温かい掌
意識を取り戻した時、自分の置かれている状況が分からなかった。
重たい頭を持ち上げて目の前に広がる光景は、まだ暗い空と家々の屋根だった。
けれど、見慣れぬ俯瞰にも朦朧としている頭が追いついていないため、妙に冷静だ。
私、空飛んでいるの? やっぱり死んだの?
お母さんに会えるかな――その割には寒いし胃の辺りが痛いし――変なの。
でもあの時より――刺された時よりたいした事無い、かも。
夢うつつで、苦しさから逃れようと無意識に身体を動かす。
「動くな。落とすぞ」
低く落ち着いたその声はあの路地で最後に聞いた男のもので、私を担いでいるのも彼だと気付いた。
胃の辺りが痛いのは、何かにくるまれ米俵みたいに肩に担がれているからで、目と鼻の先にある臙脂色の動く壁は彼の背中だ。
そしてこの状況で「落ちるぞ」ではなく「落とすぞ」と言うこの人の性格を何となく理解した。
光沢のある革靴が器用にビルの屋上や電信柱の上を飛び歩いていた。その足が地面でない場所に着地する度、自分の体重が彼の肩に乗っている腹部に集中するため苦しくて痛い。耐えるために目の前の背中に思わずしがみつく。
「お腹、痛い」
子供のような拙い抗議に男は鼻を鳴らす。
「さっきまで腹を掻っ捌かれていた奴がこの程度で根を上げるな」
私の頭に、まな板の上で捌かれている鮮魚が浮かぶ。
「違う――痛さの種類が」
「同じだろ」
彼は呆れた様に呟いた。
恐る恐る刺された脇腹に触れる。けれどそこには何もなかった。血で濡れたパーカーが脇腹に冷たいだけだった。
彼は動く気配で私が何をしているのか分かったのか、顔を真っ直ぐに向けたまま口を開いた。
「傷はもう治っている」
「すごい」
素直に感心した私の声にも彼は全く動じない。
「だから少しくらい我慢しろ」
「これ以外の運搬方法は――」「ない」
食い気味にあっさり却下された。横抱きにするとか背負うという発想は、彼の中では無いらしい。
けれどもその後でさり気なく私を持ち上げ直して肩にあたる部分をずらしてくれた。そして落ちないように背中を押さえている手に力を込めてくれた事に気付いた。
私の身体は黒いスーツのジャケットでくるまれていた。はみ出ている素足は寒いけれど、道理で温かいはずだ。彼はシャツにベスト姿だった。
「ねぇ、寒くないの?」
「誰のせいだ?」
私の間抜けな質問に声音が低くなる。
しばらく考えて私は口を開いた。
「それは刺した馬鹿のせいだよね」
「――確かに」
彼は楽しそうに喉を鳴らした。
私の位置からでは彼の顔は見られない。だから今、彼がどんな表情をしているのか見る事ができない。
残念だ。
彼の足が高級マンションの入り口の地面にようやく着地した。
ジャケットにくるまれた素足の私を肩に担いだまま、彼は堂々とエントランスに入って行く。
「え、ちょっと――」
戸惑う私に、彼は「安心しろ。ここにいるのは皆『人間』では無い」と、当たり前のようにさらりと言った。
ここの住人が『人間』だろうが『人外』だろうが、そういう問題では無いよね?
美形の男が裸足の女を肩に担いで部屋に帰る――ってイメージ的に大丈夫?
そんな私の心配を余所に彼は慣れた手つきでオートロックを解除し自動ドアを抜けた。
「和樹君――女性を連れ込むのにそれはどうかと思うよ」
私の心配事は見事に的中した。男性が苦笑を浮かべ入り口脇の小窓から顔を覗かせた。窓の上には『管理人室』というプレートが掲げられている。
40代くらいの少しだらしない雰囲気の男性だけど、言っている事は至極まともだ。
「裸足だから下を歩かせたくない気持ちは分かるけどさ、誘拐犯じゃあるまいし――せめてお姫様だっこにしてあげたら?」
突然やって来た天の声に私は大きく何度も頷く。
「両手が塞がるし動き辛い」
彼はあっさり拒否した。
「ま、それもそうだね」
天の声もあっさり引っ込んだ。
項垂れる私と目が合うと管理人はにっと笑った。
目元が隠れるほどの白髪交じりの長い前髪や顎の無精ひげをきちんと整えたら、彼に負けず劣らずの良い男だと思った。
「今晩は――お嬢さん」
前髪の隙間からは黒から赤へ変化した瞳が、笑う口元からは鋭く伸びた牙が覗く。
住んでいる人が人間じゃないなら管理人も同じか――と、あまり驚きもせず納得した。
「今晩は――高いところから失礼します」
私は担がれながらも頭を下げた。
管理人は少し驚くと、その後すぐに楽しそうな表情で私を見上げた。
「君、和樹君と同居するの?」
「ど、同居?!」
声が裏返る程の驚きに、彼は心外だと言わんばかりに口を開いた。
「一緒に来るかと聞いただろう?」
「いや、あれは、まぁ確かに――聞かれたし頷いたけど――でも」
管理人は眉を顰めた。
「あれ? 本当に誘拐したの?」
「ち、違います! 誘拐はされていません――多分?」
「否定するならちゃんとしろ」
「いくら何でも本人の同意無く不死人にしちゃうのはダメだよ」
「死にかけて意識が無かった」
「フシビトって何?」
「あまり目立つと粛正対象になるから気をつけてよ」
三者三様の会話が真夜中のエントランスにしばらく響いていた。
彼の部屋は最上階だった。
エントランスからここまでの道のりで色々聞いた。
私は吸血鬼でもゾンビでもなく、不死人と言う種族(?)で、いつの間にか人間を辞めていたようだ。
不死人はその名が表す通り、死なない人で――正確に言うと『死んでも生き返る人』だ。
血を吸った主人である吸血鬼――彼が生きている限り何回でも生き返る。
それこそ心臓を撃たれようと頭を吹き飛ばれても驚異の回復力で生き返る――って、私はプラナリアか!
茶色く平べったい、よく分からない生き物を思い浮かべ肩を落とす。
吸血鬼は人間に紛れて生活していて、彼も総合商社に勤めるサラリーマンだ。
ちなみに吸血鬼の弱点は頭が身体から切り落とされることだけらしい。
あの管理人さんも吸血鬼だった。けれど只の吸血鬼じゃなくて『始祖』と呼ばれる凄い人で、彼を含め日本各地にいる吸血鬼はあの管理人さんから血を分けてもらった人ばかりらしい。
ちなみに本人は300年以上生きていて、正確な年齢はもうよく分からないらしい。
「和樹君をよろしくね――ちょっと面倒な性格だけど、本当は優しくて良い子で寂しがり屋だから」
エントランスを抜ける直前、声の調子はそのままに管理人さんは一瞬だけ真顔になった。
彼が慌てて振り返る。
管理人さんの表情はもう元に戻っていた。だからあの表情を見られたのは私だけだ。
「余計な事を――」
「照れない、照れない」
まるで反抗期真っ盛りの子供と親のようだ。
「ふ――不束者ですが頑張ります」
「頑張るな」
私と彼のやりとりに管理人さんは相好を崩した。
部屋に着くと彼は部屋を見渡す間もくれず浴室へ直行して私を降ろした。
「あ、ありがとう」
「そんな小汚い格好で部屋を歩いてくれるな」
冷たい視線で言い捨てると私の鼻先でピシャリと扉を閉めた。
――命の恩人だか吸血鬼だか知らんけど、美形が何しても許されると思うなよ!
私はこみ上げる怒りを洗う事で発散した。おかげで身体中にこびりついていた血や足裏の汚れは綺麗になった。
流石に血まみれで穴の開いたパーカーを風呂上がりで着るには抵抗がある。
裸でいいだろうと言う彼と必死の交渉の末、ようやく手に入れたTシャツを着て室内を見回す。
部屋は広くて綺麗で――静かだった。
生活感が無くて、まるでモデルルームのようだ。
リビングから見える街の景色も現実感が無くて、まるで映画のワンシーンのようだ。
でも――この数時間の間で私の身に起こった出来事が、一番現実感が無い。
ストーカーに刺されて死にかけているところにスーツを着た吸血鬼と出会って、気が付けば空を飛んでいて、今、ここに居る。
『生き餌』とか『夜の相手』とか言われている事もまだ信じられない。
自然と漏れる溜息で自分が酷く疲れている事に気付いた。
頭の中はすでに許容量を超えている。ふらふらと、初めて見るサイズのベッドに吸い寄せられた。
どさりと横になると身体が綺麗で真っ白な羽毛布団にゆっくり沈み込む。
大の字になっても手足がはみ出ることがない大きさと心地よさに、いつの間にか私の意識は薄れていった。
温かい掌が頬に触れる。
誰だろう――思い出したのは母だった。
あの日――倒れる数時間前、母は体調の悪さを押して出社する私を心配して頬に触れた。
あの手と同じだった。
あの日以来、こんな温もりを感じたことはなかった。
目を覚ますと、お風呂上がりの彼が私を覗き込んでいた。
至近距離で見るその黒い瞳に、私と同じ陰りを見つけた。
この人も孤独なんだ――初めて気が付いた。
「この状況で爆睡出来るとは」
寝る前まではベッドの真ん中で大の字だったはずなのに、今は隅っこで丸くなっていた。
「す、すいません――つい」
目の端に涙が溜まっていた事に、彼は気付かない振りをしてくれたらしい。
でも遠慮無く覆い被さっている美形に、どこに目をやって良いか分からない。
彼の顔が近づいてくる。
「な、何を」
彼はその顔を盛大に顰めた。
「言っただろう? 『セット』だって」
「確かに言ったし、聞いたけど――でも」
「でも――何だ?」
私は大きく息を吸うと顔を赤くして叫んだ。
「は、初めてだから――だから『夜の相手』は務まらないのでもっと経験豊富で美人とチェンジして下さい! ご期待に添えず申し訳ございません!」
最後は何故かビジネス会話になったけど、真顔でそう言ったら彼は驚いていた。
美形が目を丸くするって斬新だった。
でもしばらくして口の端がつり上がる。瞳の色は黒から赤へ変わっていた。
「それは――たき付けているのか?」
「え? 何?」
言っている意味が分からず首を傾げた私の唇を奪った。
そこからは――大変でした。
首筋に牙を打ち込まれるのは痛いけれど、血を吸われる事は気持ち良かった。
でも何度も口付けられて傷が塞がる度に何度も首筋を噛まれて――そのうち噛まれる事すら気持ち良くなってしまった。
最後は首筋じゃなく別の場所まで噛まれて――違う意味で大変だった。
初めてだから比較出来ないけれど――相手も吸血鬼だし――でもこれって、こんなに何回もするものなの?
お、男の人って――1回で満足するんじゃないの?
おかげで声は掠れるし、途中から記憶が飛んじゃうし。
初めては痛いって聞くけれどそれも無かった。
後で分かったけれど彼は優しくしてくれたようだ。
何故なら2回目から、手加減無かった――から。
ようやく解放された後、頬に添えられた大きな掌はとても温かかった。
「死ぬまで――死ぬ時も一緒だからな。諦めろ」
そう言って唇を重ねてきた彼の赤い瞳の陰りは薄らいでいる気がした。
きっと私の瞳も同じように彼には映っているだろう。
もう独りじゃない――薄れゆく記憶の中で嬉しさに微笑んだ。
「そう言えば――自己紹介してない!」
「朝から何を言うのかと思えば――今更必要ないだろ? 頼むからもう少し寝かせ――」
「な――いる! 人としているでしょ!」
「煩いな――もう人じゃないだろ? 好きなように呼べよ――ご主人様とか」
「わ、私、そういう趣味はちょっと――」
「真顔で困るな! 俺だって無い!」
「――」
「――黒須和樹だ」
「榊真琴――です」
「何で赤くなる?」
「いや――何か順番がおかしいなと」
「そうだな――名前以外はさらけ出したのにな」
「爽やかな笑顔で言わない!」