なにもないところ
それは嵐にまかれた毒沼の泥のようでもあり、また大きく口を開けてこちらを呑み込まんとする真っ暗闇のようでもあった。
かろうじて人の形を成しているが、流動的で掴み所がない。その中で醜悪に並んだ無数の歯や大きな爪だけがちぐはぐと奇妙なバランスでもって浮き上がっている。
だがそれよりもとりわけ怖ろしく感じられるのはあれの持つ目だ。
あちらにあったかと思えばそちらにある。上や下に、前や後ろに、時には私の眉間の裏側に。しかしそれらは恐怖の見せる残像でしかなく、本体は化け物の頭らしきところにぼんやりと鎮座している。やつの目はひたすらに空っぽだ。空っぽなので何もかも見透かしてしまう無限のうつろ。
私はそんな人間離れした姿をした兄さんのことを密かに「がらんどうの怪物」と呼んでいた。
突然だがここでアンセル・クラインという男の話をしよう。
陽の光に照らされずとも神に祝福されたように輝く金色の髪に、澄み切った海を映したターコイズの瞳。白い肌にはくすんだところはひとつもなく、頰や唇は魅惑的に色付いている。
すっとした長身の体は過不足ないバランスで男らしさと柔和さを混ぜ合わせた彫刻のように聳え、見るものにうっとりと息をつかせた。ここまでが私が人伝いに聞いたことだ。
ここからは私もよく知るところだが、彼の優れた点はその容姿だけではない。性格がどうとか能力がどうとかそういったことを一つ一つあげつらわずとも、ただこう言えばいいだろう。
彼は物語の中から飛び出してきたかのように、何もかもが完璧なのだと。
否、正確にはただ一つの欠点を除いて、と言うべきかもしれない。なにしろアンセル・クラインとはあの悍ましい怪物のことなのだから。
自分に見えている景色が他の人のそれと違っていると知るまでには、そう時間はかからなかった。
生まれて間も無い頃、二つ上の兄との初対面を果たした赤子の私はそれはもう火がついたように取り乱し泣き喚き、その後も兄を見るたびに恐慌状態に陥ったそうだ。何年見続けたって慣れない悪夢のような姿なのだから、それも仕方のないことだろう。
しかしそれを良しとしなかった母は荒治療を施した。単純なことである。私がどんなに怯えても忍耐強く兄と引き合わせ続けたのだ。
本格的に何かがおかしいと考え始めたのはだいぶ言葉を覚えて、自己主張できるようになってきたのがきっかけだった。
「おかあさま……あそこにまたこわいのがいる」
「怖いの、じゃないでしょう。あなたの大切なお兄様よ」
母の懐に顔をうずめた私を嗜めるように肩を軽く叩かれるがどうしても顔を上げる気にならない。今こうしている間にもあの生き物がこちらを見つめているのかと思うと、じんわりと母の手の温もりを受けた背筋がそれでもふるふると細かく震えた。
「あんなどろどろ、エイプリルのおにいさまじゃない」
「……どろどろってなあに? ううん、いつもはお利口さんなのにアンセルに関することだと途端に難しいんだから」
「だってちがうもの」
兄はこういうときただ黙ってこちらを無感動に眺めている。焦点も知れぬはずの空洞がしかしはっきりと私を捉えていることがなぜだか分かる。他の人が言うには王子様はいつも自身から逃げ回る妹に向けて困り果てたような笑みを浮かべているらしいが、私にはおよそ彼の表情というものを窺い知ることはできなかった。
そんな風に日々を怯えながら過ごしていた私だがそれでも時間薬というものはゆっくりと効いてくるようで、私は徐々に怪物と同じ家で過ごすことに慣れていった。あるいは慣らされていったというべきか。家族に「この子はどこかおかしいのではないか」という目で見られたり、“こころのお医者様”がひっきりなしにやってきては実りのない話をして去っていくことに疲れたというのもある。
ともかく私は表面上だけでも平静を装って兄と同じテーブルで食事をしたりごく簡単な会話をしたりすることを覚えていった。直視することは難しかったが、それでもとてつもなく大きな進歩だと思う。
そうやってのらりくらりと課題を先延ばしするように過ごしていくらか経ってからのこと。取り繕うことに精神を擦り減らしていた私の五年目の誕生日にとっても素敵なプレゼントがやってきた。
殻に閉じこもりがちな私を心配した父が、ひとりの従者を連れてきたのだ。
「初めまして、エイプリル様。私、カラン・デンプスターは誠心誠意を尽くして貴女様にお仕えし、お守りすることを誓います」
膝をつき慇懃に挨拶したカランの手に自分のそれを乗せながら、私はかつてない感動に打ち震えていた。全体的には華奢な体つきに見えるが男性らしくややがっしりとした肩、そこにかかる長めの黒い髪やその合間から覗く紫の水晶のような瞳という、異国風でミステリアスな風貌に一瞬にして心奪われてしまったのだ。私は美しいものが好きだ。人でも、物でも。あの不気味な怪物の正反対に位置するようなものが。
しばらく惚けたように彼と見つめあっていたが、遅れてひとつの疑問が過ぎる。
「ねえ、あなたデンプスターって言った? あそこの子は代々シュルツのおうちの従者をしているって聞いたけれど……」
「エイプリル、挨拶が先だろう」
「いえ宜しいのです、クライン様。どのみち後ほどそのことについてお話させていただくつもりでしたので」
微かに笑みの形を作った口で、カランは建前の理由を語った。五男の彼はシュルツの家に仕えるお役目からはあぶれてしまい身の置き所がなかったところをこの家に拾い上げてもらったのだ──という、私の父の手前の無難な法螺話だ。
その後、二人きりになってからこっそりと教えてもらった本当の理由を聞いて、私は今度こそこの最高の贈り物に感謝することとなる。
「エイプリル様。貴女にだけ兄上が恐ろしい姿に見えてしまう、というお話は本当でしょうか?」