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がらんどうと私  作者:
第1章 死に損ない男
8/11

 訝しげな私の様子を見て取って、先生が困った生徒を嗜めるような調子になる。


「私も何もかもを明かしてしまうことのできる立場にはありません。それにすべてを把握しきれているというわけでもないので。ですが初めに申しました通り、ただ今日の話を覚えておいていただきたいのです」


 長い睫毛に縁取られた瞼が伏せられ影が落ちる。口元ではうっそりとした笑みを作りながらも彼女の顔には確かな同情の色があった。

 本当は聞くべきことがたくさんあるのだと分かるのに頭が働かない。気付けばとっくに就寝の時間は過ぎてしまっているが、今日はほとんど彼女ばかりが話をしていたような気がする。

 その締めくくりとして先生はある忠告を付け加えた。


「どうかお気を付けくださいませ、エイプリル様。そこかしこで蛇が跋扈しておりますから、誰に信を置くべきか慎重に見極めなければ」


 寝室から去っていく彼女の後ろ姿に声を掛けようとしたが何も思い浮かばない。代わりに「ゲストルームにお連れしなさい」とカランに呼びかけたところやはりというべきか当然のように返事が返ってきたものだから、まさかやもりのように扉にへばりついて盗み聞きをしていたんじゃあるまいな、と不安になってしまう。

 私はすっかりと冷えてしまったベッドに横たわった。目を閉じても、ひっきりなしに色々なことが頭の中を駆け抜けて小さな渦を作り出していく。彼女の言葉は神勅のようにも、呪いの言霊のようにも、作為的な誘導のようにも感じられた。私を慮っているようでいて、混沌の中にぽつねんと置き去りにしていく。

 この日は夢を見ることはなかった。


 そのあと数日だけ朧げな悪夢の残滓が続いて最後の日、私の夢に一匹の赤い虎が現れる。いや、虎そのものが赤いのではない。森があかあかと燃えている。怒れる木々のさざめきのような泣き言を漏らす魔女たち。鬼であったはずの私は赤い虎の静謐な眼を通して、その光景をただ静かに眺めていた。

 それが最後だ。本当に悪夢は終わったのか、昼と夜が入れ替わってしまっただけなのか。




 悪夢を見なくなってからの日々は、これまでの人生で一番というほどに平穏そのものだった。何も案ずることのない純然たる日常。しばらくはぐるぐると蟠り続けていた先日の不吉な会話も段々と存在感がなくなっていく。赤子についてカランに尋ねてみてもよかったが、やはりどうしても自分と関係のあることだとは思えない。

 それなので近頃の悩みといえば精々カランが口煩いとか茶会が憂鬱だとかそういったことくらいだ。


 怪物がいない。それだけのことでこうも世界は変わってしまうのか。

 兄と同じ空間にいると、私という存在はそれだけでまるで直情的な恋にうつつを抜かす女のようにあれに支配されてしまう。視界にいれずとも、私を司るすべてがそちらのほうを向いてしまう。己の内側で膨れ上がり続ける本能的な畏れは私に不思議な作用を齎した。強すぎる感情は両極端に振れる。私はあの怪物を畏怖し憎んでさえいたが、どこかあれは自分を構成する一部であるのだというようにも感じていた。だがそれは熱病のようなものでしかないと分かる。

 本当に、閑やかだ。ずっとこのぼんやりとした温かさ、この繭の中で微睡んでいたい。惑わされるのは真っ平。


 だが休暇のシーズンというのは否応なしにやってくる。即ち、兄の帰省の時期である。


「エイプリル! ああ、少し見ないうちに一層可憐になって……」


 そういう兄さんは醜いお身体が一層大きくなってしまわれたのではない? と思わず口にしそうになる。実際私を必要以上にきつく拘束するその姿は、明らかに以前よりも成長して圧迫感を増していた。

 だが今の私にそんな変化をまじまじと観察している余裕はない。久方ぶりに全身を包み込む形容しがたい感触に震え上がった私の意識は、一瞬にして遥か遠くのほうまで引き摺り出された。触れられたところから崩れ落ち、ばらばらになっていくような。

 そうして完全にそれを手放してしまいそうになったところで何者かにむんずと首根っこを掴まれる。デジャブを感じているとそのまま放り投げるようにして後方に突き飛ばされた。なんて乱暴な! 慌てて駆け寄ってきたカランに受け止められなければ尻餅をついてしまうところだった。

 助けられた恩も忘れて怒りのままに顔を上げるとしかし、そこにいるはずのない人間が目に入り瞠目する。


「いい加減にしろ、アンセル。また妹が気を失いかけていたぞ」


 レオン・シュルツの息子、そして兄の学友たるギデオンがなぜこんなところに。こちらはこちらでただでさえ大柄だった身体を更に縦に伸ばしている。誰も彼も人間も非人間も成長期というやつなのだろうか。

 驚く私をよそに距離を離された兄がこちらに歩み寄りかけて躊躇うように足を止める。


「ごめんね、久しぶりに顔を見られたものだからつい」

「い、いえ……それよりも兄さん、ギデオン様がおいでになるなんて、私聞いていなかったわ」


 露骨に顔を背けたと知れないよう、さっと話題を変えて予定外の客人に注意を向ける。そうでなくともあまりクライン家と関わりたがらない様子の彼が、休暇に入って早々に何をしにやってきたのかは実際気になるところではあった。

 一先ず儀礼的に挨拶を済ませ顔を上げると、ギデオンが小さく目礼する。


「突然すまなかった。数日後にラルカに赴かねばならないんだが、シュルツ領に戻ってしまうと随分遠回りになるんでね。悪いが少しの間こちらに滞在させてもらうことになる」


 ラルカはこの国で最も栄えている地域のひとつだ。多くの劇場が密集している芸術の都でもある。確かにここからの方が行き来はしやすいだろう。


「アルバート侯爵には父の方から話を通してあるはずだが、彼は今どちらに?」

「言われてみれば……。エイプリル、父上たちは出掛けているのかな」

「ええ、突然リース伯母様に呼び出されて。兄さんがお帰りになる前には戻ると聞いていたけれどやはり間に合わなかったみたい」


 両親はしばしば父の姉であるリースに呼び出される。それも大体は私からすればくだらない用ばかりで。そして一度赴いてしまうとなかなか離してくれない。

 彼女はいつも跡継ぎのアンセルはともかく私には興味がないというのがありありと分かる接し方をしてくるので、私もそれなりの付き合い方をしていた。とはいえ伯母様のそんな明け透けさはむしろ好ましいとすら思っている。良くも悪くも分かりやすい方なのだ。


「伯母様に捕まってしまったのならすぐには戻らないかもしれないな」

「そうか、わかった。おい。お前は弟に挨拶しておかなくていいのか、フレイ?」


 ギデオンがやにわに高慢な仕草で顎を上げ振り返った先で、モノクルをつけた男が奇術でも使ったかのように突如姿を現わす。いやそう見えたと言うべきか。

 相変わらずにたにたと厭らしい笑みを浮かべているそいつはギデオンの従者でカランの兄であるフレイだ。このデンプスターの次男は、ギデオンの右腕となるほどには優秀だがとことん性根が腐り果てている。言うまでもなく気の短い私とは相性が悪い。


「嫌だなギデオン様、あれは弟ではなくだらしのない落伍者ですよ」

「フレイ。お前、私の従者を貶めることは主人である私を貶めることと分かって言っているのかしら」


 むっとして言い返す。カランが悪く言われたからというよりも、実際に格上にあたるギデオン自身ならばまだしもその手駒でしかない人間にこの家を小馬鹿にされるというのが我慢ならなかったからだ。


「とんでもございません。あれはエイプリル様にお仕えするには役者が不足していると言いたかったのですよ」

「白々しいわね。カラン、黙ってないで反論したらどうなの」

「いえ、良いのです。私も彼を兄と思ったことはございませんので。それよりも皆様、エイプリル様はそろそろお勉強の時間ですので一足先に失礼させていただきます」

「え、ちょっと!」


 心底どうでもよさそうにそう言い放ったカランが私の背中を押して退出を促す。これではなんだか敗走といった体ではない? と抵抗していると、それまでぼうっと私たちのやりとりを眺めていた兄が慌てたようにこちらへ駆け寄ってきた。そして無言でずいと腕を突き出してきたものだから、反射的に飛び跳ねるように驚いてしまう。そのせいか漏れ出てきた兄の声はやたらと弱々しい。


「あの、エイプリル。これ、向こうで土産を買ってきたんだけど貰ってくれるかな」

「……お土産ですか?」

「そう。もう悪夢は見なくなったとは聞いたけど、禍々しいものを退ける効果があるらしくて」


 言いながら兄が器用に柔らかな包みを開くと、透き通るような碧の宝石が埋め込まれたペンダントが現れた。

 私を屠るために在るような怪物の手と、その中にある可愛らしい包装とのアンバランスさに目眩を覚えながらも恐る恐ると差し出されたそれを受け取る。

 つけてくれようとしたのか背後からカランが手を伸ばしてきたがそれを避けて自らの項に手を回す。本当は兄が手ずから私の首に掛けてやりたかったのだろうという雰囲気を感じて、なんとなく他の人間に任せるのは憚られたのだ。


「すごく綺麗。ありがとう、兄さん」


 胸元にあるそれをじっと見つめたまま言葉だけでも極力感謝の気持ちを込めてそう言い募ると、うっすらと息を吐いた気配に続いて頭に微かな圧力がかかった。そのまま後頭部から背中へと滑り落ちてくる動きに合わせて、眠るように瞼を落とす。

 ぞっとするほどの冷たさも、溶かされるような熱さも、どろりとした感覚も、肌を引き裂いてしまいそうな爪の鋭さも、その瞬間だけは全ての余計なものを遠ざけてただその重みを感じていた。不意に仄かな甘い香りが、泳ぐように漂った。

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