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がらんどうと私  作者:
第1章 死に損ない男
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 地獄の底から私を呼ぶ声がする。

 助けを求めているのか、道連れにしようとしているのか。はたまたそうすることで己の魂が救われるとでも思っているのか? 私は応えなかった。





「エイプリル、エイプリル」


 はっと目を開けて息を呑む。開け放たれた窓から差し込む光を背に、火山から流れ出た赤黒い溶岩のようなものがだらりと垂れ下がって、今にもベッドに横たわる私に覆い被さろうとしている……ように見えたからだ。

 訳も分からないままにあげかけた悲鳴を閉じ込めて必要以上にゆっくりと瞬きをしてから──ただ寝惚けているだけだというふうに見えているといい──ようやく笑みを貼り付ける。


「ど、どうして兄さんがここに? 寝起きの女性の部屋にいらっしゃるなんて」

「ふふ。エイプリルももう立派なレディだね。今日は早起きして気分がよかったから、驚かせてやろうと思ってカランに代わってもらったんだ」


 余計なことを、と言いかけてすんでのところで口を噤む。この兄にはどうにもこういうところがある。

 こんなことをしなくたって、ただ存在しているだけで私の心臓に負担をかけてくるというのに、たびたび傍迷惑ないたずらを仕掛けてくるのだ。散々私に避けられていた反動か、妹を構い倒したくて仕方がないらしい。


 はなから制御することを諦めている兄のとんちきな行動はともかく、問題はカランの方である。あの男、昨日私が算術の教師から逃げ出したことを根に持っているのか?

 考えながら顔をしかめそうになるが、いつの間にかアーリーモーニングティーを用意していたらしい兄がカップを差し出してきたのでなんとか堪える。鋭い爪に触れてしまわないように慎重に受け取るとその爪がふるりと震えたような気がしたが、すぐに手が引っ込んでいったのでよく分からなかった。


 それにしても気まずい。

 いつも淹れてもらうものよりもやや熱すぎる紅茶がいけない。どうやら私が飲み終わるまで部屋を出て行く気のないらしい兄は、ベッドサイドまで引きずってきた椅子に座って穴倉のような目でこちらを凝視している。

 せめて何か喋っていてくれればいいのに。偶にくぐもったノイズのようなものが混ざることもあるが、基本的に兄の声だけは皆と同じように聞こえるのだ。そして私は兄のその甘ったるい声が存外嫌いではなかった。

 なんとも言えない空気に耐えられなくなった私は仕方なくこちらから話題を提供することにする。


「ねえ、兄さん。学校ってどんなところなのかしら。二年後には私も行かなくてはならないのでしょう」

「そうだね。僕もまだ詳しいことは分からないけれど、父さんは友達もたくさんできて楽しかったって言っていたよ」


 十一から十六、人によっては十八歳まで、裕福な家の子供たちは王立学校に行くのが一般的だ。二つ上の兄はこの春から一足先に両親の母校でもあるセレスティナ王立学校の寄宿舎に入る。一時的なものとはいえ、ずっと待ち遠しかった兄との別れがやってくるのだ!

 しかし妹を溺愛しすぎなきらいのある兄は当然それを不満に思っているらしく今もそんな声色を隠さない。


「でも僕は嫌だなあ。せっかくエイプリルとこうやってお話できるようになったっていうのに。本当は片時も君と離れたくないんだよ。信じてくれる?」

「え、ええ……」


 到底妹に言うものではない歯の浮くような台詞に思わずたじろいでいると、ふいに私の手からカップを奪っていった兄が、私の肩を抱き寄せる。今度こそ抑えきれずにひっと声をあげてしまったのは不可抗力だ。

 目眩がする。久々に触れた兄の身体はぞっとするような熱さと冷たさを同時に孕んでいて、肌が溶かされているような錯覚を覚えた。腕を突き出して距離を開けようとするが、意思に反してぴくりとも動けない。

 耳元でどろりと蜂蜜を流し込むような声が響く。


「休みにはたくさんお土産を持って帰るからね。二年なんてきっとすぐだよ」


 本当にそう思っているというより、どこか祈るような響きだった。引きずられるようにこちらもどこか弱々しい気持ちになってしまう。


「兄さん、そろそろ離してくださらない」

「どうして? いやちゃんとわかってるよ、僕が怖いんだろう。お願いだから、そんなに怯えないで」


 わかっているなら今すぐ離してくれればいいのに、むしろ兄の拘束は強くなるばかりだ。それからどれくらい経ったのか、私がいよいよ気を失いかけたところでようやく体がぱっと離された。


「アンセル様、お嬢様はそろそろ朝のお支度をしなければなりませんので、そろそろご容赦いただきませんと」

「カラン……」


 苦笑いを浮かべた侍女を従えたカランに引き剥がされたようだ。兄は一度だけ重い溜息をつくと「また朝食で」とだけ言い残して去っていった。


「ちょっと」


 ほう、と兄の背中を見送る侍女たちに気付かれないようにベッドから片脚だけを下ろした私は、俊敏にカランの髪の毛を鷲掴みにして頭を引き寄せる。


「遅すぎる、うすのろ、役立たず」

「本日は朝っぱらから元気が有り余っていらっしゃる? これではサリバン先生に体調不良の言い訳が立ちませんね」

「うるさいわね。主人に口答えをするものではないわよ」

「私は仕える者ではあれど、奴隷ではありませんから。エイプリル様をどこに出しても恥ずかしくない令嬢に育て上げるのも使命のひとつなのです。ほら、早くベッドからお出になって。目やにがついている」

「なっ」


 今度こそ手を振り上げて頰を張ってしまおうとしたところで目の端で侍女が振り返るのが見えたため慌てて手を下ろす。カランは呆れたような無表情で私を見やると、彼女たちにいくつか指示を出して振り返らずに部屋から出ていった。


 まったくもって憎たらしい従者だ。出会った時には神の使いのように見えたものだが、今ではもう小うるさい蝿のようにしか思えない。

 あいつは、あの男だけは知っているはずなのに。唯一頼れる人間になってくれると思ったのは見込み違いだったのだろうか。当初は運命とも思えた出会いを果たしてから四年、悲しいことに私の状況はほとんど変わっていない。


 カランはこの家で怪物の秘密を共有する──というより、そんな話をしても私を精神異常者と疑わないただ一人の人間だ。


 デンプスター家は従者の家系である。なかなか古い家柄で、大昔に交わされたある取り決めに従ってこれまた由緒正しいシュルツ家に忠誠を誓っている。デンプスターに生まれた子はシュルツの手となり足となることが決まっており、幼少期からそのための教育を施されるのだ。

 そのためカランをうちに寄越したのはかなりイレギュラーなことではあったが、シュルツと我がクライン家はとても密接な関係にあるので例外的に許されたのだろう。たしかシュルツの長男のギデオンは兄さんと共にこの秋からセレスティナに入学するはずだ。


 話が逸れたが……なぜその従者の家系に生まれたカランががらんどうの怪物に興味を抱いたのかというと、私もカランから聞いて初めて知ったことだが、どうやら彼の家には裏の顔があるらしい。

 もう何代も前のこと、シュルツの当主がオカルト趣味に傾倒したことがあり、当主におもねる当時のデンプスターもそれに倣って呪術や異形の類に関する研究を始めたそうだ。

 その当主が亡くなって自然消滅したかのように思われたその試みはしかし、デンプスターの方では水面下でむしろずぶずぶと深化していき、いつの間にやらそちらの方面の権威となっていったというわけである。


 交流のある父を通して私の兄に対する奇行を知った現在のデンプスターの主人がさりげなくカランを我が家に送り込むよう画策・誘導をしたのもそういった事情が背景にあった。

 つまり私を研究対象にする代わりに、原因究明の手助けをしてくれるらしい。


 あの日、カランと出会った日。この話を聞いた私がどんなに救われた気分になったかわかるだろうか。

 私だってできることなら普通になりたい。兄を兄として慕いたい。もしかしたらいつか、みんなと同じ世界が見えるようになるのかもしれないのだ。私は餌を目の前にぶら下げられた家畜のように喜び勇んだ。そもそも周りには私の言うことをまともにとってくれるような人もいなかったのに、なんという進歩だろうと、そう思ったのに。


 だが実際はどうだ? カランは分かったような顔で焦るなと言うばかりで、これまで少しだって私の期待したような働きをしてくれていない。ただの普通の、いや普通よりもだいぶ鬱陶しい従者でしかなかった。

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