「海辺の魔剣」
久々過ぎて忘れられている研ぎ師のお話、更新しました。本筋は暫しそのままで、番外編として回想録をお贈り致します。
どれだけ時間が経とうと、ロイの記憶の中に一番最初に浮かび上がる魔剣は二振りだった。
一振りは現在のパートナーのシュリ。真紅の瞳と白い長髪の、したたかでふしだらな魔剣。人をたぶらかして命を飲み、代わりに願望を叶える悪の華。
一振りは頼りになる武人のスミレ。濡れ羽の黒髪に菫色の瞳。傷だらけの細やかな肢体に似合わぬ研ぎ澄まされた切れ味は最早神業の域に達し、彼の知る限りに置いて、彼女が負けるようなことは終世の時まで有り得ないだろう。
そんな三人で歩んだ路の中には、人々に語らぬ様々な事件もあった。いよいよ自らの人生に終わりが見えてきた時、思い出すのは彼女達と旅して遭遇したことばかりで、自分の身に起きた事とは言えど苦笑いするしかない。それだけ強烈な印象が多い濃厚な時間だったのだろう。
若かりし頃、彼は二振りの魔剣と共に、様々な魔剣と遭遇し、そして研いできた。そんな思い出を少しだけ、思い出しても悪くはなかろう。
まだ意識のある内は、そんな懐かしい思い出に浸っても悪くはなかろう。
✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳
「なぁロイ、このしょっぱい水は何処まで続いているんだ?何処かで真水にならないのか?」
白いワンピースをヒラヒラと風に舞わせながら、頭に載せた大きな帽子を手で抑えつつシュリが問う。その幼稚な質問にどう答えようかと思案していると、涼やかな声が二人の背後から風に乗る。
「シュリさん、この水の塩はいにしえの昔に水底に沈んだ神々の落とした塩臼が、未だに廻りながら塩を吐き出しているから真水にはならないのです。そうですよね?ロイ様」
彼とシュリが振り向くと、そこには対照的な黒と藍色の野外着を身に付けたスミレがしゃがみ込み、足元に落ちていた貝殻を手に持ち鮮やかな手付きで横投げにし、波間の水面上を軽やかに跳ねさせながら遠い波打ち際まで滑らせていく。
「そうだったのか!良いこと思い付いたからロイ、今すぐその塩臼を引っ張ってくる方法を考えて願え!!」
「他力本願な思い付きだなぁ……どうせ塩臼で塩を売って一儲けとか言うつもりなんだろう?」
時々馬鹿な金儲けの話を繰り出すシュリに呆れつつ、ロイは軽く流しながら海辺の波打ち際に沿って歩き続ける。海からの潮風は既に秋の空気に近い冷たさで、季節の移ろいの早さに心を動かされる。
「しっかしロイ、お前が聞いた魔剣のこと、本当なのか?夜な夜な現れては血を奪う物騒な奴だって言ってたけどさ~」
シュリはロイに追い付くと、その見た目に反するような幼さを手足の大振りで体現しつつ彼の横を歩き、空を舞うカモメに向かって貝殻を投げてみたりしている。
「血吸いの魔剣自体は決して珍しく有りませんが、普通なら魔剣士に憑いて自らの欲求を成就させるのが一般的です……自ら人の姿になり、そうした非道を為す事は聞いたことがありませぬ」
スミレはシュリの反対側を歩みながら、真っ直ぐ前を見据えて視線を揺らさず滑るように静かに進む。ロイはその言葉を聞きながら自分が漁師から聞いた話を思い出していた。
【……夜中に漁り火を焚きながら漁をしていた漁師が浜辺に揺れる松明が見えたので、浜辺に近寄ると女が手招きをしながらしきりに何かを叫びながら呼び寄せていた。何事かと駆け付けると突然掴みかかって噛み付いてきたので慌てて船へ逃げ戻ると、女はいつの間にか姿を消していた。】
そう言いながら袖を捲った漁師の腕には、生々しい噛み痕が確かにくっきりと残っていた。咬まれた時に何故か意識が遠退き、このままでは命を奪われるように感じた彼は渾身の力を込めて女を振り払うと、海に飛び込んで船へと泳ぎ戻ったと言う話である。
「……血を吸う、と言うよりも命を奪われるような感じがしたってのが魔剣の仕業に思えるけれども、何かの理由が他にあるような気がしてならないんだよ……そうじゃないか?」
「そうか?ただ腹が減って襲うならたまーに有るだろ?野良の魔剣だったら人間を摂って喰っても不思議じゃないしな」
シュリはそう答えると、ロイの腕を掴んで軽く甘噛みしてみる。ふにふにと舌を蠢かせながら啜る真似をする彼女は、……しょっぱい、と呟きながら口を離すと足元の貝殻を拾い、スミレを真似て投げてみたのだが、ぽちゃんと情けない水飛沫を上げて波間に沈んでそれっきりだった。
✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳
その日の夜は適当な宿もない寂れた漁師町で、唯一の飯屋で行き逢った老夫婦の家に一晩泊めて貰うことになり、三人は借り受けた寝具を奪い合うのも面倒だったので固まって寝ることにした。
「なぁ、シュリよ……お前はどう思う?」
「ん?そりゃ~勿論決まってるだろ!?若さ溢れる睦み合いを聞かせてやって回春させてやるのが恩返しになる!さぁロイ始めるぞ!」
「シュリさん、そうではなくて、ロイ様は昼間の魔剣らしき女人の話をしているのです。それに今更そのような刺激を与えてもあれだけお歳を召したお二方では、期待出来るような結果には到らないと思われます」
川の字になって寝ていた真ん中のロイは、片方のシュリに詰め寄られ押しやられスミレの方に行き、スミレはと言えばそんな老夫婦に申し訳無く思いロイを越してシュリの上へと逃げたので、結果的に寝具から押し出されたロイは床の上にはみ出した。
「……おいお前ら、何故に主人を当たり前のように押し出して……寝てやがるのだ?」
気付けばシュリとスミレは何故か仲良く抱き合いながら、いつの間にか安らかな寝息を立てて眠っていた。二人を起こしてまで戻る気力を失ったロイは仕方無く屋外へと出て、月の光に照らされた夜の海を眺めに歩き始めた。貝殻を敷き詰めた道は意外と歩き易く、月明かりに照らされて白く浮かび上がるように海へと続く道を歩き続けて進むと、丘を越えた先で視界が開け、見下ろすと銀色の波の静かな海が一望になる。
潮騒の音に誘われるまま夜の散歩と洒落こんだロイは、浜辺に打ち上げられた木の上に腰掛けて潮の香りを吸い込む。海藻と海水の強い匂い、そして冷たい潮風は既に秋の空気そのもので、余り長居をしても風邪をひきそうである。
俺は何をしているのだろうか、そう自問しかけたその時、一定のリズムで砂を刻む足音に気付きスミレかシュリが追って来たか、と思って振り向くとそこには見慣れる姿の女が一人、月明かりの下でロイから十歩程離れた場所に立っていた。
髪の短い若い見た目のその女は、片手で肘を掴みながら立ち尽くして居たのだが、一歩、また一歩と歩み始めてロイへと近づいてくる。
「……何だいアンタ、こんな夜更けに独り歩きとは不用心だな。……先に言っておくが、俺は【魔剣の研ぎ師】だ。其処らの漁師と思って噛み付くつもりなら、お門違いも甚だしいからそのつもりで居た方がいいぞ?」
魔剣の研ぎ師、と言う単語を聞いた瞬間、女は歩みを止めてロイの姿を暫く注視していたが、無言のまま彼へと近寄り始める。
遂に手が届くか否か、という距離まで近付いた女はそこで立ち止まるとロイに向かって両手を差し出して、弱々しく呟いた。
《……錆びるの……身体が……錆びちゃうの……助けて……》
原点回帰。