を見開き、更に白眼の面積を大きくする鹿野。優希が空気を読めと言わんばかりの大きな溜め息を吐く傍ら、私は苦笑いを浮かべる。
「他に好きな子がいるんだって。私じゃダメみたい」
私の言葉に鹿野は「えっ」と声を漏らし、両手を組んで唸り声を上げた。
「……そっかぁ。でも萩ならまたいい男見つかるさ!」
「ありがとう。根拠の無い励まし」
「どういたしまして~」
後頭部を掻きながら、鹿野は照れたように笑う。
別に褒めてはないんだけど、鹿野のお陰で少しは元気が出た気がする。ほんの少しだけ感謝しとこ。
そんなことを思っている間に教室の前へ。鹿野が大きな欠伸をしながら扉を開けたその時、教室の生徒達の視線が一気に此方に集まった。
何事かと思い、教室の中に足を踏み入れて前方に視線を向けると──衝撃的な光景が目に入り、身体が固まった。
「何だよ、あれ……!?」
鹿野は目を見開いて呆然とし、優希は口を半開きにしている。暫く私も言葉を無くしていたが、気付けば黒板の前に群がる生徒達を掻き分けて、前へと身体を乗り出していた。
「萩、お前何して……!」
教卓の下に置いていた雑巾を手に取り、黒板にマジックで書かれた文字を必死で消そうと試みる。
黒板に大きく乱雑に目立つように書かれていた文字──
『葉山秋はゲイ』
『葉山は男とヤッた』
『秋はホモだ。病気だ』
心にも無い言葉が羅列されていた。
擦っても全然消える気配が無い。「葉山ってゲイなの?」「病気って何のこと?」等と後ろから聞こえるクラスメイト達の声が、心の中の焦りと不安をかき乱していく。
駄目だ。雑巾を水で濡らしてこないと、全然消えない。
雑巾を強く握り締め、水道へ向かおうと踵を返したその時だった。
「っ!」
……いつの間にいたのだろうか。
教室の前方の扉の前には、秋が佇んでいた。
秋は驚く様子も無く、嘆く様子も無く、虚無的な瞳でただ黒板を見つめている。
「秋……」
無意識に秋に手を伸ばそうとしたが、秋は無言で私に背中を向け、その場を去っていく。
「待って! 秋!」
焦りに身を駆られ、秋を追おうと教室を飛び出した。教室に向かう生徒達の間を潜り抜け、必死で廊下を駆けていく。
階段を降りていく秋を目の前に捉え、私も階段を駆け下りる。秋がどこかに行ってしまう、消えてしまう──そんな想いに潰されそうになっていく胸。
「秋!」
名前を呼ぶと同時に、踊り場まで足を踏み入れた秋の腕を強く掴む。私が追い掛けてきたことに気付いたのだろうか、振り返った秋の顔は無表情だった。
「……何」
「秋、大丈夫だよ、あんな嘘消しておくから……」
「嘘? 嘘って何?」
秋は鼻で嗤うように息を漏らすと、私に少しずつ滲み寄った。
「あれは嘘じゃない。真実だろ。お前も知ってるじゃないか。きっと誰かが事実を書いたんだろ」
「で、でも」
「そして教室にいた奴等の反応、あれが現実だ。お前も俺にもう近付くな。病人扱いされるぞ、俺と同じようにな」
言葉を無くし視線を泳がせる私に、秋は再び呆れたように笑う。そしてそのまま踊り場から階段へと踏み出そうとした。
「ま、待って!」
秋を引き止めようと思わず手を伸ばそうとした。しかし──
「触るな!」
怒声と共に振り払われる手。
バランスを崩す身体。
後方へ蹌踉めくと同時に、自分の背後が階段であることに気付いた。
「あ──」
スローモーションみたいに秋が遠ざかっていく。
秋は無表情から一変、目を見開き咄嗟に私に手を伸ばそうとした。
しかし、間に合う筈も無く──
身体に走る衝撃。
揺らぐ脳。
暗転する視界。
生徒達の甲高い悲鳴が聞こえたのを最後に、私の意識は途絶えた。