悪魔の子 1
埼玉郊外のオフィスビルに「成川タレント事務所」と看板を掲げている一室で、成川重道は携帯を片手にブラインドを閉めた。
まだ暑さの残る季節ではあるが、この時間の夕日は秋の気配を感じさせる。白縁に少し赤みがかった眼鏡の奥で西日に目を細めた成川は、少しイラついたように舌打ちをした。夏から秋にかけてのこの季節は、西向きのこの窓から日差しが入り込んで鬱陶しいのだ。
「もう少し待っててね」と黒いソファで待つセーラー服の少女のほうに振り返りながら、「今大事なお電話をすませちゃいますからね」と満面の笑顔で言う。
両手をひざの上で握り背筋をピンと伸ばした少女は、「はい」と緊張した様子で答えた。
アイドル志望の女の子は多いが、その中でも上玉だ。むしろ、アイドルにするにはもったいない。そんなことを考えながら、成川は少女の足首から太ももにかけてのラインを眺めた。
電話の呼び出し音が終わり相手が出るのを確認すると、成川は奥の社長室へと向かう。
「おう、俺だ。あれ、どうなった?」扉を閉めると、デスクの上に腰を掛ける。胸ポケットの煙草に火をつけて、一息吸ってから「駄目に決まってんだろ、そんなこと」とガラスの灰皿を引き寄せた。
「プロデューサー直々のオファーだぞ。前の舞台で監督が気に入ったらしい。まあ、確かに小さな舞台だがよ。テレビCMにも繋がる大事な人脈だぞ……いっぱしの俳優気取りかよ、モデルで少し人気が出たからって、あいつは……それは大丈夫だ。あいつは移籍なんて絶対しないから……とにかくやらせろ、社長命令だ」
煙草を吸い終わると、少し派手目なスーツの身だしなみを整え、鏡の前で笑顔を作った。
「いいんですか? こんな高そうな服借りちゃって」
「いいのいいの。 こんな衣装ならいくらでもあるから。それより食事でもしながら今後のことを相談しようね。ちゃんと親御さんには連絡した?」
オフィスビルの地下にある駐車場に成川のジャガーがあった。
「すごい! 外車ですね」少女は目を輝かせている。
「どうぞ」と助手席のドアを開け彼女を促すと、そのミニスカートからこぼれる太ももを露わにしながら乗り込む。白いローヒールの足首の細さは、もうすっかり大人の女性のようだ。
今夜は楽しい夜になりそうだと胸をはずませながら、運転席に乗り込む。
だが、そんな夜は永遠に訪れることはなくなった。
成川がキーを回した瞬間、ジャガーは爆発。その破片を周囲の車にぶつけながら大破したのだった。
『今日のゲストは俳優の富田タケルさんです』
知多市民病院の休憩室では大画面のテレビでお昼のバラエティー番組が流れていた。
清水正雄は口元に手をやり、画面を見つめている。病院に入院して一週間が過ぎていた。煙草が恋しいのだ。
「よそ見していて大丈夫ですかっと」
テーブルの向かいに座る広川と名乗る老人の声と駒を置く音で、清水は我に返った。
改めて将棋盤を見ると、かなり悪い状態になっている。
「今日も私の勝ちですかな?」とほほ笑む広川に
「すみません。弱すぎですね」と清水は頭を掻いた。
休憩室の片隅で一人詰将棋をしていた広川に、「よかったらお相手しますよ」と声を掛けたのは清水のほうであった。それからというもの、お昼時はここで将棋を指すのが日課となっている。
『今回の映画は、殺人を犯したヒロインを好きになってしまうという難しい役柄でしたが、いかかがでしたか?』
『そうですね。難しい役でしたが、監督と相談して少しづつ人物になりきっていったといったところでしょうか』
音に引き寄せられるよう清水はテレビの方に目をやった。
モデル出身だけあって、画面の中の富田タケルは背が高くて男っぽかった。少し前まで、高校生役がはまるほど童顔だったが、ここ数年で大人の男性の役柄が目立つようになってきた。
「清水さん、この俳優さん好きなんですか?」
「ええ、頑張っている感じがとても好きなんです。前は舞台が主だったんですけど、最近はドラマとか映画とかよく出るようになって。やっと苦労が実ったようでうれしいんです」
「へ~そうなんですか……おっと、奥さん来ちゃいましたね。今日も私の勝ちってことでお開きにしましょうか」
扉の方を見ると、ジーパンにTシャツ姿の夏川静香がいた。病院内にいると気温の変化は分かりにくいが、彼女の服装からしてだいぶ夏になってきているようだ。
「奥さんじゃないですよ。職場の部下です」
「いやいや、これは失敬。かなり若い奥さんだとは思っていたんですよ」
笑い合う二人のもとへとたどり着いた静香は、少し複雑な表情になっていたが、「こんにちは、清水がお世話になっております。清水の部下の夏川です」と笑顔になって挨拶していた。
「ローズの調子はどうだ? ちゃんと食事とるようになったか?」
病室に帰る道すがら、なんとなく気まずさを感じて清水は声を発した。
静香は、呆れたと言わんばかりに大きくため息をついた。
「入院しているところへお見舞いに来た恋人に対して、まず、それなの?」
清水は驚いて静香を見た。どうやら、怒っているようだ。
「何を怒っているんだ? 広川さんに部下だと紹介したことが気に入らないのか?」
「私たち、付き合ってるんでしょ?」
静香はうつむいて立ち止まった。表情は読み取れなかったが、泣きださんばかりなのだろうと感じる。
だが、と清水は思う。二人の関係を果たして恋人同士といえるのだろうか。
静香が自分のことを好いてくれていることは知っている。自分も同じ気持ちだ。だが、職場の上司と部下、その年の差一三歳。身体の関係も酔った勢いのたった一度だけだ。
清水自身も静香との未来を考えたこともあった。だが、今となっては意味のないことである。
「付き合うも何もないだろう。もうすぐ、僕は死ぬんだよ」
その場を動こうとしない静香をおいて、清水は病室へと歩き出した。
「ローズもチェリーも元気よ。あなたがいなくても私たちでイルカの面倒は見られるわ」
病室に着いてしばらくしたら落ち着いてきたのか、静香がつぶやいた。
「こんな時も仕事の心配だなんて……本当に仕事に復帰する気なの?」
静香が持ち込んだ週刊誌を眺めていた清水は、それから目を離した。
「ああ。いずれ辞めるにしてもケジメだけはつけたいからね。夏休み期間が終わるまでは働くよ。悪いがそのあとはイルカ達の事、頼む」
「あなたはどうするの? その後は……」
「終末期専用のがんセンターでも行くよ」
「そう……」
悲し気に静香は言った。
「別れた奥さんには伝えたの? 病気のこと」
「ああ。別れてから十年以上もたっているからどうしようかとも思ったんだけど、一様な」
「娘さん……奈美ちゃんには伝えたの?」
「いや、元嫁にも伝えなくていいと言ったよ。もう、向こうの家庭の子だし、幸せに暮らしているならそれでいい」
「……そう……」
それきり静香は女性ファッション誌を読み始め、何も言わなくなった。
清水もまた、たいして興味のない芸能ゴシップ記事を読むともなく目を通していたのだった。