第四話 真実 side秋
遊園地から一人で帰宅。
帰りのバスの中、窓に寄り掛かりながら頭の中に過るのは、夏子のことばかりだった。
夏子は泣きそうな顔をしていた。
胸が酷く締め付けられた。
今すぐにでも抱き締めてやりたかった。
でもそれは出来なかった。いや、その資格が俺には無かった。
「……っ」
熱くなる目頭。込み上げる感情を抑え込むように、血が滲むほど下唇を噛み締める。
『──次は終点、○○駅。お忘れ物に御注意下さい』
車内から聞こえたアナウンスにハッとして顔を上げる。鞄の中を覗き込んで、あれがあることを確認。電子カード片手にバスの出口へと向かった。
「ありがとうございました」
運転手に頭を下げ、バスから降りる。
家に帰る前にあの場所に寄らなければ。大事な物が入った鞄を片手に担ぎ直し、顔を上げた──その刹那だった。
「っ!」
目の前に立ち塞がった長身の茶髪の人間──今、誰よりも会いたくない男が其処にいた。
思わず後退りしようとした俺の腕を、奴は強い力で掴む。指に嵌められたアクセサリーが皮膚に食い込んで、痛い。
「よぉ、秋。元気か?」
「小田……」
その男──小田はピアスの付けられた舌を覗かせながら、俺の頭に勢い良く手を置く。
「お前のこと、探してたんだぜ。約束忘れてないだろうな?」
「……っ」
瞳孔の開いた目で此方を見下ろす小田。その恐ろしい視線に身体を震わせながら、鞄の中を弄る。取り出したのは茶封筒──汗滲む手でそれを取った瞬間、小田に取り上げられた。
「おー。どれどれ?」
小田は舌舐めずりをしながら、茶封筒の中身を取り出す。封筒から顔を出したのは数枚の一万円札。小田は鼻を擦り付けるようにその匂いを嗅ぐと、大きく口角を上げた。
「あー。これで何とか事足りるわ。馬鹿にならないんだよな、薬代」
満足そうに笑う小田の顔を、目線を持ち上げて睨む。怒りを静めようと拳を握り締め、無言でその場を後にしようとした。
「おおっと。そんな急ぐなよ」
小田は再び俺の腕を掴み、無理矢理人通りの少ない道へと引きずり込む。手を剥がそうとするも、俺より体格の良い小田の力は俺の其れを遥かに上回った。
「っ!」
肩を殴られ、壁に押し当てられた刹那、顔の横に手を突かれる。耳元に響いた大きな音に身体を震わせると、小田はふと鼻息を漏らした。
「なぁ秋。また抱いてやろうか?」
顎を持ち上げられ、顔を近付けられる。同時に思い出すあの日の過ち──気付けば俺は小田の頬を殴っていた。
「……っ……はぁ……」
赤く腫れていく頬を掌で覆う小田を睨み付ける。小田を殴った手は微かに震えていた。
「……金なら振り込んでやる。金輪際俺に近付くな」
恐怖心を抑えるように態と声に凄みを利かせ、無表情で立ち尽くす小田の前を去る。あいつとはもう絶対に会わない。俺の今後の為にも──
「萩夏子」
後ろから聞こえた声、そして言葉。
心臓が大きく飛び跳ねたのが自分でも分かった。
渇いた喉に唾を流し込み、目を見開きながらゆっくりと振り返る。そこには不敵な笑みを口元に携える小田の姿があった。
「可愛いよなぁ、あの子。俺はお前と違って女もイケるからさ。ヤるとしたらあれくらい、可愛い女がいいよなぁ」
俺の反応を見て楽しむように、小田はニヤニヤと笑う。腹の底から込み上げてくる怒り、全身の血液が沸騰するような感覚、拳を作る親指の爪が、皮膚を突き破りそうな程にめり込んでいく。
「……夏子に手を出したら殺すぞ」
「おー。こっわー」
言葉とは裏腹に楽しそうに笑う小田を睨み付け、小田の存在を視界から消す為にその場を駆け足で去った。
駅前を走り、向かうは休日も営業しているあの場所。今日で期限が切れてしまうから、急がなければ。
バス停留所の前を走り、コンビニの脇道に逸れ、ビルの隙間を潜り抜けていく。早歩きで道を進むこと数分、やっと目的地の前に辿り着いた。
──俺の目の前にある建物、それは薬局。
先日病院に行って貰った処方箋を鞄の中から取り出した。期限が四日以内だから今日までに貰わなくちゃいけない。
俺が貰う薬──それは抗HIV薬。
俺は、夏子に出会う前から自分がゲイであることを自覚していた。女という性を持つ人間を性的対象には見られない。でも同性を好きになることは、世間一般から見たら普通じゃない、少なからずそう思う人間はいる。
俺は普通に見られたいが故に、夏子を彼女にした。夏子を愛そうとした。でも、一線を越えることは出来なかった。
そして俺は夏子を裏切った。
性欲に溺れ、過ちを犯した。
──そう、俺が罹ったのは不治の病。
女を性的に愛せないが故に男に抱かれ、俺の身体はHIVに感染した。