悪魔の子 6
「どうしたんですか? 何か悩み事でも?」
いつものように休憩室で将棋を指しながらも集中できずに考え込んでいた清水に、広川が声を掛けた。
穏やかな病院の午後、夏の強い日の光が遮光カーテンで柔らかく感じる。
「我々病人に悩みはつきないですけど、いつにも増して考え込んでいるようですね」
「ああ、すみません。ちょっと色々ありまして……」
荒唐無稽な立石の仮説を信じることなどできない。でも、気になって仕方がないのだ。二三年前、警察の説明に少しの違和感を覚えたようにも思える。
かと言って、今更自分になにができるというのだ。もう、終わったこととして納得するしかないのだから。
「清水さん、明日退院ですよね。こんな風に将棋を指せるのもこれで終わり。ありがとうございました。楽しかったです」
「いえいえ、こちらこそ……でも、最後に一回くらい勝ちた……あれ?」
清水は改めて将棋盤を覗き込んだ。結構優勢になっている。
「いい勝負ですよ。清水さん、腕を上げたんじゃないですか?」
と、広川は嬉しそうに笑った。
皮肉なものだ。将棋に集中できず、心乱れているときのほうがいい勝負だなんて。
広川につられて清水も笑顔になると、バラエティー番組を放送していたテレビ画面がスーツのアナウンサーが映る画面に切り替わった。
思わず目がいく。
『名古屋市鶴舞のビジネスホテル爆発炎上事件の続報です……』
暗闇の中、オレンジ色の火柱が踊るように動く映像と、消防車、救急車のサイレンの音、男たちの怒号が響く。
「今朝からこのニュースばっかりですね。ひどい事件だ」
「そうなんですか?」
「ええ、昨日の深夜に爆発して燃えたらしいですよ。犠牲者の数も相当でしょうね」
画面が切り替わり、半壊で黒焦げになった現在の映像になった。まだ、黒っぽい煙が立ち上っている。
『死者……名、行方不明者……、また確認された遺体のなかにフリーライターでノンフィクション作家の立石茂則さん……』
清水は思わず立ち上がっていた。
立った時に太ももがテーブルに当たり、将棋盤が揺れる。広川が慌てて抑えた。
周りの人間もなにごとかと清水のほうに視線を向ける。
「どうしました? 清水さん」
身体中の毛穴から汗が噴き出すのを感じていた。
昨日ここで会ったばかりだ。
「立石さんが……死んだ?」
偶然、爆発事故に巻き込まれた……偶然に。
清水は首を振った。
そんな都合よく考えることなどできない。『三度も同じようなことが起こると疑惑が生まれます』と立石の言葉を思い出す。
富田タケルの殺人疑惑を調べている人間、富田タケルにとって邪魔な人間がまたひとり死んだのだ。もう疑惑などというレベルではない。とてつもなく恐ろしいことが起きている……現実に。
『警察では無差別テロ事件の可能性も視野にいれ、捜査を……』と、アナウンサーの声が響く。
通報しなければならないと清水は思った。
これは立石茂則個人を狙った殺人事件だ。そのために、他の多くの関係ない人間を巻き込んだ恐ろしい事件なのだ。
「広川さん、急用ができました。すみませんが……」
「ええ? いい勝負ですよ。もったいないです」
「本当にすみません」
残念そうに眉をよせる広川に頭を下げ、清水は休憩室を出て行った。
隣の売店のわきに一つの公衆電話があった。
一人の老女が使用中だったので、少し待ってみたが一向に終わる気配がない。たしか、ロビーのほうに数台の公衆電話があったのを思い出し、ロビーに向かう。
ロビーには三台の電話があったが、どれも使用中。そればかりか順番待ちが五人もいた。
無駄足だったと清水は肩を落とした。
病室に戻れば携帯電話がある。病院内で携帯を使うのは気が引けるが、仕方がないとエレベーターホールに向かった。
エレベーターが来るまでの間に清水は少し大きく息をしてみた。
恐怖に似た感情に心が動揺している。
このままの精神状態で警察に通報しなくてかえって良かったのかもしれないと思った。もっと冷静に考えをまとめてからじゃないとうまく伝えられない。
冷静に伝えることができたとしても、警察は自分のいうことを信じるだろうか。
そもそも、富田タケルは本当に殺人鬼なのだろうか……自分自身は本当はどう思っているのか。
駄目だと、清水は首を振った。
二三年前の自分が犯した罪を正当化するために、富田タケルが無実であってほしいと願っている自分がいる。
自分に嘘をついてはいけない。
都合よく考えてはいけない。
立石が死んだのは、決して偶然なのではないのだから。
「さっきの男、かっこよかったね、モデルみたい」
「うんうん。私もそう思った」
エレベーターの階数ランプを眺めて考え込んでいた清水の後ろで、若い女性のやや興奮したような声が聞こえてきた。どうやら二人組のようで、声を抑えてはいるが楽しそうに話している。
清水は急に日常に連れ戻された気がした。
考えてみれば、彼が犯罪者かどうか自分が気にやむ問題ではない。それは警察が判断することだ。自分はただ、立石とのやりとりを正直に話すだけでいい。自分の考えを警察に披露する必要なんてないのだ。
立石は正義のために執筆していると言った。
自分はそんな器じゃない。正義は警察に任せればいい。
「俳優の……だれだっけ? 似てると思わない?」
「そうそう、富田タケルでしょ? まさか本人じゃ……」
清水は振り向いて二人組を見た。
よほど怖い顔をしていたのか、おびえたような表情で見てくる十代の女の子たちがいた。
清水の後ろでエレベーターの扉が開く。まわりで待っていた人たちが一斉に動き出す。
「いま、富田タケルって言った? どこにいたの?」
「しょ、正面玄関です。出て行きました」
二人組は後ずさりしながらもそれだけ言うと、急いで清水の脇をすり抜けエレベーターへと乗り込む。
取り残された清水は少し考え、走り出した。
ロビーに入り、ざっと見回したのち玄関へと向かう。玄関周りでもたもたしているお年寄りの集団や二重の自動ドアの開く遅さにイラつきながら外へ出る。
夏の熱気が清水の身体を襲った。怠けていた身体に太陽の光が突き刺さる。
かまわず、周りを見渡す。
歩道を進んで、門を出ると左右に道路が見渡せた。歩いている人影はなかった。バスを待つ人たちの中にもいない。
第一駐車場へと回る。汗が噴き出してきた。いない。
第二駐車場を探すころには足が疲労でもつれてきた。
息があがる。軽くめまいがして立ち止まると、急に吐き気がしてきた。
日陰を探してしゃがみ込む。息を整える。もう、探すのは無理だと判断した。
エレベーターを降りて病室へと向かう。
とにかく、携帯電話で警察に連絡を。その前に疲れた身体をベッドで休ませたい。
重い足取りで歩く清水の目に、病室へと入る静香の姿が映った。
律儀な女だ。仕事も人手不足でたいへんだというのに、よく通ってくれる。退院したら、少し恋人孝行でもしなければいけない。自分が死んだ後も、彼女が幸せでいられるように。
「きゃあああ!」
突然の悲鳴に、清水は立ち止まった。
あの声は静香の声だ。なにがあった?
清水は重たい足を引きずるように走った。
「ひーいい!」
先に病室に入った看護師が後ずさるように出てきて清水にぶつかると、そのまましゃがみ込んだ。顔は恐怖に満ちている。
清水は顔を上げて、病室の中を見た。
そこには口元を両手で押さえ、蒼い顔をして床にしゃがみ込んでいる静香の姿。そして、ベッドの上であぐらをかいてうつむいている広川の姿があった。
広川の前には将棋盤が置かれていて、まるで将棋を指しているようにも見える。だが、広川の首の後ろに深く刺さっていたナイフが、彼がすでに息絶えていることの証明だった。
彼の背中は赤黒いペンキを掛けられたように染まっていたのである。