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龍神死なず

作者: 佐井原 景

 子供が行くことを禁じられた場所は二つある。

 一つは村の近くの深い河、もう一つは北の窪地だった。


 滅多に日の当たらぬその窪地には、よどんだ大気が常にただよっているようだった。それにも関わらずヤエがその場所を好んだのは、そこに咲く控えめな花々のためだ。日の下に自らを誇る花ではなく、気をつけねば雑草のたぐいに埋もれてしまいそうな花である。ヤエは、それが好きだった。

 行くなと言われるその所以を、ヤエはぼんやりと悟っていた。窪地の更に向こう、山影から、細くたなびく煙が見えるのだ。

 ――あそこには、人が住んでいるのだろう。

 そして、関わるべきではないのだ、と。十を数えたヤエが分かることといえば、その程度のものだった。

 藤色がかったカキドオシの花を、小さな指で慎重に摘む。まといつくような大気の中、かすかに草の香が混じった。その作業を繰り返すヤエの手には、ぽっちりとした花束が作られてゆく。日を知らず育つその花の色は、常のものよりも淡かった。

 たくさんの花束を作るのだ。母や、急な客人のもてなしに駆り出された姉たちのために。……要するにヤエは、もてなしの邪魔をするなと追い出されたのであったが。

 そのまま集落の子らに混じって遊んでいてもよかったのだけれど、今日のヤエはどうしてもその気分にはなれなかった。おそらく、客人の姿を目にしてしまったためだろう。

 古めかしい薬箱を負ったその客人は、同じように年季の入った藍の衣を着ていた。ひょろりとした猫背の男は、ヤエを見下ろして笑ったのだ。

『おじょうちゃん、ここが村長のおうちかい』

 目を細めるその顔もまた、猫のようであったと思う。

 ちくり、と指先に痛みを感じ、ヤエはふっと我に返った。何事かと左手を広げてみれば、人差し指に血の玉がゆっくりと浮かんでくる。ヤエは一瞬顔をしかめたが、迷い無くその指を口に運ぶ。しおの味がして、指の先はじんと痛んだ。小枝か何かに刺したのだろう。

 空いた右手で足下を探り、若芽を出したばかりのヨモギをぷちりと摘んだ。カキドオシよりも更に強い香気を漂わせるその草を、ヤエは両手の平でよく揉み込む。じんわり染み出したヨモギの汁に、人差し指を当てた。

 そうしながら、ヤエはまた客人のことを思い出した。

 あれは薬売りなのだろうか。ヤエが知る薬売りは一人だけだ。祭に合わせての甘い菓子や、諸国で集めた珍奇な話。そういったものを一緒に持ってきてくれる、薬売りの顔を忘れる子供は集落にはいまい。それはヤエとて例外ではなかったし、その薬売りがやってくる季節はまだ当分先なのだ。

 では、あれは、何なのだろう。

「――ほら、ちょうど陰になっているだろう」

 不意に知らない声がして、ヤエはびくりと身をすくませた。途端にどっと冷や汗が出る。ここに来てはいけないと、そう言われているのに。ヨモギの残骸を放り出し、ヤエはその小さな身体を亀のように縮こまらせた。近くなった心の臓から、ずくずくと早鐘のような音が聞こえる。

「山があるから風が吹き込んでここで止まる。実にいい。あの辺りを貰いたいな」

「ははァ、あんな土地をですか」

 応じたその声に、ヤエの心臓は更に高く鳴った。あの、耳に心地よい低い声は、間違いなく父のものだ。姿を確かめたい好奇心と、見つかれば酷い雷を落とされようという恐怖心。その双方にヤエは耐えた。強く額を土に押しつけ、両手を胸の下に押し込んで堅く握る。同じように腹の下にある膝は、かたかたと小さく震えていた。

 父ともう一人は二言三言短い言葉を交わしていたが、やがて草を踏む音がする。よもやこちらに来るのではとぞっとしたヤエであったが、足音はゆっくりと遠のいていった。

 足音が小さくなり、やがて消えた時、ヤエはほうと息を吐いた。そうすると次に頭をもたげるのは好奇心であり、ヤエはそれに逆らえない。おそるおそる全身の緊張を解き、身を起こす。それでも人影が見えぬものだから、ぐいと足に力を入れて立ち上がった。

 遠く見えるのは、四角い箱を背負った藍の衣。まさしく先の客人である。

 ――ほんとうに、あれは、何なのだろう。

 ヤエの心にすうと沈んだその思いが晴れることはなく、家路につき客人が去ったことを知るとそれはいっそう強まった。あれは誰だったのかと父に問うてみても、薬売りだと笑うばかりだ。その奇妙ないびつさが、ヤエには面白くなかった。もやを抱えたまま窪地に行くこともあまり楽しくなさそうで、結局それきり三月の間、その場所には行かなかった。


 夏が盛りになった頃、薬箱を背負った男は再びヤエの家へとやってきた。だが客人は父に何かしら短い挨拶をしただけで、すぐに踵を返してしまった。ヤエは瓜の一切れをかじりながらその背を見る。男が去ってゆくのは、窪地に続く北の道だった。ぼんやりとそれを見送っていたヤエであったが、ふと思いつく。これは、もやを晴らす機会ではないだろうか。薬箱は次第に小さくなる。ヤエは慌てて瓜を腹に押し込め、父が奥へ足を向けたことを確かめてそろりと門を抜け出した。

 息を殺し、足音に気を配りながら男を追う。猫背の男は軽妙な足取りで窪地へと向かっていた。やがて禁じられている境界を越えて山の陰に入り、下草に隠れるようにしてヤエは進んだ。草をかき分ける音が届かぬほどの距離を保ちながら、男がやはり窪地へ入ってゆくのが見える。いったい何をしているのだろうか。恐る恐る後を追うヤエは、その時初めて奇妙なものを目にした。

 小屋、のようなものが、建っているのだ。

 板葺きの屋根が窪地からのぞいている。ヤエは目を丸くした。いつの間に出来たものなのか。少なくとも三月前には、このようなものはなかったのに。

 藍衣の男は、足を止めた。辺りを見渡すようなその仕草に、ヤエは慌てて身を縮める。けれども男はヤエに気付いたというわけでもないようだった。小屋からいくらか離れたまま、男は大声を上げたのだ。

「シロウ、シロウ、いるか?」

 知らぬ誰かを呼ぶ声が、山影に響いてこだまする。猫背の姿からは考えられない程の、腹から響く堂々とした声だ。ヤエは息を殺して辺りを見渡す。――と、小屋の傍らから、ひょいと飛び出した影があった。

「やあ、息災かい」

「ああ」

 男の前に立ち、頷くのは少年だ。離れていて顔は分からないが、背の丈を見るとヤエより一つ二つ年上だろうか。村の子供ではない。

「調子はどうだい」

「鼻が曲がりそうだ」

「はは、まあ仕方がないね。まだ序の口だぞ」

「……勘弁してくれ」

 何の話をしているのだろう。懸命に耳を澄ましてみるが、会話の内容ばかりはよく分からない。もう少し近寄れないだろうかと、ヤエがそろりと膝で立った時である。

「――誰だっ!」

 シロウ、と呼ばれた少年が、ヤエに向かって叫んだ。その激しい誰何に、猫背の男も弾かれたように振り返る。途端男と目が合って、その射抜くような瞳にヤエは凍り付いた。けれどもそれは一瞬のことで、ヤエの姿を認めた男はすぐに猫のような笑顔を作る。

「おや、村長の所のおじょうちゃんじゃないか。ここには来てはいけないと言われてるんだろう?」

 痛いところをつきながら、男はヤエに足を向ける。ヤエも観念して、逃げることなく男を待った。ちらりと少年の方を見ると、目をつり上げてヤエをにらみつけている。それに負けじとにらみ返していると、不意に視界がかげった。男が目前に立っていたのだ。

「で、どうしたんだい?」

 問う声は厳しくはないが、その目は見透かすような色をしていた。ヤエはどきりとしたけれど、気丈に男をもにらみ返して口を開く。

「あなたは誰? あの小屋は、いつの間にできたの?」

 ところが男は動揺も見せず、悠然と構えて逆に問い返した。

「うん? 随分前から来ていたようだね」

「……父さんには言わないで欲しい、けど」

 男の態度にいささか不安になって、言外に肯定の意を示しながらもヤエはちらりと目を逸らした。男は呵々と笑う。

「まあ、村長ならこのことを知っているし、おじょうちゃんが言いふらさないと言うならこちらは気にしない」

「ギンジさん!」

 けれども少年の方は気に入らなかったようで、男のものと思わしき名を苛立ち混じりに叫ぶ。

「何だ、シロウ?」

「そんな娘ッ子に見つかってもいいのかよ!」

 大声を出し、シロウはこちらに飛ぶように走ってきた。目前に来た途端に、ぎろりとヤエを一瞥することも忘れない。

「仕方あるまいよ。これ以上の場所が無い」

「でも……」

「それともアレをシロウが掘り起こしてくれるのかい」

 含んだような物言いに、少年はぐっと言葉に詰まる。ギンジは人の悪い笑みを浮かべたまま、ヤエのほうをもう一度見た。

「秘密というのはなんであれ、余計に気になるものだからなあ。教えてやろう、おじょうちゃん」

 言うと、男はすとんと腰を下ろす。慌ててヤエもその場に座った。背丈のないヤエでは草に埋もれるような様子だ。シロウは機嫌の悪い仏頂面をしたまま、意固地になったように腰を下ろしはしなかった。

「まずは一つ目の質問か。わしが誰かというと……そうだな、普通の薬売りではないよ。――火の薬を、作っているんだ」

「火の薬?」

 聴きなれぬ言葉にヤエは問い返した。男がうなずく。

「薬を食って火が弾けるのさ」

「行灯の中にでも入れておくの?」

「まあ、そんなところだね」

 シロウの苦い顔が気にかかるところではあるが、その答えにヤエは一応満足する。

「小屋は?」

「薬の材料を作っているのさ。……臭いのきつい仕事だからねえ」

「臭い?」

 問うと、男はにんまりと笑った。

「ヨモギと肥やしと腐った水と、鳥獣の臓物、魚の屍骸なんぞを一緒くたにしてだね……」

「……もう、いい」

 聞いているだけで気分が悪くなりそうで、ヤエはギンジの言葉をさえぎった。なるほど、それはさぞつらい仕事であろう。

「こんなにつらいなら、先に言ってくれれば良かったんだ」

 不満げにぼやくのはシロウだ。ギンジはそれにも笑う。ヤエは少年の方を見た。

「じゃあ、あなたは誰なの?」

 ヤエからしてみれば、それは純粋な好奇心であった。けれどもシロウはぱっとヤエの方に顔を向けると、剣呑な目つきに力を込める。そして答えてたまるかとでも言いたげに、唇を真一文字に引き結んで見せた。

「そうか、おじょうちゃんはこちら側のことを知らないのだったか」

「……ギンジさん、やめろよ」

「そう気を尖らせることもないだろう。この子は知らないと言うんだから」

 シロウの不機嫌の理由がわからないヤエは、不思議そうに少年を見た。一言文句を言ったまま、口はまたしても閉ざされている。ヤエはふと思いつき、首をかしげた。

「窪地の向こうに住んでいるの?」

「ほう、それは知っているのかい」

「煙が見えるから」

 それは正解であったらしい。シロウの顔が悔しげに歪む。それが気分良く感じられて、ヤエはくすくすと笑った。

「シロウには薬の番を頼んであるんだ。大変な仕事だ。おじょうちゃんも仲良くしてやってくれ」

 ただし、とギンジは付け足す。

「ここに来たことも、シロウに会ったことも、だれにも言わないほうがいいね」

 そう言う彼の瞳は猫のように細められていたが、その奥の光は実に真剣だ。だからヤエも神妙に、それにうなずいて見せたのだった。


 仲良くなどととんでもないと息巻いていたシロウであったが、ヤエがしばしば窪地を訪れるので、ついには折れたようだった。閉ざしていた口もやがてほころび、色々と聞きたがるヤエに不承不承ながら答えるようになった。慣れてみれば、家では末子のシロウにとって、妹分とも呼べるヤエの存在は嬉しかったのだろう。やはり三月に一度ばかりの割合で村を訪れるギンジと並んで腰を下ろして、梨や柿などの水菓子を食うこともあった。

「どうして大人は、窪地に来てはいけないと言うの?」

「……なんだ、お前、なんにも知らないのか」

 草むらに腰を下ろしたシロウが呆れたように言う。歳はヤエと二つしか違わないというのに、兄貴風を吹かせたがるのだ。手にした柿の実をぽいと投げてよこしながら、シロウは薄い胸を張る。

「俺たちは革を扱うからな、屍肉を触ると言ってお前等は嫌がるんだ」

 そう言われても、ぴんと来ない。シロウが投げた柿を受け止めながらも変わらず不思議そうな顔をしていたヤエに、笑って続けたのはギンジだった。

「おじょうちゃんの村で牛やら馬が死ぬと、シロウの集落が引き取るのさ。そうして革を剥ぐ」

「剥いでどうするの?」

「馬具や甲冑や太鼓に仕立てる。それを売って食い扶持をまかなうというわけだ」

「ほんっとに、なんにも知らないんだな」

 シロウの言は憎たらしかったが、言い返せずにヤエは頬をふくらませた。そんなことを言われたって、ヤエは窪地に行くなと言われるばかりであったのだ。それに、結局どうして村の大人が彼らを忌むのか、ヤエにはいまいち分からない。

「でも、それは、凄いことだと思うんだけど」

「凄いことさ。だから、わしらはシロウ達が居てくれないと困る」

 しみじみとギンジが言ったものだから、シロウは照れたようにそっぽを向いて、知らぬ振りをして柿をかじる。凄いことだというのなら、双方の集落がもっと仲良くしてもよかろう。ヤエはそう思ったが、まあ、そういうものなのだろう。シロウにもらった柿をほおばりながら、けれど、ふとそこで思い至った。

「ギンジさんは、何でシロウ達が居ないと困るの?」

「……ほほう、それを聞くのかい」

 ギンジは唇の端を持ち上げた。しかしそれが普段の笑顔とは違っているようで、ヤエは首を傾げる。柿の種をぺっと吐き出したシロウが、不機嫌な声を上げた。

「ヤエ、ギンジさんを困らせるな」

「いやいや、わしは感心していたんだ。おじょうちゃんはなかなかに聡いねえ」

 目を細めてギンジが言う。このままはぐらかされるのだろうか。そう、ちらと思ったが、ギンジは軽く頷いて続けた。

「別におじょうちゃんに秘密にしても仕方のないことだ。ようし、教えてやろう」

 芝居がかった口調で言うと、ぱっとその場に立ち上がる。旅回りの役者のように格好を取って、仰々しく礼をして見せた。

「旅の薬売りとは仮の姿よ。わしは殿の密命を帯び、火の薬を作るために城から忍んで参っているのだ!」

「……密命なら、言ってはだめなんだろ?」

 呆れた声音でシロウが言う。けれどもギンジは呵々と笑い、再びその場に腰を下ろした。

「噂広がる町中では言わないさ。おじょうちゃんの村には事情を伝えてあるからねえ」

 今更ヤエに秘密にしたところで、どうと言うこともないのだ。一応正体を明かす形になったギンジの言葉に、ヤエはしばらく考える。殿だの、城だの、そういった言葉は遠い世界のものなのだ。やがてギンジが言わんとしていたことをようやく察して、ヤエは少なからず驚いた。

「ギンジさん、は、お武家さまなんですか?」

「はは、下っ端のそのまた下っ端さ。自分で耕す程度の土地しか持っとらんよ」

 おじょうちゃんの家の方がずっと大きい。そんな風に言って笑うギンジの表情に、偽りは無いように見えた。


 また、ある時には、シロウがヤエに問うこともあった。

「そういや、どうしてお前は窪地に居たんだ」

 村の連中は誰も近付かないはずなのに、と心底不思議そうに言う。ヤエにはそれがおかしく、くすくすと笑いながら答えた。

「行くなと言われたから行ってみたくなったの。そうしたら、花が咲いていたから」

「日当たりも悪いのに、わざわざ?」

「この辺りの花は小さくて、色も淡くて、好きだったの」

 ヤエの答えに、シロウはますますわけが分からないといった顔をする。その時も傍らに居たギンジは、ヤエを見て楽しげに笑った。

「おじょうちゃんは、たいそうなアマンジャクだねえ」

「そういうものか?」

 別の種類の生き物を見るようなシロウの瞳にまたしても笑いが込み上げる。笑い続けるヤエとギンジを目前に、シロウはやはり合点がいかないのか仏頂面をしていた。ひとしきり笑った後、ああ、とギンジが声を上げる。

「だったら、申し訳ないことをしたねえ。窪地を潰してしまって」

「んん、もう、いい。これを見てる方が気になるから」

 ヤエは首を横に振った。視線の向かう先は窪地に建てられた小屋である。

「でも、月にいっぺん腐った水をかけて出来る薬なんて、どんなものなの?」

「それが秘術というものでねえ……」

「ギンジさん!」

 またしても秘密を教えるつもりかと、シロウが焦ったように名を呼んだ。

「そう気を尖らせるなよ。――おじょうちゃん、この薬は、火筒に入れるのさ」

「ひづつ?」

 軽くあしらわれたことに腹を立て、シロウは口をへの字にしてそっぽを向く。けれどもギンジは気にせずに、ヤエに向かって言葉を続けた。

「海の向こうから渡ってきたものでね、その名の通りの火を噴く筒だ」

 そう説明されたところで、ヤエの脳裏に浮かぶのは竹筒から火が噴き出しているようなものばかりだ。はなからヤエには分かるまいと思っていたからこそ、ギンジもそのように言うのだろう。

 その時シロウが、ギンジの言葉に弾かれたように顔を上げた。

「海の向こう? 明より遠い国のことか?」

「ほう、よく知っているねえ」

 感心したようにギンジがうなずく。その答えに、シロウは更に熱をこめてたずねた。

「ギンジさんは、外つ国の人を見たことがあるのか?」

「ああ、そうだね。言葉は分からないが、殿の御前に出た時に姿を見た」

「お殿さまにじかに会ったの?」

 ヤエが驚いたのは、海の向こうがどうこうという話よりもまずそこだった。ギンジは笑って片手を振る。殿の使い走りのようなものだから、と言うのだ。

「おじょうちゃんが思っているような身ではないよ」

「ギンジさん、それより」

 シロウが食い付くように藍の袖を引く。

「海の向こうの人は、血を飲むと聞いたが本当なのか?」

「シロウは、外つ国のことが気になるかい」

 目を細めて言ったギンジは、そうだなあ、と思案する。

「血は飲まないが赤い酒を飲んでいたよ。葡萄酒といって、殿もお気に入りの様子だった」

「角が生えているというのは?」

「そんな者は見たことがないよ。鼻が天狗のように高くはあったがねえ」

 ギンジの語ることはまったく想像のつかないことで、ヤエはその姿を思い浮かべるのに必死だった。そのようなヤエを尻目に、シロウは目を輝かせている。ギンジは楽しげな笑みを浮かべたまま、逆に問うた。

「シロウは外つ国のことが知りたいのかい」

「ああ」

「行ってみたいかい」

「行けるのかっ?」

 勢い込んだシロウに、そうだねえ、と呟く。

「今のシロウには薬の仕事があるからだめだが、これが終わったら不可能ではないよ」

 ギンジの答えに、シロウは目を丸くした。魚のように口をぱくぱくとさせている。

「……ほ、本当に?」

「シロウは気概があるからなあ。無事に火の薬を作りおおせたら、向こうに渡る船に頼んでみようかい。水夫の見習いくらいさせてもらえるだろうよ」

 そう語るギンジの言葉は、シロウにとってはまるで夢物語のようなものだった。礼を言おうとしても喉の奥に言葉が詰まってうまく出てこない。その様子にギンジは目を細める。――ところが、ヤエばかりは違ったのだ。

「シロウは海の向こうに行ってしまうの?」

 それでは、とても寂しくなってしまうだろう。二人の会話を聞いていたヤエは、唇を尖らせて言ったのだ。

「じゃあ、わたしも行く」

「ヤエが? 無理だろ!」

「行くんだったら!」

「海神は女が嫌いなんだぞ! 船に乗せられるか!」

 やいのやいのと子供たちは騒ぎ立てるが、ギンジはヤエの渡航に対し可能とも不可能とも言わなかった。頑是無い応酬を楽しげに眺めているばかりだ。その表情は、やはり猫に似ていた。


 そんなことを、幾度か繰り返した。

 一年が経ち二年が経ち、三年が経つ。相も変わらずヤエは時々の暇を見つけては窪地にやってきていたし、シロウはもう、それを追い返そうともしなかった。ギンジが村を訪れた日は、決まってヤエも窪地へ行った。村長の家の年の離れた末娘が時折姿を眩ませるのは今に始まったことでもなかったので、見咎める者はいなかった。

 このまま、ずっと変わらぬように思えたその均衡は、けれどもある日唐突に揺らいだのだった。

「すまんなあ、シロウ、外つ国は先になるかもしれん」

 何かの拍子に、ぽつりとギンジが言ったのだ。とりとめもない会話をしていた二人は、ぱっと顔を上げてギンジを見た。著しく背の伸びた子供達とは違い、いくらも年を経たとは思えない男は、困ったように眉を寄せた。

「薬番が長引くのか? 勘弁してくれよ」

 シロウが苦い顔をするが、それも無理はなかった。月に一度、肥や腐り水などをかけてやらねば火の薬は完成しない。その悪臭たるや凄まじいものだ。風雨を避ける薬小屋が倒れぬよう、見張ることもせねばならない。薬番を請け負ったのはシロウの集落であったが、実質番役はシロウ一人のものだった。

 契約では薬番は五年。それ以上は我慢ならない。

「ああ、違う違う」

 しかしギンジは首を横に振る。そうしてさほど深刻めいた素振りも見せず、さらりと言葉を続けたのだ。

「わしは死ぬかも知れんからな。話はしておくが、じかに紹介してやれなくてはすぐには船に乗れなかろう」

「……ギンジさん、どういうこと?」

 物騒な単語にヤエが目を見張る。ギンジは笑った。

「おっと、今回ばかりはだめだ。密命だからねえ」

 軽い口調であったが、その目の奥の光はヤエに口をつぐませる。ヤエとてギンジが何者であるか、とうに察しが付いていたのだ。

 火の薬も、火筒も、何であるか察したように。

 シロウは無言でうつむき、足下の草を千切っていた。どこぞで戦になるのだろうか。問うても答えてはもらえまいと、ヤエもそれきり口を閉ざす。しばし、涼しい風が吹いて、背の中程まで伸びたヤエの髪を揺らした。

「……お祈り、してます」

 ぽつりと、ヤエが呟く。

「ご無事を、お祈りしてます、から」

「はは、おじょうちゃん、そんなことはいいんだ。大体、うちの殿は神や仏など信じていないと言うし」

 わしもそうだ、とギンジは目を細めた。草をむしっていたシロウが顔を上げる。険しい眼差しでギンジを見つめる、その唇は固く結ばれたままであった。ギンジは、そんなシロウに向き直る。

「わしが長らえるとすれば、神よりも火の薬に頼るしかないねえ。シロウ、頼んだぞ」

「……仕事が終わればすぐにも外つ国に行く。死ぬなど、いくらギンジさんといっても許さないからな」

 それは、シロウなりの了承の言葉であったのだろう。ギンジは満足げに頷いた。

 ヤエは、そんな二人のやりとりをじっと見ていた。神がいるかどうかは知らないけれど、祈りさえも否定するギンジが哀しい気がした。

 ――けれど戦を制するのは、やはり火の薬の方なのだ。

 初めてギンジやシロウと言葉を交わしてから、一年が経ち二年が経ち、三年が経った。その悪臭ゆえにヤエは遠巻くばかりである窪地の小屋にも年季が入った。

 ヤエやシロウは元より、出会った頃より変わらぬように見えるギンジでさえ、こうして変わってしまうのだ。


 たったの三年で、ヤエの回りだけでもこんなにも全てが変わってしまう。何もかもが、変わらずにはいられない。

 ならばこの世というものは――ヤエにはうかがい知ることさえ出来ない、この世というそのものは、どれほど変わってしまうのだろう。


  □ □ □


「……二夏、過ぎた」

 萌葱の帯を締めた娘が、泣きそうな顔で微笑んでいた。若者は唇を一文字に結んで、その娘を見つめていた。

「ギンジさんが来なくなってから、二夏が、過ぎた」

 薄暗い窪地に立つ二人は互いに向き合い、だというのに腕の届かぬ距離を保っている。淀んだ風が頬を撫でた。

 若者を真摯に見つめたまま、娘は確かな声音で続ける。

「――嫁に、行くことになりました」

 若者は、口を開かない。曇った空は今にも雨粒を落とさんばかりだが、二人はそれを見上げることもない。

「シロウ」

 娘が、呼ぶ。それでもなお若者は、引き結んだ唇を動かさない。ただでさえ険のある目つきが、いっそう彼の人相を厳しくしていた。けれども幼い頃より見てきたその顔は、娘には全く恐ろしくはない。

「シロウ、怒らないで」

 怒らせているのではなく哀しませているのだと分かっていて、けれども娘はそう言った。若者は眉間に皺を寄せた。耐えるかのような表情だった。それに引き寄せられるように、娘は一歩を踏み出す。

「――寄るなッ!」

 けれども、シロウは後退った。二人の間は再び開く。娘は哀しげに、それでも唇の端を持ち上げたまま若者を見つめた。シロウの表情には動揺が走り、ようやっと開かれた唇は次の言葉を探すように震えていた。

「寄るな……だめだ、ヤエ、臭いが移る!」

 今や泣きそうなのはシロウも同じだった。一度崩れた無表情を再び作ることも出来ず、ヤエを直視することも出来ず、棒立ちのまま下を向く。

「……鼻が、曲がるぞ」

「もう慣れた」

「……ここに居たこと、皆が知るぞ」

「構わない……もう、嫁に行くんだから」

 ヤエは言い切り足を進めた。そのどこか凛とした声音に、シロウは退くことを忘れた。一歩、一歩ヤエは近づく。年相応の大きな瞳が、シロウを見た。

「ひどい顔」

「……うるさい」

 そう言うヤエもまた、よくよく見れば瞼が腫れている。

「どうして……」

 シロウの唇が、震える。

「お前まで、どうして!」

「そうしなければ、田が沈むから」

 答えるヤエの声音に迷いはない。田が沈む、という、それは比喩ではなかった。

「龍神さまのところへ、嫁に行きます」

 それが意味するところなど、ただ一つだ。続く嵐に堤は破れ、河は田を飲み尽くさんばかりである。ようやっと収まったかに思えた雨は、けれどまたしても風と共に訪れようとしていた。

「龍神なぞ、居るものか!」

「居るかもしれない」

「ギンジさんは神など居ないと言っていた!」

「でもシロウは、海神が居ると言っていた」

 叫ぶようなシロウの言葉に、ヤエは静かに答えていた。シロウの瞳に浮かぶ必死の色をも、ただ受け止めるばかりであった。

「龍神なぞ……龍神なぞ、俺が火筒で撃ってやる!」

「河を治めることが出来るなら、そうすればいい」

 人の身でそれが出来るはずもないのだ。拳をきつく握るシロウに、ヤエは微笑む。

「今年で仕事も終わりだから、シロウは外つ国に渡るのでしょう? だったらわたしは水の底から、その船を見ていることにする」

 河は海に繋がっているのだ。龍神は嫁を欲しがるのに、海神が女を嫌うというのは妙な話ではあるけれど、そこにある境界など些末なものであろう。それを越えてゆく、とヤエは言う。今までは、窪地というあいまいな境目にしか立てなかったけれど、きっと水底に行ったならば、止める者は誰もいない。

「もう誰にも秘密にせずに、シロウのことを見ていられるでしょう?」

 微笑む口元は、いつかのギンジと同じようだった。世の何もかもが変わってゆく。それでもこのしきたりからは逃れることなど出来ないのだと、すべてを受け止めてヤエは笑う。

 シロウは石になるほど黙っていたが、やがて確かに、ゆっくりと頷いた。


 火筒で撃ったとて、おそらく龍神は死なないのだ。

 死なず――変わらず、あるのだろう。


 頬を濡らすのは降り始めた雨なのか。萌葱の帯が遠くなるのを、シロウは見送ることしか出来なかった。









――了

児童文学と言えるのかは分かりませんが、そのつもりです。

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