飛田 瑠璃子と南雲 颯
竜崎 赤斗は飛田 瑠璃子のいるスポーツクラブ『∞(インフィニティ)』本店へ向かっていた。
『∞』本店は品川に在り、マシンジム、競技用プール、ダンススタジオ等を備えた多目的スポーツクラブである。
リオオリンピックにおいて、日本人で唯一のゴールドメダリストとなった瑠璃子は、その功績により国民栄誉賞を戴き、国民的ヒロインとして一世を風靡したアスリートだった。
だが、女子水泳の選手生命は短命、というのが当時の常識であり、四年後の北京オリンピックでまさかの予選落ちという屈辱を瑠璃子は味わい、自分の限界を感じた瑠璃子はそのまま水泳界から引退し、己の将来が見えずさ迷っていたところ竜崎 赤斗と出逢った。
しかし、赤斗と瑠璃子は具体的方針が中々見出せず一年ほど無為なときを過ごしたが、やはりスポーツ界で自分を活かしたいという瑠璃子の希望により、ようやく瑠璃子の将来に道筋が立つ。
幸いなことに、CMやテレビ番組の出演料などで稼いだギャラの貯蓄、LOVE.REDと南雲総合医療センターの共同出資、そして国民栄誉賞という肩書きのおかげでメガバンクからの融資も受けられ、スポーツクラブ『∞』は晴れて開業の運びとなったのだった。
開業後は、瑠璃子のアスリートとしての経歴やカリスマ性からクラブに入会する人間が続出し、さらに芸能人や現役アスリートも多数入会し、開業当初から順調に業績を伸ばしていった。
『∞』が完全に軌道に乗ると、瑠璃子は女子水泳選手の指導者の道を歩み出し、今では次回のオリンピックメダル候補選手が三名も所属していた。
その飛田 瑠璃子は、現在の自分があるのは全て赤斗のおかげと思い、赤斗に心酔し忠誠を誓っていた。
普段の瑠璃子はその忠誠心をあまり表に出さないので、楼蘭 さくらの方が忠誠心の面では上回っているように姉妹たちの中で思われているが、もし忠誠心というものが数値で計ることが出来たなら、間違いなく瑠璃子のそれはさくらを上回っているだろう。
さらに、竜崎 赤斗の最初の従であり姉さん肌の瑠璃子は、姉妹たちからとても慕われ、赤斗に次いで厚い信頼を得ていた。
『∞』に着くと、瑠璃子が満面の笑顔で赤斗を迎えた。
逢いたかった人間に逢えば、誰もがこういう顔をするのだろう。
「主様がこちらに来てくれるのは久しぶりね。」
「お前は里奈や颯と違って放っておいても安心だからな。」
「あまり放っておくと浮気するわよ。でもイギリスではご一緒出来るから許してあげる。」
「お前は死んでも浮気なんかしないよ。するなら本気だろ。」
(ふふ、お見通しってわけね。まっそうだけど。)
「では、部屋に行こう。蘭、行くぞ。」
御堂 蘭も運転手として同行していた。
蘭は姉さん肌の瑠璃子が大好きで、ある意味赤斗以上に惚れている。
「蘭ちゃん、ちゃんと空手の稽古してる?」
「もちろんよ! アタシは親衛隊長だからね。」
特に親衛隊なるものが存在してるわけではないが、瑠璃子、蘭、そしてさくらの三人は、赤斗の親衛隊を勝手に名乗っていた。
元アスリートの瑠璃子、元レディース総長の蘭、この二人が親衛隊を名乗るのは分かるが、どちらかというとおっとりのさくらに関しては、なぜ親衛隊?と姉妹の誰もが首を傾げていた。
そんなさくらは、自称『特攻隊長』として日々50回の腕立て伏せを欠かさない。
三人は『総支配人室』に入り、赤斗と瑠璃子はイギリスですることの打ち合わせをする。
「──というわけだ。頼めるかね?」
「私はあなたの忠犬よ。死ねと命令されればいつでも喜んで死ぬわ。」
「私は死んでも『死ね』なんて命令しないよ。」
「ふふ、知ってる。だからみんな従になったのよ。で、答えはもちろん、ハイよ。昔のライバルたちに逢えるのは楽しみ。」
「助かる。では出発日にまた逢おう。」
『∞』から『R.U』本部へ戻った赤斗は、秘書室にいる律を呼んだ。
「出発日までに、色を見た人間をカテゴリー別に分けたデータを用意出来るかね?」
「ハイ、単純にカテゴリーに分けただけのデータでしたら、今すぐにでもお渡し出来ます。」
「ハハ、お前らしくない。私が普通のデータを用意しろとでも言うと思ったのかね。」
「フフ、まさかですわ。きちんと主様の望むデータをご用意致します。」
「この際だ、オックスフォード首席卒業の女官を欺いてやれ。」
「御心ののままに。」
「うむ。では私が留守の間に、新一君と例の件を詰めておけ。『R.U』の更なる躍進のためにな。」
「お任せを、主様。」
自室に戻った律は、従姉弟であるテレビ局プロデューサーの新野 新一に連絡した。
「おっ、律ちゃん、お疲れさまー。」
「お疲れ様、新一さん。例の件だけど、会長から話を詰めるようにとご命令があったので、近いうちに打ち合わせをしたいのでよろしくね。」
「ん? 予想より早いね。分かった、スケジュールの空いてる日を見つけて連絡するよ。」
「空いてる日? 以前にも言ったと思うけど、あなた会長を敵に回す気なの?」
「まさか! わ、分かったよ、いつでも大丈夫だよ!」
「あのね新一さん。会長の『R.U』は間違いなく今以上に大きくなるの。会長の一声でどの番組のスポンサーになるかが決まるのよ。分かる?」
「分かってるって! でも会長のおかげで俺も出世して、何かと忙しい身なんだよ。」
「・・・」
(ヤバい!)
「じゃあ、律ちゃんの都合に極力合わせるから、また連絡してよ。またね!」
新一は慌てて電話を切った。律の無言は昔から危ないことを彼はよく知っていた。
(いつまで経ってもバカな従姉弟。滅多にお怒りにならない主様こそ本当に恐ろしいお方なのに。今回のイギリスご訪問の真の意味を知るだけでも・・・ あぁ、ゾクゾクしちゃう・・・)
危ない感情を抱きながら、律は赤斗に渡すためのデータ作成の続きを始めるため、第二秘書であり、そしてシステム開発会社『Synchronicity』の社長でもある佐々 理子を自室に呼んだ。
イギリス出立の当日、成田国際空港の発着ロビーに赤斗、瑠璃子、律、颯、蘭の面々がいた。
「では行ってくる。律に蘭、私の留守中よろしく頼んだぞ。」
「はい、安心して行ってらっしゃいませ。」
「主様ー、寂しいからなるべく早く帰ってきてね。瑠璃姉、主様をちゃんと護ってよ!」
「任しといて、蘭ちゃん。お土産楽しみにしてて。」
「颯、くれぐれも主様にご迷惑掛けないよう、節度ある行動をしなさい。」
「何よ! 私はいつだって節度あるわよ。たま~にハメを外すけど。」
自分が『般若』になることを颯は気付いていなかった。
「よし、そろそろ搭乗口に行こうか、二人とも。」
「はい!主様。」
三人が搭乗口に消えて見えなくなると、律と蘭は空港から出て、赤斗たちの乗った航空機が飛びだって行くのを見送った。
「あっ、アレね、主様の飛行機は。」
「そうね。」
二人は赤斗の乗る航空機が見えなくなっても、しばらく空を見上げていた。
「どうも飛行機ってのは苦手だ。墜ちたら絶対に助からんからな。というか、なぜ墜ちるのが分かった時点でパラシュートをくれないんだろうな、世界の七不思議だよ。」
「普通の人はパラシュートを突然渡されても使えませんから。」
「だからよ、子どもでも使えるような簡単なパラシュートがあればいいわけだ。それぐらい作れるだろ。」
「主様がお作りになればよろしいのでは?」
「私は天才脳外科医の様な脳ミソを持っとらんよ。」
「まっ、ご冗談を。」
長いフライトを終え、航空機はようやくロンドン国際空港に無事着陸した。
到着ロビーに入ると、エリザベス女王付き女官のマーガレットが赤斗たちを迎えた。
挨拶もそこそこに別室に連れていかれ、前回の訪英と同じく入国審査や手続きを簡単に済まし、赤斗たちはマーガレットが待機させていたワゴンに乗って、女王の待つバッキンガム宮殿へと向かった。
「相変わらず慌ただしいね、ミス マーガレット。」
「あら、ずいぶん英語が達者になられましたね、サー レッドバロン。」
「律に鍛えられているからね。女王陛下はお元気かな?」
「お元気でいらっしゃいますわ、サー。」
「それは何より。お逢いするのが楽しみだ。」
「陛下も楽しみにしていらっしゃいます。」
「まぁ君に逢えただけですでに満足だがね。」
「あら、お上手ですわ、サー レッドバロンたらぁ。ウフフ。」
(ふふ、この滞在中ぜひお近づきになりたいですわ、サー── うっ?)
マーガレットの背中に突然悪寒が走った。
後部座席に何やら邪悪な視線を感じたが、後ろを見るわけにはいかなかった。
(颯ちゃん、貴女顔が般若みたいになってるわよ。)
颯の顔を見た瑠璃子は忠告したかったが、もし自分も似たような顔をしてたらイヤだと思ってやめた。
(早速主様に媚びりやがってぇぇ。主様はあんたなんか相手にしないわよ!)
律より「マーガレットは要注意人物」と聞かされていた颯は、すでにマーガレットに敵意を剥き出しにしていた。
長年尽くした従の誰かが主と恋仲になるのは一向に構わない。だが、ポッと出の女に主を横取りされるのは許せない。しかもマーガレットは主が薄く見えたというではないか。そんなマーガレットを主に近づかせては姉妹たちに顔向け出来ない。指一本足りとて主に触れさせてなるものか!
颯は心まで般若と化していた。
南雲 颯の家は代々医者の家系だった。
祖父の南雲 正二が『南雲総合病院』を創立し、その息子の健一が跡を継いだのだが、その健一は突如自動車事故で亡くなってしまう。
その頃娘の颯はハーバード大学で研修医として従事していたが、父親の訃報を聞き即座に跡を継ぐことを決意し帰国する。
帰国した颯は、当然自分が跡を継げるものと考えていたが、南雲総合病院はすでに理事会に掌握されており、颯は院長の座はおろか、医師としても南雲総合病院で働くことも出来なくなった。
颯はハーバード大学時代から脳外科の分野で天才的と称されていたが、なにぶん若すぎて世間知らずだった。
医師として理事会の誰よりも優秀だったが、経営者としての知識も経験も無い颯は、それを理由に事実上追放され、ついに病院を奪われた。
南雲 颯は狡猾な理事たちの敵ではなかった。
失意の中、颯は同じ日本人で『ハーバード10』の栄誉に輝き、かつ飛び級で医学博士号を取得した、同じ日本人の羽根川 律を思い出し連絡を取る。
周囲に味方になってくれる人間のいない颯は、すがるような思いで律を頼ったのだ。
面識もなく、ただ同じ日本人ということ、そしてハーバード大学という共通点しかない羽根川 律に事情を説明したところで、彼女が自分に何かしてくれるとは思えなかったが、それほど颯の精神は逼迫していた。まさに死ぬほどに。
その羽根川 律に初めて会ったとき、律は颯に平然と言った。
「もう大丈夫よ、竜崎会長があなたを救ってくださるわ。」




