第一話 衝撃 side夏子
「夏子。俺と別れて」
学校の帰り道。容赦ない陽射しを放つ太陽の下。身を焦がすような暑さに見舞われる中、首筋に冷たい汗が伝った。
「……えっ?」
……い、今さっきまで定期試験やばいねーって話してたのに。一緒に勉強しようねって言ってたのに!
どうして、いきなり?
口を金魚のようにパクパクさせるだけで何も言葉に出来ない私に、秋は視線を地面に落としたまま話を続ける。
「……もうこれ以上夏子とは付き合えない」
「ちょ……ちょっと待って! 何で!?」
両腕を掴み、顔を覗き込もうとするも、秋は目を全く合わせてくれない。
「とにもかくにも、もう無理なんだ!」
「ひゃっ!」
無理矢理手を剥がしとられ、勢い余り地面に尻餅をつく。秋は振り返ることなく、その場を走り去ってしまった。
置き去りにされてしまった私は、小さくなっていく秋の後ろ姿を呆然と見つめる。
どうして?
何が無理になったの?
私達、三年間も付き合ってきたのに。
心当たりなんて、心当たりなんて……
「ありすぎる……!」
学校の教室。突然の別れを告げられた私は一睡も出来ずに次の日を迎え、そのまま学校に登校。後ろの席に座る能勢優希は机に頬杖をついて、私の顔を覗き込んだ。
「朝からフラれた嫌われた喚くと思えば……で? 心当たりは何?」
「……家の中で所構わずおならしちゃったりとか、ゲップしたりとか、ムダ毛の処理が甘かったりとか、あとは」
指折りで一つずつ丁寧に数える私に、優希は呆れたような溜め息を吐く。
「同じ女子としてそれはどうかと思うけど、葉山はそんなことで夏子を振るような男なの?」
「それが分かれば苦労しないよ馬鹿っ!」
両手で顔を覆い嘆き出す私に、優希が顔を顰めたその時、教室後方の扉が勢い良く開いた。
「っはよー!」
中に入ってきたのは鹿野俊太郎と、私の彼氏──否、元カレになってしまった葉山秋。秋は私の顔から直ぐ様目を逸らすと、自分の席へと足早に向かってしまった。
鹿野はそんな秋を見て首を傾げながら、私達の側に駆け寄る。
「今日朝から葉山、あの調子なんだけど。お前ら喧嘩でもしたのか?」
普段お調子者の鹿野も空気を察したのか、小声で私に耳打ちする。思わず口から漏れそうになる溜め息を呑み込み、視線を床に落とした。
「……秋にフラレマシタ」
「え!? フラれた!?」
鹿野の大きな声が教室に響き渡り、クラスメイト達が一斉に此方を振り向く。
「声がでかいっつーの!」
空気を読むのが三秒間しか持たない鹿野の足を、思い切り踏み付けた。鹿野は痛みに顔を歪め、呻き声を上げながらしゃがみ込む。
「いってぇ、この暴力女ぁ! そんなんだからフラれるんじゃねーの!?」
「うっ、傷口を抉るな……ゲホッ……ゴホッ……」
勢い余り噎せたのか、止まらなくなる咳に優希が私の背中を優しく擦る。
「取り敢えず落ち着け。まずは葉山に挨拶でもしてきたら?」
「で、でも……」
「フラれたのも幻かもよ? このままだと何も解決しないぞー」
優希に背中を押され渋々と立ち上がり、秋が座っている右斜め前の席を見据える。秋は既に一限目の授業の準備を始めており、自分のノートを見直していた。
行くか行くまいかその場で踏み止まっていると、優希が私の背中を無理矢理押し出した。助けを求めるように振り返るも「こっち見んな」の一言を返されるだけ。酷い、泣くよ。
仕方なく前を向き直し、忍び寄るように秋が座る席へと進む。
どうしよう。何を話せばいいかな。数学の課題の分からないところ教えて?
でも『お前は本当に馬鹿だな。やっぱり別れて正解だわ』とか言われたらもう立ち直れる気がしない。ああ、そんなこと言っている間に秋の真後ろに。
後ろ姿の秋。顔は見えてないけど、いつもより雰囲気が怖い、怖いよ。
「あ、秋……」
震える手を伸ばすと同時に突然立ち上がる秋。思わず固まる私に秋は視線を向けると、舌打ちをして前方の扉から教室を後にした。
……え? 舌打ち?
口を半開きにして呆然とする私。
いつの間にか後ろにいた優希が「何かごめん」と言って私の肩に手を置いた。
もしかして私、本当に嫌われちゃったの?
その後、休み時間、昼休み、出来る限りの時間を駆使して秋に話し掛けようとしたけど、直ぐに逃げられた。舌打ち付きで。
もう駄目。普通に心が折れそう。
「流石にもうキツいよ……」
放課後、私と優希と鹿野以外誰もいない教室。涙を目尻に滲ませながら机の上に顔を突っ伏す私に、優希は両手を組んで唸り声を上げる。
「うーん。フッたにしてもあの態度の変わり様は違和感あるよねぇ」
優希の言葉に、机の上に腰を掛けていた鹿野は金色に染めた髪を掻き毟り、何かを思い付いたように「ああ」と言葉を漏らした。
「もしかしたら別れた途端、萩の嫌な部分が目に付くようになったんじゃねーの?」
「うっ!」
悪意ゼロの鹿野の言葉が矢となり胸に刺さる。精神が瀕死状態となってしまった私を前に、優希は鹿野の脛を思い切り蹴飛ばした。
「あうっ!?」
「空気読め。馬鹿」
冷たい視線と共に放たれる優希の言葉。鹿野が痛みに悶えてその場で暴れ回る中、優希は私の頭を優しく撫でる。
「夏子、今日何も食べてなくない? 奢ってあげるから何か食べに行こ?」
「……無理。食欲無い」
「もう只でさえ痩せてるのにこれ以上痩せてどうするの? 体力つけよ!」
「能勢も荻を見習って痩せたらどうだ?」
皮肉たっぷりに告げられる鹿野の一言に、優希の顔が般若と化す。そのまま追いかけっこを始める二人を他所に、顔を上げて窓の外を然り気無く覗き込んだ。
「……あ」
校舎裏を歩く黒髪の男子生徒──紛れもない、秋だ。校門に向かって歩いているみたい。部活も無いし、もう帰るのかな。
「あれ、夏子? 何処行くの?」
後ろから聞こえる優希の声。足を止める余裕も無く「ごめん!」の一言だけを残して、教室を後にする。廊下を駆け抜け、階段を降り、靴に足を突っ込んで昇降口を飛び出す。
「はぁ……っ……はぁ……っ……!」
何故だろうか。少しの距離しか走っていないのに心臓が暴れるように動いている。汗も凄い。息も苦しい。少し動いたくらいじゃ、普段はこんなに疲れないのに。
ううん、今はそれはどうでもいい。早く、早く、秋の元へ。
走り続け校門を抜けると、視界の先に秋が歩いているのが見えた。
「──秋!」
息を乱しながら名前を呼ぶも、秋は振り返らない。私に気付いていないみたいだ。
普段から早歩きの秋はどんどん前へと進んでいく。このままでは置いていかれてしまう。
額の汗を拭い、限界まで力を振り絞るように更に速く走る。気付けば秋の真後ろにまで迫っていた。
「秋!」
名前を呼ぶと同時に、夏服で露になっている秋の腕を掴む。突然の感触と私の声に驚いたのか、秋は目を丸くして此方を振り返る。
「……夏子。何でここに」
「……お、追い掛けてきたんだよ! 秋。ちゃんと話さないと私納得しないからね!」
息を切らし、咳き込みながら、秋の腕を強く掴む。絶対に離さないようにと。
秋は顔を顰めて暫く黙り込むと、息を大きく吐き出した。
「……理由を言えば満足?」
何処か投げ遣りの言葉を呟きながら、秋は渇いた笑いを漏らす。普段の優しい秋からかけ離れた様子に、息を呑み込んだ。
大丈夫。私は何を言われても動じない。
何を言われても──
「できた」
「……へ?」
「好きな男が出来た」
無表情で、光の宿さない瞳で、淡々と告げられる言葉。
予想しなかった一言に、頭は真っ白になった。心臓は大きく跳ねる。冷や汗が伝う。口が、喉が、水分が全て奪われたように渇く。
蝉が暑さを掻き立てるように鳴き声を重ねる中、私達の間には冷たい風が吹いたように感じられた。