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気を取り直して膝掛けを胸のあたりまで引き上げた私は、今しがたケチをつけられたばかりの本を手に取った。マゼルタの森と星読みに関する知識を洗い直してみようと思い立ち、父の書斎から拝借したものだ。
ギデオンはあんなことを言っていたが、あの男の家にある資料とはつまりレオン・シュルツが蒐集しているものだろう。中身に興味はあるものの、一癖も二癖もある持ち主のことを考えるとのこのこと赴いてしまうのはなんとなく気が引ける。藪をつついて蛇を出すような真似はごめんだ。
とはいえ確かに私に手に入れられるような本から得られる情報に目新しいものは見当たらなかった。ストラシュコ先生も言っていたように秘匿が彼女たちの神秘性を保つと考えられているため、表に出るのは当たり障りのない内容ばかりなのである。この本ももう終盤に差し掛かっているところだが、正直なところ何か役に立ちそうなことが書かれていたとは言い難い。
しかしそれからそう時間も経たないうちに読み終えてしまった本を閉じようとしたところで、気にかかる文章が目に入った。本文ではなく巻末の後書きの中の一節である。
『拙著の執筆にあたり星読みの長であるテレシア様に多大なるご協力いただいたこと心より感謝申し上げたい。出版段階に於いて急遽削除されることとなったいくつかの興味深い逸話に関しては口惜しく思うが、他にテレシア様より伝え聞いた事柄は余すことなく収録することができたと自負している。マゼルタの民について知るための貴重な資料として、後世まで役立てていただきたい……』
削除されたというのは恐らく王国の検閲に引っかかったという意味だ。星読みは表に出すことを厭わないが、王国にとっては都合の悪い内容とは一体どのようなことなのだろう。
しばらく単純な知識欲からあれこれと想像を膨らませていたが気付くとすっかりと日が落ちかけていて慌てて立ち上がる。ギデオンとやりとりをしていたこともあり、さすがに時間を費やしすぎたらしい。
「ようやく終わりましたか、エイプリル様」
「わ、急に出てくるのはやめなさいといつも言ってるでしょう!」
背後から突然声を掛けられて椅子の足に躓いてしまいそうになる。意図的に行方をくらませていた自分の非を横に置いて神出鬼没な従者に制裁を加えてやろうと振り向いたが、はたしてそこにいたのは想像していた人物ではなかった。
「よく似ていたでしょう。ギデオン様の声真似もできますよ。頑張ればエイプリル様も」
「フレイ、お前、しょうもない悪ふざけはやめてくれないかしら」
「酷いですねえ、ギデオン様に言付かってわざわざ迎えに来て差し上げたのに。この時期は日が落ちるのが早いです。すぐに真っ暗になりますから、そうかっかしないで急いで戻りましょう」
「かっかさせているのは誰だと思っているのよ」
腹は立つが急がねばならないのは事実だ。それにしてもギデオンもつくづく性格の悪い男だと思う。なぜカランではなく兄の方を寄越してきたのだろう。
楽しい会話をしてやる気など毛頭ないので足早に温室から出てしまうと、フレイは私を先導するでも後ろに控えるでもなくすぐ隣に並んできた。いちいち人の神経を逆撫でしないと気が済まないらしい。反応をすれば逆に喜ばせることになるだろうと無視を決め込むが、それすらも予想していたかのようにフレイは上体を傾けて私の顔を覗き込む姿勢になった。
こいつ、どうあっても相手をさせる気か。挑むような気持ちになって睨み返していると、なぜかいつものにやついた笑みを消したフレイが目を細めてじっと私を見つめてきたのでどうにも気味が悪くなる。こういう表情をするといよいよ獲物を呑み込まんとする蛇のようではないか。
しかしふつふつと逃げ出したいような気持ちが湧き上がってきたところで一瞬にしてそんな雰囲気は霧散し、またフレイの口の端が厭らしく持ち上がる。
「そうだエイプリル様、実は先程のギデオン様との会話が偶然耳に入ってきてしまったのですが」
「そう、盗み聞きをしていたのね。本当は鼠か何かとして生まれてくるはずだったのではない?」
「あはは。他の方がいらっしゃらないといつも以上に辛辣ですねえ。あの愚弟に聞かれたら嫉妬されてしまうかも」
全くもって意味不明の論理だ。私の従者のことを勝手に妙な倒錯者に仕立て上げないでほしい。
無駄なこととわかりつつも一層鋭く睨みつけてやるが、案の定隣の男は更に胡散臭い笑みを深めただけで意に介した様子はない。このぶんだと先程の妙な態度も嫌がらせの一環だったのだろう。
「そう、それで、さっきのお話のことなんですけどね。僕は改めて考えてみるべきだと思うんです」
「何の話よ」
「それは勿論お二人のご結婚についてですよ! 我が主もですが何よりご当主様がエイプリル様のことをいたく気に入っていらっしゃいますから。家柄的にも申し分ありませんし」
「気に入られているというのが全く良いことに感じられないのはなぜかしら……」
「まともな神経をしていたらシュルツの人間なんてやっていられませんからね。そのまともでない方々に好まれるということは、つまりそういうことです」
もうこれ以上答えを返す気にもならない。私のような寛容な人間が相手でなければフレイなんかとっくに鞭打ちにされていたことだろう。実際この男は相手を選んでこんな舐め腐った態度をとっているのだ。悪趣味な折檻の真似事をする気はないが、いつかどうにかして立場を分からせてやるべきではないだろうか。
そうこうしているうちに屋敷内に辿り着いた。元々大した距離ではなかったので、早々にこの苦行のような時間が終わってくれてほっとする。
ギデオンに私の居所について伝え聞いていたのか抜かりなく私を出迎えたカランは、まるでフレイなどそこに存在もしていないかのような様子で私の前に進み出ると、夕食の予定について手短に告げて私にさっさと部屋に戻るよう促した。
「気は向かないけれど一応礼を言うわ、フレイ」
「いいえ、ギデオン様のご命令ですから」
そうでなければ私のことなど知ったことではないという意味か。心の篭っていないおべっかを垂れ流されるよりは良いけれど、どうにも釈然としない。
その後の夕食の席で私は、休養をとってすっかりと元気になってしまった兄にべたべたと纏わり付かれていた。
姿があれでさえなければ子犬のようだとも形容できるかもしれないが実際にはそんな可愛いものではないので、いつも以上に豪勢なはずの食事も砂を噛むような味気なさしか感じられない。兄の姿を見ていると夢の中で繰り返されていた恐ろしい光景がまた目の前で具現化してしまったかのように感じられ、少しも食欲が湧いてこないのだ。
一方のギデオンは明らかに憔悴しきった私に目もくれず、全く我関せずといったふうである。少しは会話を投げかけて注意を逸らしたりしてくれてもいいのに。
こちらから無理矢理話に引き入れてやろうと学校生活について尋ねてみたものの返ってきたのは特筆すべきことはない、の一言だ。ばっさりと話題を断ち切られて苦々しい気持ちになっていると、呑気な笑い声をあげた兄が会話を繋げる。
「ギデオンはなんだか皆に畏れられているようだよね。もう少し笑ってみせたりすればいいのに」
「俺はお前のようになりたくはないんでな。はたから見ているだけでもうんざりしてくる」
「兄さんは向こうでも相変わらずのようですね」
詳細を述べられずともどんな様子なのか手に取るように分かるので、長い時間近くにいるであろうギデオンに多少同情の念が湧いてくる。するとそんな私たちの様子を不可解そうに眺めていたらしい兄がふと何かを思い出したような声を漏らした。
「ああ、でもこの前ギデオンがはっとするほど美しい女性と親しげに話しているのを見たと言っている子がいたな。逢引でもしてたのか?」
「は? そんな……いや、どうせユイージュのことだろう」
ほんの一瞬だけ狼狽えた様子を見せたギデオンに驚いていると、聞いたことのない名前が飛び出した。兄も知る人物らしく、そういうことかと途端に興を削がれたような調子になる。
「お二人のお知り合いですか」
「うん、僕たちの先輩だよ。なんというか、この世ならざるもののような不思議な雰囲気の方でね。中性的な見た目でよく勘違いされるのだけどれっきとした男なんだ。でもギデオンが彼とそんなに親密な仲だったとは知らなかったな」
「気色の悪い言い方をするな。いくつか質問をされただけだ。あれきり二人で会話したことはない」
そのユイージュという人とのやりとりを思い出したのかギデオンがどこか怪訝そうな表情になる。
「それにあの男とは俺よりもお前の方が気が合いそうじゃないか、アンセル。お前ら二人で並んでいると血縁者のように見えなくもないぞ」
「ええ、僕は別にああいう感じではないと思うけど」
「まあ、ギデオン様はその方が兄さんに似ていらっしゃると? 見た目もですか?」
「やけに食いつくな……。見た目というより雰囲気の話だ。お前も会ってみれば分かる」
なんだ、見た目のことではないのか。怪物でない兄の姿は自分では見ることができないので、似ている人物の姿から想像してみることができるかもしれないと思ったのだが当てが外れたらしい。
すっかりと落胆してしまった私は俯き、小さく息をついて、また顔を上げようとした。
それは本当に突然のことだった。
「イリーナ。かわいいイリーナ。ほんの少しだけおやすみ」
「え?」
世界にひとつきりの灯りをふっと吹き消したように、一瞬にして視界が真っ黒に塗り潰される。気付くと私は途方も無い闇の中にいた。