プロローグ
喫煙者は僕だけだったんです。
それが一番の原因だったのかもしれません。
自分の死を意識するようになったこの頃は、よく当時のことを思い出します。
僕が人を殺したあの事件のことを……。
夏の恒例、サークルの合宿という名の親睦旅行で京都のお寺に行きました。京都といっても観光地で有名なところでもなんでもないんです。鹿や猿が出てきそうな山奥のお寺の宿坊に泊まり、お坊さんの修行を体験するツアーでした。
就職先も地元の水族館に決まり、のんびりした大学生活最後の夏を楽しむつもりでした。
男女合わせて七~八名くらいだったと思います。バイトが抜けられないとか、地元に帰るからとかの理由で参加率は高くありませんでしたが、住職さんもその奥さんも気さくないい人で、お酒を酌み交わしながら、これまで多くの客にしてきたであろう怪談話をそれなりに楽しんだ夜でした。
住職の話も一通り終わり、明日の朝のお勤めに備えてそろそろというところで僕は席を立ったんです。
別に禁煙と言われたわけではなかったし灰皿もあったのですが、当時の喫煙者の割合に反してメンバー内で喫煙者がいなかったんで遠慮していたんです。あの頃は煙草ももっと安かったし、吸った方がかっこいいなんて時代でした。ああ、でも僕もつい最近、禁煙したんですよ。健康とか未来とか考えることがありましてね。でも、禁煙した途端にがんだと告知されまして、また吸うことにしました。もう、意味ないですから。
ええ、手遅れだそうです。抗がん剤や放射線治療の苦しさに耐え、少しでも長生きするという選択もあるそうですが……。ええ、担当医に聞かれて言ったんです。「そこまでして生きる理由はありませんから」って。そしたら、彼女に泣かれてしまいました。「ひどい男だ」と言ってね。
反省しましたよ。配慮が足りませんでした。でも、彼女はまだ若い。僕のようなおじさんのことなどさっさと忘れていい人見つけてくれればと思います。
おっと、話が逸れてしまいましたね。戻しますよ。
煙草を吸うなら冷たいコーヒーもと思いました。
お寺の門前に自動販売機があったのを思い出し、缶コーヒーを飲みほした空き缶を灰皿代わりにその辺を軽く散歩しながら煙草を吸おうと考えたんです。後輩たちもいる中、少し酔いを醒まして醜態をさらさないようにしたいという気持ちもあったのかもしれません。
山林の夏の夜は思ったよりも涼しく、というより底冷えするような感じがしました。住職の怪談話を思い出し、背中に冷たいものが走って身震いする。もう一枚羽織ってから外に出るべきだったと後悔したんですが、早々に切り上げればよいと歩き出しました。
なんとなく川の流れが聞こえてくる方向に足が向きました。舗装されていない砂利道だったし、所々にある残骸のような街灯も消えていたんですが、月明かりが足元を照らしてくれていたので不安はありませんでした。
二本目の煙草を吸い終わり、身体が少し冷えてきたなと感じてそろそろ帰ろうかと考えていた時、獣のような声が聞こえてきて足を止めたんです。
声の方向に目を向けると細くなっている道が森の中に続いていて、その奥に民家の明かりのようなものがかすかに見える。
今のはなんだったのかと考えていると、今度ははっきりと女性の悲鳴だとわかる声が響いてきた。
現在の僕ならどうするでしょうか。きっと何もせずにその場を引き返しただろうと思います。正義感や親切心を持って行動したところでそれが報われることなどなく、むしろ不利益を被ることが多いと経験上知っているからです。でも、その頃は僕も若かくて純粋で、好奇心も大きかった。だから、月明かりの届かない森の中へと歩を進めていけたのだと思います。
なんとか森を抜けると、一軒の民家があった。道路と居住区の区別が曖昧で庭が大きく、立派な母屋と離れ、倉庫のような建物もある。倉庫の傍らには軽トラックと軽の自家用車、耕運機が並んでいる。
再び、母屋の方に目を向けると、縁側の奥のふすまが開けられていて明かりが見えましたが、庭の中に立つ木が邪魔で中が見えない。これ以上踏み込むと、不法侵入となってしまうという躊躇いもあり、しばらくその場で様子を伺うことにしました。
心臓が脈打つ音を感じていました。身体が熱くなってきているのに、背筋には冷たいものを感じる。母屋の中で人の動く気配がしました。なにか変だという雰囲気だけが伝わってくる。
唐突に血の匂いを感じました。
僕の中で恐怖心が駆けめぐります。なのに、僕は庭の中へと歩を進め、木を回り込んで中を覗き込むという行動に出ました。
なぜでしょうか。正義感なのか、ただの好奇心なのか……今となってはわかりません。
そこで僕は見てしまったのです。二人の人間の死体を。
後で知ったのですが、その家の三〇代の夫婦だったそうです。旦那さんの方は仰向けでパジャマを赤く染めて眠っているような姿勢でした。それに比べて奥さんの方は、髪を振り乱し、なんとも恐ろしい顔つきでこちらを睨み付けているようにしてうつぶせで倒れていました。おそらく、旦那さんは寝ているところを襲われてそのまま絶命し、それに気付いた奥さんが恐怖の中逃げようとして、背中を刺されたんだと思います。
びっくりしました。文字通り腰を抜かしたというやつです。
手のひらとお尻にひんやりとした物を感じて、自分が地面にへたり込んでいると認識するまでかなり時間がかかったと思います。
でも、本当の恐怖はここからでした。
子供の声で「やめて!」と聞こえたんです。それと複数の人間が走る音、息遣い、何かを叩くような音です。直感でわかりました。殺人鬼が子供を狙って追いかけていると。
震えました。
足に力が入らない。
でも、助けなければという気持ちだけはありました。
今思うと不思議です。なぜ、自分だけ逃げだして助かろうとしなかったのか。とにかく、やっとの思いで立ち上がり、近くにあった角材のようなものを武器として母屋の裏手に回りました。その時には、走る気配は消えていて、一か所でもつれ合っているような印象です。「放せ」とか「動くな」とかの声も聞こえてきます。もはや、一刻の猶予もない状況だとわかりました。既に子供は殺人鬼に捕まっているだろうと。
母屋と離れの間をすり抜け、視界が広がった先には月明かりの中、子供の上に馬乗りとなっている浴衣姿の大人がありました。掲げた右手には刃物のようなものが光っています。今まさに、子供を刺し殺そうとしている瞬間でした。
無我夢中でした。
角材を振り回して、殺人鬼の頭に当たった瞬間の感触を最後に記憶が混乱しています。僕のなかでは、一度殴っただけのように感じていましたが、後で刑事さんに数度殴っていると聞きました。とにかく、その次の記憶は子供を抱きしめ泣いている自分でした。
はい。あなたもご存じのとおり、殺人鬼はその家のお爺さんでした。何らかの精神疾患が原因で息子夫婦を手にかけ、孫まで殺そうとしたんだそうです。
僕は人を救うために、人を殺しました。
過剰防衛の疑いで警察の取り調べを受けましたが、結局は不起訴となり、罪に問われることはありませんでした。
でも、このことで僕はとても苦しみました。自殺さえ考えるほどにです。
結婚して娘もいましたが、離婚しました。人を殺したことがあるという罪悪感が幸せになろうとすることを拒否しているんだと人に言われたこともあります。どうなんでしょうかね。
ただ、これだけ苦しい思いをしたのだから、あの時の少年は、幸せになっていてもらいたいと願っています。