春風
春風
彼女はとても印象的だった。その時の彼女が、その一生を燃やし尽くそうとしていたからかもしれない。
その日俺は、学校の仲間と土手で騒いで家に帰った。だけど、財布をどこかに落としたことに家に着いてから気づき、もう一度自転車をガレージから引きずり出さなければならなくなった。
うんざりしながら、さっきと同じ道道を、何に落ち込んでるわけでもないのに、俯きがちに走り、茶色い財布を探す。でも、土手の芝生に落としたんじゃないかとは思っていた。
道の両側に似たような家が並ぶ、少し急な坂を超え、夏に向かう風を首筋に感じ、汗が消える涼しさに酔いしれる。やがて見えてきた堤防の下に自転車を止めると、一段飛ばしに階段を昇った。
川の流れはさっきと何も変わらない。俺たちが座り込んで話していた辺りを見やると、女の子が座っていた。同じ学校の制服だ。その子の長くて綺麗な髪に、俺はすぐに、隣のクラスの女子だと気づいた。名前は知らない。
黒く長いまっすぐな髪を、右肩から前に垂らし、体育座りをしたまま、地面を覗き込んでいる。
その女子に近づこうとしたわけではないけど、そちらへと歩く。ふと、彼女の恐ろしくきれいなうなじに目が止まってしまった。財布財布。そう心の中で唱えて、目を逸らす。
すると、彼女が振り返り、こちらを見た。
「何?」
少し怪訝そうな顔でそう聞かれた。
俺はしばらく何も言わずにいた。財布を探しに来たから、ちょっとどいてくれないか。そう言えばいいだけだ。
「何、してんの」
何でそんなことを聞いたのか。自分でもよくわからない。
彼女は少し考えるように黙って、思いついたように口を開いた。
「世界に一つしかないものを探してるの」
彼女はそう答えた。何か、聞いちゃいけないことを聞いたような気がした。彼女の傍らの芝生の中に、茶色い折りたたみの財布が沈んでいるのを見つけた。俺はそれを拾い上げながら、曖昧に、見つかるといいねとだけ言った。
「あなたは?」
彼女はまた地面を覗き込んで、芝生をいじりだした。
「財布、落としただけ。それじゃ」
少し気味が悪くなって、俺は足早に階段へと走った。
「そう」
背中に、白紙のような、その子の声を聴きながら。
「いただきまーす」
「はい召し上がれ」
晩飯は俺の好きなビーフシチューだった。肉はいいものだ。野菜も入っているし、カレー、シチューと共に、総合栄養食と言っていいと俺は思っている。だけど、同じくテーブルに並んだサラダは、越えられない壁に見えた。
「ねえ久司、今日学校どうだったの?」
母さんがいつも通りの台詞を言う。
「どうって、いつも通り。何事もございません」
「ふふ、そう。ビーフシチューどう?」
「ん、うまいよ。ごはんおかわり」
「はいはい」
「父さん今日も遅いの?」
「ん、あとちょっとで帰ってくるみたいよ」
「ふーん」
そんな会話をしながら、ごはんの盛られた茶碗を受け取る。男子高校生は腹が減るのだ。
ふと、さっき土手であった女子のことを思い出した。温かな部屋で思い返すほど、あの子の目は寂しそうに見えた。
やめよう。気分が暗くなることは思い出さない方がいい。だけど。
世界に一つしかないもの。そんなの、見つかるんだろうか?なんでそんなものを探してるんだろう?それは、何なんだろう?
「ねえ母さん、世界に一つしかないものって、探したことある?」
母さんは、俺がいきなり飛んでもないことを言い出すもんだから、ビーフシチューをつまらせかけ、慌ててコップの水を飲んだ。
「なあに急に!」
「いや、俺じゃないんだけどさ」
なぜか俺は言い訳めいたことを言った。母さんは考え事をする時の癖で、唇に手を当てている。
「んー、あるわよ?」
「へえ、見つかった?」
それには少し興味があった。
「もちろん!」
「え、それ、何だったの?」
見つかるもんなのか。意外だ。
「ん?それはねー。聞きたい?」
少しにやにやしながら、母さんが言う。
「もったいぶらないで教えてよ〜」
すると、母さんが手招きをした。
テーブル越しに顔を近づけると、母さんは俺の耳元で小さく、"それはね、もうすぐ帰ってくるわよ"と言った。
その途端、俺は力が抜けた。このラブラブ夫婦め。勝手にやってろ。
「あっそ」
椅子の背もたれに寄りかかり、スプーンを手に取る。くだんね、やってらんね。
「あっそとは何よ」
「別にー」
食事が終わり、今日もピカピカのキッチンのシンクに食器を下げる。蛇口をひねって、皿に水が溜まるのを見ていた。
またあの子のことを考えている。変な子なのに、頭から離れない。変な子だからか。
「こら久司!水出しっぱにしないのー!」
「あ、ごめん」
次にあの子に会って話をしたのは、夏も真っ盛りの時だった。
その日俺は、夏休みの間の短期バイトでくたくたになり、夕闇の道を自転車でへろへろ進んでいた。
近道をしようと橋から堤防に抜け、夕焼けを過ぎて少し暗くなりかけた川沿いを走っていると、あの子はまたあそこに座っていた。俺はなんとなく自転車を止める。
正直、夏前のテストや、最近はバイトで忙しくて、あの子のことなんてすっかり忘れていた。それに、俺はここはあまり通らない。学校では何度も見かけたけど、ここでのあの子とは別人のようで、声をかけようと思っても、なぜかためらわれた。
だけど、声をかけてみた。
「ねえ、何してんの?」
振り返った彼女は泣いていた。
てっきりあの日みたいに、少し悲しそうだけど真っ直ぐな目がこっちを向くもんだと思っていたから、びっくりした。
「...どうしたの」
「なんでもない」
本当になんでもないような口調で彼女が言う。
「...なんでもなくて、泣いてんの」
彼女は何も言わない。ふと、薄暗い中で彼女を見ていて、半袖の制服のシャツからのぞくその腕に、白い包帯が巻かれてるのが見えた。
「ねえ..」
俺はそれを聞こうとして、言葉に詰まった。聞いていいのか、そんなこと。話に聞いたことがあるやつだとしたら、傷つけるんじゃないか。
「何?」
「なんでもない」
関わりたくないとかじゃなくて、触れられない。そんな感じがした。
「君も、何でもなくてそんな顔するの」
「え、」
彼女がそんなことを言うから、拍子抜けした。
「なんか、すごく真剣な顔してる」
そう言って彼女は、コミカルに、眉間に皺を寄せて見せた。
「そ、そっかな?」
俺は笑ってごまかす。何か言いたいことはある。何なのかわからない。
「うん、そう」
平坦な彼女の声。いつの間にか頬の涙は乾いていた。
しばらく俺と彼女は沈黙していた。俺は、自転車のスタンドを起こし、彼女の近くの芝生に座った。
「何?」
彼女はあの日みたいに怪訝な顔をして、こちらを覗き込んでくる。人懐こい子だったら十分かわいいだろう顔をしている。そして、そんな考えは今にそぐわない気がして、振り払った。
「...それさ、どうしたの?」
俺はやっぱり思い切って包帯のことを聞いてみた。彼女は慌てて俺に見えないように、腕を隠す。
「別に、なんでもない」
「...包帯、巻いてるのに?」
そう言っても彼女は何も言わなかった。都合悪くなると黙るのやめろよな全く。
「なんかさ、嫌なことでも、」
「わたし、かわいそうとかじゃないから」
彼女が俺の言葉を遮り、はっきりした声でそう言った。明らかな牽制だった。
「何にも知らないのに、そういうの迷惑」
彼女は横を向いて、また黙り込んでしまった。俺は何も言えなかった。
俺は一瞬苛ついて、口を開きそうになった。何も教えてくれないから、聞くんだ、なんて。だけど、親切を装った好奇を、彼女に一瞬でも向けたことに、すんでで気づいた。顔から火が出そうになる。
俺が傷つけてしまった彼女にかける言葉が見つからない。ごめんと言えばいいのか。
だけど、好奇だけじゃないと自分ではわかっているのに、それをどうやって伝えたらいいのか、俺にはわからない。
「..俺、帰る」
そして、その場から逃げるように帰った。
その日の夜、俺は電気も点けずにベッドに寝転んでいた。
彼女の顔や、腕の包帯が、変わらない制服姿が、ぐるぐると回っていた。
何も知らない。そう。名前すら。彼女があの土手で、寂しそうに何かを探していることしか、俺は知らない。
だけど、それはもしかしたら、俺しか知らないのかもしれないと思った。それは、俺の気分を高揚させた。だけど、そんな自己満足に浸る自分に気づくと、また俺の気分は一気に萎んだ。
ふと、自分の腕を暗闇にすかしてみる。真っさらで、何もない。
彼女の包帯を解いて、その傷に触れたら、彼女はやっぱり怒るだろうか。だけど、彼女が、今この瞬間にもあそこで一人で震えている気がして、胸が苦しくなる。
乱雑にCDや漫画が散らかる部屋で、ベッドの上の俺の目だけが、煌々と光っているような気がした。
そしてまた連日のバイトと、ほとんど手をつけていない課題がのしかかる日々が来る。
だけど、最近は彼女のことばかり考えている。中華料理屋の調理場で皿を洗っていると、その一枚一枚に、彼女の顔が浮かぶ。
笑顔を見たことがない。俺の前では。
学校では嘘のように笑っている彼女。あの場所では悲しそうに見える彼女。どうして俺は、後者が彼女の本当の顔であって欲しいなんて思うんだろう。そう考えながら、ゴム手袋を上げた。
その日は、バイトの連勤明けで、眠気でボーッとしていたが、出かけることにした。
CDとスニーカーと、あと服も見よう。そう思ってバスに乗り込む。近くのショッピングモールまでは、そうかからずに着く。
久しぶりに少し気分が浮き上がって、イヤホンから流れるオアシスのボーカルの声が、いつにも増してかっこいい。
モールの中のCDショップで洋楽を漁り、マイケル・ジャクソンのBADとグリーンデイのアルバムを二枚買った。ハイカットのスニーカーと、Tシャツも買った。
帰ろうとバス停まで歩いていると、ケータイが鳴った。
「はい」
「あ、クジ?今日暇?」
電話の向こうから、友だちの明るい声が聴こえてきた。クジっていうのは久司を音読みにした、俺のあだ名だ。
「森下!うん、バイトは休みだけど、どうした?」
森下はクラスメイトで、席は俺のすぐ後ろだ。時々背中をしつこくつついてくるところを除けば、すごくいい奴だと思う。
「おー、じゃカラオケ行かね?また飲もうぜ!」
「いいよ!あ...」
「どうした?」
「ごめん、やっぱ今日むり、ちょっと行かなきゃいけないとこがあって..」
「ん?そっか、わかった。じゃ、また今度な!」
「うん、じゃ」
電話を切って、ため息を吐く。
俺、何言ってんだ。今日は確かに久しぶりの休みで、約束なんか無いし、彼女が今日もあの場所にいるかもわからないし、いたとしても、俺を待っているわけでもないのに。
だけど、足はいつの間にかバス停への道を外れ、川の方へと進んでいた。
やっぱりいた。
そこには彼女がいつも通りに座って、俯いていた。でも、今日は制服姿じゃなかった。
足首まである花柄のワンピースを着て、腕にはまだ包帯が巻かれていた。長い髪が、昼下がりの風にそよいでいる。
きれいだ。
儚げな彼女は神聖な女神様みたいに見えて、声をかけられない。
「何?」
彼女が振り返らずに言った。静かな声に、俺は返せなかった。
「ボーッと突っ立ってないで、座れば?」
なおも振り返らずに。俺は彼女の横に、人一人分くらいの間を空け、無言で座る。彼女の顔を見るのもできなくて、ずっと川の方を見ていた。
「こないだ、ごめんね」
彼女も川を眺めながら、つぶやく。
「いや、大丈夫、です。僕こそ、ごめんなさい」
なぜか敬語になってしまった。彼女に見惚れていた気分のままで、気恥ずかしくて。それに、彼女が謝ることじゃないように思えたから。
「何で敬語なの?」
彼女はそう言って、おかしそうに笑った。
「笑うなよ...」
顔が熱い。彼女が笑った。俺の言葉に。俺は、それが嬉しかった。
「ねえ、いつもここにいるけど、やっぱり探してるの?」
俺がそれを聞くと、彼女は俺を見て、そして、川の方に目線を移した。
「わたし、今日死んだっていいの。でも、死ぬ前に見つけたいの」
彼女の声は、小さな子が、お母さんに打ち明けるような感じだった。俺は、じっと彼女を見つめていた。
「世界に一つしかないもの?」
「そう」
「なんで?」
彼女は少し答えを探して、こう言った。
「自分が、そうじゃないから。だから、その代わりに探すの」
「どういうこと?」
「さあね。今日はもう帰るね」
そう言うと、彼女は立ち上がって、服に付いた草をはらった。
「あーあー。今日も見つかんなかったなー」
そう言いながら階段へと歩いて行った彼女の声が、いつもと違って、少し楽しそうだったような気がした。
自分は世界に一人しかいない。俺は、ずっとそう思ってた。っていうか、そんなことあんまり考えたことなかった。だけど、深夜に目が覚めて、そんなことを考えたことはあった。その時、やっぱり自分はたった一人しかいないと思えた。
「なんで....?」
彼女はなんでそう思えないのだろう。そして、もし、世界に一つの何かが見つかったら、彼女はどうするんだろう?ふと、包帯を巻かれた彼女の腕と、さっきの彼女の言葉が頭に浮かび、怖くなった。振り返っても、彼女はいなかった。俺は思わず立ち上がり、階段へ走った。
階段をゆっくり降りている彼女が、とても遠い気がして、俺は急いで駆け下りる。
足音に彼女が立ち止まり、振り返る。
俺は、その手を掴んだ。だけど何も言えない。
「放して」
「...どうするの」
「え?」
「見つかったら、どうするの」
「聞いて、どうするの?」
「どうもしない、かもしれないけど、もし...」
君が死んだら。そう考えると。
「わかんないよ。でも、多分心配いらないよ」
彼女の声は、いつも通り平坦だったけど、少しだけ優しい色をしていた。
「そ、そっか...」
俺はホッとして、手を放した。
「じゃあね」
「うん、じゃあ...」
どちらもまたねと言わずに、俺と彼女は、反対の方向へ歩いて行った。
残暑のまだ厳しい中、新学期が始まった。正直、学校なんてなくなればいいと俺は思っているので、この上なく毎日がめんどうだった。休み時間と放課後のために行っているようなものだ、学校なんて。そんな学校が更に退屈になることが一つ。
さいきん、学校であまり彼女を見かけない気がする。元々、廊下ですれ違っても、挨拶すら向こうはしてこないし、俺も話しかけない。だけど、やっぱり遠くから彼女を見ているのも好きだった。
彼女を見なくなったのは、ここ一週間ほどだ。病欠だろうか。それにしては長い。俺は、森本と話しながら、帰りに土手に寄ってみようと考えていた。
その日の夕空は、雲一つなくよく晴れて、透明なように見えた。自転車で堤防の砂利道を走りながら、イヤホンで音楽を聴く。
そういえば彼女のことを考える時によく感じていたのが、"透明感"だった。見た目ではなく、心、が。うまくは言えないが。
彼女の風にそよぐ髪の儚さが、平坦な声が、宙に浮いたようなものいいが、いつも俺には透明なガラスのように感じられていた。
そんなことを考えていると、いつの間にか例の土手に着いた。
いた。
いつも通りに、制服を着た彼女が、芝生に座り込んでいた。俯いて。だけど、彼女の後ろ姿は、周りの景色に溶けて消えてしまいそうに見えて、なぜかそう見えて、俺は近寄りがたかった。
遠くから声だけでもかけてみようかとした時に気づいた。いつもは彼女から、俺に声をかけてくることに。俺が自転車のスタンドをかけた音が聴こえなかったわけじゃあるまい。
もしかして、また泣いているのだろうか。そこで、また気づいた。
もし彼女が何かが悲しくて、泣いているとして、俺は、どうすればいいのだろう。そんなに親しい間柄でもないどころか、名前も知らない相手が慰めたところで、何か変わるんだろうか?
でも、俺は、いつかのように、ためらうだけで逃げ帰るようなことは、ごめんだった。
何を言ったらいいかわからない時は黙っていようが俺の持論である。俺は、恐る恐る、彼女の隣りまで歩いて行った。
彼女の横顔を、横目でちらりと見ると、俯いた彼女の顔は、長い髪に隠れて見えなかった。俺はその場に、ゆっくりと座る。ここまでは、今の俺に許されている気がした。
しばらく、俺は川を眺めていた。
前日に大雨が降ったので、水かさは増し、岩が裂く濁流が渦巻く川面は、今現在の何かを反映しているように思えた。
例えば、彼女の心。溢れてしまいそうな何かを、隣りにいる彼女は必死に抑えているような。
いっそ、溢れてしまえばいい。何もかも。そうする方が、彼女が楽になれるなら。俺はそう思う。だけど、そのための術は、俺は持っていない。そんなことが、頭をぐるぐると周りだした時。
「...久しぶり...」
彼女がやっと口を開いた。その声は、弱々しかった。
「お、久しぶり...」
声が引きつらないように意識して、俺も返事を返す。
聞きたかった。何があったのか。何が彼女に起きているのか。なぜ学校に来ないのか。だけど。
「元気、だった...?」
俺は、口の利き方を忘れたんだろうか。今に一番合わない言葉しか出てこなかった。
「なんとか..ね...」
消え入りそうな彼女の声が、川の音で、かき消されそうだ。あ、きっと、そういうことなんだ、と俺は思った。
「学校、来てないよね...」
聞いて、いいのだろうか。
「うん...なんか、行きたくなくって...」
彼女が、息を吐くついでのように、喋る。
「なんで?」
そこで彼女は黙り込んだ。だけど、彼女の指先が、開いたり閉じたり、もじもじと動く。何かを言おうとしているのはわかったので、俺は急かさなかった。
「お...お母さんが....私のこと....」
彼女はそれ以上、言わなかった。
嗚咽を堪えずに泣き出した彼女は、何も言わずに泣き続けた。
彼女は、母親に。
とめどなく流れる涙の数だけ、彼女の痛みと悲しみが溢れる。涸れそうにないそれを、俺は、ただ放心したように、見つめていた。胸の中だけが、やけにうるさくて、何もできない自分が歯がゆかった。
「もう、帰るね...」
「え、うん....」
やがて彼女は、泣きはらした目をこすり、よろよろと立ち上がる。まるで今にも、ふらーっと倒れてしまいそうだ。
堤防の階段の下で彼女を見送った。俺は、自転車を押しながら、家への道道、考える。
自分が世界に一人でないと言った彼女。世界に一つのものが見つかれば、すぐに死んでもかまわないと言った彼女。その二つが、俺の中でつながると同時に、とても淋しい気持ちと、胸の痛みに責め立てられ、俺は泣いた。
彼女は家に帰った。
俺はその日の夜、母さんと話したりしながら、彼女のことがやっぱり頭から離れなかった。母親に冷たく当たられているんであろう彼女を思い、胸が痛くなった。
その時、多分、俺は心に決めたんだと思う。
俺たちはいつも土手で会って話しをしていたが、彼女はたまに酷く不安定になって、泣き喚いたりすることもあった。
「邪魔なの!一人になりたいんだからどっか行ってよ!」
「行かねえよ」
俺が凄むように言ってみせても彼女は怖気づかずに、足元の芝生をちぎって、俺にかけて追い払おうとしたこともある。
俺もたまらずに、勝手にしろと言って帰ったこともあった。だけどそんな時は、次の日には俺が謝り倒して、彼女は、しょうがないなあと笑うようになっていた。
そんな風に、彼女を疎ましく思う時もあったけれど、それ以上に俺は、彼女がどうしたら楽になるかを考えていたように思う。
やがて、彼女は少しずつ笑顔を見せることが多くなっていった。冗談を言うことも増えた。俺はそれが嬉しかった。だけど、すべてがよくなったわけじゃなかった。
ある日、土手に行ってみると、いつもの場所に座った彼女の腕には、大きく包帯が巻かれていた。
「それ、どうしたの?」
このくらい聞くのは、日常茶飯事になっていた。
「ちょっとね...」
「大丈夫なの...?」
「うん...昨日、どうしても切りたくなっちゃって...大丈夫だよ」
そう言う彼女のまぶたは少し腫れて、昨晩は泣き明かしたように見えた。
「あのさ...私、大学生になったら一人暮らし始めようかなって...お母さんとはうまくいかないし...辛くて、切っちゃったけど、答え..出たし、いいよね...」
彼女は涙ぐんで弱弱しく笑った。
俺は、それを聞いて、急に怖くなった。彼女が本当に探している「世界に一つしかないもの」を思い出したからだ。
もし彼女の探すそれが(俺が思う答えである)彼女の命だとして。答えを得るのに同等の傷が要るなら、彼女は死んでしまうんじゃないだろうか。
俺はたまらなくなって、彼女を抱きしめてしまった。
「どっ、どうしたの!?」
「死ぬな、死なないでよ...!!」
情けなく震えた声で願うしか。
「大丈夫、久司を置いて死なないよ」
彼女が肩越しに優しく笑う。
「本当?本当だな?」
「うん。だから..そろそろ放してくれないかな...」
「わっ!ご、ごめんっ!!」
俺は急いで彼女から離れる。夢中で抱きついていた自分がかなり恥ずかしい。
「まあいいけど」
「心配かけてごめん、大丈夫だよ」
そう言った彼女は、そんなに無理をしてるようには見えなかったから、俺はひとまず安心した。
俺は足しげく川辺に通い、彼女はいつでもそこにいた。俺が先に土手に着いて彼女が後から温かい缶コーヒーを持って現れたこともあった。
そんな二月のことだった。
「あのね、私最近思うの...」
彼女が空になった空き缶を見つめながら言う。
「ん?」
「人って、信じられるんじゃないかなって。そんな悪いもんでもないんじゃないかな、って」
「え」
「久司のおかげだよ、ありがとう」
彼女は照れるような素振りも見せずに、俺をまっすぐに見てそう言った。その目は、初めて会った時の悲しい色を背負ってはいなかった。
「いや、俺は別に...ま、よかった、じゃん...」
「うん」
俺は彼女の言葉がとても嬉しかった。なんだか、彼女が少しずつ壁を越えられていること、俺にありがとうと言ってくれること。よかった、そう心の中で何度も叫んだ。
彼女が機嫌よく鼻歌を歌っている。川のせせらぎがハーモニーになる。その日は天気がよかった。なんだか俺は、生きてる気がした。
いつの間にか彼女は「世界に一つしかないもの」についてを口にすることもなくなり、進学する大学の話や、学校で女友達と話したこと、何かを買った時にはそれを見せてくれたりした。
高校三年の最後の春が来た。
校庭の桜は蕾が開き始めた頃で、その下でクラス写真を撮る。カメラマンのおじさんはやたらとテンションの高い人だった。
おもしろい奴、暗い奴、優しい奴、キツい奴、みんなみんなにありがとうという気持ちになれた。
森下は卒業式でボロボロに泣いていて、俺もなんだかもらい泣きをしてしまった。ちらっと隣のクラスの列の中の彼女を見てみると、彼女もやっぱり目を潤ませて、晴れやかな顔で、前を向いていた。
「クジー!絶対また会おうな!な!」
「わかったからもう泣くなって。ってか、大学一緒だろ!」
最後のホームルームも終わり、帰ろうとするクラスメイトの最後の方に下に出ると、鞄を後ろ手に持った彼女が立っていた。
「...よう」
初めて学校で彼女に話しかけた。
「よう」
彼女も俺の真似をして返す。それがちょっと可愛かった。
ふいと彼女が後ろを向いて、階段へと、廊下を歩き出す。俺もすぐに追いついて、横に並んだ。ワックスでピカピカの廊下の床を見ながら、二度と戻らない学び舎を焼き付ける。
階段をゆっくりと下りる。二人とも、無言だった。気まずいわけではなかったが、俺は喋りだす。
「一人暮らし、すんだっけ」
「うん」
「引っ越したら、連絡先教えるね」
「ん」
俺が自転車を押して、彼女も一緒に堤防を歩く。
いつもの場所に着いて座ると、川辺の桜も蕾を開いていた。
「ねえ...」
「何?」
「俺、言っときたいことが、あるんだけど...」
「うん」
ざあっと桜色の風が二人を包む。
「す、好きです」
彼女は少し驚いたように見えたけど、すぐに微笑んでこう言った。
「わたしも」
その時の彼女の笑顔を、俺は忘れることはないだろう。
End.
前作と似たようなストーリーですね。後半が息切れして、尻すぼみな感じになってしまいました。至らない点ばかりですが、お読みいただき、ありがとうございました。感想などございましたら、残していただけると嬉しいです。